鮭の恩返し
文字数 2,164文字
折からの眠気がピークに達しつつあった午前一時過ぎ、ふと人の気配を感じたので気配のするほうに目をやると俺のベッドの脇にオレンジ色のボディにに白字で「鮭」と書かれたTシャツに同じ色のジーンズを履いた女が立っていた。
その時俺は初めてオレンジ色のジーンズなんてものがこの世に存在することを知った。女はそんなふざけた恰好をしている割に可愛らしい顔立ちをしていた。いや、とても可愛らしい顔立ちをしていた。
肩口を優に超える長さの綺麗な髪で前髪をセンターで分けてそこからまた綺麗なおでこが覗いていてその下の目は大きくクッキリとした二重瞼でその大きな眼で睡魔に土俵際まで追い詰められている俺を見下ろしていた。
「私は今日あなたに閉店間際に買っていただいたサーモンの刺身の精です。あなたのおかげでもう少しで廃棄されるところを救われ無事食卓に並んで天寿を全うすることが出来ました。なのでその恩返しに参りました」
ふざけた恰好の美形の女は聞き取りやすい声でそうふざけたことを言った。美しい女は声まで美しかった。それにしてもサーモンの刺身の精だと?
確かに俺は今日仕事終わりに閉店間近のスーパーに立ち寄ってでかでかと「半額!」のシールが貼られていたサーモンの刺身を買い、それを食べた。だからといって今、目の前にいるのがそのサーモンの刺身の精だなんて一体誰が信じることができるだろうか。
しかし、なるほど、言われてみればそのふざけた色のセットアップはサーモンの刺身の色味とよく似ていた。本当にこの目の前にいる美形美声の女は「サーモンの刺身の精」なのかもしれない。
「恩返し?」
眠気にすっかりと押しつぶされそうになりながら俺は精一杯の気力を振り絞って尋ねた。
「そうです、私にはちょっとした魔力があってその特別な力をあなたに授けに来たのです」
一体全体どうして廃棄間際のサーモンの刺身に魔力が宿るのか全くもって謎だったがとにかく瞼が120キロのベンチプレス並みに重くなっていた俺にそんなことを聞く気力も知性もなかった。
「どんな魔力?」
「はい、二つの中から選んでいただきます」
「二つ?」
「一つはカットボールが投げられるようになる力です」
「カットボール?…野球の変化球の?」
「そうです。それもただのカットボールじゃありません。誰にも打つことの出来ない魔法のカットボールです」
「ふーん。もう一つは?」
「爪が伸びないようになります」
「爪?」
「そうです。手足の爪が今あなたが『ちょうど良いな』と思っている長さから伸びなくなります。つまり…」
「つまり?」
「これから先、あなたは一生爪を切る必要がなくなります」
言い終えるとふざけた色の服を着た美声の若い女は満足そうにうなずきこちらを見つめてくる。
「ということで私はあなたに今言った二つの力のうちのどちらかを授けにきました。ではお選びください」
俺はベッドに横になったまま腕を組んで考える。女のふざけた話を聞いているウチに眠気はどこかにいってしまったようで頭は冴えていた。改めて女の提案してきた二つの能力について吟味する。
まずはカットボール。誰も打つことの出来ないカットボール。それ自体は非常に魅力的な響きを持つ単語(俺は20年来の野球好きだ)だったが俺はもう30歳を過ぎたしがない会社員だし野球経験は少年野球まで遡らなければいけないし最後にグローブをはめた記憶は大学時代のソフトボールの授業まで遡らなければいけなかった。そんな俺が今更誰も打つことの出来ないカットボールを投げられるようになったからといって何になるのだろう。
よし、カットボールはなしだ。
次にもう一つ、手足の爪が伸びなくなることについても俺は考える。それは非常に魅力的な提案のように思えた。俺にとって爪を切ること、否が応にも定期的に訪れるその時間は割に面倒くさい時間だった。その時間がこれからの人生でなくなるということは非常に有意義なことのように思えた。
よし、こっちにするか。
俺はベッドから上半身だけ起こして微動だにせず立ち尽くす女の方を向く。そして言葉を発しようとしたとき俄 に尿意を感じて言葉を発するのを止めた。
そしてもう一度考える。お前は本当にこの先一度も爪を切る必要がなくなって大丈夫なのか、と。
いつも俺は自分の爪を切る時に何を考えているのかということに思いを巡らせる。例えばそれは3時間前に送られてきた大学の先輩からの気の進まない飲み会の誘いのLINEの断り方だったりその日に持ち上げるであろうベンチプレスの重量設定だったりとまあろくでもないことに変わりはなかった。
だが俺は気付く。俺の人生においてそういう時間は意外と重要なのではないだろうか?
