第1話
文字数 10,488文字
「今まさに世紀の対決が実現しようとしております!」
アナウンサーの声が場内に響きわたる。
興奮を隠し切れない震えた声が、雑踏と歓声の隙間を縫うように走っていた。
照明がきらびやかに空間を彩る大きなドーム型の競技場。
場内のいたるところから歓声が沸き起こり、観衆の視線の先には芝と砂地のトラックコースがあった。
その一角に鉄格子のゲートがある。
そして、その地点にふたつの鉄製の馬らしきものがいた。
そうここは競馬場なのだ。
富裕層が血眼になって性能を競い合い、その余興に市民が富を賭ける。
その構図は数世紀前からの遊びであったが、22世紀の蹄音が聞こえそうな時代に入っても滅びることはなかった。
ただし、たった一点の違いを除いて。
それは、生き物の馬が走るのではなく、機械の馬が走るようになっていたことだ。
最初にそれが開発されるきっかけとなった出来事は2025年の夏だ。
衰退する競馬界に突如名馬が誕生した。
名はワールドウインドと言う。
アメリカ生まれのその馬は、主場であるアメリカの競馬を席巻し、欧州でもその名を轟かせた。
8戦無敗で人気もパフォーマンスもピークを迎える。
種牡馬入りも決まり、高額なシンジケートが組まれた。
そして、最後のお披露目とばかりに9戦目を地元の競馬場で行うことになった。
悲劇はそのときに起きた。
レースは引き立て役ばかりで、回ってくるだけのパフォーマンス。
種牡馬入りを見据えてケガのないようにと配慮された調教が裏目に出る。
パフォーマンスと言えども、馬は本能で真剣に走る。
レースに向かう体ではなかったワールドウインドは、最終コーナーでバランスを崩し、転倒した。
前脚の粉砕骨折の診断、そして予後不良。
観客の目の前で安楽死処分となった。
当時の獣医学では1本の脚の故障ですら程度によっては救えなかった。
強い馬を作り、脈々と継がれてきた血脈。
その脆くて繊細で、そして宝石のような脚。
その夢は儚く、紡いできた血脈は途絶えることになった。
馬主の資産家はパフォーマンスを強いたことを悔いた。
その後、強烈な後悔はある思想を生み出す。
それは馬を走らせず、それでいて優秀な遺伝子を残していくことだった。
当時のマスコミは狂気の暴走と罵ったが、資産家はその実現に労力を惜しまなかった。
馬の血液を培養し、濃縮して、その血を燃料に機械の馬を動かせないかと考えた。
血液同士の配合も試してみたが、よりエネルギーへの転換率が高い血は実際の馬を配合させることが近道だった。
そして研究から20年の時を経てそれは完成した。
レースをする為に規格を統一し、その為に有志を募って団体を設立する。
有志には技術提供もした。
濃縮された血のエネルギーへの転換率が競争の核になり、それらは新たなブラッドスポーツと呼ばれた。
競争は研鑽を産み、5年後にはレースが行われるようにまで向上した。
そして夢への扉が今日開かれる。
今夜この場所で行われるのは、そんな戦いの末に生み出された2頭によるマッチレースなのである。
名だたる名馬たちの後継として、まさに血のみが戦う。
血液からエネルギーへの転換という技術は革新的で、その活用に向けてひそかに別の研究も進む。
このレースの結末はひとつの研究の成果として、血液からエネルギーへの転換率の優劣を決める。
それはとても名誉なことだった。
勝ち馬の血は今や競走馬としての価値だけでなく、あらゆる機械の動力源としての優位性を持つ可能性を秘めているのである。
勝負はトラックを一周するだけの単純なものだ。
優劣への決め手は決められた血量におけるパワー、スピードへの転換率、そしてその持続力だった。
一周回れないなどもっての他で、機械馬同士のぶつかりあいに負けないパワー。
そして、最終的にはスピードが優先される。
果たして、試験管一本にしか満たない馬の血は、どのような結末をもたらすのか。
そして、英国のブックメーカーはその頂上決戦を莫大な投資で宣伝する。
全世界を注目させるためにギャンブルとしてのステージを作った。
このレースは全世界に生中継され、視聴は各テレビ局のみならずインターネットでのライヴ観戦も可能となっている。
賭け金も莫大な金額になり、未曾有の史上最大規模のギャンブルと言われた。
単純に賭博を楽しむものから、人生を賭ける丁半博打に挑むものまでいる。
また研究を重ね、このステージにまで昇り詰めた会社の株は連日のストップ高を更新した。
富めるものたちのギャンブルはブックメーカーの掌中を越え、経済をも巻き込んでいく。
アナウンサーの興奮がスタジアムに伝わる頃、メインビジョンにひとりの男が映し出された。
台座のマイクスタンドの前に恰幅の良い男がひとり立っていた。
「ここにお越しの皆様、そして、この中継をご覧になっている皆様」
場内に響くその声は静寂を連れてくる。
「私はかのワールドウインドの馬主マイケル・グローバルです」
その言葉に怒号のような地響きが鳴った。
「私はあのとき過ちを犯しました。自らの下らない見栄のために、無駄に命をこの世から捨ててしまった」
グローバルは声を震わせマイクをギュッと握りしめる。
「だが、私の発明はその悲しみを乗り越える為だけではなく、新たな世界の扉も開いてくれました!」
「うおおおっ!」
観衆は力強いグローバルの声に歓声を上げる。
声とともに地鳴りのような足踏みが伝播して芝生に土煙が舞った。
「今宵、これまでのいくつもの戦いを勝ち抜いてきた馬たちが、その血が優秀であることを証明をいたします。存分にお楽しみくだされ!」
グローバルはそう言うと、観衆に手を振って台座から降りた。
メインビジョンはVTRに切り替わり、2頭のこれまでの戦いぶりを振り返っていく。
前哨戦のVTRが流れ、勝利の瞬間が映し出されるたび、その強さに観衆はどよめいた。
疲労を感じさせることのない怒号は永遠に続く叫びのようだ。
グローバルの馬はワールドウインドセカンドと名付けられた。
