日陰のライラック

文字数 9,714文字

「『あなたが選ぶのは丸いおにぎり? それとも、三角のおにぎり?』」
田上(たがみ)が唐突に読み上げた。
「何だよこれ、変なタイトルだな」
「やたらと長いわね。略して『あなそれ』でいいんじゃない?」
「それより『丸三』のほうがいいだろ」
「センスがない。いい? 略称はセンスが問われるのよ」
「知るかよ、もう『おにおに』でいいよ」
 二〇一〇年、東京。とある平日。天候、晴れ時どき曇り。某大学演劇部の狭い部室。棚には雑誌や書籍が雑然と並べられ、床には空き缶やお菓子の袋が散乱している。机の上を埋め尽くす台本たち。どうやらこの部屋は掃除や整頓や、もっと言えば秩序や静寂といったものと無縁の場所のようだ。試しに「整理整頓」の意味を部員に聞いてみるとよい。「整理整頓? 残念、わたしの辞書にナンセンスな言葉はないの。そういう無駄な秩序を尊ぶから世の中序列が無くなんないのよ」「要はどこにあるかわかってりゃいいんだよ。ノートだってそうだろ、字のきれいさより何が書いてあってどこが大事かわかることのほうが大切だろ」「そんなことより僕の牛丼屋の割引券知りませんか」とまあこんな具合である。
 そんな愉快な部室に二人の学生が何やら難しい顔をして立っている。エアコンが壊れているのだろうか、ひどく暑そうだ。二人とも片手で必死に団扇をあおいでいる。その内の一人、田上が思い出したように言った。
「そういえば『あなたが落としたのは金の斧? それとも銀の斧?』って寓話があったな」
「イソップ物語ね」
 もう一人の学生、岡野はそう答え、昔読んだ絵本の記憶を引っ張り出そうとした。
「あれって結局どっちを落としたんだっけ」
「どっちも違ったんじゃないか。きこりが落としたのは鉄の斧で、それを正直に言ったら三本とももらいましたって話だろ」
「なるほど。正直者には福があるってわけね」
「今考えると『ところが現実の世の中はそうはいかないのです』という教訓にしか聞こえないな」
 田上は部室の隅に突っ込まれた冷蔵庫を覗いたが、中はからっぽだった。そうだった、昨日で飲み物は全部消費していたんだった、と思い出して小さく舌打ちする。岡野は何を探しているのか、机の上を引っ掻きまわしている。
「教訓ねえ。嘘と本当はうまく使い分けろってことかしら」
「お前が言うと説得力が違うよ」
「それはどうも。ところで宮内君は?」
 さっきまでいたはずの後輩の所在を尋ねる。
「昼飯買いに行ってもらった」
「この暑い中を? ひどい先輩ね、そういう上下関係はセンス悪いわよ」
「よく言うよ。お前も買ってきてもらうくせに」
「本音と建前は上手に使いこなさなきゃ」
 そう言って岡野は不敵と形容できるような笑みを浮かべた。その笑顔は演技がそれとも本心か、と聞こうとしてやめる。本当にこいつは良くも悪くも表情を作るのが巧い女だな。口にはできないが田上は改めてそう思った。
 何となく会話が途切れた。二人の思考は、数週間前から意見をぶつけ合い完全に煮詰まってしまっている問題に戻ってきている。
「やっぱり『ガラスの動物園』やろうぜ。現代風にアレンジしてさ」
 田上は何度言ったかわからない台詞を繰り返した。
「古典に乗っかればホンが崩れる心配はないし、アレンジによってオリジナル性もアピールできる」
「でも役者にとってはプレッシャーよ。下手にアレンジしてこける可能性もあるし、古典にうるさいお客さんだっているんだから。その人たちに満足してもらえるような演技をしないといけないのよ。それにオリジナル性って言ったって、これからの日数を考えると誰かの解釈に寄り掛かるほかないじゃない」
「でも今から脚本をあげられるような逸材は、残念ながらうちにはいない」
「だから何回も言ってるでしょ、過去にやったオリジナル脚本の中から選んで再演しようって」
