【エッセイ賞】

文字数 9,607文字

講談社文芸ニュースサイト〔Tree〕
2021年上半期 エッセイ/ノンフィクションコンテスト 応募

子育ての眼目
                                前岡光明
はじめに

私は八十才を過ぎた。平均寿命に近づき、友人たちの音信が次第に途絶えていく。コロナ禍の中で、身を潜めるように生きている。
幸い、私は体調は良く、毎日努めて歩いている。頭の中がライフワークでいっぱいで、日々精一杯生きている。妻も元気で、私は恵まれた老後生活を送っている。
もうすぐ終えようとする私だが、遺していく子や孫のことを想うにつれ、まさに、今、私は世代交代をしつつあることに気づいた。
つくづく思うのは、子や孫の人生の幸せとか辛さとかは、その子の問題であって、周りがどんなに念じても、代わって解決してやれないことだ。
その子の人生は、その子が切り開かねばならない。
人生を切り開く能力を身につけることが大事なのだ。人生を切り開く能力は、たぶんにその子の育ち方が影響する。
それは、親の責任と言っていい。
どの世代でも親は、子育てで悩むだろう。私の考えを述べておきたい。


一 私たちの子供の頃

思えば、最期に新型コロナのパンデミックに襲われた私は、八十年の人生を激動の時代に生きた。
日本帝国主義の時代、昭和十五年(1940年)10月4日、私は満州の天津、日本陸軍病院で生まれた。父は、和歌山県の農家の五男坊で、近隣の人が起こしたマニラロープ会社に雇われ、満州へ来たのである。温和な父、控えめな母。私は三人兄弟の長男だった。
末っ子の父だったから、子供が生まれる時は、和歌山から祖母が手伝いに来てくれた。台湾暮らしをしたことがある、行動力のある祖母だった。四つ下の妹が生まれた時、私は、祖母に絵本を読んでもらった。
1945年、日本軍は敗れる。現地応召で兵隊になっていた父からの音信はない。
終戦まぢかの、ある夕方、中国人が襲ってくるという噂が伝わり、私たちは工場の宿舎から風呂敷を提げて、駅に向かった。駅舎のベンチでうとうとしていた。無事に列車に乗れた。列車は空いていた。だいぶ来て、途中の駅が爆破されていた。そこから歩いたのだろう。街道筋の丘の畑に身を潜めて、追い抜いていくソ連軍戦車の隊列を眺めていた。
離乳期の妹と二人の幼児を抱えた、母だった。
大連に辿り着いた。幸いなことに、大連には日本人の自衛組織が出来ていて、女子供は救われた。大きな倉庫の二階で、大勢がごろ寝した。私たちのような幼い子供はいなかった。
母は街角で南京豆などの物売りをし、内地からの引揚船を待った。
翌春、引き揚げることが出来た。この時期のことは、いくつか覚えていることがあるが、ここでは省こう。
父は無事に、先に帰国していた。しかし、母が結核で倒れた。母は幼い三人を日本に連れ帰って、力尽きたのだ。小学二年生の時、亡くなった。

1946年4月、大阪の岸和田小学校にあがった。隣の家の一つ上のお兄ちゃんが、朝、連れてってくれたが、その他のことは覚えてない。
そのうちに引っ越して、淡輪小学校に転校した。それから母が亡くなって、和歌山の長谷毛原村の叔父の家に預けられ、長谷小学校に移った。
私は戦後の民主教育に改革した小学校のはじめての一年生だった。学校では教科書が変わり、先生方も指導に当惑されたのだろう。そんなことは、低学年生にはわからない。
そうやって学校教育はガラッと変わっても、多くの家庭では、戦前の教育を受けた親の躾けは、変わらなかった。そして、親は生きるのに必死だった。
子供たちは、いつもおなかをすかし、栄養失調の青鼻を垂らしていた。太った子なんかいなかった。ガリガリ亡者とからかわれた。もともとの意は我利我利亡者だ。
苦しい生活だったが、だんだん世の中が落ち着いて、日本経済は着実に成長していった。
そして、私は、小学四年生から、岩手県一関市に移った。
当時、中学を終えると成績が良くても高校に進学するとは限らず、集団就職といって国鉄の専用列車で東京に出た級友たちがいた。大学に行けないと思った優秀な子は工業高校へ行った。
私は、進学校に進み、大学へ行かしてもらった。
 私たちは故郷を出て、都市部に出てきた。
皆、たくましく生きた。

