第1話

文字数 9,451文字

私はマゾの血を引いているの、と来栖が言ったように聞こえた。

「趣味は人それぞれだし、そんなに気に病むことじゃないだろ」

ぼそぼそとつぶやくように話すのでとても聞き取りにくい。それでも聞き取れた彼女の言葉への困惑をごまかしながら、そう答えた。

おばあちゃんはマゾのワザを大きくなったら本格的に教えてくれるつもりだったみたいだっただけど、急に死んじゃって、結局全然教えてもらえなかった、と来栖は続けた。

え、なにそれ。そんなん中学生に教えんなよ。あと、そんな家族ぐるみの恥ずかしい性癖をアピールして、こいつは何を訴えたいんだろうと思った。

「……本当に大変だったね……。でも、この年ならまだそういうの早いと思うし、おばあさんが話せなかったのも仕方ないんじゃない?」

なにかちょっと考えてから、いや、おばあちゃんは教える気満々だった、単にタイミングの問題だった、と来栖が言うので「マゾのことを?」とつい口に出してしまったら、「マゾじゃねえ! 魔女だ!」とどなられた。

シブヤで目覚めて

 鉛筆にカッターをあてる
 刃先を見てから視線を左手の手首まで下げる
 ナイフの峰を手首に当ててみると冷たさがここちよい
 自分が何をしたいかはわかっている
 でも自分はそんなわかりやすい人間でありたくはない

未だに頭が整理しきれない。どうして、これまでまったく絡みのなかった来栖檸々の家にいきなり上がって込み入った話をしているのか。だいたい、なんでまた今日は渋谷に出かけて血だらけで帰るはめになったのか。

今日は昔のホラー映画を見に行ったんだった。有名な監督の名作だという評判だけで足を運んだのだが、にせドキュメンタリーで、最後に霊界か何かに魅入られた男が釘入り爆弾で渋谷のスクランブル交差点のあたり一帯を壊滅させてしまうというオチだった。見終わった後、駅の前まで来たあたりで映画ではこれだけ大勢の人間がみんな死んでしまったのかと思って妙な気分になった。

交差点を大勢の人が行き交う様子をしばらく眺めていたくなって、ツタヤの2階のスタバに行こうと思った。1階でバニラクリームフラペチーノのグランデを買って、階段を上がって人でごった返す展望フロアが見えたと思ったら、右肩に何かがぶつかった。ぶつかってきたのが来栖だった。彼女ははっとして一瞬こちらの顔を見ていたが、何も言わずに平静さを完全に失った様子で階段を駆け下りていく。それを見て、つい追いかけてしまった。

自動ドアが開くのももどかしくあわてて外に出ると、どうにも足元が薄暗い。目の前の二人連れが視線を上の方に動かして固まっていたので見上げてみると交差点のちょうど中央の真上に数十メートルはあろうかという赤い球体が浮かんでいた。その周囲には無数の赤い泡が台風の目を囲む雲のように取り巻いて、一定の速さで動いて球体の中に飛び込んでいたのでこれらは少なくとも硬い物体ではないように見えた。

そのうち、球体の下の方から少しずつ赤い液体がしたたり始めると、交差点の中央からわっと人が逃げ出したようで、必死な顔をした人たちがわれ先に向かってくる。吸い込む空気に鉄くささが混じり始めたので、あの液体は血だと直感した。交差点から駆けだした人の多くが頭からどす黒い赤い液体をかぶっていた。

こちらにも顔に、両手に、服に、ぴちぴちと血しぶきが散ってきて当たる。あっけにとられてその場で固まってしまった僕は、なさけないことに足をがくがくさせながらその場に立ちすくんで、毎朝仏壇で唱えさせられている般若心経を唱えるしかなかった。幸いなことに、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」のあたりで渦巻きしたたる血の動きは止まってしまい、「般若心経」と唱えきったと同時にいきなり巨大な球は消えてしまった。