「なんかいまいちなんだよなあ」
 二人は揃って溜め息をついた。このやりとりをどれだけ繰り返したことだろう。もしここに後輩の宮内がいれば、「何でそんなに古典やうちのオリジナルにこだわるんですか。現代日本にだっていい脚本沢山あるじゃないですか。『犬とサボテン』とか」と、これまた何度聞いたかわからない主張が挟まれることになる。
「どうすんだよ、学園祭までもう時間がないんだ」
 そう、彼らは学園祭の公演で使う台本選びに頭を悩ませているのである。部長兼演出の田上と看板女優の岡野に、舞台監督の宮内。彼らが顔を合わせれば、この問題を避けることは不可能である。彼らは追い込まれている。机の上に積まれた台本の山を掻き分け掻き分け「これだ」と思うような作品を探しているのだがなかなか見つからない。それならこうしようああしようと意見を出し合うものの、意見を言っている本人自身、心の中では「もう少し良い何かがあるはずだ」という直感のような思いを抱いており、しかもその直感を信じているものだから話し合いもまとまらない。普段から物の散らかっている部室には今、迫り来る学園祭への焦りや迷いに、学生ならではの間延びした情熱と底なしのエネルギー、さらにはまるで根拠のないのに捨てられない自信といったものまでがごちゃごちゃと散乱し、夏の暑さと入り混じって、ついに整理整頓の四文字を空間から抹消してしまっている。
 岡野がぐったりと疲れた様子で椅子に腰を下ろした。
「それで、その台本はどこから見つけてきたの」
「ああ、これか。台本の山に埋まってた」
 田上は手に持っていた台本を机の上に置いた。『あなたが選ぶのは丸いおにぎり? それとも、三角のおにぎり?』という長いタイトルが横書きで記されている。
「二〇〇二年のみたいね。どんな内容?」
「一人芝居らしい。芝居というよりは演説に近いけど」
 岡野はその台本を手に取ってぱらぱらとめくってみた。几帳面に敷き詰められた文字が目に飛び込んで来る。
「へえ、誰が書いたんだろうね」
「OBの誰かだろ。確かこの辺に公演を撮ったDVDもあったはずだ」
 田上は入り口に近い棚の下の段をごそごそと探し始めた。特産みかんと書かれたダンボールを引っ張り出し、中をあさる。
「おかしいな、どこいったんだ」
「見つかんないの?」
「ああ。この間見たはずなんだけど」
 田上がなおもダンボールの中をごそごそしていると、部室のドアがバタンと開いた。その反動で棚の前に積まれていた雑誌が見事な雪崩を起こした。
「おお、すまん」
 軽く頭を下げつつ入ってきたのは、座付き作家の碓井である。長身だが、痩せているせいか狭い部室に入ってきても空間を圧迫しない。俯き加減でいるのでどうにも心許なく見える。その細い目が一瞬不安げに揺れた。
「あら、碓井ちゃんじゃない、どうしたの」
「どうしたの、じゃねえよ、ホンは決まったのか」
「それが驚くことにまだなんですねえ。まったく、お前が書いてくれたらこんなに苦労しないのによ」
「はいはい、根性も才能もないお抱え脚本家ですみませんね」
 碓井も演劇部に入った当初は脚本を書いていたのだが、出す度に田上と岡野にこてんぱんにやられるのでトラウマになってしまい、もともと腺病質だったこともあって最近ではほとんど二人の台本選びに任せきりになっていた。
「ところで左近さん見てない?」碓井が聞いた。
「え、左近さん大学に来てるの?」
「劇団ガンマの第三回公演が終わったから遊びに来るって言ってたんだけど」
「本当かよ、俺も会いたいな」
「わたしも。ねえ、見つかったらわたしたちも呼んでよ」
「わかった。左近さんと合流したら連絡するよ」
「よろしく」
 碓井は部室を出て行った。
「左近さん元気かしら。ガンマも結構やりくりが大変だって聞いたけど」