以上記したように私は、幼少時代、近所の子との触れ合いはまったくなかった。小学校にあがってからも、転校続きで友人たちの付き合いに揉まれていない。そんな私には、自分勝手なところがあると自覚している。
級友にお金持ちの子供がいたが、同級会で集まると、そんな子が皆より幸せな人生を送ったわけではないとわかる。
私たちより十歳ほど下の子は、すでに親が潤っていた。そして自由主義を謳歌した親に放任して育てられ、身勝手な振る舞いをする者が目立った。躾けが出来てない子供たちが社会に出て、周りも困惑したが、本人たちも当惑したろう。
だんだんに世の中が落ち着いてきて、家庭の躾けは、それなりにされるようになったと思う。


二 妻たちの育児の苦労、難しさ

社会に出た私たちは、夢中で働いた。家庭を省みず、働いた。皆、そうだった。
そして、高度成長期で、多くの者が中流意識を持った。
核家族だった。女性は、嫁姑の確執がなく、解放されたように思っただろう。たいがいのサラリーマン家庭では、妻は専業主婦、育児をした。
しかし、若い母親は育児で悩むことが多かっただろう。子育てを手伝ってくれる人がいない。それよりも、相談する人がいない。仕事一途な夫は頼りに出来なかった。
会社で終わらない仕事をカバンに入れて家に持ち帰っていたから、そんなときの私は子供たちに厳しかった。
同僚たちとの付き合いを削って、家のことを見ることが出来たと、反省する。

核家族になると、精神を病む子供が出てきた。
母原病と言うのがあった。
未熟な母親は、子供に、ああしなさい、こうしなさいとプレッシャーをかける。それは、たぶんに、反抗する子供を押さえつける感情的な言動だった。
そうやって、四六時中、ガミガミ叱られ、抑圧された子供はいじける。やさしい子は精神的に追い詰められる。そして、病むようになる。
 私たちと同じ世代の気の強いおばあさんがいる。その娘がこれまた強い個性の母親で、その孫娘、優しい中学生がプレッシャーで体に変調をきたした。
他にもそういう例を知っている。
母原病は連鎖する。
若い母親は子供をどう育てていいかわからず、たぶんに感情的な接し方をしてしまう。自分もうるさく言われ耐えて成長したと思うから、無意識のうちに、その経験を踏襲するのだろう。
でも、自分はそのことで苦しみ、どんなハンディを負ったかを考えるべきだ。自分はヒステリックな親に、不幸な育て方をされたと認識すれば、そんなことは繰り返すまいと思うはずだ。
子育てとは、親の言いつけに従わせればいいものではない、子供が自立するよう、導くことだと気づくべきだ。

児童養護施設で、私は数学の家庭教師をしたことがあった。母親から電話が来ると身を隠す女子中学生がいた。やさしい子だったが、あの子が自分の子供を持った時、どうやって育児に耐えるだろう。心配だ。

その男は、知人のやさしい息子だった。親は、「これからは、世界に羽ばたく時代だ。英語を勉強しなさい」と言った。息子は、英語を勉強した。留学もした。そして、男は英語を武器に、なんとなく、商社マンになった。海外勤務したが、その仕事は性に合わなかった。高校の英語の教師に転じたが、教育者には向かなかった。細々と翻訳をして食っている。
親にすれば、英語はあくまでコミュニケーション手段だから、息子は自分のやりたいことを選べばいいと思っていたろう。でも、子供に自立心が育ってなかった。
その男は、親の言う通り英語をやれば将来は開けると信じ、将来、自分が何をやりたいのか、深く考えたことがなかったのだ。子供が従順だったのは、親に依存して育ったからだ。これは、子供の自立心の芽を、親が摘み取ったということだ。
逆に、うるさく叱る母親に反発した高校生の息子が、暴力をふるうこともあった。親が、力で支配していたのを、力で反発するようになったのだ。家庭内暴力は、子供が家を出ていくまで、地獄だ。

私たちの世代では、登校拒否の子供に悩む人がいた。学校は、友だちがいて楽しいところだ。そこでいじめられるのは不幸だ。自殺者も出る。
そんなに精神的に追い詰められるなら、ほとぼりが冷めるまで、学校に行かなくていい。病気したと思って、一年遅れてもいい。転校してもいい。そこまで親が開き直れば、子供は救われる。
親は、精神的に痛手を負った子供にプレッシャーをかけてはならない。
今の時代も登校拒否の子はいるようだが、学校を代わって、活路を開いているのだろう。

