第5話

文字数 4,607文字

  ◎百済の里

 9月に入り、日々行われる数々の行事や事件、事故の取材に追われながらも、万理は棚田教授から教えられた宮崎の百済の里に行く準備をしていた。インターネットで調べてみると、宮崎県の東臼杵郡美郷町というところに朝鮮半島から逃れてきた百済王を祀った神門神社(みかどじんじゃ)という718年創建の社がある。王とともに王子も逃れてきて少し離れた場所に船で流れ着いたという。地元では今でも王子が王の祀られた神門神社に1年に1度会いに行く「師走祭り」という祭事がある。1000年以上の歴史を持つ祭りらしい。
韓国・百済の古都「扶餘」の王宮跡に建つ「客舎」をモデルにして復元した「百済の館」もあるし、神門神社から見つかった鏡や鉾など多数の遺物を展示するために奈良の正倉院と寸分たがわぬ「西の正倉院」と呼ばれる建物まで隣に建てられていた。日本の中にある百済の里と呼ぶにふさわしい地域らしい。
 成り行きで古代史に関係することになったが次第にその面白さに興味がわいてきたことも事実だった。古代史に関する勉強の中で、朝鮮半島における百済と新羅の争いがそのまま日本に持ち込まれて、百済の子孫が平家に、新羅の子孫が源氏になっていったと唱える歴史学者もいる。中世以降も日本では平家か源氏かいずれかの系統を引きつぐ者だという言い方で権威づけを図ってきた歴史もある。源頼朝は源氏で、次いで鎌倉幕府の執権となった北条氏は平家、それを倒して室町幕府を開いたのは源氏系列の足利氏、次いで織田信長は平家、徳川は源氏の出だといって交互に覇権を争ってきたという。早い話、小中学校の運動会では源平合戦という言葉で競い、年末恒例の歌番組も紅白歌合戦といっている。こういう風に見てくれば、日本人は何かにつけて紅白で競う伝統があるのも厳然とした事実だった。
 新聞記者として、いろんな専門家と接することも多いが、こちらもそれなりに勉強していなければ相手のいうことが本当には理解できない、ということも万理は改めて思い知った。宮崎県の百済の里が日本の国生みの神話の里である高千穂に近いこともこの間の勉強の成果だった。万理は、次の休みに宮崎に行くことにした。すでに岡田の死から2か月近くが経とうとしていた。

