第1話

文字数 1,005文字

 「お帰りなさい」
私はそう呟くのが精一杯で、溢れそうになる涙をこらえてじっとあなたを見上げた。
日焼けした彫の深い顔、潮の香り。
「今度は随分長かったじゃない?何処へ行っていたの?」
あなたは何も答えてくれない。答える代わりに、いつもその大きな両手で私を包み込んでくれる。
「ああ、やっと帰ってきた。やっぱりほっとするよ」
「その声、その言葉。どれだけ待っていたことか」

あなたと出会ってもうすぐ5年。
1か月に1度会えることもあれば、3か月間会えないこともある。
会えた時はほんの短い時間だけれど、あなたは私を抱きしめて何度もキスしてくれる。雨の日も風の日もあなたのことを思っている私なのに、あなたのことはほとんど知らない。知っているのはあなたが船乗りで、私の身体に刻んでくれたK・Sのイニシャルだけ・・・
あなたはいつも一人だし、寡黙だし、すぐに帰ってしまう。あなたが何歳で、どんな暮らしをしているのかさえわからない。
5年・・・短いようで長かった。楽しい時は一瞬で後はジーッと待つだけ。でも恋ってそういうものらしい。
初めて会った日。
入り口のドアを勢いよく開けて入って来たあなた、一目見て私の胸は高鳴った。
あなたは迷いもせずに、『あのブルーの子』って指名してくれたわね。そして私の身体にシルバーの蛍光ペンでイニシャルを刻んでくれた。K・Sって。
「これであなたのものになった!」飛び上がる程嬉しかったのを覚えている。

でも突然とても悲しい話を聞いたの。
「ねぇ知ってる?今年いっぱいでママがこのお店を閉めるって。ママも歳で随分無理をしているみたいだから」黄色い服の先輩が教えてくれた。
「ええ!このお店が無くなるの?」
永遠に続くとは思っていなかったけど、そんなに早く無くなるとも思っていなかった。
ギシギシ音のする床、耳慣れたジャズのBGM、使い込んだコーヒーサイフォン、それらの全てがあの人との思い出へ繋がるこの空間。思い出の中で暮らすことが私の唯一の幸せだったのに・・・
外国船が着く港町。古びた喫茶店。私はブルーのコーヒーカップ。
「神様、どうかどうかもう一度あの人に会わせて下さい」私は全身全霊で祈った。

それからどのくらいの時間が経っただろうか?

入り口のドアが一際大きくカランカランと鳴った。
「あの人かも知れない!」
胸が高鳴り初め、私はまだ顔が上げられずにいる。〈完結〉
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