また、子供の引き込もりで苦労する人がいた。職場でつらい目に遭った若者が自室に閉じこもる。突然、引きこもった子供に、親はうろたえるばかりだ。人聞きが悪いと考え、周りに相談しない。あの頃は、精神的に追い詰められてダウンする者は、弱い人間だとみなされた。親は懸命に息子に意見し、励ました。それが重圧となった。
誰だって、社会に出る時は、果たして自分はうまくやっていけるか、多少の不安がある。やっていくうちに自信が生まれる。しかし、中には、仕事が性に合わないと思ったり、あるいは人間関係が厳しくて、耐えられなくなる者が居るのは当然だ。何かのきっかけで環境が改善することがあるし、そのまま、挫折する者も出てくる。
今、老いた親と、五十前後の引きもりの息子の家庭が問題だ。親の年金が無くなったら、息子が生活できないのは目に見えている。
そんな悲惨な結末が分かっていたら、親は、息子の精神が深刻なダメージを受ける前に、会社を辞めるようアドバイスしただろう。そうして、やり直せば、子供の活路が開けただろう。
でも、登校拒否にしても、引きこもりにしても、子供が追い詰められてしまってからでは、遅い。深刻な事態になる前に、子供が自力で回避できるよう、あるいは乗り越えられるよう、たくましく育てるべきなのだ。
問題は、どうやって子供をたくましく育てるかだ。


三、独身貴族、フリーター、農家の花嫁

ところで、私たちの子供の世代には、結婚しない人が多い。
おせっかいを焼く、仲人婆さんが居なくなったのは事実だ。そして、出会いの機会が少なかった。
そんなこともあるが、彼ら、彼女らには、結婚に対する意欲が、そんなになかったのだと思う。
女性は結婚しなくとも生活出来たので、家庭に縛られたくなかった。
そして、多くの若い男は、自分が結婚してやっていける自信が、初めからは、ないだろう。仕事に自信が持てず、いつ辞めるかもしれないとかの不安があって、女性に胸を張って付き合いを申し込めなかった人もいよう。
結婚をためらう若者の背を押してくれたのが仲人だ。
「一人口じゃ食べていけなくとも、二人口ならやっていける」と仲人は励ました。付き合って仲良くなって、この人といっしょなら苦労してもやっていけると思えば、結婚を申し込んだだろう。
近所に五十前後の独身の人が何人もいるが、いい人ばかりだ。結婚の機会を逸して気の毒だと思う。本人たちは、独身貴族も人生だと思っているかもしれないが、淋しいだろう。それに、社会的には大きな痛手だ。
どうすれば、彼ら彼女らが結婚できたか? 出会いの機会をどうやって創るか? 為政者は考えねばならない。仲人婆さんに代わる機能というか体制を設けなければならない。未婚の男女を集めた懇談会を、頻繁に催すことだろう。どういう名目にするか、知恵を絞らねばならない。
そして、大人になる前の子供たちに、社会教育が要る。子供は、結婚生活などという問題は、自分の親や、親せきの夫婦ぐらいしか事例を知らず、夫婦関係が破綻した時のどろどろしたことは知らない。中学生時代に、これから経験する、結婚とか育児とかについて、具体的に教え、真剣に考えさせねばならない。そんな「結婚、夫婦、子育て」の特別授業が要る。

私たちの頃、あまりにも仕事に縛り付けられていて、自由業の人がうらやましかった。好きな時に仕事をやって、いっぱい休める自由業の人は、よっぽど才能に恵まれた人だと思っていた。
現在、フリーターなどで、自由を楽しんでいるように見える人の生活基盤は脆弱である。今度のコロナ禍で社会が崩れると、真っ先に社会的弱者になっている。
 小泉内閣が人材派遣業を正当化したのは、ひどいことだと思った。契約社員は給料の一部を派遣会社に天引きされるのと同じだ。公然と労働者の賃金を搾取する制度が出来たと、私は憤ったものだ。
契約社員の多くは特技があるわけじゃない。正社員と同じことをやっていても、給料が安いし、身分が保証されない。メリットは求職の手間が省けるだけの話だ。でも、そんなことは、職安が機能しているから余計なことだ。この国では、人材派遣会社は不要じゃなかろうか。そして、社会の安定のために、非正規雇用者を極力減らすべきだ。
話は違うが、海外技能実習生の受け入れも、誰かが彼らを食い物にしている。