大混乱のなか、もうほとんど人の姿がいなくなった交差点の中央で両手をまっすぐ挙げて真上を見たまま全身を血に染めて放心した来栖の姿を見つけた。

僕も大量の血を目にしたせいでおかしくなってしまったんだろうか。彼女にかけよって肩をたたいて声をかけたが反応がなく、彼女の手を取って交差点から連れ出した。

ツタヤの前まで戻ると、スタバにかばんを置いたままと来栖が言うので2階まで連れて行くと、窓際の交差点が見渡せる席にピンクの手提げと手帳があり、まだあまり汚れていない左手で手帳を手提げに入れて持ちだした。血しぶきが飛んだ窓ガラスを通して見た交差点はすべて濁った赤に染まっており、あたりの血は雨のように低い場所を求めて側溝のスリットに流れ込んでいた。

ユニクロで服を買い、ネットカフェでシャワーを浴びてもらおうかとも考えたけれど、たぶん同じことを考えた人が行列を作っているだろうし、どうにも来栖の様子も気になるので、もう家まで送った方が早いと思って、どうにか最寄り駅を聞き出すと、自分と同じ等々力だった。血まみれの中学生が列車内にいるとどんな顔をされるだろうかと駅への階段を降りるときは心配していたが、同じような真っ赤な人が何人も乗り込むので最初ぎょっとはされたが無視してくれたのでありがたかった。

駅を降りて、来栖の誘導にしたがって進むと木々が生い茂りうっそうとした暗い川べりの住宅地に、じとっとした感じの古い木造建築があって、そこが自宅だという。家の前まで来たときに1羽のカラスが突然舞い降りて隣家のペットの餌をさらって飛び立ったので不吉なものを感じた。ここに来るまで必要最低限のことしか言葉を交わさず、気まずい沈黙ばかりが続いていたが、玄関のドアを開けたときに「1時間後、また来て」と突然彼女の方から言われ、有無を言わさぬ迫力に「わかった」としか返すことができなかった。

来栖という人間が声を出しているのを見たのは、転校の時のあいさつで「来栖檸々です。長野県から来ました。よろしくお願いします」と言っていたのだけで、本当にこれまで学校で話したことはなかった。家に戻ってとりあえず血が点々と飛び散っている服と洗剤とお湯を風呂場のたらいに入れてからシャワーを浴びた。事件直後の興奮から遠ざかるなかで来栖の家に行くのに気後れを感じてもいたが、来栖がわざわざ得体も知れない巨大な血の球の方に向かっていったのかその理由がどうにも謎で、結局指定の時間通りに彼女の家に来てしまった。

玄関のドアから顔を出した彼女はきれいさっぱり血を洗い流していたが、他人に対しての不信感を隠さない暗い表情はそのままだった。小さな一軒家の2階にある彼女の勉強部屋に通されてからすぐに、彼女は「魔女」であると明かされた。普段なら笑って冗談で済ませるべき話だが、目の前で普通の論理で考えるとありえない出来事が起こってすぐのことなので、「そうなんだ」と納得して話を先に進めることしかできなかった。

来栖は長野県で祖母と二人で暮らしていたが祖母が死去し、頼れる身寄りもなく、祖母の持っていた東京の家に一人で引っ越してきたこと、そして、魔術について造詣の深かった祖母は来栖に時期が来れば自分の研究成果を伝授したがっていたが突然の病でそれが果たせず、結局一つしか教えてもらっていないと身の上を教えてくれた。

「香水でもハンドクリームでも椿油でもなんでもいい。液体を自分の額と両手の甲に塗って、自分の叶えたい願い事に関する『テキスト』を朗読したら、自分の渇望するものがおのずと現れて救われるんだって聞いた」

