味わいの再会
文字数 1,993文字
家々の明かりが灯り、遠くから聞こえる犬の吠え声が住宅地の静かけさを彩っていた。
男性の歩く足音もその中に含まれており、穏やかな夜の一部となって、しっかりとした足音を立てながら、職場である病院から家へと帰る途中だった。
小日向春樹は医師だ。
独立行政法人の外科医で、いわばエリートと呼ばれる部類の人間だった。
年齢は30代の後半で、体力気力共に充実した将来が期待される若手の一人だ。
世間では順風満帆な人生と思われていることだろうが、決してそうではない。親の期待と世間の期待の狭間で、若い頃から息苦しい思いをしていた。
学生の頃は常に勉強漬けで友達はおろか、女性とお付き合いもしたことがなく、同級生たちが恋に遊びに青春を謳歌している間も、ひたすら勉強してきた。
おかげで国立大学に進み、医学の世界への切符を手に入れることはできたが、それに見合うだけの心の強さと精神力を持つことは難しかった。
そんな春樹だが、医師になりお見合いで結婚をし、家庭を持つに至った。
幸せだった。
お見合い結婚ではあったが、春樹は妻のことを出会った時から惹かれていた。
一目惚れだ。
学生時代は勉強漬けで、世間一般の常識というものが欠けている春樹に妻は優しく接してくれた。
春樹に何の期待もしないで、ただただ愛情を注いでくれた。
どんなに仕事で疲れて帰ってきても、家に温かい家族が待っているのを見ると心の底から安心できた。
しかし、春樹は妻を事故で失った。
あの日以来、春樹の時間は凍り付いたままだった。
学生時代は外食をしないで、自炊をしていたにも関わらず、今は弁当を買って帰る毎日だ。
夕飯はいつも家で妻が作ってくれていた。どんなに疲れていても、家に帰って手作りの料理が待っているというだけで、心が温かくなった。
なのに今の春樹の料理は冷めた弁当だけだ。
そんな生活を続けているから当たり前だが、濃い味付けに食事を残し、肌の色つやも悪くなった。鏡を見る度にゲッソリする。
周囲からは、長期休養を勧められるが、仕事をしている方が気が紛れて、かえって良かった。
自宅に着いた春樹は、玄関を開ける。
「ただいま……」
消える様な声量で帰宅の挨拶を告げると、春樹は温かな匂いに気づいた。少し甘く、でもほんのりと塩気も感じられ、どこか懐かしいような感覚。
まさか。
春樹は、我を忘れた様に革靴を脱ぎ捨て台所に急いだ。
ドアを勢いよく開けたそこに、人が居た。
目は丸く大きく、鼻筋も通った可愛らしい顔が春樹を捉えた。
亡くなった妻の面影が重なり、春樹は思わず妻の名前を口にしそうになったが、先に声をかけられた。
「お帰り、お父さん」
小学生の息子・優太は笑って鍋の火を止めた。
「優太……」
春樹は食卓に並んだ料理を凝視する。
ご飯、ハンバーグ、ポテトサラダだ。
「丁度良かった。今、お味噌汁ができたところなんだ。座って」
優太は汁椀に味噌汁をついで食卓に並べた。
春樹がキッチンを見ると、まな板やボールがあり調理をした痕跡があった。
「優太が作ったのか」
「そうだよ。一緒に食べよう」
春樹は息子に促されるままに座り、一緒に手を合わせた。
それから春樹は味噌汁を口にする。
彼の好きな、ワカメと豆腐の味噌汁だ。
春樹が口に運んだ最初の一口。
暖かいふんわりと漂うダシの香りと、豊かな風味が口いっぱいに広がる。味噌の塩味にほんのりと混じる、優しい味わいはどこか懐かしい。
これは妻の味だ……。
「――どうして優太が、お母さんの味を知ってるんだ?」
春樹が不思議そうに尋ねると、優太は笑った。
「お手伝いで、僕も一緒に作ってたんだよ」
優太は笑んで訊いた。
「おいしい?」
その声は、妻の声で脳内に聞こえたような気がした。
ああ、そうか……
止まった時間が再び流れ出したように感じたのだ。
ここは自分の家だ。
そして家族が待つ温かい場所なのだ。
春樹は妻を失った。
でも、家族を失った訳ではなかった。
時間を止めていたのは、自分だった。
妻の思い出に浸り、止まっていたのは自分だけだったのだ。
息子が作った懐かしい味付けの料理は、ゆっくりと春樹の心を解かした。
失ったものが戻って来てくれたような、そんな気がした。
それは、どんな魔法の薬よりも効果のある癒やしだった。
春樹は気づかないうちに涙を流していた。
「お父さん。ご飯は、みんなと一緒に食べると、おいしいんだよ」
優太は、涙を滲ませながら優しい顔で語りかけた。
ありがとう……。
春樹は、息子への感謝の言葉が胸に溢れると同時に、聞こえないはずの声が聞こえた気がした。
その声の主は、きっと今も天国で自分達を見守ってくれている。
春樹は箸を手に取り、妻と同じ味付けの懐かしい料理を口にしながら想った。
ああ、私は幸せだ。