「元気に決まってるだろ、あの人がしょげてるところなんて全然想像できねえよ」
 左近は、田上や岡野を始め部員たちをたたきあげた先代の部長だ。今は社会人の劇団に所属している。実にエネルギッシュな人物で、学生時代には部員を数多くの演劇公演に引っぱっていき、とにかく劇を観ろ、技を盗め、とはっぱをかけ続けていた。部では脚本から演出、役者までを担当し、その技には確かに「才能」と言うほかないような何かがあった。左近の一言で部員の演技がずっと良くなる。ライトや音響と舞台の息がぴったり合い、見せ場がしっかりと盛り上がる。
 彼が演出した舞台はぐっと引き締まっていたし、実際、客の受けも良いことに部員全員が気がついていた。
 そんな左近のことを二人は今も尊敬している。
「左近さんと碓井ちゃん、仲良いよね」
「なんだよ、焼きもちか」
「そんなんじゃないけど」
「確かに碓井は気に入られてたな。もともと違う劇団希望だったあいつを引き込んだのは、左近さんだからな」
 田上はダンボールから出した本やポスターを中へしまい、暑さを思い出したように団扇を手に取った。
 団扇をあおぐぱたりぱたりという音が部室に響く。
「俺さ、実は碓井の書いたやつ、結構好きだったりするんだよな」
 田上がぼそりとつぶやいた。
「あれだけぼろくそ言っておいて?」
「岡野も相当きついこと言ってるだろ」
「だって碓井ちゃんがびくびくしてるとこ見るの面白いんだもん」
「うわ、嫌な奴。とにかく俺が厳しいことを言うのは、あいつの話はもっと面白くなると確信しているからなんだよ」
「ああ、わかるかも」
 岡野があっさりと肯定したので、田上は少し意外に思った。
「わたしも碓井ちゃんの脚本は好きよ。ロマンチストなのに現実主義で、熱いくせに妙に醒めてて、ちょっとブラックユーモアがあって。台詞もウィットに富んでるし、クライマックスで演出に一工夫入れてくるあたりも良い。でも」
「でも?」
 岡野は珍しく逡巡する様子を見せた。
「えーと。そうね、何ていうか、惜しいのよね。終わり方が曖昧でいまいちすっきりしないでしょ?」
「だけど、左近さんはその観客に委ねるところがいいって言ってたよな。お客さんのアンケートでも評価されてたし」
「碓井ちゃんがそうしたくてしてるなら、わたしも賛成するんだけどね」
「ってことはそうじゃないってこと?」
「何だか違う気がするのよ。どう言ったらいいんだろ、碓井ちゃんの場合、最後まで走れるのにゴール目前でふっと逃げてしまうというか、本当はごまかしたくないのにうやむやにしちゃってる感じがするというか。そのせいで緻密に組み立ててた部分も崩れちゃうんじゃないのかな。矛盾も出てくるし」
 田上は密かに舌を巻いた。うーん、さすが岡野。いちいち指摘が的を射ている。こいつに追い詰められたら俺でも逃げ出すかも。田上は自分も追い詰めていたことを一瞬忘れて、碓井のことを気の毒に思った。
「最後まで逃げずに書ききって欲しいわけよ、わたくしとしましては」
「俺もはぐらかさない方が良いとは思うけど。繊細な碓井クンには辛いことかもしんないな」
「だから鍛えるんでしょーが」
「もうちょっと優しくしてやろうぜ。お前がおっそろしい顔でにらみきかせたら蛇でも逃げるって」
「なんたる失礼な。演技よ、演技。あ、ねえ、これじゃない?」
 岡野が先ほど崩れた雑誌の山をもう一度組み立てていると、雑誌と雑誌の間から「おにぎり(略)」と書かれたDVDが出てきた。
「それそれ、そこにあったのか」
「せっかくだし見てみようか」
 岡野は窓辺に設置されたデッキにDVDを入れ、再生ボタンを押した。
 もはや録画再生のための器具と化した箱型テレビにぱっと映像が映る。
 二人はぐっと身を乗り出して画面に見入った。



