第一話

文字数 1,940文字

「週末何してるの?」
「ドラゴンと戦ってる」

 姉は真顔でそう答えた。Aさんは、返事に詰まった。日々この調子である。本人は冗談を言っているつもりもなく、至って本気だ。だから余計に怖かった。

 Aさんは時計をチラと見上げた。面会時間はあと一分程度。ガラス越しに見る三ヶ月ぶりの姉の姿は、元気そうで何よりだった。隔離病棟の塀の中での暮らしで、身体は少し痩せたのかもしれないが、言動のぶっ飛び具合に比べれば些細なことだ。

「じゃあお姉ちゃん、私もう行くね。また会いに来るから」
「次はちゃんと毒苺を持ってきてくれよ。奴らには有効なんだ。先週の黒曜石のかけら、アレは役に立たなかったからな」
「うん」

 真剣な眼差しの姉にAさんは苦笑いで答えた。特別病棟には窓がなく、昼間なのに夜中のように暗い。建物全体に、どんよりと重たい空気が漂っていた。そそくさと病院の外に出る。新鮮な空気を思いっきり吸い込み、Aさんは胸をなで下ろした。やっと解放された、それが今の正直な感想だった。


 姉の空想癖が、やがて誇大妄想となり暴走し始めたのが三年前。


 幼い頃から妄想に浸る傾向はあった。Aさんの姉は、中学の時ある日突然「竜にビルが破壊された」だの「月からドラゴンの炎が降ってくる」だの、彼女にしか見えない怪物と戦いだしたのだった。

 それだけならただ単に「痛い子」で済んだだろう。だが姉はその日から台所から包丁を持ち出し道端で暴れまわったり、屋上で一人パンチやキックを繰り返していた。子供の頃なら可愛いものだ。だが大人になり、その行動は、次第に冗談では済まないようなレベルにまで達してしまった。当然そんな姿は周りにも目に付くし、両親も対処せざるを得ず、やむなく姉を精神病院に連れて行った。

 結局医者にさえ彼女を「治療」することは叶わず、姉はそのまま隔離され、鉄格子のついた部屋の中で暮らすことになったのだった。何しろ昼夜問わず突然架空の怪物相手に暴れだすのだから、誰にも手に負えない。結局姉の病名は分からず終いで、「妄想癖」の延長で片付けられた。どちらにせよ、到底元の生活には戻れないだろう……というのが医者や両親、そしてAさん自身の見解だった。虚空を見つめているならまだ理解もできる。彼女の表情は真剣そのものなのだ。それが余計にAさんの胸をうすら寒くさせた。

 病院の外で、Aさんは四角い空を見上げた。
 隔離病棟は、その外側をさらに灰色の塀でぐるりと囲まれている。まるで刑務所の塀のようだ、とAさんはいつも思っていた。姉は決して悪いことをしたわけではないのに。

「Aさん」
「先生……」

 Aさんが声をかけられ入口の方を振り返ると、白衣を着た若い男がこちらに走ってきた。姉の担当の精神科医だ。数年前からずっとお世話になっている。主治医はAさんの下に駆け寄ってくると、息も絶え絶え、興奮したように語りだした。

「お伝えしたいことが……お姉さんの病名が分かったんです!」
「え……本当ですか!?」

 Aさんは驚いた。これまでは妄想癖ぐらいにしか捉えられていなかった姉の症状が、ついに解明されたのだ。もしかしたらこれで、姉の治療にも繋がるかもしれない。

「お聞きしてもいいですか? 姉は一体どんな病を……」
「飛蚊症です」
「飛蚊症?」

 飛蚊症……。私は一瞬ぽかんと口を開けた。聞いたことはある。視界に黒い虫みたいな点が見えるという。主治医は頷いた。

「ええ。要するに『飛竜症』とでも言うのか……。眼球内に異常が見つかりました。お姉さんは蚊の代わりに、瞳の中に竜が見えているんです」
「それは……」

 Aさんは言葉に詰まった。何とも幻想的な話だが、つまり姉は頭がおかしくなった訳ではなかった。彼女は本当に竜が目の前に見えていて、それと戦っていたのだ。良かった。Aさんは胸にこみ上げてくるものを感じながら、急いで主治医に尋ねた。

「……治るんですか?」
「ええ、もちろん。病名がはっきりすれば、対策は可の……」

 主治医が言い終わらないうちに、突然彼の上半身が引きちぎられ、残った下半身がドサリと地面に倒れ込んだ。彼の血飛沫を全身に浴びながら、Aさんは呆然と突っ立って、それを見ていた。一体何が起きたのか、さっぱり分からない。間髪容れず爆音がして、Aさんは飛び上がって音のする方へと顔を上げた。

 巨大な影が、Aさんを、病院全体を覆うように空を遮っている。灰色の塀が、脆くも崩れ去っていた。

 Aさんは目を見開いた。目の前にあるものが、信じられなかった。

 咆哮が辺りに轟いた。崩れた塀の上で翼を広げていたのは、見たこともないほど巨大な……竜の姿だった。
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