ということは爪が伸びなくなるのもなしか。
どちらか選べと言われたがどちらも選ばない、という回答は許されるのだろうか。そうする場合何か特別な手続きがいるのだろうか。尋ねようと女に向かって口を開こうとした時、ダムが決壊するような尿意が俺を襲った。
そこで俺は目が覚めた。時刻は午前3時過ぎを指していた。
部屋のどこにもふざけた色の服を着た女はいなかった。俺はカットボールの投げ方も分からないし手足の爪もいささか伸びすぎているようだった。
でもこれで良い
俺はベッドから起きてトイレに向かった。
その時俺は初めてオレンジ色のジーンズなんてものがこの世に存在することを知った。女はそんなふざけた恰好をしている割に可愛らしい顔立ちをしていた。いや、とても可愛らしい顔立ちをしていた。
肩口を優に超える長さの綺麗な髪で前髪をセンターで分けてそこからまた綺麗なおでこが覗いていてその下の目は大きくクッキリとした二重瞼でその大きな眼で睡魔に土俵際まで追い詰められている俺を見下ろしていた。
「私は今日あなたに閉店間際に買っていただいたサーモンの刺身の精です。あなたのおかげでもう少しで廃棄されるところを救われ無事食卓に並んで天寿を全うすることが出来ました。なのでその恩返しに参りました」
ふざけた恰好の美形の女は聞き取りやすい声でそうふざけたことを言った。美しい女は声まで美しかった。それにしてもサーモンの刺身の精だと?
確かに俺は今日仕事終わりに閉店間近のスーパーに立ち寄ってでかでかと「半額!」のシールが貼られていたサーモンの刺身を買い、それを食べた。だからといって今、目の前にいるのがそのサーモンの刺身の精だなんて一体誰が信じることができるだろうか。
しかし、なるほど、言われてみればそのふざけた色のセットアップはサーモンの刺身の色味とよく似ていた。本当にこの目の前にいる美形美声の女は「サーモンの刺身の精」なのかもしれない。
「恩返し?」
眠気にすっかりと押しつぶされそうになりながら俺は精一杯の気力を振り絞って尋ねた。
「そうです、私にはちょっとした魔力があってその特別な力をあなたに授けに来たのです」
一体全体どうして廃棄間際のサーモンの刺身に魔力が宿るのか全くもって謎だったがとにかく瞼が120キロのベンチプレス並みに重くなっていた俺にそんなことを聞く気力も知性もなかった。
「どんな魔力?」
「はい、二つの中から選んでいただきます」
「二つ?」
「一つはカットボールが投げられるようになる力です」
「カットボール?…野球の変化球の?」
「そうです。それもただのカットボールじゃありません。誰にも打つことの出来ない魔法のカットボールです」
「ふーん。もう一つは?」
「爪が伸びないようになります」
「爪?」
「そうです。手足の爪が今あなたが『ちょうど良いな』と思っている長さから伸びなくなります。つまり…」
「つまり?」
「これから先、あなたは一生爪を切る必要がなくなります」
言い終えるとふざけた色の服を着た美声の若い女は満足そうにうなずきこちらを見つめてくる。
「ということで私はあなたに今言った二つの力のうちのどちらかを授けにきました。ではお選びください」
俺はベッドに横になったまま腕を組んで考える。女のふざけた話を聞いているウチに眠気はどこかにいってしまったようで頭は冴えていた。改めて女の提案してきた二つの能力について吟味する。
まずはカットボール。誰も打つことの出来ないカットボール。それ自体は非常に魅力的な響きを持つ単語(俺は20年来の野球好きだ)だったが俺はもう30歳を過ぎたしがない会社員だし野球経験は少年野球まで遡らなければいけないし最後にグローブをはめた記憶は大学時代のソフトボールの授業まで遡らなければいけなかった。そんな俺が今更誰も打つことの出来ないカットボールを投げられるようになったからといって何になるのだろう。
よし、カットボールはなしだ。
次にもう一つ、手足の爪が伸びなくなることについても俺は考える。それは非常に魅力的な提案のように思えた。俺にとって爪を切ること、否が応にも定期的に訪れるその時間は割に面倒くさい時間だった。その時間がこれからの人生でなくなるということは非常に有意義なことのように思えた。
よし、こっちにするか。
俺はベッドから上半身だけ起こして微動だにせず立ち尽くす女の方を向く。そして言葉を発しようとしたとき
そしてもう一度考える。お前は本当にこの先一度も爪を切る必要がなくなって大丈夫なのか、と。
いつも俺は自分の爪を切る時に何を考えているのかということに思いを巡らせる。例えばそれは3時間前に送られてきた大学の先輩からの気の進まない飲み会の誘いのLINEの断り方だったりその日に持ち上げるであろうベンチプレスの重量設定だったりとまあろくでもないことに変わりはなかった。
だが俺は気付く。俺の人生においてそういう時間は意外と重要なのではないだろうか?
ということは爪が伸びなくなるのもなしか。
どちらか選べと言われたがどちらも選ばない、という回答は許されるのだろうか。そうする場合何か特別な手続きがいるのだろうか。尋ねようと女に向かって口を開こうとした時、ダムが決壊するような尿意が俺を襲った。
そこで俺は目が覚めた。時刻は午前3時過ぎを指していた。
部屋のどこにもふざけた色の服を着た女はいなかった。俺はカットボールの投げ方も分からないし手足の爪もいささか伸びすぎているようだった。
でもこれで良い
俺はベッドから起きてトイレに向かった。