文字数 2,153文字

 声をかけたら負けだ。

 誰に負けるかって? そんなの、自分に決まっている。ドキドキに耐えて待って、耐え切れないという自分の弱さに勝つ。耐え難き動悸に打ち勝ってこそ、喜びも大きいというもの。どっちが先に好きだと告白するか、そういうのに似ている。好きなになったのはこちらが先だとしても、先に行ってはダメだ。好きだと言われたい。言って欲しい。言わせたい。

 手にしたスマホのむこうにバレエシューズのつま先が見えた。近づこうか、声をかけようか、どうしようか、そんなふうに迷っている気配がうかがえる。

 まだだ。まだ顔をあげてはいけない。わたしはギリギリまで気が付かないフリをする。

「あのう、すみません、ひとえうめさんですか?」

 名前を言われる直前くらい、「あのう、すみません」くらいのタイミングで顔をあげる。

「はい、ひとえうめです。ええっと、チップさんですか? はじめまして」

 小さすぎず、大きすぎもしない声がでるように気をつけて挨拶をする。

 お互いになんとなくホッとするような、それでいて緊張するような、複雑な表情を浮かべて向かい合うこのときが、わたしは好きだ。
 二回目があるわけでもないのに、「はじめまして」の挨拶は必要だろうか、とか、待ち合わせしている相手以外が名前を確認して話しかけて来るなんてことはないってわかっているのに相手の名前を問い返す必要があるのだろうか、とか、冷静に考えるとツッコミどころが満載の会話なのだけれど、こういうときのやりとりすべてが、わたしは好きだった。

 相手の顔を眺めてニヤニヤしていたいような気持ちになる。それでも、ずっとこうしてはいられない。

 挨拶のあとはテキパキと、さりげなく人通りを妨げない場所へと避けるようにする。リードしていることを悟られないくらい自然な感じで身体を動かす。相手から話を切り出される前に先にチケットを、きちんと袋から取り出した状態で見せる。「やましいことはありませんから、どうぞ確認してください」、そういう姿勢をきちんと示す。「どうぞそのままチケットは仕舞ってくれてもいいですよ」、そんな気持ちも前面に出す。

 なまなましいから支払いの現金は封筒に入れて渡してくれる、そういう人がほとんどだけれど、封筒を受け取ったらコソコソしたりせずに堂々と、
「ありがとうございます」
 言葉とともに中身を確認する。
「まちがいなくいただきました」
 はっきりさっぱり、軽やかに明るく。短時間のやりとりですべてを示す。この過程のひとつひとつが、わたしにとっては楽しくてたまらない。

 いくらでも続けていたいくらいだけれど、そうもしてはいられない。楽しい時間はあっという間に過ぎ、すぐに終わりを迎えなければいけないと相場が決まっている。

「空席を作っちゃうことにならなくてよかった。ありがとうございました」

 別れの言葉も先に切り出さなければならない。やんわりと心から思っている言葉を口にして、「また」とか、「連絡する」とか、そういうことは言わないようにする。言ってしまったら負けなのだ。自分自身の欲望に負けることになる。そんなものに負けてはいけない。

 そしてどんなに後ろ髪を引かれようと、さくっとその場を離れる。決していつまでも手を振って見送ったりしてはいけない。種まきは終わったのだ。芽が出て実を結ぶ運命の出会いならば、自然とその機会は訪れる。そのためにも気持ちよく別れておこう。
 わたしはこうと信じるセオリー通り、振り返ることなく足早に、わざと人の多い方向を選んで歩みを進めた。



 こんなことを月に何度かしている。インターネットの世界には、「譲ります」、「譲ってください」、そんな言葉が溢れている。わたしもおなじフレーズを投稿し、譲ったり、譲られたりを繰り返している。譲ることのほうが圧倒的に多いのだけれど。

 近頃は転売を問題視して、いろいろな策が練られているようだけれど、チケットの発売方法には問題がある。早い者勝ちの電話受付をしていた時代を経て、抽選というシステムが導入されてはいるけれど、それでもあまり目覚ましい変化が遂げられていないところをみると、解決不能な問題なのかもしれない。

 人気のチケットに申し込みは殺到する。だから抽選販売にする。それはわかる。そうなると、当たらないから何口も申し込む人が出て来る。それもわかる。その結果、当たり過ぎる人と当たらない人が量産される。ぜんぶ自然なことだ。譲りたい、譲ってほしい、そう願う人が出てくるということも。

 電話がつながらないから、何度も何度も連続してかける。それでもつながらないから、かける人を増やす。その結果、当たり過ぎる人と当たらない人が量産され、譲りたい、譲ってほしい、そう願う人が出てくる。今も昔もおんなじだ。

 そしてそんな状況は、わたしもおなじ。わたしも譲ったり、譲られたりしている。ただ、わたしの場合は、譲ったり譲られたりがしたくてしているから、そこだけはちがっている。高値で転売して差額利益を得たいとか、そういうのではない。ただわたしは譲ったり譲られたりというプロセスを行いたいのだ。

 手間暇をかけてチケットを譲ったり譲られたりする。それ自体が目的でしているという点において、わたしの行為は他の人とはちがっていた。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み