断罪

文字数 5,268文字

 わたしが会いに行った時、(すばる)はもう病院にいた。『霊安室』という場所が病院に本当にあることを知って、背筋がぞっとする。
 それが怖さから来る寒気なのか、そこの温度を低く設定しているからなのかわからなかった。
『霊安室』は静かな地下のさみしい場所にあった。もうこの人は死んじゃってると言わんばかりに、お線香と菊の花が備えられていた。一本だけのお線香の煙が、ゆらゆら揺れながら上がっていく。
 わかったのは昴の目は二度と開きそうにないことと、顔をきれいにしてもらえたらしいことだ。
 わたしのせいじゃないのに、昴の短い人生の中のいろんな小さいことに後悔を感じる。あの時、ああしてあげていれば、こうしておけば。どこかで見逃した小さな選択のせいで、昴は帰らない人になった。
 帰らない。
 もう帰ってこない。

 ⚫ ⚫ ⚫

 今朝はわたしの方が支度が早かった。
 同じ高校に行くと言っても、姉弟で同じ電車に乗るとは限らない。
 学校に少し早く行って、英文の読解をミキちゃんに見てもらう約束だった。わたしのための約束なのに遅刻するわけにはいかない。
 わたしは遅刻しないために遅刻ギリギリ一本前の電車を選んだ。

 家を出た時、昴は余裕でネクタイを巻いていた。わたしがバタバタしてるとちらりと鏡からこっちに目線を移して「乙女、今日、早く行くんだ?」と言った。その言い方もまた呑気だった。
「ミキに英語見せてもらう約束なの」
「英語なら教えられるのに」
「年下のくせに生意気言うな。いってきます」
 わたしは右手を振った。覚えてる。キョトンとした顔で昴が右手を軽く振ったのを。昴は英語が小さい時から得意だった。確かに昴に見てもらえばよかったかもと思いながら靴を履いた。
 それからは急いでいつも通り自転車を漕いで電車に飛び乗った。通学時間の電車は混んでいる。わたしたちはお互いの大きなリュックでぎゅうぎゅうになる。
 ドサドサっと吐き出されるように、同じ制服の生徒たちが吐き出される。ようやく詰まった空気から解放される。
「ごめーん、乙女」
 向こうのホームからミキがあわてて走ってくる。わたしが見せてもらうんだし、もちろん怒ってたりしない。
「おはよう。朝から走ったから前髪はねてるよ」
「嘘ッ! やだ、直したい。……昴くん、今日同じ電車?」
「ううん、昴はギリギリだよ。ミキは昴に近づくためにわたしと仲良くしてるんだもんね」
 わざといやらしい言い方をしてミキの反応を楽しむ。違うよ、と思った通り、ミキは顔を赤らめた。
 そうなんだ、ミキはわたしの一つ下の

、昴に恋している。昴は少しのんびりしてるけどいい男だ。動作の一つ一つが様になる、嫌な男だ。
 もしも血が繋がっていたら……わたしも素敵な女子高生だったかもしれない。昴によく似た。
 でもそれはない。
 わたしたちは血の繋がらない姉弟だから。
 駅の放送がダイヤの乱れを知らせる。
 わたしたちには関係ない。あとは学校に向かうだけだ。

 ⚫ ⚫ ⚫

 急いで学校に行った甲斐はなかった。
 学校に近づくと周りの生徒たちは電車の遅延の話で持ち切りだった。
 後ろからアサミが来て、「『遅延証明書』はうちの学校の子はいりませーん、だって。なんか、上りで事故があったみたいよ」
「あー、電気系統の? わりと多いよね」
「毎日乗ってるから遅延も慣れたもんだよねぇ」
 なんて笑っていた。
 そう言えば、なにか忘れている。遅延……上りの電車……。
瀧本(たきもと)さん!」
 担任のまだ若い平山先生が足をもつれさせるようにして教室に入ってきた。「センセー、大丈夫?」と男子が笑う。
「瀧本さん! とりあえずカバン持って帰る準備して」
 訳もわからず言われるままにする。ミキちゃんが不安そうな顔でわたしを見る。よくわからないので笑顔を作る。
「準備できた?」
 それが日常の終わりだった。わたしの変わらない毎日はそこで終わった。
 次に覚えてるのは病院だ。わたしは冷たい人間だ。涙が出ることを忘れてしまった。
 代わりに声が出た。
「なんで? なんで昴、こんなんなってんの? だってさっきまで一緒で、電車を一本ずらしただけなのに」