彼は漆黒の馬装を身にまとい、その下に鋼鉄のボディを光らせている。
その光は絶対的な強さを誇示する貫禄に満ちたものだった。
ワールドウインドセカンドがここまでに歩んだ道が順風そのもの。
この馬の生み出すパワーは他馬を寄せ付けない圧倒的なものだった。
これまでに五戦を戦って影を踏んだ馬すらもいない。
対する馬はグローバルの親友ジョセフ・ゴールドマンの所有だった。
ふたりの関係はグローバルの金融屋時代に遡る。
彼は新興の企業を掘り当てて資金援助をしながら株式で儲ける手腕で、その情報収集能力は抜群だった。
その会社を影で支えた財務のスペシャリストがゴールドマンだった。
グローバルが研究をはじめたときゴールドマンだけは反対しなかった。
研究を手伝うことはなかったがグローバルの挑戦を暖かく見守ってきた。
グローバルはその恩義を感じて団体設立のとき彼に真っ先に声をかけた。
ゴールドマンは「畑違いだよ」と首を横に振る。
それでも「趣味としてもつ事業としては夢があるだろう」と口説き落とした。
グローバルの研究所の若い研究員を何人か出向させて新しい会社を作らせた。
彼は競争がなければ進歩も発展もないと考えていたからである。
そして後発のゴールドマンの研究所はグローバルに追いつけ追い越せと努力し同じステージに立つところまできた。
研究員たちは胸をなで下ろしながらも勝つことがグローバルへの恩返しだと言う。
ゴールドマンが磨き上げてきたその馬の名はディアフロンティア。
紺の馬装に身を包み、その下に黄金色に輝く合金のボディがまばゆい。
ディアフロンティアはその憧れにも似たビジュアルでファンの圧倒的な支持を得ていた。
ワールドウインドセカンドの圧倒的な力とは違ってスピードと機動力に重きを置いたボディ。
そして、スピードに優れたサラブレッドの血の配合を極めたエネルギー転換効率が武器だった。
「ミスターグローバル」
「おお、ゴールドマン。いよいよだな」
「ええ、ここまで来るのにずいぶんと時間がかかりました」
「そうだな。でも、あの日があるから…」
目頭が熱くなりグローバルは声を震わせる。
ゴールドマンも事件を思い出しながらその後の歩みを振り返っていた。
「でも、こんな舞台であなたと戦うことになるとは思いもしませんでしたよ」
「そうか? ワシはお前がこの舞台まで来てくれて嬉しくてたまらない。お前に託した研究者たちの努力にも頭が下がるよ」
「いえいえ、とんでもない。もとはあなたの会社の研究者。それでも、分社化したときは捨てられたと思ったかもしれませんが…」
「そうだよ。それで腐るかもしれんと思っていたから。彼らを支えたお前の力量も研究に劣らず素晴らしい」
「そんな……、ありがたいお言葉です」
二人はメインスタンドの来賓席でワインを片手に談笑している。
ふたりは今まさに時の人だった。
おそらくはどちらが勝っても負けてもそれぞれの研究にケチがつくことはあるまい。
だがどちらが強いのかという論争は人々を魅了する。
「それにしても、ブックメーカーも大胆なイベントを組んだものです。登録料制にしたのも良いアイデアです。たった100ドルの登録で勝てば億万長者になることだってできる。大したものです」
「そうだな。企画を打診はしたが、その策でひと財産を築きよった。うまい作戦だよ。これにも頭が下がる」
「でも、しっかりブックメーカーの株仕込んでたじゃないですか」
「これこれ、その話はシークレットだよ」
グローバルはウインクをしながら口の前で人差し指を立てる。
ゴールドマンは苦笑しながらもグローバルの商売上手を讃えていた。
「でも、これからもっとスゴいことが起こるぞ」
「と言いますと」
「考えてもみろ。血液から電力エネルギーへの転換だよ。世界が変わるよ。これまでは化石燃料の時代だったが、それを遙かに凌ぐ技術だ。馬が生きている限り、莫大なエネルギー利権が生まれる。草を食べて育つ馬の血から様々なものが生み出されるのだから」
「そうですね。馬に限らずですが、研究が進めば血液の特性に合わせた使用方法が生まれてきますね」
「そうだよ。そして、ゆくゆくは……、おっと……」
グローバルは気分良く話していたが親友と言えども聞かせたくない話があるようだ。
とっさに口をつぐんで「ほれ、もうすぐ始まる」とスタートゲートを指さした。
ゴールドマンは怪訝な表情を浮かべながらグローバルの言葉の続きを詮索していた。
高々とファンファーレが鳴り響く。
地元の著名な交響楽団が呼ばれその音色がドームに響きわたった。
スタート間近になり両馬の馬装が解かれ、黄金と銀の美しい馬体が照明に照らされると一層大きな歓声が響きわたった。
騎手が馬の中に乗り込むと、観客はそれを見つめながら言葉を胸の奥にしまいこんでゲートに近づいていくのを見守った。
無音のターフはまるで絵画のような美しさを放っている。
このときばかりは実況のアナウンサーも言葉を失っていた。
「し……、失礼しました……。さて、ゲートに誘導されて、今! 入りました。間もなく……」
取り乱したアナウンサーの声が響きわたる中、ガチャン!という大きな機械音が轟く。
「ス……スタートしました!」
両馬一斉にゲートを出て大きなストライドでターフを踏みしめていく。
グローバルもゴールドマンも来賓席から身を乗り出して食い入るように眼下を見つめた。
スタートは互角だったが、軽量に施されたディアフロンティアの馬体が頭ひとつ抜け出し、瞬く間に半馬身近くのリードを見せる。
そして最初のコーナーに差し掛かる頃には5馬身ほど突き放していた。
ワイルドウインドセカンドはそれを見るかたちで虎視眈々と追走している。
コーナーを1秒ほどの遅れで通過した後バックストレッチに入ると加速が増す。
銀色の手足が長く伸びるように大きなストライドでどんどんとディアフロンティアを追いつめていった。
勝負どころの第三コーナーに近づくと、ワイルドウインドセカンドはもう前を行くディアフロンティアの尻尾に噛み付けるほどの距離にいた。