 舞台中央に一脚の椅子が置かれている。その背もたれに右手を載せて、ひょろりとした男が一人、後ろ向きに立っている。
 男にライトが当たる。
 観客に振り向き両手を上げると、男がおもむろによく通る声で話し始めた。


男:今ここに、二つのおにぎりがあるとしましょう。一つは丸いおにぎり、もう一つは三角のおにぎりです。みなさまにお尋ねしましょう。
 さあ、どちらかを選んでくださいと言われたら、どっちを手に取りますか。

 問いかけるような間。男、観客を見渡す。

男:たとえばコンビニに行くとおにぎりが沢山売られていますよね。いろいろな具があって。ええ、まあ、時間帯によって差はありますけどね。いつだったか、青い看板のコンビニに行ったときにですね、おにぎりが二十個ほど並べられていたのですが、具が全部ツナマヨだったことがありました。確か夜の八時くらいだったんですが、あの品揃えは面白かったですね。迷う必要がないですからね。
 失礼しました、そんなことはどうでもいいんです。
 みなさんは何の具がお好きですか。鮭、おかか、ツナマヨ、梅、昆布、他にもいろいろありますよね。何を買おうか迷ってしまいます。
 そうそう、早朝にコンビニに買いに来るトラックの運転手さん。おにぎりを選ぶのがものすごく速いですよね。目にも留まらない速さでぱっと一つか二つ取ってレジへ直行です。あれはすごい。
 え? どうでもいいって? そうですね、またどうでもいいことを話してしまったみたいで、ええ、気にしないでください。
 さてさて、ちょっと聞いてみましょうか。丸と三角、どちらを選ぶか。お値段は一緒、ご飯の量も一緒、具も同じ、なんならツナマヨにしましょうか。
 さあ、どちらにしますか?
 丸いおにぎりだという方、手を上げてください。

男、観客に問いかける。手を上げてもらう間を取る。

男:はい、下ろしてください。そこのあなた、そうです、あなたです、今手を上げていましたよね? どうして丸を選んだのですか? なんとなく? そうですか、ではお隣のあなたはどうして? 食べやすそうだから、ふむふむ、なるほど。
 では三角だという方は? はい、ありがとうございました。すみません、そこの奥さん、はいそうです、どうして三角を? 気分で? ええ、わかりますよ、三角な気分ね。そちらの方は? おにぎりらしいから? おお、それは面白い意見ですね。
 ご協力ありがとうございました。手を上げていない方もいらっしゃいますね。それはなぜでしょう。
 一番前のあなた、良かったら理由を教えて頂けませんか?
 具が気に入らない? 俺はおかか一筋だ? そうですよね、ツナマヨだけじゃあねえ、他のが食べたかったらどうしたらいいんでしょうねえ。
 あ、今手を上げてくださった方は? 
 量が足りない? もっと大きくするか値段を安くしろと。難しい注文ですね、コンビニにも都合がありますから。
 両方欲しいんだけどどうしたらいいか? ああいいですね、貪欲に生きるのは大切なことです。
 こういう質問をすると、たまにこんなことを言う子どもがいるんですよ。星型のおにぎりはないのって聞くような子どもが。ハート型でも真四角でもなんでもいいんですけどね、星型はないの? って無邪気に聞くような子どもがいるんですよ。私はああいう時に、ああ、歳を取ったなあと感じるんです。
 これは余談なんですが、あの、魚の絵を描いてくださいと言うと、大体の人は左に顔があって右に尻尾がくるように描くって聞いたことないですか? 普段見る魚の絵は大抵左向きだから、無意識にそのイメージが出てくるらしいんですね。そういえばたい焼きだって左向きが多いですもんね。私の古い知り合いが絵本作家をしているんですが、その彼があるとき講演会を開きまして。その講演を聞きに来てくれたお客さんに「魚の絵を描いてください」というお願いをしたらしいんですね。そこでもやっぱり左向きの魚が圧倒的に多くて。でも中には右向きの魚を描く人もいたんですよ。そして、彼も意表を突かれたそうなんですが、お客さんの中にね、魚の正面を描いたお子さんがいたんです。魚の正面を。見る者に魚の顔をまっすぐ向けて。いやあ、素敵ですねえ、そして怖いですねえ、その発想、その若さ。私だったら間違いなく左向きに描きますからね。それが良くないことなのか、それとも幸せなことなのか、私にはわかりません。
 ただ、彼からこの話を聞いたとき、私は何かひどく大切なものを失くしてしまったような、そんな気持ちになったものです。
 ああ、すみません、またどうでもいいような話をしてしまいました。
 何の話をしていたんでしたっけ。おにぎり。そうです、おにぎりの話です。どのおにぎりを選ぶか。コンビニに買いに行ったら決めなきゃいけないんですね。いつまでも佇んでいたら店員さんに迷惑ですから。自分の胃袋にも迷惑ですし。
 お昼に何を食べるか。コンビニまでどうやって行くか。今日どこに居て何をするか。人生は決断と選択の連続です。取るに足らないような選択も、人生を決めるような決断も、すべてが地続きになって今をつくっている。そしてそれらは残念ながらやり直すことはできないわけです。いやあ、怖いですねえ。
 丸か三角か、なんて問題だけではない。私たちに求められる選択のほとんどは、目の前にお米を置かれて、さあ何か作ってみろ、とそんなものばっかりですからね。お米の生産地から自分で探さなきゃいけないことだって多い。
 え? 何をつくってもいいのかって? そうです、何をつくってもいいんですよ、普通のおにぎりじゃなくて焼きおにぎりでもいいし、チャーハンでもカレーライスでも。
 何をつくったらいいかわからない? そうですよね、私もわかりません。いいじゃないですか、迷っていても。
 食べ物の話をしていたらどうもおなかがすいてきました。そろそろこの辺でお暇することにいたしましょう。