「来栖は今日みたいに血のかたまりを作ることなんかがしたかったわけ?」

「わからない」

彼女はそう言ってから、「やりたかったのかな」と疑問形でつぶやいた。

「さっきはスタバで何かを朗読したの?」

そう尋ねたら、来栖は無言で手提げから紫色の布張りの表紙のノートを手渡された。

「おばあちゃんから、本を読んでいて心に残った文章をノートに書き写しておきなさいと言われてた」

示されたにはこんなことが書かれていた。

〈変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰りな丸善も粉葉みじんだろう」〉

異端の鳥

 渋谷駅前が見える展望窓をうつすビデオ画像。
 窓の前に座る少女が、額と両手の甲を指先で触れてから、唇を動かす。
 これを見て、どう思われますか、とスーツの若い男が問う。
 「終油の秘蹟」を自分に対して行っているようにも見えますね。
 初老に見える女性が目を見開いて、そう言った。

カラオケ仲間と勝手に向こうから思われている大杉の親の会社に、職場体験の授業で来ているのはいい。なぜ、浮かない顔をした来栖までこの場にいるのか。最近、教室でよく話しているみたいだからという担任の井上先生の差し金らしいが、大杉の会社のコースに参加しているのは大杉に僕に来栖の3人。話しかけてもたいてい「ああ」とか「うん」とかしか言わない人間が混ざっていると、こっちまで気詰まりだ。こうなると、反応がつかみきれない人間を前にしても気にせず延々としゃべってくる大杉の存在がありがたくなってくる。

ぱっと見、人なつっこいお人好しにしか見えない大杉だが、プログラミングが趣味で、親がやっているIT会社でアルバイトとして働いていると以前から聞いていた。僕らの班の引率から解説まで一人でこなしているのを見ると普段にはない頼もしさを感じる。

「で、うちのシステムはSNSでのつぶやきを収集して、ポジティブとネガティブをまず判定。事件事故についてのつぶやきを解析して地図上にマッピング、必要があれば警察消防や報道各社に通報、連絡して、契約料で儲けつつ、社会貢献もしてるってわけ」

壁の中央にある大きなスクリーンには渋谷区を中心とした地図が映写されていて、ところどころで矢印がぴこぴこと点滅している。

「こないだの渋谷の血まみれ事件から、どうもここいらは危なっかしいから、安心安全のためにうちのアプリのインストールよろしくね! 入れたらこっちから警察に事件のタレコミもできるから協力よろしく頼むよ」

警察という単語で、この間、初めて警官から事情聴取されたときの記憶が一瞬よみがえった。「渋谷駅血液大量散布事件」などと報道されているこの間の事件の後、警察から家に電話がかかってきて、学校の会議室で話をすることになった(もちろん、家では一悶着あり、親をなだめるのは大変だった)。警察は事件を映した防犯カメラやスマホの映像などを集めて解析したらしく、たいていの人間が交差点の中心から離れているのに、逆に寄って行っているあやしい人間をピックアップして片っ端から呼んでいるようだった。警察というのでびびっていたが相手は物腰の柔らかいスーツの若い男性で、しかたなく起こったことと来栖から聞いた話をありのまま話したら30分ほどで解放してくれた。こうなると、心配だったのは事件の張本人だと自称している来栖だが、彼女も1時間も経たずに戻ってきた。こちらは、来栖が言うには「いけてないおばさん」から話を根掘り葉掘り聞かれたということで、事件の日に僕に話した時みたいに洗いざらいすべてをぶちまけたが、特に責任を追及されることもなくその日は終わったということだった。証拠もなければ、科学的なつじつまもないのだから、当然のことかもしれない。中二病の妄想とでも思われているのだろうか。

妄想といえば、あの日以来、来栖から無言の視線を感じるようになった原因も妄想じみている。あのとき、目の前の出来事の理解できなさに恐ろしくなって、いつの間にか日々の習慣だった般若心経を小声で唱えていたことを来栖に話すと、それが原因で魔法が止まり血の球が消えてしまったのだと彼女は一人で納得していた。彼女によると、魔法の発動のために朗読するテキストは意味を理解していればいるほど、内容を本気で信じていればいるほど、暗記していればいるほど力が強くなるのだと。魔法を止めることができたのだから僕も実は魔法が使えるのだと彼女は信じているようだった。