それでもコーナーリングの機動性で再びディアフロンティアがリードを広げ直線コースに入ってくる。
最終コーナーを曲がって直線500メートルのスタミナ勝負。
突き放すディアフロンティアを外からぐんぐんと追いつめるワイルドウインドセカンド。
その差がみるみると縮まり、熱狂は擦り合う馬体の金属音を掻き消した。
そして馬体を並べたところがゴールだった。
きらめく黄金と銀が合わさるようにゴール板を過ぎていく。
観衆は無言になって羨望を手向ける。
どこからともなく賞賛の拍手が聞こえるとあっという間に場内を包み込んだ。
「どっちかな?」
グローバルはメインビジョンのスロー再生をじっと見つめている。
「どうでしょう? 神のみぞ知るというほどのわずかな差でしかありません」
ゴールドマンは冷静に答えるがいつの間にか握り拳に力が入っていたようだ。
緊張が解けるとすぐさまポケットからハンカチを取り出して汗を拭っている。
「珍しいじゃないか。お前が興奮するなんて」
「いやはや、お恥ずかしい限りで」
「まあ、勝負がついてしまうのは残念だが、優劣以上によいものを見せてくれた。こんな勝負ができるほど研究を重ねてくれたスタッフにも礼を言いたいな」
グローバルは写真判定の結果も見ずに来賓席のソファに座り込む。
ゴールドマンも倣うように隣に座った。
「この結果に世間はどう反応するでしょう」
ゴールドマンが興味深く尋ねると「それは市場が判断し、マスコミが踊り出すだろう。勝敗に重きを置く結果にはならんだろうがね」と答えた。
「それはどういう意味です?」
「ともに長所を存分に見せたし、どちらが勝ったかを気にするのは大枚をはたいた連中だけだ。このレースの本当の目的を知るものにとってはただの展示会だからな」
「えっ?」
ゴールドマンにはグローバルの意図もこのレースの背景も理解できなかった。
「ふふ……、盟友と言えども教えられぬこともあるよ。ふふふ……」
不適なグローバルの笑みにゴールドマンは戦慄を覚えた。
そう初めて会ったときの商売に対する嗅覚、洞察力の凄み、そして未来を知っているかのような想像力。
若き日のグローバルを重ねて見る。
「まあ、この先の未来をしっかりと見ておくといい。ワシが何に投資し何の目的でこの団体を設立したのか。わかる奴はもうとっくに動いているよ」
グローバルはそう言い残すと立ち上がった。
すると黒服の男が深々とお辞儀をして近づき「ミスターグローバル、おめでとうございます。貴殿の馬が一着となりました」と耳打ちをした。
ゴールドマンが眼下のターフを眺めると、そこには勝利したワールドウインドセカンドが観衆に向けてターフをゆっくりと走っていた。
騎手が馬の中から出てきて観客に手を振ると、一斉に怒号のような歓声がこだました。
グローバルは歓声の渦の中、足早に来賓席を去った。
「どちらへ?」
「ふふ……、表彰台でみんなに挨拶をせねば」
「ああ、なるほど。では、私も」
「お前の馬は負けたではないか」
「でも、先ほどどちらも賞賛されるって言ってたじゃないですか」
「おや、そうじゃったかな。でもそれは賭博の外の話だぞ。勇気があるならついてくるがいい」
「今は逃げるが勝ちですかね?」
「ここはひとまず、それが賢明だろうね」
グローバルはニヤリと白い歯をこぼすとそのまま赤い絨毯の廊下へと消えていく。
ゴールドマンは深々と礼をすると、足早に荷物をまとめて裏口へと向かった。
地下の駐車場から特別な地下道を抜けて外に出ると、そのままリムジンは無人のハイウェイへと抜けて行った。
ゴールドマンがリムジンの車載テレビをつけると、そこには観衆に手を振ってトロフィーを両手で掲げているグローバルの姿が映っていた。
翌日からグローバルとゴールドマンの研究所の株価はストップ高の記録を塗り替えるようにぐんぐんと上昇し続ける。
それと同時に様々な企業から提携や納入の申し込みが相次ぐ。
ゴールドマンは研究についてはグローバルから聞かされていたがその後の展開については一切知らなかった。
分社化した後は研究者に発破を掛けて志気を高め、よい研究をするようにとだけ言われていたことを思い出す。
「私は一応研究所の代表者にはなっているが今後の展開となるとさすがに困るぞ」
ゴールドマンはふとグローバルの言葉を思い出しながら追われるオファーに対応せざるを得なかった。
一週間ほど過ぎ連日のストップ高の株価も落ち着きを見せた頃、ひょこっとグローバルがお忍びでゴールドマンの研究所にやってくる。
ゴールドマンは財務管理で顧客の元に出向いていて不在だった。
ゴールドマンの留守に尋ねてきたグローバルは研究所の主任をオフィスまで呼び出す。
「おう、ご苦労さん。どうだ、マックス。あれは絶大な効果をもたらしただろう?」
グローバルは意味ありげな言葉を投げかける。
マックスは笑顔で「ええ。さすがにあのアイデアにはお手上げですよ」と返した。
そこにちょうどゴールドマンが帰ってきた。
そしてオフィスに向かおうと応接室の前を差し掛かったとき、気配に気づいて足を止めた。
「誰か、来てるのか?」
「ええ、グローバル様が来ておられます」
「誰と話しているんだ?」
「主任のマックスが呼ばれていましたよ」
「マックス? なんの話だろう」
レースを讃えるために来たのかと思っていたが、自分の留守に内緒で訪問しているのは気がかりだった。
ふたりだけで話しているシーンもあまり記憶にない。
ゴールドマンは聞き耳を立てるようにそっと応接室のドアに近づいて中の様子を探ろうとした。
微かにふたりの声が漏れ聞こえてくる。
「それにしてもヒトの血を混ぜるなんて」
その言葉にゴールドマンの血の気が一気に引いた。
「馬も賢いがそれだけではな。脳が進化した極上のヒトの血液とのブレンドは転換効率をかなり高めてくれる」
「それにしても人が悪いですね、グローバルさん。この配合がなければ誰も太刀打ちできるはずがありませんよ」
「そりゃ、そこまで公開するバカはいないさ。基本を教えてやっただけだ」
「それでも誰かが試しそうなものですが」
