8月15日 〜満月の夜〜

文字数 1,231文字

 いつかは別れが来るってわかっていたの。
 わかっていたのよ、私、本当は。だけど、気づかないふりをして、ずっと別れの日から逃げてきた。そしたら、もうこんなに時は流れてしまったのね。
 愛されていることを知る度、私は怖くて悲しくてたまらなかった。いずれ別れがやってくるというのに、その愛に身を委ねることなんてできやしなかった。別れから逃げる日々は、愛からも逃げていたのかもしれないわ。

 私ね、誰かとの結婚が絶対的な幸せだなんて思わないの。どれだけ美味しい食事を用意されても、この世にふたつとない花束を渡されても、誰もが見惚れる服をもらっても、大きくて輝かしい宝石を首に飾られても、見たこともない多額を目の前に置かれても……そんなものじゃあ、笑えない。
 ひどい女かしら、全部蹴散らして「私の時間を返して」と罵ってやりたくなった。
 
 ただ、あなたたちがそばで笑ってくれるだけでよかったのよ。終わりが来てしまう生活の中、一秒でも長くその笑顔を見ていたかった。顔いっぱいに皺ができて、慈しむ気持ちがそのまま表れたようなあなたたちの笑顔が私にとって何よりの幸せだったの。
 だから、ねえ、笑って。
 私はもうすぐ、この苦しみから解放されてしまうけれど、もしいつかそれでも心が震えるようなことがあれば、あたたかい笑顔を思い出して生きていたいの。

 私たちの関係に永遠がないとわかっていても、それでも最後まで抗ってくれてありがとう。それだけで十分よ、なんて殊勝なことが言えない私だからきっとあなたたちに出会えたのね。

 ああ、全てを無にする天の羽衣。長く続く私たちの命と、乱れぬ心。それこそ美しいのだと、月の国の人たちは言うけれど、まるで冷たい氷像のようだわ。美しいけれど、温もりがないそれは長く生きたってただのお飾りなの。消えゆく儚さもないそれは首にかけられた大層な宝石と同じ。蹴散らしてしまいたい。

 泣かないで、お爺さま、お婆さま。同じ苦しみを私は背負えない。これは私に与えられた罰だったの。何かを愛おしいと思う気持ちを覚え、それを自ら忘れる道を歩まなければならない。
 私はこれから、氷像になるのよ。見た目ばかり綺麗で、ただ溶ける時を待つ孤独な永遠を過ごす。
 だからお願い。冷たい氷が溶けてなくなるその日まで月を眺め、私が愛した笑顔を見せて。たとえあなたたちが先に消えゆくとしても、この星から私を眺めている人がいるかもしれないと信じるくらいは赦されるでしょう?
 やっぱり、ひどい女ね、私。布切れ一枚でこの気持ちも忘れてしまうというのに。

 嘘みたいに眩しい羽衣が、そっと私の肩にかけられる。別れを惜しむ心がじわじわと羽衣に吸い取られるように消えていく。
 ああ、さようなら、さようなら。

 お爺さまの泣き声が鼓膜を揺さぶる。
 お婆さまの叫ぶ姿が瞳に映る。
 目の前で起こっている出来事の全て、月に着く頃には忘れてしまうわ。
 冷たい風が吹く。
 一筋、目尻から滑り落ちた何かが冷たくて、不快だった。
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