中指の余韻

文字数 1,864文字

 もう、駄目だ……。
 いきなり湧き上がったその想いは、ゲリラ豪雨が起きる前の濃灰色した雲のように瞬く間に広がっていった。


 出会った頃の裕太は優しかった。男とは、いつもそういう生き物なのかもしれないけれど。
「可愛い」と言ってくれたし、あのリスのような丸い瞳で見つめられ、耳元で「愛してるよ」とささやかれると、もうダメ。
 裕太の右手、力強さよりも繊細さを感じさせる、意外と細く長い中指に肌をなぞられると、身体も心も(とろ)けていく。あんな気持ちになったことなんて……あの中指はズルい。

 不動産屋に勤めていた私は、会社のコネもあり、1DKの賃貸マンションに住んでいた。
 仕事場に近いからと言うのを理由にして、裕太が転がり込んできたのは知り合って二か月後。ずっと続くと思っていた楽しい時間は、今にして思えばほんの僅かと言えるのかもしれない。
 何かが少しずつ、そして確実に崩れ始めていった。
 店長と揉めて、仕事を辞めてしまったのがきっかけだったのか。料理を作ることが好きで、厨房見習いをしていた頃は、仕事の話も自分の店を持つ夢も楽しそうに話してくれていたのに。
 新しい仕事もなかなか見つからずイライラしていた頃、些細なことから初めて頬を叩かれた。
 痛みよりも叩かれたことが悲しくて泣き止まずにいると、そっと髪を撫でて、あの丸い眼で私を見つめ、耳元で囁いてくる。右手の中指に蕩けさせられる頃には、いつも以上に優しい裕太がいた。

 一度殴ってしまうと、次からは躊躇しなくなるのかな……。
 気に入らないことがあると、裕太はすぐに殴るようになった。
 顔に青痣が出来てしまい、翌日の出勤時にはマスクで顔を隠して行ったこともある。お金を渡すように言われた時、もっと強く怒ればよかったのかもしれない。太腿や背中を蹴られて、泣きながら財布を渡した。
 そして、いつものように泣いている私に、いつも以上に優しくしてくれる。
 魔法だと思っていた中指は、麻薬だった。


 なぜ、あの時、あんな風に思ってしまったんだろう。
 

 今となってしまっては、もうどうでもいい。
 ホームセンターのトイレで、買ったばかりの果物ナイフの包装を剥がしてバッグに入れた。
 ――やらなきゃ。やらなきゃ、抜け出せない。
 駅からの道を歩きながら、ずっと同じことを考えていた。
 ――大丈夫、出来る。腕の力を使わずに体ごと背中へぶつかっていけば……。
 いつか見た二時間ドラマのシーンを思い浮かべながら、エレベーターが五階に停まる。扉が開き、見慣れているはずのマンションの廊下がなぜか斜めに歪んで見えた。
 部屋の鍵を開ける時、裕太が出掛けていればいいのに……と一瞬思ったけれど、彼は中にいた。
「お帰り。早かったね」
 こちらを振り向かず、珍しくキッチンで何か作っている。
 料理をしている裕太の右斜め後ろに私が立っていた。

 今なら……出来る。
 バッグの中に手を伸ばし、柄を握りしめた。
 今やらなければ、抜け出せない。
 もう、こんなつらい思いはたくさんだ。
 優しかった裕太。
 きっと、また殴られる。
 あのお店のリゾット、もう一度一緒に食べたかったな。
 裕太が怖い。
 裕太のことが大好き。
 今やらなきゃ……。
 きっと一秒にも満たないくらいの時間に、たくさんの思いが一度にあふれてきた。もう一度、柄を握り直したとき、彼の右手が目に入ってきた。
 あの中指――。
「どうした? そんなところに突っ立ったままで」振り返って、裕太が言った。

 駄目だ。私には出来ない。あんなに好きだったんだもの。

 電話が掛かってきたふりをして、スマホを取り出しベランダへ出た。
 なんだか、とても疲れた。
 もう、終わりにしたい。
 手摺にもたれながら、下をのぞき込む。
 裏通りに面しているので、歩いている人もいない。
 目の前に濃灰色したアスファルトが迫って来るかのような感覚。
 もう……疲れた。
 目を閉じる。
「あっ!」
 落ちていく間は一切の音が意識から消え、スローモーションのように見えた。


 カシャーンッ!
 遠くで何かが割れたような音が聞こえた。
 再び下をのぞき込むと、スマホらしき残骸が見える。
 待ち受けにしていた、お気に入りだった裕太の笑顔。
 消す勇気がなかったけれど……。

 ちゃんと話をしよう。
 もう終わりにする、って。

 部屋に入り、窓を閉めて、裕太が料理を並べているテーブルへ向かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

私 「魔法だと思っていた中指は、麻薬だった」

裕太 「お帰り。早かったね」

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み