「そこに気づく奴は今回は残念ながら現れなかった。ただそれだけだよ。機会は平等だったはずだからね」
「そうですね。でも、ここまではシナリオ通りで?」
「シナリオはまだまだ続くよ。楽しみにしてなさい」
ゴールドマンは自分の知らないところでグローバルとマックスが繋がっていることがショックだった。
しかもふたりだけが知り得るシナリオがあるなんて。
ゴールドマンはゆらぐ心を抑えつけながら会話の途切れたのを見計らってドアをノックする。
すると、「お、帰ったか?」と何事もなかったかのようなグローバルの笑顔が出迎えた。
ゴールドマンは冷静を装いつつ部屋に入る。
そこにはグローバルのパートナーと見間違うほどに馴染んだマックスがいた。
「おや、マックスも?」
「あ、はい。呼ばれまして」
「おう、ワシが呼んだ。よくここまで研究したなと激励にきた」
「そう言えば、競馬場でそんなことを言っていましたね」
「少し落ち着いてきたからな。さすがに敵陣にいるところをマスコミに嗅ぎつけられると面倒だからな」
「まあ、それでも私とあなたの関係は、誰もがご存じでしょう。それに……」
「ま、こいつとの関係を知るものもおるだろうがな。それでも、レース前や直後はさすがに体裁が悪い」
「そうですね」
ゴールドマンは真相を聞きたくて仕方なかったが抑えるしかなかった。
まさか盗み聞きしていたとも言えない。
ゴールドマンは心の中で苦虫をかみつぶしながら、ふたりの微妙に他人行儀な会話にイライラが募っていった。
「それでは研究もありますので」
「おう、そうだったな。時間を取らせて悪かった。ありがとう」
「はい、ありがとうございます」
マックスは元気よくハキハキと答えて部屋を出て行く。
その後ろ姿がゴールドマンには別人のように違って見えていた。
グローバルはゴールドマンの微妙な反応からひょっとしたら聞いていたかなと勘ぐる。
でもそんなことはグローバルの想定内、知らぬ存ぜぬもおもしろいとほくそ笑んだ。
「そう言えばここ一週間、提携とかオファーとかの話が殺到していてどうしたものかと困り果てていますよ」
「どうして?」
「だって私は研究所の管理はできても研究の内容は疎いですから。変に情報を漏らしてしまう訳にもいかないからこの先どうしたらよいのかと思って」
「ああ。まあ、ほおっておけばいいさ。今は冷静なオファーなど来るはずもない。とりあえず勝ち馬に乗りたいだけの連中だから相手にしなくていい」
グローバルの冷静さはシナリオに沿っているからかと勘ぐってしまう。
だがそれを確かめる意味をグローバルは持てなかった。
「まあ、今後のことは心配しなくてもいい。今は取材やら何やらで知名度を上げる努力をすればいいさ。でも、研究所にマスコミを立ち入らせるのはナンセンスだ。それだけ守ってくれればいい」
「わかりました」
「また定期的にレースを開催するし、他の企業も少しは頭を使ってくるだろう。今はこっちの方が忙しいからな」
「まだやるんですか?」
「ふふ…射幸心を煽り続けて奴らの目を曇らせないとな」
「えっ、どういうことで?」
「そこは自分で考えろ」
グローバルはそう言うと部屋を出る。
「邪魔したな」とハットを手に挨拶をすると、そのまま振り返ることもなく去って行った。
ゴールドマンは彼の背中を見つめながら「どういう意味だろう……」と心の中で呟いた。
翌日、事件が起きた。
ワイドショーやインターネットはその話題に集中した。
まさかの展開に誰もが呆然とした。
号外の新聞が路上を埋め尽くし、熱狂に沸いた時間が嘘だったかのように静寂へと変わっていく。
路上に踏みしめられた一枚の号外には「ジョセフ・ゴールドマン、謎の自殺」と書かれていた。
そして、その記事の隅っこに小さく「研究員、謎の死」と書かれ靴底で踏みにじられていた。
その日からゴールドマンの研究所の株価は瞬く間の勢いで下落を続けた。
神妙な表情に凍り付いたグローバルの会見の様子はその年のどんなニュースよりもメディアを賑わせた。
研究所の株価下落のニュースは事件の風化とともに忘れ去られていく。
無言を貫いていたグローバルはその後競馬からの撤退を宣言する。
それでも一事業となりつつあったギャンブルを世間は捨てない。
敏感な野心家が事業の買い取りを打診するとグローバルは言い値でレースの主催権利を売り払った。
そして、グローバルとゴールドマンが不在の鉄馬競馬はひっそりと続けられた。
季節は変わり冷気のしみる冬のある日、グローバルはひとりの男と暖炉のある別荘にいた。
男はアゴ髭をたくしあげパイプの煙を泳がせている。
グローバルも同じように椅子を揺らしながらまるで余暇を楽しむように笑顔でその男と話していた。
「優秀な脳を持つ遺伝子情報を混ぜることでエネルギー効率が格段に上がるとは……。まさしく悪魔の一手と言えるな、グローバル」
「いえいえ、そんなたいそうなことでもありませんよ。パワーやスピードの情報を処理する要素に知能が必要でしたから。まあ、そこがこの発明の核ですがね。血液が電気信号を増幅させる媒体になるという技術はさほど難しいものではありません。倫理的に受け入れられるかどうかは別にしてね」
「それでもうまくやったじゃないか」
「そうでしょ。我ながらと思いました。でもきちんと扉を閉めないと。これはパンドラの箱を開けたようなものですから」
「そうだな。終わらせ方も見事だ」
「ありがとうございます」
「ところで、あのふたりは本当はどうなっておるんだ?」
「聞きたいですか?」
「怖い顔をするなよ」
「まあ、気が向けばあの研究所の地下に潜るといいでしょう。そのときは案内しますよ。優秀な脳が生み出す血液の培養工場に。まあ、覚悟がおありなら、ね」
グローバルはそう言うと紅茶の香りを楽しんだ。
彼は少し冷めた紅茶を一気に飲み干して立ち上がった。
そしておもむろに大理石に飾られた馬の剥製を撫でた。
プレートにはワールドウインド号の刻印が記されている。
在りし日の勇姿そのままに。