そんなことを思いながら、大杉が目をきらきらさせながら滔々と語っている通報システムの輝かしい実績に半分しか意識を向けていなかったとき、オフィスに突然警告音が鳴り響いた。

「渋谷駅、ハチ公口前スクランブル交差点、を中心とした、半径500メートルの、範囲で、集団暴力、あるいは、大規模な暴動、が起こる予兆があります。近くにいる人は急いで、その場を離れるか、建物の中に、退避して下さい」

ゆっくりとした機械的な女声が異常事態を告げ、ディスプレイの地図は渋谷駅周辺を拡大表示してそのあたりにぽつぽつと赤い点を散らしている。社員の人が急いでテレビを付けてチャンネルを変えると、渋谷駅前の街灯カメラがズームして交差点のど真ん中で人の乱闘が起こっている様子が見て取れた。画面中のあちらこちらでつかみ合いや殴り合いが始まっている。

大杉はあわあわし、社員の人の動きはにわかに慌ただしくなった。来栖の方を向いてみると、彼女は目をかっ開いてわなわなしていて突然「おばさんが!」と叫んだ。

「え?」

「おばさんが、魔法を盗んだ!」

断絶

 〈私は、まず初めに、自然状態と呼ばれる国家社会のない人間の状態が
  万人の万人に対する全くの戦争状態であるに過ぎないこと、そして
  その戦争においては、人間は全てのものに同等の権利を有することを
  論証する〉

確か、来栖が知っている魔法はなんでもいいから液体をおでこと両手に塗り、思い入れのあるテキストを読み上げるとテキストの内容に応じて願いが叶うというものだった。

「誰にでもできることじゃん。そんなんで願いが叶うなら、苦労はしないよ」

事件のあった日に来栖の家で疑問をぶつけてみたら、思いの強さやら、テキストの習熟度やら、環境やらによって魔法の成果は左右され、できる人は最初から願いが叶うし、できない人はいつまでもできないんだと彼女は答えた。

「私だって、むしゃくしゃして何かでるかなっていたずら心で唱えてみたらああなったからあわてた」

そんなん最初からやるなよ、とあきれた。線路の置き石じゃないんだから。試しにやってみたら、列車が脱線したとかそういうたぐいの話だ。今回の事件、ワイドショーでも損害額ウン千万とか言ってたぞ。

話を戻そう。今までの情報を総合すると、誰にでもできるものじゃないと油断してやり方を警察の事情聴取でぺらぺらしゃべっていたら真似されてしまった、あるいは、魔術をやっているところを防犯カメラなんかで記録されていたのが、今回の騒ぎで注目されてしまい、観察と聞き取りで再現されてしまった、というところか。

「ちょっと待て。魔法が盗まれたって、どうして今の状況の原因が魔法だってわかるんだ?」

「魔法を発動させたことがあるから、近くで魔法を発動されたらわかる」

なるほど。わからん。しかし、今のところ正体不明、出所不明の「魔法」に一番詳しいのはこいつしかいない。あやしく思えてもこいつの意見はある程度重く見ざるをえない。

「お前が言ってるのが正しいとして、前回魔法が止まったのは偶然僕がお経を唱えたからだったよな?」

来栖はうなづく。

「あれだけ大人数が暴れていて、他の大人は魔法のことなんか全然知らなくて止め方が皆目見当つかない。現実的に、機動隊が全員なぐって気絶させることくらいしか手がないし、人を暴れさせているのが魔法なら止める役目の警察だって頭がおかしくなって暴れ出すかもしれない。どうやったらこの事態を止められる?」

