ババ子家庭
文字数 1,968文字
少年は確かに一人だった。ほんのり夕日が差すその部屋に、彼の他には誰もいないように見えた。しかし彼は、こたつの上に顎を乗せ、前にもたれた姿勢で、誰かに話しかけていた。
「俺さ、今日学校で隆のやつ、なぐったの。」
「なしてそげなことしたと?」
こたつを挟んで少年の向かい側から、年配女性の驚いた声がした。姿は見えない。
「あいつうざいんだよ。俺は医者の息子だとか、頭良い塾に行ってるとかって。」
少年は口をとがらせた。
「うざいって?ばあちゃん、今の若い人の言葉ようわからんけ。」
「うるさくて、むかつくって事。」
「まぁ、『うざい』かもしれんけども、ばあちゃんも隆君んちの病院で、清掃のアルバイトして、お世話になっとったんやけ、あんまり目の敵にしなさんな。」
「……他にバイト先なかったの?」
「浜村医院でなきゃ、ラブホテルの清掃やったろな。」
部屋がしんと静まり返った。しばらくして、少年が沈黙を破った。
「ねぇ、母ちゃんってどこ行ったの?もうそろそろ出張ってやつ終わったんじゃないの。」
「さて、どこ行ったんやろ。あ、勇樹、あんたおやつ食べる?」
「おやつ何?」
「いつものビスケット。チョコレートなし。去年安売りで買って、戸棚の奥底に入れとったやつ。賞味期限はまだOK。」
「いらない。ばあちゃん、代わりにホットケーキ作らない?」
フライパンがコンロの上で一人でに動いて、じっくりとホットケーキが焼けていく。リビング中にほんのり甘く香ばしい匂いが広がる。
少年は食卓の前に座り、台所に向かって話していた。
「ねぇ、ばあちゃん。うちってやっぱり隆んちより貧乏なの?あいつ、いつもうちが貧乏とかって、うっさいんだよね。たまにお菓子くれるからギリギリで仲間に入れてやってるけどさ。」
「あんた、隆君ちの豪邸、見たことあるんか?ばあちゃんの収入源は、年金と清掃のバイトやったろ。」
フライパンの近くからおどけた声が返ってきた。
「あっそ。」
少年は俯いた。
「でも可能性はある。あんたが大きくなって、自分の力で、たかしよりお金持ちになることはできるけん。ばあちゃんは勇樹ならできる思っとる。あんた、ちょっと乱暴なところもあるけど、利口で心も真っすぐぞ。」
「ふうん。」
彼は零れ出た笑顔を隠すように、頬杖をついた。
少年は仏壇の前で正座をすると、ライターに蝋燭で火を灯し、それからお線香に火をつけた。
「じいちゃん、ばあちゃん、いつも見守ってくれてありがとうございます。」
彼が目を瞑って手を合わせていると、蝋燭の火がフッと消えた。そして、また年配の女性らしき声が響いた。
「あんた、それすんなっち言ったの、忘れてしまったんか?」
少年は目を開けてお祈りを中断し、仏壇の隣の何もない空間に向かって、言い返す。
「でもばあちゃん、生きてる時には、ご先祖様に感謝して、毎日仏壇で拝まなきゃだめだって言ってたじゃん。」
「それはもう時効よ。子供が一人で火を扱ったら本当に危ないけ。あんたが火傷しても、ここが火事になっても、ばあちゃん、助けを呼びにいくことすらしきらん。じいちゃんも向こうであんたの気持ちはよくわかっとる。拝むのはもうせんでええ。」
それから数時間が経ち、夜はすっかり更けた。少年は畳の上にふとんを敷いて、すっぽりとそこに入ると、目を瞑った。部屋の電気が消えた。
「ねぇ、ばあちゃん。明日もいてくれるよね。」
彼は少し甘えた声で聞いた。
「いんや、勇樹は明日こそ学校の先生に話をしぃ。ばあちゃんが死んで、母ちゃんがいつ帰って来るかわかりませんけ、家に一人ですっち、言いなさい。」
「言わない。このままばあちゃんと暮らすからいい。」
「いけん!絶対に明日言いなさい。あんたはまだ小学生やけ、面倒を見てくれる大人が必要なんよ。それに、廊下で寝てるばあちゃんの体もなんとかしちゃり。数日も待って、蛆でも湧いたら、困るけ。先生に言えば、市で小さい埋葬ぐらいしてくれるやろ。」
「わかった。」
少年は目を閉じたまま、そう言った。涙が頬を伝って、彼の枕を濡らしていた。
「今日は、あんたが寝入るまで、ここにおるけ。」
「わかった。」
部屋は静かになった。暗闇の中で、手でふとんをさするような優しい音だけがしばらく聞こえていた。
「ねぇ、ばあちゃん。」
「なんね?」
「ありがとう。おやすみなさい。」
「おやすみ。」
