第3話  その美酒は

文字数 2,103文字

 トモヤは玄関のドアを開け、手に提げていたビニール袋をテーブルの上に放るとそのままベッドに身を沈めた。
 
 トモヤの部屋は手狭なワンルーム。玄関を入ったらすぐに一口コンロがついたキッチンがあり、その奥にテーブル、テレビ、ベッドがあるだけだ。そんな部屋でも、彼にとっては立派な城である。都会で働きはじめの若者が駅の近くで部屋を借りようとすれば必然的にこういった部屋になってくる。
 
 気持ちとしてはこのまま眠りについてしまいたかったが、お腹が空いて眠れない。とりあえずベッドにうつぶせたままテーブルの上の袋に手を突っ込み、まさぐる。
 部屋が狭いとこういうとき便利である。ベッドから降りずとも生活の大体のことは解決する。

「とりあえず一杯」
 
 自分へのご褒美を含めたビールを一本を取り出した。

「それと・・・」
 
 袋の中にあるはずの酒のアテ。やかましい女店主がやっているへんてこなたこ焼き屋で買ったイカ焼き。

「・・・・・、」
 
 がさがさという音がだんだんと激しく、荒々しくなる。自分がたてたそのノイズがさらにいらだちを加速させる。
 
 人間、期待が大きいほどそれを裏切られた時の落ち込みも多い。
 
 トモヤの手がやがて止まり、力なく垂れた。

「なんでやぁ・・・、おかしいやんかぁ。イカ焼き入れたよな、あんなの落とすわけないし」
 
 ・・・・・・
 
 ・・・!

 トモヤは顔をうずめていた枕から顔を上げ、体を起こしてベッドに座った。
 
 缶ビールのプルタブを開け、その中身を体に注いでいく。キレのあるのど越しを感じ、目がはじけるような爽快感を感じる。

「くぅ~!!」
 
 思わず唸る。

「お疲れさま俺!よくやった俺!」
 
 自分でも驚くほど大きな声が出た。思わず正面にあるテレビに映った自分の顔を見た。
 
 自分で引き受けたこととはいえ、過酷な連続100日間の業務をやり切った自分を誇らしく思った。そして同時に大切にしたいとも思った。

「お前はNOと言える日本人になれ!周りにいい顔すんな!わがままになれ!もう一回100連勤なんてやってみろ、絶対に死ぬ!」

「あれだけの仕事をやりきったお前はすごいよ!でもな、元はといえばお前がビビりでお人好しだからだ。断ったら嫌われる、評価が下がる、仕事がもらえなくなる、そんで自分が辛い思いをすれば他がうまく回るなんてこと考えてるからいけねぇんだ!」

「明日一日過ぎればまた会社に行かなくちゃいけない。明日一日でお前は変われるか?いや、変わらなくてもいい。ただ決めろ」


「お前はどうしたいんだ、何がしたいんだ」


「俺はどうすればいいんだ、何をすればいいんだ」

 
 気が付けば、大きな鏡の前に立っていた。それどころかそこは自分の部屋ですらなかった。部屋とも言えないただ広い四角い箱。油絵の具を塗りたくったようなおどろおどろしい壁。
 
 目の前にある鏡の中はなぜか霞んで見えない。
 
 
 静かに手を伸ばし、鏡面に触れる。水面のように波紋を描きながら、霞が晴れる。

「あんちゃん一人でよくあんなに喋れんなぁ。漫談でもやったらいいんじゃない?大阪で過ごしたアタシが言うんだ間違いない。それか私と―」

「なんでお前・・・!それにどうやってこの部屋に!」

 鏡には先ほどイカ焼きを買ったたこ焼き屋の女店主が映っていた。

「お前とは随分な言いぐさだね。アタシがあんたに何か悪いことでもしたかい?それともあたしが鏡に映っちゃ都合でも悪いのか??」
 
 女店主は笑った。ただし、お店での豪快な笑い飛ばしとは違う。鋭い眼光を外すことは無い。
 
 トモヤはあまりのストレスで自分がおかしくなってしまったのだと思った。大声でテレビに映った自分をほめたたえ、叱責し、励まし、かと思えば実はそれはテレビではなくて大きな鏡で、自分の部屋だと思っていた場所は気味の悪い四角い箱で―
 
 酔っぱらったにしてはおかしすぎる。今起こっていることは現実だと認識しているのに、自分自身が起こしていることだと認識しているのに、そこに自分の意思は介在していないような、変な浮遊感のようなものを感じる。ただ流され、漂っているかのような―


「無視すんなよなぁ」
 

 突然、鏡の中から女店主が手を伸ばしてきた。もちろん鏡に映っているものがこちら側に出てくることなんてありえない。
 
 女店主は伸ばした手でトモヤの肩をつかみ、そのまま小さい柵でもまたぐかのように鏡から出てきてしまった。
 
 トモヤは体がこわばり、呼吸が浅くなるのを感じた。
 
 女店主はトモヤ肩に腕を回し、ゆっくりと体を密着させ、肩に頭を沈める。公園で喋りまくって、馬鹿笑いをしながらたこ焼きを売っていたものと同一人物とは思えない、艶まかしい雰囲気をまとっている。
 
 トモヤの目の前には映したものに出ていかれ、その主を失った鏡が現れた。
 
 鏡は本来の役割を果たしており、そこに向かったものを正確に鏡映ししていた。

 
 たこ焼き屋の女店主に抱き着かれている自分と、恐怖により情けなくこわばり、浅い呼吸を繰り返す自分の顔、―その後ろに佇む無機質な瞳でこちらを見つめ、その手に大きな斧を持った全身真っ白な化け物。


「見えた??」
 
 


 

 

 
 
 



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