感慨深げに頬を寄せたあと、奇妙な口元を歪ませてほくそ笑んだ。
(完)
アナウンサーの声が場内に響きわたる。
興奮を隠し切れない震えた声が、雑踏と歓声の隙間を縫うように走っていた。
照明がきらびやかに空間を彩る大きなドーム型の競技場。
場内のいたるところから歓声が沸き起こり、観衆の視線の先には芝と砂地のトラックコースがあった。
その一角に鉄格子のゲートがある。
そして、その地点にふたつの鉄製の馬らしきものがいた。
そうここは競馬場なのだ。
富裕層が血眼になって性能を競い合い、その余興に市民が富を賭ける。
その構図は数世紀前からの遊びであったが、22世紀の蹄音が聞こえそうな時代に入っても滅びることはなかった。
ただし、たった一点の違いを除いて。
それは、生き物の馬が走るのではなく、機械の馬が走るようになっていたことだ。
最初にそれが開発されるきっかけとなった出来事は2025年の夏だ。
衰退する競馬界に突如名馬が誕生した。
名はワールドウインドと言う。
アメリカ生まれのその馬は、主場であるアメリカの競馬を席巻し、欧州でもその名を轟かせた。
8戦無敗で人気もパフォーマンスもピークを迎える。
種牡馬入りも決まり、高額なシンジケートが組まれた。
そして、最後のお披露目とばかりに9戦目を地元の競馬場で行うことになった。
悲劇はそのときに起きた。
レースは引き立て役ばかりで、回ってくるだけのパフォーマンス。
種牡馬入りを見据えてケガのないようにと配慮された調教が裏目に出る。
パフォーマンスと言えども、馬は本能で真剣に走る。
レースに向かう体ではなかったワールドウインドは、最終コーナーでバランスを崩し、転倒した。
前脚の粉砕骨折の診断、そして予後不良。
観客の目の前で安楽死処分となった。
当時の獣医学では1本の脚の故障ですら程度によっては救えなかった。
強い馬を作り、脈々と継がれてきた血脈。
その脆くて繊細で、そして宝石のような脚。
その夢は儚く、紡いできた血脈は途絶えることになった。
馬主の資産家はパフォーマンスを強いたことを悔いた。
その後、強烈な後悔はある思想を生み出す。
それは馬を走らせず、それでいて優秀な遺伝子を残していくことだった。
当時のマスコミは狂気の暴走と罵ったが、資産家はその実現に労力を惜しまなかった。
馬の血液を培養し、濃縮して、その血を燃料に機械の馬を動かせないかと考えた。
血液同士の配合も試してみたが、よりエネルギーへの転換率が高い血は実際の馬を配合させることが近道だった。
そして研究から20年の時を経てそれは完成した。
レースをする為に規格を統一し、その為に有志を募って団体を設立する。
有志には技術提供もした。
濃縮された血のエネルギーへの転換率が競争の核になり、それらは新たなブラッドスポーツと呼ばれた。
競争は研鑽を産み、5年後にはレースが行われるようにまで向上した。
そして夢への扉が今日開かれる。
今夜この場所で行われるのは、そんな戦いの末に生み出された2頭によるマッチレースなのである。
名だたる名馬たちの後継として、まさに血のみが戦う。
血液からエネルギーへの転換という技術は革新的で、その活用に向けてひそかに別の研究も進む。
このレースの結末はひとつの研究の成果として、血液からエネルギーへの転換率の優劣を決める。
それはとても名誉なことだった。
勝ち馬の血は今や競走馬としての価値だけでなく、あらゆる機械の動力源としての優位性を持つ可能性を秘めているのである。
勝負はトラックを一周するだけの単純なものだ。
優劣への決め手は決められた血量におけるパワー、スピードへの転換率、そしてその持続力だった。
一周回れないなどもっての他で、機械馬同士のぶつかりあいに負けないパワー。
そして、最終的にはスピードが優先される。
果たして、試験管一本にしか満たない馬の血は、どのような結末をもたらすのか。
そして、英国のブックメーカーはその頂上決戦を莫大な投資で宣伝する。
全世界を注目させるためにギャンブルとしてのステージを作った。
このレースは全世界に生中継され、視聴は各テレビ局のみならずインターネットでのライヴ観戦も可能となっている。
賭け金も莫大な金額になり、未曾有の史上最大規模のギャンブルと言われた。
単純に賭博を楽しむものから、人生を賭ける丁半博打に挑むものまでいる。
また研究を重ね、このステージにまで昇り詰めた会社の株は連日のストップ高を更新した。
富めるものたちのギャンブルはブックメーカーの掌中を越え、経済をも巻き込んでいく。
アナウンサーの興奮がスタジアムに伝わる頃、メインビジョンにひとりの男が映し出された。
台座のマイクスタンドの前に恰幅の良い男がひとり立っていた。
「ここにお越しの皆様、そして、この中継をご覧になっている皆様」
場内に響くその声は静寂を連れてくる。
「私はかのワールドウインドの馬主マイケル・グローバルです」
その言葉に怒号のような地響きが鳴った。
「私はあのとき過ちを犯しました。自らの下らない見栄のために、無駄に命をこの世から捨ててしまった」
グローバルは声を震わせマイクをギュッと握りしめる。
「だが、私の発明はその悲しみを乗り越える為だけではなく、新たな世界の扉も開いてくれました!」
「うおおおっ!」
観衆は力強いグローバルの声に歓声を上げる。
声とともに地鳴りのような足踏みが伝播して芝生に土煙が舞った。
「今宵、これまでのいくつもの戦いを勝ち抜いてきた馬たちが、その血が優秀であることを証明をいたします。存分にお楽しみくだされ!」
グローバルはそう言うと、観衆に手を振って台座から降りた。
メインビジョンはVTRに切り替わり、2頭のこれまでの戦いぶりを振り返っていく。
前哨戦のVTRが流れ、勝利の瞬間が映し出されるたび、その強さに観衆はどよめいた。
疲労を感じさせることのない怒号は永遠に続く叫びのようだ。
グローバルの馬はワールドウインドセカンドと名付けられた。
彼は漆黒の馬装を身にまとい、その下に鋼鉄のボディを光らせている。
