第5話

文字数 1,492文字

 俺たちは、二人で坂を下りた。もう太陽は完全に沈んでいて、緑豊かな稲の隙間で、蛙たちが隣人に愛を叫んでいる。

「すみれはどうして公園に来たの?」

 単純な疑問だった。

「とっしーからメッセージが来たんだ」
「そっか」

 なんだあいつか。やっぱり口が軽い。もっとも、連絡するなとは伝えていないが。

 こうもすぐに情報が洩れていくことに対してのうんざりする気持ちと、けれどそれによってすみれに会えたという気持ちが押し合いをして、今回は後者が勝利を収めた。

「それでね、秀に電話してみたんだけど出なくて」
「全然気づかなかった。ごめん」

 携帯電話を取り出して確認すると、不在着信が一件入っていた。

「仕方ないから適当に探してたら、米倉さんに会ってね。『秀ちゃん家に持って行ってくれ』って、きゅうりを渡されたの」
「そういえばさっき米倉さんに会った」

 きゅうりのことも言っていたような気もする。

「だからそれを届けに秀のお母さんのとこまで行ったの。だけど秀はいなかったし、帰ってきてもいないみたいだった」
「わざわざ会う気にはなれなくてね」

 すみれが母に会ったということは、俺がこっちに帰ってきていることが知れてしまったわけだ。面倒だ。

「とっしーに聞いてみればわかったのかもしれないけど、その時秀のお母さんにね、『秀がどこにいるかわかりますか』って聞いてみたの。そうしたらね、『公園じゃないかしら』って」

 俺は眉をひそめた。何故母にわかる。俺の何を知っている。納得できず、俺が黙ったままでいると、すみれは続けた。

「秀が小さい頃、公園で遊んで帰ってきた日は、ご飯をいつもより美味しそうに食べてたんだって。あと、高校生、大学生の時も、時々一人でてっぺん公園行ってたんだって?」
「なんで……」
「秀のお母さん、昔から秀のこと大好きだったからねー。よく見てたんだと思うよ」

 なんで。てっぺん公園の話なんか、母にしたことがあっただろうか。確かに、高校生になってからも、部活のない日にふらふらと行くことはあった。大学に入って、たまにこっちに帰ってきた時も、なんとなく坂を登った。その度に俺は美味しそうにご飯を食べたというのか。そんなわけがない。

「愛だね。秀のお母さんのおかげで、私は公園まで着て、秀を捕まえられたわけだから」

 俺は、母にも救われたのか。

「今夜は秀のお母さんに夕飯誘われちゃったから、秀の家で私も一緒にご飯食べるよ」
「また勝手に」
「私もいるの、嬉しくないの?」

 すみれは俺の顔を覗き込むようにして訊いてきた。

「嬉しいよ」

 自分が今、どんな顔をしながら答えたのか、考えると少し気持ちが悪い。すみれは笑った。チョコをくれた頃のように、なんというか、その顔全部で優しく笑った。

 変わらない。変わらないことばかりに安心する。それはつまり、過去に縋っているということだ。そして同時に、過去にそれだけの大事なものを作れているということでもある。

「米倉さんのきゅうりってさ、いつもちょっと汚いよね」
「俺はちょっとじゃないと思う」

 今は、きゅうりの汚さも変わらなくていいと思える。こうやって今、誰かとともに笑うことができるのだから。嫌なことも、大抵は話せば喜劇だ。

「落ち込むこともあるけど、俺、この町が好きです」
「それは帰ってきた場所で言う台詞ではないからね」
「ちーいさーいころーはー」
「うるさい」

 中途半端な田舎でも、帰ってくるくらいには、俺も潜在的に好きだったからなのかもしれない。変わらないでいてくれるものたちを。

 すみれに捕まったことは、きっと一生の記憶になる。あとで恥だと言ったことの弁明をしよう。そして、チョコを返そう。
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