「大杉君!」

一瞬うろたえた来栖が話においていかれているクラスメイトを呼ぶのを聞いて、このコミュ障に人の名前を覚えていることができたのかと感心した。

「このアプリ、どれくらいの人が使ってる?」

「……マップの上で動いてる青い点と赤い点はすべてユーザー。匿名化した上で最後にポジティブなつぶやきをした人が青、ネガティブなつぶやきをした人が赤で表示されてる」

急に話を振られてどぎまぎしつつ大杉が答える。

「緊急地震速報みたいに、音を切ってても強制的にスマホの外に音を流したりできる?」

「……できる! 今みたいな緊急事態を察知したときには警報が大音量で流れてるし、いざとなれば役所の緊急放送のマイクにつなげることもできる」

「今すぐマイクを貸せ! こいつにしゃべらせろ!」

僕を指さして来栖が叫ぶ。普段しゃべらないのに、追い詰められたら大声出せるタイプか。

大杉が手招きする。

「なに言ってんの、あいつ。まったく話が飲み込めないんだけど」

「すまん。そうだと思うんだけど、今、スタッフさんも別のところでばたばたしていてこっちにまったく気付いてないし、できるんならどさくさにまぎれて放送のマイク、貸してよ。一生恩に着るから」

「ええっ、そんな。そりゃ、マイク、そこにあるけど」

大杉は画面の前のコンソールに立っているマイクを指した。

「今度、ハーゲンダッツ3つおごってあげるから」

「安すぎだろ。あとで大人に大目玉を食らうのは俺だぞ」

話がまとまったところで、来栖がリュックサックからニベアの缶を取り出し、ふたを開けて指をそのなかに乱暴につっこむ。女子からハンドクリームを塗ってもらうなんて、もうちょっとそっとやればロマンチックな感じがするのに、クリームのかたまりを突き指せんばかりにおでこと両手に押しつけてくるから奇祭おしろいまつりみたいな感じになってしまった。

「行けえっ! ぶちかまして来いっ!」

お経を読むのにぶちかませとは。

「はい。放送範囲設定、警報発令中の渋谷駅半径500メートルの円内に位置する全ユーザーのスピーカーに接続。スイッチを長押ししている間の声が流れます。どーぞ」

納得いかない顔の大杉が促したので、一度深呼吸してからスイッチを押す。

「……全知者である覚った人に礼したてまつる(はんにゃはらみったしんぎょう)……」

エピローグ

結局、来栖の言っていたことは正しかったみたいで、般若心経を2度、3度と繰り返すうちにスクランブル交差点を中心とした暴動は目に見えて沈静化していった。

その間、ネガティブな精神状態を示す地図上の赤の点が実はスクランブル交差点を中心とした円内にあるのではなく、渋谷ヒカリエを頂点とする扇形を描いていることに大杉が気付き、僕の聞き取りを担当したスーツの男の人(名刺を見たら、真野さんという名前だった)の電話に連絡、話を信じてくれるか不安だったけれど、すんなり僕たちの言うことを聞いてくれた。警官がヒカリエ高層階の展望フロアに向かったところ、スクランブル交差点から一番近い場所で倒れている女性が発見された。

井筒芽衣子、48歳。真野さんは渋谷駅血液散布事件捜査のために防犯カメラなどの画像を解析した際に来栖があえて血の球の直下に向かっていったのに注目。その直前、来栖がスタバ店内で額と両手にハンドクリームを塗る仕草を不審に思って同様の仕草を画像検索してヒットした論文の著者が文化人類学の研究者で大学非常勤講師の井筒だった。真野さんは即座に井筒へ捜査への協力を求めたが、それが結果的にあだとなってしまった。世界の呪術を研究していた井筒は来栖のおばあさん経由でもたらされた魔術についても心当たりがあったらしく、来栖からの直接の聞き取りの機会を得て、あとはこちらが予想したように映像なども参考にして来栖の魔術を再現したところ、実際に通じてしまったということのようだ。