 ⚫ ⚫ ⚫

 昴は最期まで素晴らしい人間だった。神様に愛される人間は早く天国に行くってやつ、それが昴だ。
 昴と一緒にいた友だちが言うには、ホームに電車が入るアナウンスを聞いたという。なんとなく並んで、冗談を言い合っていた。
 すると、誰かにたまたま押されたのか、すぐ隣の女の子がバランスを崩して重そうなリュックに引っ張られるように後ろに倒れようとしていた。昴は、ほかの人たちが「あ」と思った瞬間にもう腕を伸ばしていたという。
 ホームに落ちそうになった彼女はうちの制服の子で、昴は迷わず手を出した。その子を引っ張り上げた反動で、昴はホーム下に落ちた。
 落ちた場所は良かった。轢かれずに済むところだったから。でも打ちどころが悪かった。
 死に顔が綺麗だったことも、『不幸中の幸い』と呼ぶんだろうか?

 ⚫ ⚫ ⚫

 お葬式には知らない人も知ってる人もたくさん来た。うちの制服の子もたくさん。
 みんながわたしを気遣い、なにか言葉をかけていった。
 泣いている女の子もいた。ああ、昴が好きだったんだな、と虚ろな頭で考えた。
 ミキもアサミも泣いていた。わたしの手を握りしめて、「待ってるからね」と何度も繰り返した。
 そしてそっと、その女の子は現れた。彼女はおどおどと、所在なげにしていた。眉が薄くて、自信の無い顔をしていた。学校でも目立たないタイプの子だ。
 そうして小さい声で「すみませんでした」と言った。
 は?
 昴の尊い命は「すみません」で(あがな)うことができるの? 昴が全力をかけて守ったのは、特にあなただったからじゃない。本当にたまたまだ。
 偶然の事故。だからと言って「すみません」で済むの?
 気がつくとわたしは穴が開くほど異様に彼女を見つめていた。それまでは彼女をできれば見たくないと思っていたのに、その時は本気で睨んでいた。許さない、という行き場のない思いが膨らんだ。

 ⚫ ⚫ ⚫

「乙女さ、土曜日どこか出かける?」
「うちにいるよ」
「そっか」
 どこか照れた顔をして弟はわたしの向かいに座った。いつもと違う。
「あのさ、父さんも母さんもその日はうちにいるんだって」
「それで? みんなでたまには出かけるとか? わたし、ホテルのビュッフェがいいなぁ。ローフトビーフ食べられるとこ」
 昴はわたしから視線を逸らした。なにか言いたさそうで、言葉が出ないようだった。
 彼は普段から物静かだった。黄葉した銀杏の並木道に佇んでいるような。
 そんな時はこっちから言葉を引き出してあげないといけない。なにを言いたいのかな、とうーんと考える。でもその間に昴が先に言葉を落とした。
「乙女とのことを許してもらう」
 だらっとソファにもたれかかっていたわたしは顔を真っ直ぐに上げた。
「本気? ねえ、まだ早いって、たぶん」
「だって黙ってられないよ。僕は嘘つきのままだ。家族じゃないのに家族にしてもらって、おまけに乙女を自分のものにしようなんてさ。ひどい裏切りだよ」
 ソファにお行儀よく座り直して、昴の目を見た。
「血が繋がらないんだから問題ないよ」
「そういうことじゃないよ。育ててもらった恩を」
「やめて。そういうのは無いと思う。他人行儀な方がよっぽどお父さんたち、傷つくと思う」
 立ち上がって昴の隣の席に腰を下ろした。
「ねえ、わたしがどこかの馬の骨と一緒になるより、お父さんたちにはいいと思うんだけど」
「それはどうかな? 乙女はかわいがられてるし素敵な男性を連れて来るのをきっと待ってるよ」
「そんなものいない」
「乙女、学校で目立ってるの知らないの? みんなに聞かれる。『彼氏いるの?』って」
 わたしは横に座った昴を指さして「彼氏」と言った。昴は「ふざけるなよ」と俯いてしまったので、わたしは昴の手をぎゅっと握った。驚いて顔を上げた昴はそれまでの緊張が解けたのか、わたしの手を握りしめた。
 こんな毎日を過ごしていて姉弟なんて関係ない。わたしたちはまだ高校生で子供かもしれないけど、それでも自分が本気かどうかの判断はつく。わたしの心を彼は埋めようとして、わたしは彼の心を埋めようと努めた。
 姉弟の境はとっくに越えた。
 昴のやわらかい真っ直ぐな前髪が顔にかかる。窓から差し込む光のせいで、それは金色に近い色で輝いた。