農村の疲弊がこんなにもはなはだしいのは、林業が衰退したことが理由の一つだ、山間部では、田んぼ、畑だけでは食べていけない。
安価な輸入木材に高い関税をかけて、国内の林業を保護すべきだった。先代たちが植えた杉がたくさん育っている。今からでも、国内林業を再興しなければならない。
地球温暖化対策として、CO2の削減がかしましい。森林は、そのCO2を吸収してくれる。アマゾンとか東南アジアの熱帯雨林の安価な木材が入ってこない時がこよう。
農産物も同じで、海外からの輸入を当てにしていると、輸入が途絶えたとき、ひどい目に会う。
農家に嫁の来手がいないというのも現実だったろう。しかし、素朴なやさしい夫といっしょに、自然を相手に暮らす生活は捨てたもんじゃない。勇気づけてあげれば、見合いに応じる、心優しい女性がいるだろう。
農家に嫁いだ娘を支援する、社会的な制度が要る。それは、最初だけでなく将来にわたって彼女たちを支える役所の窓口だ。たとえば、「嫁入り相談窓口」と称し、担当相談員がつく。年に何回か、同じ境遇の人たちの懇親会を催す。村に婦人部があれば、参加を勧める。
これまで、農村の過疎化対策は無策だった。
農場の労働力を海外の技能実習生に依存するのは、小手先のごまかしだ。このままじゃ破綻するのは目に見えている。
労働不足がここまで深刻になれば、日本はいっそのこと海外からの移住者を認めるべきだと思う。しかし、彼らも落ち着けば、より稼げる都会暮らしに憧れよう。
いずれにしろ、農村で暮らす若者を定着させるために、所得税軽減など、税制上の工夫が要ろう。


四 社会全体での、子育ての時だ

私たちの子供たちの世代は、男女平等が定着し、女性も男性と同じように大学へ行くようになった。当然、そんな女性は社会に進出した。
共稼ぎが当然になった。そうすると、子供の出生数が少なくなる。
優秀な女性は、ある程度会社の仕事に打ち込んで仕事を覚えてから、子供を産もうとする。すると、高齢出産で、障害を持った子供が生まれるリスクが高い。
そうして、不幸な事態になってしまうと、離婚し、妻が子育てをするケースが多い。往々にして、夫が養育費を払わず、逃げてしまう。
卑劣な男には、行政は強制的に給料を差し押さえねばならない。出来ない時は、代わって行政が救済しなければならない。
若者に、中学時代に「結婚、夫婦、子育て」の特別授業を行って、夫としての扶養義務を、叩き込む必要がある。

自分の子供さえよければいいと考える父母がいる。学校にねじ込む、モンスターペアレントだ。
 自分の子供だけ特別扱いせよと主張するのだろうが、もしその特別扱いが認められてその子が優遇されても、それは一時のことで、将来的にその子が得るものはなかろう。
そんな人の子は、皆が敬遠しよう。親しい友だちが出来るとは思えない。
モンスターペアレントの攻撃から、学校の先生を守る熟年者の援護団が要る。身勝手な親が乗り込んできたら、後日受け付けることにして、その場はお引き取り願う。そして、後日呼び出して、「学校教育懇談会」を催し、子育て論を戦わせて、説得するのだ。

 今、未熟な若者の、子育てが危ない。
子供が出来ちゃった、と言う若者がいる。そんな人が子供を育てられないのは、目に見えている。育児放棄になる前に、未熟な親から子供を引き離さねばならない。
乳児園、児童養護施設を充実させねばならない。
今の児童養護施設は、親から引き離された子供を、広い施設に閉じ込めている。人数が多いと、先生の目が届かず、子供たち同士の軋轢もある。若い先生方が熱心に看てくれているが、限度がある。
愛情豊な若夫婦の元に子供たちを託し、家族として育てられることが望ましい。
子供のいない夫婦に、里親になってもらうよう、広くお願いしよう。


五 子育ての眼目

いつの社会においても、子育ての眼目は、子供の自主性を重んじ、たくましい子に育てることである。
いずれ、親離れ、子離れするときがくる。親は干渉を控え、自分のことは自分で決める子にせねばならない。できるだけ好きなようにさせるが、自由放任ではない。