自分は一人ではない。
愛する息子と妻と共に生きているのだ……。
男性の歩く足音もその中に含まれており、穏やかな夜の一部となって、しっかりとした足音を立てながら、職場である病院から家へと帰る途中だった。
小日向春樹は医師だ。
独立行政法人の外科医で、いわばエリートと呼ばれる部類の人間だった。
年齢は30代の後半で、体力気力共に充実した将来が期待される若手の一人だ。
世間では順風満帆な人生と思われていることだろうが、決してそうではない。親の期待と世間の期待の狭間で、若い頃から息苦しい思いをしていた。
学生の頃は常に勉強漬けで友達はおろか、女性とお付き合いもしたことがなく、同級生たちが恋に遊びに青春を謳歌している間も、ひたすら勉強してきた。
おかげで国立大学に進み、医学の世界への切符を手に入れることはできたが、それに見合うだけの心の強さと精神力を持つことは難しかった。
そんな春樹だが、医師になりお見合いで結婚をし、家庭を持つに至った。
幸せだった。
お見合い結婚ではあったが、春樹は妻のことを出会った時から惹かれていた。
一目惚れだ。
学生時代は勉強漬けで、世間一般の常識というものが欠けている春樹に妻は優しく接してくれた。
春樹に何の期待もしないで、ただただ愛情を注いでくれた。
どんなに仕事で疲れて帰ってきても、家に温かい家族が待っているのを見ると心の底から安心できた。
しかし、春樹は妻を事故で失った。
あの日以来、春樹の時間は凍り付いたままだった。
学生時代は外食をしないで、自炊をしていたにも関わらず、今は弁当を買って帰る毎日だ。
夕飯はいつも家で妻が作ってくれていた。どんなに疲れていても、家に帰って手作りの料理が待っているというだけで、心が温かくなった。
なのに今の春樹の料理は冷めた弁当だけだ。
そんな生活を続けているから当たり前だが、濃い味付けに食事を残し、肌の色つやも悪くなった。鏡を見る度にゲッソリする。
周囲からは、長期休養を勧められるが、仕事をしている方が気が紛れて、かえって良かった。
自宅に着いた春樹は、玄関を開ける。
「ただいま……」
消える様な声量で帰宅の挨拶を告げると、春樹は温かな匂いに気づいた。少し甘く、でもほんのりと塩気も感じられ、どこか懐かしいような感覚。
まさか。
春樹は、我を忘れた様に革靴を脱ぎ捨て台所に急いだ。
ドアを勢いよく開けたそこに、人が居た。
目は丸く大きく、鼻筋も通った可愛らしい顔が春樹を捉えた。
亡くなった妻の面影が重なり、春樹は思わず妻の名前を口にしそうになったが、先に声をかけられた。
「お帰り、お父さん」
小学生の息子・優太は笑って鍋の火を止めた。
「優太……」
春樹は食卓に並んだ料理を凝視する。
ご飯、ハンバーグ、ポテトサラダだ。
「丁度良かった。今、お味噌汁ができたところなんだ。座って」
優太は汁椀に味噌汁をついで食卓に並べた。
春樹がキッチンを見ると、まな板やボールがあり調理をした痕跡があった。
「優太が作ったのか」
「そうだよ。一緒に食べよう」
春樹は息子に促されるままに座り、一緒に手を合わせた。
それから春樹は味噌汁を口にする。
彼の好きな、ワカメと豆腐の味噌汁だ。
春樹が口に運んだ最初の一口。
暖かいふんわりと漂うダシの香りと、豊かな風味が口いっぱいに広がる。味噌の塩味にほんのりと混じる、優しい味わいはどこか懐かしい。
これは妻の味だ……。
「――どうして優太が、お母さんの味を知ってるんだ?」
春樹が不思議そうに尋ねると、優太は笑った。
「お手伝いで、僕も一緒に作ってたんだよ」
優太は笑んで訊いた。
「おいしい?」
その声は、妻の声で脳内に聞こえたような気がした。
ああ、そうか……
止まった時間が再び流れ出したように感じたのだ。
ここは自分の家だ。
そして家族が待つ温かい場所なのだ。
春樹は妻を失った。
でも、家族を失った訳ではなかった。
時間を止めていたのは、自分だった。
妻の思い出に浸り、止まっていたのは自分だけだったのだ。
息子が作った懐かしい味付けの料理は、ゆっくりと春樹の心を解かした。
失ったものが戻って来てくれたような、そんな気がした。
それは、どんな魔法の薬よりも効果のある癒やしだった。
春樹は気づかないうちに涙を流していた。
「お父さん。ご飯は、みんなと一緒に食べると、おいしいんだよ」
優太は、涙を滲ませながら優しい顔で語りかけた。
ありがとう……。
春樹は、息子への感謝の言葉が胸に溢れると同時に、聞こえないはずの声が聞こえた気がした。
その声の主は、きっと今も天国で自分達を見守ってくれている。
春樹は箸を手に取り、妻と同じ味付けの懐かしい料理を口にしながら想った。
ああ、私は幸せだ。
自分は一人ではない。
愛する息子と妻と共に生きているのだ……。