その夜、少年が眠る家の屋根を超えて、そのまたずっと上。空気は澄んでたくさんの星が光っていた。平屋で少年の穏やかな寝息が聞こえてきた頃、夜空では、一つの星が煌々と光り始めた。
「俺さ、今日学校で隆のやつ、なぐったの。」
「なしてそげなことしたと?」
こたつを挟んで少年の向かい側から、年配女性の驚いた声がした。姿は見えない。
「あいつうざいんだよ。俺は医者の息子だとか、頭良い塾に行ってるとかって。」
少年は口をとがらせた。
「うざいって?ばあちゃん、今の若い人の言葉ようわからんけ。」
「うるさくて、むかつくって事。」
「まぁ、『うざい』かもしれんけども、ばあちゃんも隆君んちの病院で、清掃のアルバイトして、お世話になっとったんやけ、あんまり目の敵にしなさんな。」
「……他にバイト先なかったの?」
「浜村医院でなきゃ、ラブホテルの清掃やったろな。」
部屋がしんと静まり返った。しばらくして、少年が沈黙を破った。
「ねぇ、母ちゃんってどこ行ったの?もうそろそろ出張ってやつ終わったんじゃないの。」
「さて、どこ行ったんやろ。あ、勇樹、あんたおやつ食べる?」
「おやつ何?」
「いつものビスケット。チョコレートなし。去年安売りで買って、戸棚の奥底に入れとったやつ。賞味期限はまだOK。」
「いらない。ばあちゃん、代わりにホットケーキ作らない?」
フライパンがコンロの上で一人でに動いて、じっくりとホットケーキが焼けていく。リビング中にほんのり甘く香ばしい匂いが広がる。
少年は食卓の前に座り、台所に向かって話していた。
「ねぇ、ばあちゃん。うちってやっぱり隆んちより貧乏なの?あいつ、いつもうちが貧乏とかって、うっさいんだよね。たまにお菓子くれるからギリギリで仲間に入れてやってるけどさ。」
「あんた、隆君ちの豪邸、見たことあるんか?ばあちゃんの収入源は、年金と清掃のバイトやったろ。」
フライパンの近くからおどけた声が返ってきた。
「あっそ。」
少年は俯いた。
「でも可能性はある。あんたが大きくなって、自分の力で、たかしよりお金持ちになることはできるけん。ばあちゃんは勇樹ならできる思っとる。あんた、ちょっと乱暴なところもあるけど、利口で心も真っすぐぞ。」
「ふうん。」
彼は零れ出た笑顔を隠すように、頬杖をついた。
少年は仏壇の前で正座をすると、ライターに蝋燭で火を灯し、それからお線香に火をつけた。
「じいちゃん、ばあちゃん、いつも見守ってくれてありがとうございます。」
彼が目を瞑って手を合わせていると、蝋燭の火がフッと消えた。そして、また年配の女性らしき声が響いた。
「あんた、それすんなっち言ったの、忘れてしまったんか?」
少年は目を開けてお祈りを中断し、仏壇の隣の何もない空間に向かって、言い返す。
「でもばあちゃん、生きてる時には、ご先祖様に感謝して、毎日仏壇で拝まなきゃだめだって言ってたじゃん。」
「それはもう時効よ。子供が一人で火を扱ったら本当に危ないけ。あんたが火傷しても、ここが火事になっても、ばあちゃん、助けを呼びにいくことすらしきらん。じいちゃんも向こうであんたの気持ちはよくわかっとる。拝むのはもうせんでええ。」
それから数時間が経ち、夜はすっかり更けた。少年は畳の上にふとんを敷いて、すっぽりとそこに入ると、目を瞑った。部屋の電気が消えた。
「ねぇ、ばあちゃん。明日もいてくれるよね。」
彼は少し甘えた声で聞いた。
「いんや、勇樹は明日こそ学校の先生に話をしぃ。ばあちゃんが死んで、母ちゃんがいつ帰って来るかわかりませんけ、家に一人ですっち、言いなさい。」
「言わない。このままばあちゃんと暮らすからいい。」
「いけん!絶対に明日言いなさい。あんたはまだ小学生やけ、面倒を見てくれる大人が必要なんよ。それに、廊下で寝てるばあちゃんの体もなんとかしちゃり。数日も待って、蛆でも湧いたら、困るけ。先生に言えば、市で小さい埋葬ぐらいしてくれるやろ。」
「わかった。」
少年は目を閉じたまま、そう言った。涙が頬を伝って、彼の枕を濡らしていた。
「今日は、あんたが寝入るまで、ここにおるけ。」
「わかった。」
部屋は静かになった。暗闇の中で、手でふとんをさするような優しい音だけがしばらく聞こえていた。
「ねぇ、ばあちゃん。」
「なんね?」
「ありがとう。おやすみなさい。」
「おやすみ。」
その夜、少年が眠る家の屋根を超えて、そのまたずっと上。空気は澄んでたくさんの星が光っていた。平屋で少年の穏やかな寝息が聞こえてきた頃、夜空では、一つの星が煌々と光り始めた。