味のない一日

文字数 3,548文字

 2022/08/02
 午前零時過ぎに寝て、三時半過ぎに起きて、それから眠れなくなった。おそらく半年ぶりだった。睡眠薬は規定量毎日飲んでいたのに急に眠れなくなってしまった。どんな姿勢で寝転がっても、どんなに落ち着く動画を見ても眠れなくて、ひとしきり苦しくなってうめいた後、起きた。
 片付けをしよう。二週間前から思っていたことだった。ただなんとなくできなかったことに対してやる気が湧いてきたという状態だけで考えれば、私は幸運かもしれないと思った。ベッドから上半身だけ起こしてとりあえず身の回りのものを整理する。机の横にあるキャスター付きの引き出しの上のぐちゃぐちゃを片した後、すぐに手が止まった。もうやりたくなかった。曇天のようにため息を着いた後お気に入りの音楽を流して、フラフラと一階に向かった。
 ここ最近、一階ではよく絵を描いていた。節電対策のためみんな一階に集まって冷房をつけていたので、必然的に自室から遠ざかっていた。そのせいで寝ること以外のことをする自室というものがひどく億劫に感じられていた。一階には私が放置している画材が相当数あった。三日前ほどからそれに苦言を呈されていたので、とりあえずそれを自室に全て戻してしまうことにした。もしかしたら自室で描いた方が集中できるかもしれない。淡い期待は抱くだけ無駄かもしれないが、抱く瞬間だけは心地いいのだからやめられない。絵の具を入れるケースには蓋をつけていないので、それ以外のペンやスケッチブックなどを近くにあったトートバッグに詰め込んだ。トートバッグは平均的な大きさだったが、二つをパンパンにしてなお余る画材を前にして、自分の収集癖が異常かもしれないと改めて慄いた。
 腕に食い込むトートバッグの持ち手がザラザラして痛い。でも買ったのはもう五年前だから仕方なかった。リングフィットをしていたから腕がそれほど疲れなかったのだけが私にとって安堵すべきことだった。荷物を全て自室に下ろし終えてから、もう一度一階に降りる。すでに朝五時を過ぎていた。絵の具を大きなカゴに入れて二階に運搬し終えてから、またベッドに倒れ込んだ。今度はどうでもいいという気持ちが身体じゅうに回りきっていたから、それほど苦しくならなかった。画材のレビュー動画をいくつか見てから、朝日がすっかり昇りきっているのに気づいて、散歩する気持ちがだんだんと湧いてきた。
 散歩をするのは久しぶりだった。リングフィットを始めてから運動が楽になってきた頃には、もう散歩及び外出をすることが億劫になってきていた。リングフィットと散歩を同時に続けることができる人は誇っていいと思う。皮肉にも今日はリングフィットをする気が起こらなかったから、散歩をする気力が湧いたのだと思う。
 真っ先にコンビニに向かった。焼き鳥の皮の塩味が二本食べたかった。もちろんファミマに着いた時はまだ六時を過ぎた頃だったのでホットスナック自体が稼働していなかった。この可能性を現場にたどり着くまで何度か思いついたりしたが、なかったらその時に考えようと思い直していたのでその時のなんとも言えないショックについては想像が至らなかった。完全に私の頭がすっからかんだからこうなったのだ。これは睡眠不足の成せる技といえよう。あーあ。
 結局、ファミマでは千三百円分の菓子パンなどを買った。そこそこ小さな袋が三分の二ほど埋まった。その後よったセブンで残りの三分の一が埋まった。すべて食品である。千三百円ほどだった。二千六百円の死にたさがこの袋に詰まっている。そう思えて仕方がなくて、「私ってこんなに死にたいのか!死にたすぎだろ、はは」と思わず独りごちると、偶然そばを通りがかったそれなりに健康そうなおっちゃんが怪訝な顔をして立ち止まりかけた。私は誰とも話したくなかったのでスルーした。
 二千六百円。ファミマで買った時の千三百円はこんなに買ったのに安いなーくらいにしか思わなかったけれど、セブンで買った時に接客してくれたおばあさんのなんとなく悲痛そうな表情と、ありがとうございましたという言葉が私にはよく刺さった。この千三百円は痛く感じてしまった。それに、おばあさんのありがとうございました、にはお大事に、という言葉が含有されているような気がしていたからだ。