 男、観客に軽く一礼する。振り向き、舞台奥へ下がる。
 暗転。幕。

 

 どうやらこれでDVDの映像は終わりのようだった。
 岡野はDVDをケースにしまうと、机の上にぽんと置いた。
「この人、誰か知ってる?」
「いや、知らないな。普通に考えると俺たちとはかぶってないだろ」
「でもちょっと左近さんに似てなかった?」
「そうか? あんまりそう思わなかったけど。左近さんより背が高かったろ」
「そうね、違う人よね。わたし、一応台本も読んでみる」
 そう言って岡野は台本に目を通し始めた。読んでいるときの彼女はとても真剣だ。話しかけたら恐ろしい形相でにらみつけてくるのを知っているので、田上も大人しく特産みかんのダンボールを棚に戻すことにする。
 と、棚の奥に白い箱が押し込まれていたことに気がついた。
 あれ、何だろう。あんなの置いてあったっけ。田上は疑問に思いつつ箱を取り出して中を見た。
 うへ。田上はぎくりとする。中にぎっしり原稿用紙が入っていたからだ。
 それは脚本だった。ホチキスで綴じられた脚本の山々。作者の名は記されていなかったが、田上のよく知っている筆跡だった。
 碓井の字に違いなかった。
 碓井の奴、こんなに書き溜めてたのか。
 原稿用紙の束を見つめ、田上はしばし呆然とした。
 書いていながら出せなかった碓井の心境を慮ると、苦い感情が胸の内にふくらんだ。心の中で詫びながら原稿を取り出す。あとで岡野にも読んでもらおう、今回はお手柔らかに頼まないといかんな。
 田上が岡野の方に目を遣ると、丁度台本を読み終えたのか、彼女が台本を机の上に戻すところだった。

 田上がこっちを見ていることに気がついているのかいないのか、岡野はゆっくりと肩をまわした。ふーっと溜め息をつく。ずいぶん集中して読んでいたらしい。肩の凝りと目の疲れを感じる。
「どうだった」田上が尋ねてくる。
「うーん、いまいち。何とも言えない」
 岡野は気のない返事を返した。
「しかも観客の中にサクラが必要ね。それか完全にアドリブで乗り切るか」
 岡野は台本を掴んで本の山の中に突っ込もうとしたが、何となく違和感を覚えて手を止めた。
 何だろう。わたしは今、何が気になったんだろう。
「あ」
 もう一度表紙を見たとき、その違和感の理由に気がついた。
「どうした」
「これおかしくない?」
「何が?」
「ちょっと見てよ」
 そう言って岡野が指差した先を、田上も見る。