その光は絶対的な強さを誇示する貫禄に満ちたものだった。
ワールドウインドセカンドがここまでに歩んだ道が順風そのもの。
この馬の生み出すパワーは他馬を寄せ付けない圧倒的なものだった。
これまでに五戦を戦って影を踏んだ馬すらもいない。
対する馬はグローバルの親友ジョセフ・ゴールドマンの所有だった。
ふたりの関係はグローバルの金融屋時代に遡る。
彼は新興の企業を掘り当てて資金援助をしながら株式で儲ける手腕で、その情報収集能力は抜群だった。
その会社を影で支えた財務のスペシャリストがゴールドマンだった。
グローバルが研究をはじめたときゴールドマンだけは反対しなかった。
研究を手伝うことはなかったがグローバルの挑戦を暖かく見守ってきた。
グローバルはその恩義を感じて団体設立のとき彼に真っ先に声をかけた。
ゴールドマンは「畑違いだよ」と首を横に振る。
それでも「趣味としてもつ事業としては夢があるだろう」と口説き落とした。
グローバルの研究所の若い研究員を何人か出向させて新しい会社を作らせた。
彼は競争がなければ進歩も発展もないと考えていたからである。
そして後発のゴールドマンの研究所はグローバルに追いつけ追い越せと努力し同じステージに立つところまできた。
研究員たちは胸をなで下ろしながらも勝つことがグローバルへの恩返しだと言う。
ゴールドマンが磨き上げてきたその馬の名はディアフロンティア。
紺の馬装に身を包み、その下に黄金色に輝く合金のボディがまばゆい。
ディアフロンティアはその憧れにも似たビジュアルでファンの圧倒的な支持を得ていた。
ワールドウインドセカンドの圧倒的な力とは違ってスピードと機動力に重きを置いたボディ。
そして、スピードに優れたサラブレッドの血の配合を極めたエネルギー転換効率が武器だった。
「ミスターグローバル」
「おお、ゴールドマン。いよいよだな」
「ええ、ここまで来るのにずいぶんと時間がかかりました」
「そうだな。でも、あの日があるから…」
目頭が熱くなりグローバルは声を震わせる。
ゴールドマンも事件を思い出しながらその後の歩みを振り返っていた。
「でも、こんな舞台であなたと戦うことになるとは思いもしませんでしたよ」
「そうか? ワシはお前がこの舞台まで来てくれて嬉しくてたまらない。お前に託した研究者たちの努力にも頭が下がるよ」
「いえいえ、とんでもない。もとはあなたの会社の研究者。それでも、分社化したときは捨てられたと思ったかもしれませんが…」
「そうだよ。それで腐るかもしれんと思っていたから。彼らを支えたお前の力量も研究に劣らず素晴らしい」
「そんな……、ありがたいお言葉です」
二人はメインスタンドの来賓席でワインを片手に談笑している。
ふたりは今まさに時の人だった。
おそらくはどちらが勝っても負けてもそれぞれの研究にケチがつくことはあるまい。
だがどちらが強いのかという論争は人々を魅了する。
「それにしても、ブックメーカーも大胆なイベントを組んだものです。登録料制にしたのも良いアイデアです。たった100ドルの登録で勝てば億万長者になることだってできる。大したものです」
「そうだな。企画を打診はしたが、その策でひと財産を築きよった。うまい作戦だよ。これにも頭が下がる」
「でも、しっかりブックメーカーの株仕込んでたじゃないですか」
「これこれ、その話はシークレットだよ」
グローバルはウインクをしながら口の前で人差し指を立てる。
ゴールドマンは苦笑しながらもグローバルの商売上手を讃えていた。
「でも、これからもっとスゴいことが起こるぞ」
「と言いますと」
「考えてもみろ。血液から電力エネルギーへの転換だよ。世界が変わるよ。これまでは化石燃料の時代だったが、それを遙かに凌ぐ技術だ。馬が生きている限り、莫大なエネルギー利権が生まれる。草を食べて育つ馬の血から様々なものが生み出されるのだから」
「そうですね。馬に限らずですが、研究が進めば血液の特性に合わせた使用方法が生まれてきますね」
「そうだよ。そして、ゆくゆくは……、おっと……」
グローバルは気分良く話していたが親友と言えども聞かせたくない話があるようだ。
とっさに口をつぐんで「ほれ、もうすぐ始まる」とスタートゲートを指さした。
ゴールドマンは怪訝な表情を浮かべながらグローバルの言葉の続きを詮索していた。
高々とファンファーレが鳴り響く。
地元の著名な交響楽団が呼ばれその音色がドームに響きわたった。
スタート間近になり両馬の馬装が解かれ、黄金と銀の美しい馬体が照明に照らされると一層大きな歓声が響きわたった。
騎手が馬の中に乗り込むと、観客はそれを見つめながら言葉を胸の奥にしまいこんでゲートに近づいていくのを見守った。
無音のターフはまるで絵画のような美しさを放っている。
このときばかりは実況のアナウンサーも言葉を失っていた。
「し……、失礼しました……。さて、ゲートに誘導されて、今! 入りました。間もなく……」
取り乱したアナウンサーの声が響きわたる中、ガチャン!という大きな機械音が轟く。
「ス……スタートしました!」
両馬一斉にゲートを出て大きなストライドでターフを踏みしめていく。
グローバルもゴールドマンも来賓席から身を乗り出して食い入るように眼下を見つめた。
スタートは互角だったが、軽量に施されたディアフロンティアの馬体が頭ひとつ抜け出し、瞬く間に半馬身近くのリードを見せる。
そして最初のコーナーに差し掛かる頃には5馬身ほど突き放していた。
ワイルドウインドセカンドはそれを見るかたちで虎視眈々と追走している。
コーナーを1秒ほどの遅れで通過した後バックストレッチに入ると加速が増す。
銀色の手足が長く伸びるように大きなストライドでどんどんとディアフロンティアを追いつめていった。
勝負どころの第三コーナーに近づくと、ワイルドウインドセカンドはもう前を行くディアフロンティアの尻尾に噛み付けるほどの距離にいた。
それでもコーナーリングの機動性で再びディアフロンティアがリードを広げ直線コースに入ってくる。