 月に一度の通院が私のコミニュケーションをする大きな機会だった。そこでは、しばしばお大事に、という言葉が行き交っていた。お大事に。体を、心を適切に休めて、落ち着いて、ちゃんと大事にできますように。私は病院に行くたびにその言葉をかけられて、そうだよな、大事にしなきゃだよな、とちゃんと思っていた。思っていても、コンビニで爆買いをして、過食して、吐きそうになって、泣いてしまいそうな日が月に三回ほど訪れたりする。その度に、病院や薬を処方していただいている薬局を裏切っているという気分に苛まれる。お大事にという言葉を裏切ってしまう自分は、犯罪なんかしていなくても、誰かにひどいことを言わなくても、じゅうぶんに悪いやつだ。
 家に帰る前に、バッグに詰め込める分の食べ物をぎゅうぎゅうにして入れた。キッチンからは母親が忙しなく動いている音がそこはかとなく漏れだしていて、外からでも母が頑張っているのがわかる。そこにビニール袋いっぱいの食べ物を詰めた物体を持ち込みたくなかったし、何よりそれを見られたら怒られることはよくわかっていた。できるだけ詰めたあと、平気を装って家のドアを開けた。ただいま、と声をかけてとりあえず玄関にバッグとビニール袋を置いて手洗いうがいをしに洗面台に向かった。母は妙に優しい応答を私に返していて、なんとなく私の行動を察しているような気がした。私はそれに相槌を返すだけして、洗濯物と一緒に隠しながらビニール袋とバッグを自室へと持っていった。
 もう六時半を過ぎていた。ベッドにまた倒れ込んで、とりあえずセブンのわさびおにぎりを食べた。思ったよりは辛くて、アーモンド効果で少し流すように飲み込んだ。相性が良くなかったのか、アーモンド効果がいつもよりよくわからない味に感じられた。その後二つほど食べ物を食べている途中、急に胃が詰まってきたようで気持ち悪くなってきた。胃が前よりも小さくなったのかもしれない。ベッドで寝転がりながらぼうっと、適当な動画を流していた。涙は出なかった。またしばらく何もしないでいると、母が私の部屋に来て、ご飯は食べないの、と語りかけた。わざと言ったのか、なんの気なしに言ったのかはわからなかった。三時半から寝れなくて、頭が痛いからいらないと返した。実際、睡眠不足特有の頭痛が私に襲いかかってきていた。母はあー、と言った後、私の部屋の汚さを指摘した。一階にあった私の画材を自室に戻したからだ、と言うとそう、と納得して母は去った。私はもう何もしたくなくなっていた。無機質すら息の詰まりそうなこの部屋で、ゆっくり息ができなくなりたかった。セブンで偶然見つけたヤクルト1000を飲むと、偏頭痛がふわっと消えた。睡眠導入にまでは至らなかったようで、やる気も頭痛もない人間がただそこに横たわっているだけというなんの生産性もない状態だけが取り残されていた。
 十二時過ぎ、ようやく眠る気になった。それまで、胃にスペースを見つけては食べ物を入れて、また横たわってを繰り返していた。何を食べていても、あまり美味しくなかった。眠れそうになった時、ようやく救いがきた、と思った。寝る瞬間の気持ちは今になっても思い出せない。
 十六時半過ぎ、スッと目が覚めた。いつもよりも明確に意識が起きていく感覚があった。それから姉にツイッターで見つけたかわいい動物の画像を送って、上半身を起こしたままぼうっとして、五分ほど経ってからベッドから脱出した。今日を記しておこうと思ったのだ。どれほど長い文章になるか想像もできなかったが、パソコンでタイピングしながら文章を書くという感覚を味わいたくなったので一階にあるパソコンを取りに行ったのである。結局そのままリビングで文章を書いて現在に至るわけだが、もう三千字も書いているのだから、この選択は正しかったといえよう。もう十七時二十分を回っている。一時間弱こんな身のない日記を書いてしまい、なんとなく精神の衰弱するような感覚を味わっていることに不満はあるが、今日そのものが実りのない物だったのだから仕方がない。
 今日した過食は取り返しがつかない。それはどうしようもないことで、何をしても事実は消えない。だから、せめてもの抵抗としてこの後リングフィットを少しプレイしようと思う。兄の運動が終わるのを待ってからになるけれど、いつ終わるかはまだわからない。
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