『二〇〇二 未公演』

 長いタイトルの下には、そっけなくそんな文字が記されていた。
「未公演ってどういうこと?」
「それは、未だ公には演じられておりません、ということだろう」
「それはわかるわよ、センスのない回答ですこと。わたしが聞いているのは何でそんなことが表紙に書かれているのかってことよ」
「何でかなんて俺にわかるわけないだろ」
 軽口をたたきつつ、表紙を前に二人は首を傾げる。
 たとえばこれが、人前で演じられていなかったとしたら。岡野はふと思い至った。さっきのDVDには観客が映っていなかった。壇上の彼以外のスタッフも。彼が一人で喋って、一人で撮って、誰にも見せていないのだとしたら。それは何を意味するのだろう。何か意図があるのかな。
 田上も自分の考えに浸っていた。未公演。未公演。つまり、さっきの映像は公演を撮ったものじゃなくて、練習かおふざけで撮ったってことになる。何で公演しなかったんだ? それともお客さんが一人も来なかったとか? まさかね。
 存在を知らない卒業生について、二人は少しだけ想像してみる。彼は役者なのだろうか、自身で筋を考えたのだろうか、ライトや音響はどうしたのか、彼の仲間はその場にいたのか。
 二人は、少しだけ考えてみる。
 演じられることのない戯曲。声に出して語られることのなかった台詞。脚本家だけが知っている言葉たち。
 繰り返し演じられ、多くの人間の口を借りて語られ、幾人もの目に堪えてきた物語。
 果たしてこれらの背負う意味に差はあるのだろうか。なるほど価値には大きな差があるだろう。でも、意味は?
「公演で使ったわけでもないのに、どうしてこんなところに置いてあるのかしら」
「さあな、置いていったんじゃないの」
「何のために」
「観て欲しかったんだろうさ、後輩の誰か、俺たちのような誰かに」
 かつて自分が時間を過ごしたこの場所で、かつての自分と同じようなことを考え、悩み、苦しんでいるような誰かに。この時間の貴重さに気がついていながらもその本当の価値をまだ知らず、他愛もない話を繰り返し、青い議論をぶつけ合い、暢気に歓談しているような、そんな後輩たちに。
 田上は台本の向こう側に、名前も知らない先輩の声を聞いた気がした。
「なあ、岡野、これ見てくれよ」
 田上は、さっき見つけたたくさんの原稿用紙を岡野に渡した。
「え、これ、碓井ちゃんの書いたやつ?」
「そう。棚の奥に隠してあった」
「もう、こんなに書いてるなら読ませてくれればいいのに」
「岡野が怖すぎて言えなかったんだって」
「悪かったわね、田上も同罪でしょ」
 二人はさっそく碓井の原稿に目を通そうと、原稿用紙の束を机の上に取り出し始めた。
 田上も岡野も廊下から近づいてくる足音に気がついていない。その足音は迷いなくこの狭苦しい部室に向かっている。
 ばたん。元気よくドアが開き、二人はきょとんとした間抜けな顔をドアへと向けた。
「遅くなってすみません、お昼買ってきましたよ」
 両手にビニール袋をぶら下げて、後輩の宮内が部室に入ってきた。大柄な宮内が加わると部室がさらに狭く感じられる。もう暑くて暑くて暑いしか言えないですよ、ところでホン決まりました? まだなんですか、どうするかそろそろ決めましょうよ、本当やばいですよ。宮内は炎天下から帰ってきたとは思えない勢いで喋りながら、田上と岡野にペットボトルのお茶を手渡した。何とか捻出した机のスペースにビニール袋を乱暴に置いて口を広げると、屈託のない笑顔を浮かべて聞いた。
「おにぎり、どれにしますか」
 田上と岡野は顔を見合わせ、互いの顔に同じ表情を見つけて苦笑した。宮内はそんな二人の様子には全く気づかずにお茶をがぶがぶと飲んでいる。 
 田上がおにぎりを一個手に取った。
 はてさて、そのおにぎりは丸いのか三角なのか、中に入っているのは何の具か――そんなことはわからない。
 彼は開封しながら二人に呼びかける。
「よっしゃ、ホン、決めようぜ」
 田上の片手には今、穏やかな確信とともに、あの見慣れた字で綴られた台本が握れていた。
 そのタイトルは、日陰のライラック。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み