井筒は長年研究に打ち込むも定職を得られず、最近は喫煙習慣がたたって肺がんにもかかり生活自体に行き詰まりを感じて、社会全体への憎しみを募らせていく様子が残された日記から読み取れたという。ヒカリエで倒れたのも病状の悪化が原因で、現在病院にて面会謝絶の状態とのこと。

以上の情報を教えてくれた後で、真野さんはこう付け加えた。

「フロアの監視カメラの映像から、井筒が2回魔術を行使した後で倒れたのが気になるところなんですが」

「交差点の人が凶暴化した魔法以外に、何かやってるってことですか」

「いやね、捜査は証拠と論理が一番ってところがあるから、魔法とか言われても当然まともに取り上げることはできないんですけど、現に科学的に説明がつかない大事件がすでに2回も起きちゃってる。そして、それをすみやかに停止できたのは本人たちの実感としても、外からの映像の観察からもあなたの力なんですよね」

真野さんは顔を近づけてくる。

「表だっては魔法うんぬんを公言することはできないんですけど、今後この種の事件が起きたときに裏でぜひこれからも協力してもらいたいんです」

「それは、学生ができる範囲でならいくらでも協力しますし、来栖にも伝えておきますけど。もし、協力しないって言ったらどうするつもりだったんです?」

「そりゃ、もちろん快諾してもらえると思ってましたよ。渋谷の頑固な血液汚れの掃除代とか、血の海から逃げるときに転んでけがをした人の治療代とか、そういった損害の費用は絶対にみなさんにかぶせないでおけるようにも手を打ってあるから、どうか気にしないで、ね」

自分の身の回りで立て続けに大きな事件ばかりが起こって、ちょっと疲れてしまった。

渋谷駅前暴動事件の後、案の定、親をはじめ会社の人から大目玉を食らったという大杉も、真野さんがフォローして僕たちへのマイク使用許可が勇気ある行動だったということにしてもらえて家庭の不和も解決。したのはいいのだけれど、ハーゲンダッツ3個でこちらは許してもらえず、いつもは断っている大杉御用達のカラオケボックスに連れ出されてしまった。なぜか、来栖もいっしょに。

こういうときは大杉が気分よく歌っているのをただ眺めるだけなのが常だった。今日もそうだ。来栖も不器用ながら感謝は示したいのでついては来たけれど、歌は苦手のようで放心しているのか軽蔑しているのかよくわからない光のない目で歌う大杉を見ている。

5、6曲歌った後で大杉が「そうだ、あれやってよ。般若心経」とか要らない水を向けてくる。「やらねぇよ」と即答すると、来栖が「お・きょ・う! お・きょ・う!」と手を叩いてくる。この野郎、調子に乗ってと腹は立ったが、反面、あのコミュ障の来栖が心を許してこんな茶々を入れるようになったかと少しうれしくなった。

「じゃあ、普通に歌うから!」

今回、自分のじじくさい習慣と思って同級生には特に言ってこなかったお経がこんな形で人の役に立つとは思わなかった。仕込んでくれた亡きじいさまにも感謝したくなった。

同級生が好きな最近流行りの曲を全然知らなくて、これまでカラオケを本気で避けてきたが、こんな古くさいセンスでも役立つことがあるんだ、と素の自分を見せてもいいような気がしてきた。僕が歌える歌を歌っていいんだ。

「それでは聴いて下さい! 映画『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』より、北島三郎、『ジャンゴ〜さすらい〜』!」

遠くから爆発音がした後、床が震えた。

引用文献

・梶井基次郎「檸檬」(梶井基次郎『檸檬』新潮文庫p.16)
・トマス・ホッブズ「市民論」(トマス・ホッブズ(伊藤宏之・渡部秀和訳)『哲学原論 自然法および国家法の原理』柏書房p.745)
・「般若心経」(中村元・紀野一義訳注『般若心経 金剛般若経』岩波文庫pp.10-1)
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