最終コーナーを曲がって直線500メートルのスタミナ勝負。
突き放すディアフロンティアを外からぐんぐんと追いつめるワイルドウインドセカンド。
その差がみるみると縮まり、熱狂は擦り合う馬体の金属音を掻き消した。
そして馬体を並べたところがゴールだった。
きらめく黄金と銀が合わさるようにゴール板を過ぎていく。
観衆は無言になって羨望を手向ける。
どこからともなく賞賛の拍手が聞こえるとあっという間に場内を包み込んだ。
「どっちかな?」
グローバルはメインビジョンのスロー再生をじっと見つめている。
「どうでしょう? 神のみぞ知るというほどのわずかな差でしかありません」
ゴールドマンは冷静に答えるがいつの間にか握り拳に力が入っていたようだ。
緊張が解けるとすぐさまポケットからハンカチを取り出して汗を拭っている。
「珍しいじゃないか。お前が興奮するなんて」
「いやはや、お恥ずかしい限りで」
「まあ、勝負がついてしまうのは残念だが、優劣以上によいものを見せてくれた。こんな勝負ができるほど研究を重ねてくれたスタッフにも礼を言いたいな」
グローバルは写真判定の結果も見ずに来賓席のソファに座り込む。
ゴールドマンも倣うように隣に座った。
「この結果に世間はどう反応するでしょう」
ゴールドマンが興味深く尋ねると「それは市場が判断し、マスコミが踊り出すだろう。勝敗に重きを置く結果にはならんだろうがね」と答えた。
「それはどういう意味です?」
「ともに長所を存分に見せたし、どちらが勝ったかを気にするのは大枚をはたいた連中だけだ。このレースの本当の目的を知るものにとってはただの展示会だからな」
「えっ?」
ゴールドマンにはグローバルの意図もこのレースの背景も理解できなかった。
「ふふ……、盟友と言えども教えられぬこともあるよ。ふふふ……」
不適なグローバルの笑みにゴールドマンは戦慄を覚えた。
そう初めて会ったときの商売に対する嗅覚、洞察力の凄み、そして未来を知っているかのような想像力。
若き日のグローバルを重ねて見る。
「まあ、この先の未来をしっかりと見ておくといい。ワシが何に投資し何の目的でこの団体を設立したのか。わかる奴はもうとっくに動いているよ」
グローバルはそう言い残すと立ち上がった。
すると黒服の男が深々とお辞儀をして近づき「ミスターグローバル、おめでとうございます。貴殿の馬が一着となりました」と耳打ちをした。
ゴールドマンが眼下のターフを眺めると、そこには勝利したワールドウインドセカンドが観衆に向けてターフをゆっくりと走っていた。
騎手が馬の中から出てきて観客に手を振ると、一斉に怒号のような歓声がこだました。
グローバルは歓声の渦の中、足早に来賓席を去った。
「どちらへ?」
「ふふ……、表彰台でみんなに挨拶をせねば」
「ああ、なるほど。では、私も」
「お前の馬は負けたではないか」
「でも、先ほどどちらも賞賛されるって言ってたじゃないですか」
「おや、そうじゃったかな。でもそれは賭博の外の話だぞ。勇気があるならついてくるがいい」
「今は逃げるが勝ちですかね?」
「ここはひとまず、それが賢明だろうね」
グローバルはニヤリと白い歯をこぼすとそのまま赤い絨毯の廊下へと消えていく。
ゴールドマンは深々と礼をすると、足早に荷物をまとめて裏口へと向かった。
地下の駐車場から特別な地下道を抜けて外に出ると、そのままリムジンは無人のハイウェイへと抜けて行った。
ゴールドマンがリムジンの車載テレビをつけると、そこには観衆に手を振ってトロフィーを両手で掲げているグローバルの姿が映っていた。
翌日からグローバルとゴールドマンの研究所の株価はストップ高の記録を塗り替えるようにぐんぐんと上昇し続ける。
それと同時に様々な企業から提携や納入の申し込みが相次ぐ。
ゴールドマンは研究についてはグローバルから聞かされていたがその後の展開については一切知らなかった。
分社化した後は研究者に発破を掛けて志気を高め、よい研究をするようにとだけ言われていたことを思い出す。
「私は一応研究所の代表者にはなっているが今後の展開となるとさすがに困るぞ」
ゴールドマンはふとグローバルの言葉を思い出しながら追われるオファーに対応せざるを得なかった。
一週間ほど過ぎ連日のストップ高の株価も落ち着きを見せた頃、ひょこっとグローバルがお忍びでゴールドマンの研究所にやってくる。
ゴールドマンは財務管理で顧客の元に出向いていて不在だった。
ゴールドマンの留守に尋ねてきたグローバルは研究所の主任をオフィスまで呼び出す。
「おう、ご苦労さん。どうだ、マックス。あれは絶大な効果をもたらしただろう?」
グローバルは意味ありげな言葉を投げかける。
マックスは笑顔で「ええ。さすがにあのアイデアにはお手上げですよ」と返した。
そこにちょうどゴールドマンが帰ってきた。
そしてオフィスに向かおうと応接室の前を差し掛かったとき、気配に気づいて足を止めた。
「誰か、来てるのか?」
「ええ、グローバル様が来ておられます」
「誰と話しているんだ?」
「主任のマックスが呼ばれていましたよ」
「マックス? なんの話だろう」
レースを讃えるために来たのかと思っていたが、自分の留守に内緒で訪問しているのは気がかりだった。
ふたりだけで話しているシーンもあまり記憶にない。
ゴールドマンは聞き耳を立てるようにそっと応接室のドアに近づいて中の様子を探ろうとした。
微かにふたりの声が漏れ聞こえてくる。
「それにしてもヒトの血を混ぜるなんて」
その言葉にゴールドマンの血の気が一気に引いた。
「馬も賢いがそれだけではな。脳が進化した極上のヒトの血液とのブレンドは転換効率をかなり高めてくれる」
「それにしても人が悪いですね、グローバルさん。この配合がなければ誰も太刀打ちできるはずがありませんよ」
「そりゃ、そこまで公開するバカはいないさ。基本を教えてやっただけだ」
「それでも誰かが試しそうなものですが」
