第1話

文字数 1,938文字

 子供時分の戦争と戦後復興の記憶などあまり思い出したくはなかったし、そもそも子供の頃の記憶なのでどこまで有益な話になるのかわからなかった。だが先輩世代は他界したし、自身も最期を迎えつつある自覚があったので、地元の公立学校の生徒を対象とした戦争の語り部の役回りを引き受けた。とはいえ、戦争と復興期の生活実態は実に醜いものだったし、当方もその内容はとても子供や社会に話せない。戦中も戦後も何とか生き抜いたが、生きるための窃盗、抜け駆け、詐欺まがいは子供の私でもやったし、大人の陰惨で力任せの暴力的な行動は今も多数脳裏に焼き付いている。聞き手の側に老いた者の過去へのステレオタイプな「悲しく貧しく、それでも正直に生きようとした」期待を抱く傾向を見て取り、こちらも彼らに調子を合わせ、語り部として伝えるべき内容は差し障りない内容で伝え、美談を作ってしまった。この世を去る前に開き直るわけではないが、ここに贖罪の意も込めて子供の頃に一人の紳士を貶めた告白譚を記しておこうと思う。
 玉音放送を皆で聞いた国民学校の制度が変わり、私は新制度の小学6年になっていたから、1948年頃だろう、町の工場の従業員らは賃上げを要求し、仕事にあぶれた共産党支持の若者らと合流し、大きなデモを繰り広げた。熱気ある市民の運動は子供にはお祭りのように見えたが、警察はえらく神経を尖らせてデモを警戒していた。戦死した父に代わり、復員して東京の私の面倒を見ていた叔父は、実家の埼玉で親戚らが作る野菜を卸していたが、私の視界にデモを入れないよう神経を尖らせていた。「警察に目をつけられたら終わりだからな」という叔父の言葉は、子供には恐怖を植え付けるに十分な響きを伴っていた。
 叔父の遣いで野菜をいくつかの得意先に届けた帰り、私はデモの人らの流れる横の屋台で蕎麦を啜ると、横にあった乾物食品の露天の店子がデモに気を取られている様を見つけ、椎茸や寒天や煙草などいくつかの乾物をさっと集金袋に入れその場を離れた。空き地で盗んだ煙草に火をつけ一服していると、一人の男が近づいてきて、集金袋の膨らみを指差して言った。
 「見たぞ小僧、俺は警察だ。お前を逮捕して刑務所に送ってもいいが、俺の言うことを聞くなら見逃してやる」
 警察の男は私をデモの見える通りに連れ出し、デモの最後部で周囲を険しく睨みながら歩く白シャツの男を指差した。
 「あの男はな、デモの先導者の一人だ。奴を尾けて、あの男が接触する人間を調べろ、子供なら警戒されないから。警察はな、デモを資金面で支える奴を見つけたいんだ。三日後にまた会いにくる」
 集金袋を家の金庫に入れると私は慌てて街に戻り、デモ隊を見つけると白シャツの男を尾けて男の自宅を確認し、張り込んだ。叔父には何も言えず、私は翌日から学校の帰りや叔父を手伝う隙を縫って男の自宅を張り込み、男の後をつけた。すると二日目のある日、男が白いシャツ姿で一軒の邸宅に入る姿を確認した。私は子供の悪戯を装い邸宅の躑躅の生垣から身を潜らせ、大きな植木の影から敷地の中の様子を伺い、庭に面した大きな窓越しに男の姿を認めた。部屋には見たこともない大きな観葉植物があって、横には木のテーブルと椅子があり、男の正面にはパイプをくゆらす和服の老紳士が座り何やら話し込んでいる。緑の観葉植物も茶色いデーブルも、紫煙の老紳士も白シャツの男も、見たこともない鮮やかで綺麗な色彩を放っていた。私はその様子にしばし見惚れ、我が身の褪せた色との違いに唖然とし、急いで生垣を潜り元の埃まみれの世界に戻ると何か不条理を感じ、勢いよく警察へと駆け出した。私は警察の男に見たままを伝えたが、満足感とか約束を果たした感覚はなく、なぜか不穏な気持ちに襲われた。家に戻ると生垣の下を潜って往復したときに躑躅の枝葉が背中に掻いたのだろうか、掻き傷が不穏な痛みを背中に加えていた。
 翌日邸宅を見に行くと、宅は警察に囲まれ、パイプを燻らせていた老紳士は警察に殴られたのだろうか、痣だらけの顔に手錠を嵌められ連行されていた。私は大きな罪を犯した感覚に襲われ、その様子を直視できず、「アカ野郎」と叫ぶ群衆の隙間からそっと様子を伺った。
 以来私は家族が望んでも観葉植物を身近に置く生活を避けてきた。煙草も吸えなくなり、結果的に健康にはよかったが、今日まで吸わずにきた。人混みの中で人の隙間から何か見ると、手錠で警察に連行される老紳士が目に浮かび、人垣や人混みも避けるように生きてきた。人は私を防空壕で生活し闇市に行き、空襲警報や玉音放送を聞いた老人と理解するが、なぜ観葉植物を嫌い、煙草を吸わず、人混みを避けるのか、誰も知らない。
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