 ⚫ ⚫ ⚫

 土曜日は来なかった。

 明日、来るはずだった

土曜日は永遠に失われてしまった。
 姉弟という縁を一度解いて、男として、女として改めて縁を結ぶはずだったその日。
 その日にわたしの昴は冷たい体をドライアイスでさらに冷たくひやして、棺に入れられていた。苦しそうでも、微笑んでるようにも見えないその顔は、本当はなにを考えていたのかまるでわからない。
 もしも土曜日が来たら――昴は本当にわたしたちのことを両親に打ち明けたんだろうか?
 考えるのはもうやめよう。
 だって『もしも』は永遠に失われてしまったから。心の中にぽっかり、穴が空いた。
 誰も知らない、わたしたちだけの恋は、業火に焼かれて大気に溶けていった。

 ⚫ ⚫ ⚫

 初七日は学校は公休扱いで、ミキもアサミも気遣ってくれて一日一回、それぞれLINEをくれた。
「元気?」とは書いてなかった。「がんばれ」とも「忘れよう」とも。それがどれくらいありがたいことだったのか、後で二人に会ったら伝えたい。
 でもそれとは別のところでわたしの頭の中にこびりついて離れないものがあった。そう、あの子。
 あの子はもういつも通り、学校に登校しているという。「そうなんだ。それならよかった。昴も喜ぶと思うよ」
 あの子が奪った昴の登校。友だち。授業。放課後。すべて、すべて。
「いいんだよ、別に」なんて決して許せるはずがない。だって、わたしにとって昴は唯一無二の人間(ひと)だったんだから。

 ⚫ ⚫ ⚫

 それからわたしは何度も何度も同じことを思った。
 ベッドの中で脱力して暗い天井を見つめながら、同じことを思う。授業中、板書が取り切れないくらいそのことばかり思う。ホームに立つと……その時ばかりはなぜか昴の笑顔を思い出す。
「そんな顔してちゃダメだよ」って、なんでもない顔を眩しく、鮮やかに思い出す。涙が、幾粒も幾粒も嘘みたいにあふれてきて、電車に乗れない日ばかりになった。
 気がつくと学校まで、お父さんが車で送ってくれるようになっていた。

 ⚫ ⚫ ⚫

 今日はホームに足がしっかりついている。お父さんもお母さんも、電車で登校すると言ったわたしを止めた。途中で具合が悪くなると心配してくれたのはわかっていたけれど、わたしには今日しかなかった。約束していたミキとは電車に遅れたふりをして一本ずらした。

 金曜日。
 あの子がホームから落ちそうになった日。
 昴がいつも電車に乗ったのはこの位置。左側を見ると、当たり前のようにあの子がいた。
 友だちに囲まれて、なにかを聞いてなにかを話していた。
 ほんの数週間で『いのち』に関わった一大事をさらっと流せるようになるの? ひとはそんなに簡単にできてるものなの?
 鼓動が速くなる。
 あの子だけ、昴の元へ行かせるものか。
 手に汗をかく。深呼吸する。大丈夫、緊張すると誰でもそうなる。
 思い出す。
 昴の笑顔。人懐こかった幼い時、お互い気まずかったちょっとした反抗期。二人の気持ちが自然と吸い寄せられるように繋がったほんの数ヶ月前。
「好きなんだ」と言われた時の、冗談とは思えなかった真剣な瞳。年下のくせにわたしを守ろうとするやさしい眼差し。
 いっぱい、いっぱい、走馬灯のようではなかったけど思い出があふれ出て止まらない。
 作ろう、昴と同じ場所に行ってこれからの思い出を。それともわたしだけ地獄に行くのかな? それならそれでもいい。『断罪』は果たされるから。
 ――一番線、〇〇行き列車が。
 あの日にも流れたに違いないアナウンスが流れて、思ったより自然にすっと体が動いた。この右手を伸ばせば、あのリュックに手が。

 ⚫ ⚫ ⚫

「乙女さんッ!」
 後ろからガシッと羽交い締めにされて、ズルズルと引きずられる。何事かと思ううちに電車はあの子を乗せて走り出してしまった。
 行ってしまう、昴も――。
「乙女さん、やめましょう、そういうのは。昴が傷つくと思う」
「だって……昴はもういないじゃない」
「よく聞いてください。言ったら重荷になるんじゃないかと思って黙ってました。あの時、アイツ、あの子のカバンに手を伸ばしながら叫んだんです。『乙女!』って――」

 ホームに、ぺたりと座り込んだわたしを、彼はベンチに連れて行ってくれた。
「全部聞いてます。知ってます。アイツ、勘違いしたんです、乙女さんと。アイツよりあの子に近いひとはいたのに、背格好が遠目に似てただけで」

 心臓を突き破りそうな大きな声が、どこからか止まることなく飛び出した。
 そう言えばあの子の髪の長さは、わたしと同じ肩下だった。

(了)

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