「そこに気づく奴は今回は残念ながら現れなかった。ただそれだけだよ。機会は平等だったはずだからね」
「そうですね。でも、ここまではシナリオ通りで?」
「シナリオはまだまだ続くよ。楽しみにしてなさい」
ゴールドマンは自分の知らないところでグローバルとマックスが繋がっていることがショックだった。
しかもふたりだけが知り得るシナリオがあるなんて。
ゴールドマンはゆらぐ心を抑えつけながら会話の途切れたのを見計らってドアをノックする。
すると、「お、帰ったか?」と何事もなかったかのようなグローバルの笑顔が出迎えた。
ゴールドマンは冷静を装いつつ部屋に入る。
そこにはグローバルのパートナーと見間違うほどに馴染んだマックスがいた。
「おや、マックスも?」
「あ、はい。呼ばれまして」
「おう、ワシが呼んだ。よくここまで研究したなと激励にきた」
「そう言えば、競馬場でそんなことを言っていましたね」
「少し落ち着いてきたからな。さすがに敵陣にいるところをマスコミに嗅ぎつけられると面倒だからな」
「まあ、それでも私とあなたの関係は、誰もがご存じでしょう。それに……」
「ま、こいつとの関係を知るものもおるだろうがな。それでも、レース前や直後はさすがに体裁が悪い」
「そうですね」
ゴールドマンは真相を聞きたくて仕方なかったが抑えるしかなかった。
まさか盗み聞きしていたとも言えない。
ゴールドマンは心の中で苦虫をかみつぶしながら、ふたりの微妙に他人行儀な会話にイライラが募っていった。
「それでは研究もありますので」
「おう、そうだったな。時間を取らせて悪かった。ありがとう」
「はい、ありがとうございます」
マックスは元気よくハキハキと答えて部屋を出て行く。
その後ろ姿がゴールドマンには別人のように違って見えていた。
グローバルはゴールドマンの微妙な反応からひょっとしたら聞いていたかなと勘ぐる。
でもそんなことはグローバルの想定内、知らぬ存ぜぬもおもしろいとほくそ笑んだ。
「そう言えばここ一週間、提携とかオファーとかの話が殺到していてどうしたものかと困り果てていますよ」
「どうして?」
「だって私は研究所の管理はできても研究の内容は疎いですから。変に情報を漏らしてしまう訳にもいかないからこの先どうしたらよいのかと思って」
「ああ。まあ、ほおっておけばいいさ。今は冷静なオファーなど来るはずもない。とりあえず勝ち馬に乗りたいだけの連中だから相手にしなくていい」
グローバルの冷静さはシナリオに沿っているからかと勘ぐってしまう。
だがそれを確かめる意味をグローバルは持てなかった。
「まあ、今後のことは心配しなくてもいい。今は取材やら何やらで知名度を上げる努力をすればいいさ。でも、研究所にマスコミを立ち入らせるのはナンセンスだ。それだけ守ってくれればいい」
「わかりました」
「また定期的にレースを開催するし、他の企業も少しは頭を使ってくるだろう。今はこっちの方が忙しいからな」
「まだやるんですか?」
「ふふ…射幸心を煽り続けて奴らの目を曇らせないとな」
「えっ、どういうことで?」
「そこは自分で考えろ」
グローバルはそう言うと部屋を出る。
「邪魔したな」とハットを手に挨拶をすると、そのまま振り返ることもなく去って行った。
ゴールドマンは彼の背中を見つめながら「どういう意味だろう……」と心の中で呟いた。
翌日、事件が起きた。
ワイドショーやインターネットはその話題に集中した。
まさかの展開に誰もが呆然とした。
号外の新聞が路上を埋め尽くし、熱狂に沸いた時間が嘘だったかのように静寂へと変わっていく。
路上に踏みしめられた一枚の号外には「ジョセフ・ゴールドマン、謎の自殺」と書かれていた。
そして、その記事の隅っこに小さく「研究員、謎の死」と書かれ靴底で踏みにじられていた。
その日からゴールドマンの研究所の株価は瞬く間の勢いで下落を続けた。
神妙な表情に凍り付いたグローバルの会見の様子はその年のどんなニュースよりもメディアを賑わせた。
研究所の株価下落のニュースは事件の風化とともに忘れ去られていく。
無言を貫いていたグローバルはその後競馬からの撤退を宣言する。
それでも一事業となりつつあったギャンブルを世間は捨てない。
敏感な野心家が事業の買い取りを打診するとグローバルは言い値でレースの主催権利を売り払った。
そして、グローバルとゴールドマンが不在の鉄馬競馬はひっそりと続けられた。
季節は変わり冷気のしみる冬のある日、グローバルはひとりの男と暖炉のある別荘にいた。
男はアゴ髭をたくしあげパイプの煙を泳がせている。
グローバルも同じように椅子を揺らしながらまるで余暇を楽しむように笑顔でその男と話していた。
「優秀な脳を持つ遺伝子情報を混ぜることでエネルギー効率が格段に上がるとは……。まさしく悪魔の一手と言えるな、グローバル」
「いえいえ、そんなたいそうなことでもありませんよ。パワーやスピードの情報を処理する要素に知能が必要でしたから。まあ、そこがこの発明の核ですがね。血液が電気信号を増幅させる媒体になるという技術はさほど難しいものではありません。倫理的に受け入れられるかどうかは別にしてね」
「それでもうまくやったじゃないか」
「そうでしょ。我ながらと思いました。でもきちんと扉を閉めないと。これはパンドラの箱を開けたようなものですから」
「そうだな。終わらせ方も見事だ」
「ありがとうございます」
「ところで、あのふたりは本当はどうなっておるんだ?」
「聞きたいですか?」
「怖い顔をするなよ」
「まあ、気が向けばあの研究所の地下に潜るといいでしょう。そのときは案内しますよ。優秀な脳が生み出す血液の培養工場に。まあ、覚悟がおありなら、ね」
グローバルはそう言うと紅茶の香りを楽しんだ。
彼は少し冷めた紅茶を一気に飲み干して立ち上がった。
そしておもむろに大理石に飾られた馬の剥製を撫でた。
プレートにはワールドウインド号の刻印が記されている。
在りし日の勇姿そのままに。
感慨深げに頬を寄せたあと、奇妙な口元を歪ませてほくそ笑んだ。
(完)