 宮崎県美郷町南郷に百済の里はある。車で行くには、最近鹿児島まで開通した東九州自動車道をひたすら南に下り、宮崎の日向インターで降りて西の山中に向かい1時間弱ほどか。北九州市からだと5時間程度かかりそうだ、とインターネットの地図検索で所要時間を見ながら万理は計算した。
 9月下旬の土日に休みが取れたので、万理はガソリンを満タンにして午前10時頃に真っ赤なカムリハイブリッドで北九州市を出発した。あらかじめ地元の旅館には電話をして宿泊の予約を取っておいた。九州自動車道から行橋市、みやこ町をぬけて福岡と大分の県境にある山国川を渡ると大分に向かう宇佐別府道路に入る。別府、大分を過ぎてしばらく行くとやたらトンネルが多くなる。東九州自動車道は山をくりぬいて走る道路だと実感する。大分の佐伯を過ぎると宮崎の延岡南インターまで無料区間になる。正規の高速道路だとおよそ50㎞ごとにサービスエリア、15㎞ごとにパーキングエリアの設置が義務づけられているが、無料の自動車専用道には設置は義務づけられていない。無料はありがたいが休憩できるエリアが全くないので2時間近く休憩場所がない。こうしたことは地図だけを眺めていてもわからない。延岡を過ぎて日向インターで降りる頃には14時近くになっていた。4時間近く高速道路を走りっぱなしというのは、若い万理にもさすがにきつかった。
 日向インターをおりてコンビニを見つけ、車を駐車場にいれた。カップの熱いコーヒーを買い車で一息入れると、ほっとした気分に包まれた。万理はカーナビで検索した回転すし屋で昼食を済ませると百済の里をめざして車を走らせた。渓谷に沿った山道をひたすら走ると途中から人家が途切れた。途中、明治から昭和初めにかけて活躍した歌人・若山牧水の生家がぽつんと道端に立っている。それを過ぎるとまた人家が途切れ、この奥に果たして集落があるのだろうかと不安になる。1時間近く走っただろうか。人家が密集した地域に入った。美郷町だ。神門神社や西の正倉院、百済の館などの案内板があり、神門神社の鳥居が右に見えた。そこから100mもいくと予約した美郷旅館の看板が目に入った。近くにスーパーやコンビニもあり買い物や普段の生活には困らないようだ。
 とりあえず旅館にいくと、初老のおかみさんが出てきて「北九州からよくいらっしゃいました」とやさしく応対してくれた。教えられたとおりに道を挟んで向かい側の駐車場に車をとめて戻ると、本館から渡り廊下でつながった別館の一番奥の部屋に通された。聞くと、この日の宿泊客は万理の他は一組の夫婦だけだという。1月の旧正月にある百済王と王子の再開を祝す師走祭りが旅館としてもにぎわう最盛期で、いまは土日といえども観光客は少ないようだ。万理は荷物を置くと歩いて神門神社に行ってみることにした。
 外に出ると、清流が流れる渓谷の町はさすがに涼やかな風に包まれていた。午後4時前だったが観光施設の閉館時間は4時半なので見るのはあすにし、神門神社に向かった。
 岡田洋が残した「赤ぎ村の墓」という言葉の謎を解くカギは果たしてあるのか。百済王を祀ってある神門神社の鳥居をくぐりながら万理は胸の内で謎の言葉を反芻していた。一の鳥居、二の鳥居と石段が次第にせりあがっていき拝殿前に到達した。拝殿の後ろに本殿があり左には宝物殿が建っている。静まり返った森に囲まれ、すぐ右に樹齢数百年と思われる太い杉の木が3本並んでそびえ立っていた。
 神社の左にある白い説明板には、神門神社に伝わる品々として、銅鏡33面、騎馬民族が好んで使用したとされる馬鈴や馬鐸、大甕2個、板絵の観音菩薩正体1面などがあり、これらの品々はいずれも大陸文化の影響が強いと記されていた。万理があたりを見回してみると神社の裏山に続く小道が宝物殿の左側にあった。えらく急こう配で、苔が足元の石を覆っているうえ水を含んでいてよく滑る。足元に注意を集中して登るがすぐに息が上がる。20メートルも登ると石碑があった。「百済王守護益美太郎並に七人衆之碑」と書いてある。横の石板に説明が刻まれていた。756年、内乱で祖国を逃れた百済王の禎嘉帝が大和国厳島に逃れ、2年後に反乱軍の追撃をさけ海路で九州の大宰府へと脱出の途中、激しい暴風雨で難破して日向市の金ケ浜に漂着した後、山奥の神門郷に住んだ、とある。その際、地元の豪族だった益美太郎という人物が土地、住居、食料などを提供し、ほかにも神門郷の7人衆が百済王を守ったので益美とその7人衆を記念して神門神社の裏山に碑を建立したらしい。
