第1話

文字数 1,957文字

 俺は祖父に憧れていた。
 仕事をしながらも趣味を全力で楽しむ祖父はいつも人生が楽しそうだった。
 
 ごくごく平凡な家庭でごくごく平凡に生まれ育った俺は、将来の夢もなく平凡な日々を過ごしてきた。
 
 英語はそこそこ得意だから、公立中学のやる気のない先生の授業くらいでは躓かない。
 洋楽をよく聴く祖父と一緒に覚えて歌ったり、意味を知りたくて勉強した経験が活きていると思う。イギリスの有名推理小説や魔法使いの少年の物語なんかも原書で読んだ。
 英語の持つリズムや響きは結構好きだ。
 祖父がよく言っていた、「好きこそものの上手なれ」を実践しているのである。
 
 祖父は趣味でジャズをやっていた。上手か下手かはよくわからなかったが、サークルに所属して仲間たちと定期的に近所の喫茶店で演奏を披露していた。
 そんな祖父がやっていた楽器はウッドベースだ。エレキベースではなく、ヴァイオリンよりもヴィオラよりもチェロよりも大きい弦楽器、コントラバスのことである。
 指で弦を弾き低音をリズミカルに奏でる祖父は、とても格好良かった。
 無駄遣いや贅沢にあまり関心のない祖父だったが、自家用車は結構大きなワゴンだった。
 曰く、「ばあちゃんと一緒に乗るだけだったら軽で十分なんだけど、楽器を積めないとね」とのことだった。
 近所の琴教室の先生と友達だからと、琴教室の発表会の時には楽器の運搬を手伝っていたりもしたそうで、琴の先生は俺に会うたびに「おじいちゃんには本当感謝してるのよ」と高そうなお菓子をくれた。
 まあ、そんなワゴンは当然軽自動車よりも広くて座り心地がいいと、祖父母は車でよく旅行に行ってとても楽しそうだった。
 
 ウッドベースの音は、文字にすると、ボンボン、ブンブン、ダンダン、辺りになるだろうか。全然格好良さが伝わらないだろうが、生演奏だと音の波動と言うか圧と言うか、なかなか大人っぽくて色っぽい音色の楽器だ。弓で弾くとまた違った優雅な音が出るから不思議に思う。
 去年の夏休みに両親と喫茶店に聴きに行った時には、バンドメンバー全員が浴衣を着ていた思い出がある。
 中学校の吹奏楽部や合唱部の定期演奏会も、夏の発表会にはみんな浴衣に着替えて演奏していたりした。
 いい大人になっても考えることは同じなのだな、としみじみ思った。
 祖父は普段一切和服を着ないし持ってもいないそうで、演奏会の前日に「次のライブの衣装、浴衣なんだけどどうしよう」と祖母に相談して「もっと早く言いなさい! あなたは不出来な小学生なの!?」と怒られたらしい。急いで、ちょっと離れたところにある大きなショッピングモールに行って、一番安い浴衣を見繕って事なきを得たそうだ。
 演奏会前に家族で挨拶に行ったら、祖父も仲間たちも浴衣に大苦戦した跡が見える着こなしをしていた。だから、着付け教室に通う俺の母が「お直ししましょうか?」と行って全員を格好良く着せた。初めて母を尊敬した瞬間だった。
 演奏会では、格好良く浴衣を着こなすオジサマたちによる格好良いジャズが堪能できて、母は大満足だったみたいだが、祖父の息子である父は「知っている曲がなくてつまらなかったなあ」とか言って母に背中を叩かれていた。
 
 祖父は、なかなか有名なメーカーに務めて、誰の家庭にもあるような商品の開発もしたそうだ。
 退職した後も、会社の人が祖父の意見を求めに来たり、お歳暮とお年賀とかをたくさんもらっていた。祖母は「お返しが大変なのよ」と言いながらも、そんな祖父を誇らしく思っているようでもあった。
 そんな、人々の生活に足跡を残した祖父を俺は幼少から尊敬している。
 
 だけど、祖母が脳梗塞で倒れてそのまま亡くなって、葬儀を終えてすぐに、祖父は、心臓発作で帰らぬ人となった。
 
 祖父母の子供は五人いたが、父以外は誰も祖父母の葬儀も来なかった。疎遠だったとかではなく、たまたま四人とも海外に赴任していて急には来られなかったからだ。
 葬儀やお墓の手続きなんかは全部父が行って、見事に喪主を勤め上げた。
 そんな父は、いつもぼんやりしている父とは違ってちょっと格好良かった。
 遺品は、「好きな物をもらっていいよ」と父と父のきょうだいたちに言われたから、俺は祖父のウッドベースと楽譜とレコードと低音の響きがいいレコードプレーヤーをもらった。
 
 祖父は俺によく語り引きをしてくれた。
 俺が産まれる遥か前の曲で、ビリーバンバンという二人兄弟デュオの「さよならをするために」がお気に入りだった。
 俺は頑張って弟さんパートを覚えて祖父とデュオしたりして、俺も大好きな曲になった。
 
「父さん母さん、俺、高校に入ったら吹奏楽部でウッドベースやるから」
 
 近隣の吹奏楽部で有名な高校を目指すために勉強しつつ、ウッドベースを練習を始めた。
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