 問題は「墓」だ。禎嘉帝の墓はどこにあるのだろうか、と万理は思ったがあす確かめることにした。旅館に帰るとおかみさんが近くの温泉施設の入浴券をくれた。車で5分ほどのところにある美人の湯といわれたが、ぬるっとした湯で肌がすべすべした。
温泉から帰ると夕食の支度ができていた。おかみさんが料理を説明してくれたが、シカ肉、放牧しているブタの肉、イノシシの肉と多彩な肉料理がそれぞれのうまみを出す調理をされていた。野菜もおひたしや煮物、鍋料理として出たが、これほど甘くておいしい野菜は初めてだった。さすがに南国の宮崎で育ったものは違う。この日は出なかったが、そばの川ではアユがとれるらしい。山奥だが食材は極めて豊かだということがわかる。
 「さらにこれから奥にも村はあるのですか」と万理は聞いてみた。「ありますよ。平家の落人伝説が伝わる椎葉村というところがあります。そこを超えて熊本まで道が続いています」という説明をしてくれた。「平家の落人ですか」と思わず万理は口にした。百済と平家とはここでもセットになっている。やはり百済人の末裔が平家ということなのかもしれない。
 翌朝は、観光施設の開館が午前10時からということもあって万理はゆっくり起きて朝食をとった。10時少し前に西の正倉院といわれる、神門神社の宝物を展示している建物の入り口で入場券を買う。すると高齢の男性が現れて「案内しましょうか」といってくれたので「助かります」と礼を言うと、案内人はさっさと前を歩きだした。広い庭を前にして建つ正倉院に入ると、良い木の香りが漂っている。奈良の正倉院の院図をもとに屋根瓦や柱などすべての部材や瓦の葺き方まで寸分の狂いもなく再建したという。奈良の正倉院と違ってここは中に入れるし触ることもできた。
 ひととおり見た後で万理は案内人に「百済王の墓はどこにあるのですか」と少し声を張り上げて聞いた。実は少し耳が遠いようで、先ほどから一方的に説明を聞いているだけだったのだ。案内人は、「神門神社の裏山に益美太郎の墓がありますが、さらにその上の方にあります」という。昨日、その辺りにいったがそれらしいものはなかった。が、それ以上聞くのはあきらめた。ひととおり説明が終わると、ちょうど入って来た一組の夫婦を見つけ、案内人は「では」と別れを告げて次の獲物の方に向かった。
 次は西の正倉院から一段低い隣の敷地にある百済の館にいく。赤と緑の極彩色が目立つ朝鮮独特の建物だ。受付にはやはり高齢の男性が座っていた。入場券を見せて入る。館内にはかつての百済と日本との関係が様々な角度から描かれているが、万理が注目したのは日本にある百済が関係する神社や史跡の案内板だった。やたらと多い。主なものとして20か所が書かれていたが、半数は関西に集中している。九州では長崎、福岡、佐賀、宮崎の4県に史跡があった。こんなに多いとさすがに全部調査するのは不可能だった。受付の男性に百済王の墓はどこですかと聞く。すると「ここから3キロほど下ったところに、塚の原古墳というのがあります。そこです」と丁寧に教えてくれた。そこに何か手がかりがなければ今回の調査は成果なしということになる。万理はさっそく車で向かった。
 日向方面に3キロほど戻ったところに塚の原古墳はあった。道路から一段低くなった河原のような土地に、3、4本の木が植えられた丸いサークルがある。小さな鳥居をくぐると祠(ほこら)があった。横の案内板を見ると、神門神社の祭神となっている禎嘉王の墓といわれる円墳で、自刃した官女数十名も埋葬されているとの伝えがある、と書かれていた。東西10m、南北10mの前方後円墳の形式だったらしい。川に近い方には、禎嘉王と第一皇子の福智王、第二皇子の華智王3人の銅像が並んで立っている。
 岡田洋が残した「赤ぎ村の墓」という言葉の謎を解くカギはなにかあるのだろうか、と万理はあたりを見回し、考えていたがこれといったヒントは見当たらなかった。心に引っかかるものがない。しばらくたたずんで考えたがこれ以上いても収穫はなさそうだった。こういうときはスパッと気持ちを切り替えて新たな展開を待つ、そういう気持ちの切り替え方を10年の新聞記者生活の中で万理は身につけていた。多少後ろ髪を引かれながら諦めて帰ることにした。なにかあればまたくればいい。

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