子育てには忍耐が要る。
親は、感情を抑えて子供を見守らねばならない。
「子を持って知る親の恩」というのは、「自分も駄々をこね、泣き叫んで親を困らせた。我慢して親は自分を育てた」と気づくと、我が子の無茶振りに我慢出来るということだ。
赤ちゃんが泣き止まぬのは、もっとかまってくれという自己主張があろう。そうやって甘えて泣くときは「今は、ダメ」と諭し、親はそばを離れる。子供は、だめだと分かって、あるいは泣き疲れて、泣き止む。根競べだ。
また、反抗期の子が自立していくのを、親は辛抱強く見守ってやらねばならない。

家庭では、社会生活を送るための、躾けをしなければならない。日常生活の礼儀、食事の作法を身に着けさせる。
自分は厳しく育てられた、子育ては厳しくするものだと、思い込む人がいるかもしれないが、考えものだ。
礼儀作法は、あるていど厳しくともいい。門限を守らせるとか、自分の物は自分で片付けるとかいった躾けは、大切なことだろう。家の手伝いをする子もいよう。
しかし、罰則をどうするかだ。体罰はいけない。罰は、子供が納得するものでなければならない。そして子供は出来るだけ自由に育てたい。

ほったらかしておいた宿題をやらねばならないと、子供が気になった。そして、気持ちを鼓舞して「さあ、やろう」と腰をあげかけたときに、親に、「遊んでばかりいないで、さっさと宿題をやってしまいなさい」と言われ、いやいや机に向かう。
親の過剰な干渉は、子供のやる気を削ぐ。
子供の自発的な行動を待つのは、親の忍耐のしどころだ。
しかし、親が子供に「宿題しなさい」と叱ることはない、と開き直る考えがある。
宿題を忘れた子供は、自分が恥ずかしい思いをするのだ。そう突き放せば、親の気持ちは楽になる。
親は気になっても、さりげなく「宿題は済んだの?」と、問うにとどめる。
子供がためらった表情をしたら、「分からないところがあったら持っておいで」と誘う。

小学生の勉強には、例えば、九九算、漢字、暗記物とかのように、機械的に覚えるものと、自分で考えて答えを見つけるものがある。
文章問題のような、子供の考える訓練を、親が横取りしてはならない。
問題を解くときは、最初にやり方の手本を見せるだけにする。あとは、子供が、自分でやる。「ここを教えて」と聞いてきたら、教えてやる。

子供がなにごとかをやり遂げたり、あるいは、見つけたりすると、母に話したくなる。そんな子供の話を聞いてやる。そして、「よくやったね」、「よく見つけたね」とほめてやる。
自分でやったという達成感で、自信とやる気が出る。子供は、無意識のうちに次の目標を探す。
「庭のごみを片付けてくれたのね、ありがとう」が、子供のやる気を増幅させる。

親は、勝手に、あるいは気まぐれに子供の領分を支配してはならない。
どの家庭でも、子供は、自分のことは自分でやるというのが基本ルールだ。しかし、子供部屋が散らかっているのを見かねて、親がさっさと掃除をやってしまうことが多かろう。
時には、親が捨てたごみの中に、子供の宝物の、セミの抜け殻があったかもしれない。子供は恨む。
子供部屋の掃除について、親は子供と話し合わねばならない。

「親の背を見て子は育つ」は、酒屋、菓子屋などの代々受け継いだ家業では、そうやって後継者が育つのだろう。
父親、母親が外で働いている場合、子供は親の本当の顔を知らない。それは、寂しいが、仕方がない。家でだらけている親は、今日は寛いでいるんだと、わかってもらわねばならない。
ともかく、親は子供の手本になっている。
子供には、いろんな人に接しさせ、人間という者の多様さを知る。
そして、どんな人も、感情があることに気づかせる。

機会を見つけては外に連れ出し、自然を学ばさす。
地球上に生きているのは、人間だけでない。様々な生物、植物がいて、彼らには、独自の生きる知恵がある。生き残るための熾烈な生存競争がある。野生動物、昆虫、植物の逞しく生きる姿を学ぶ。
また、人間は生きていくために、他の生き物、植物を殺しているという、厳しい現実を教えるべきだ。

親が、子供のやることを、何から何までお膳立てすることは禁物だ。
親のお膳立て通りに子供がやって、あるいは親が手伝って、応募作品が入賞したとする。その瞬間は、親子して幸福に浸る。
これを契機に、子供が自信をもって頑張ってくれ、と親は期待する。しかし、そのあと、子供は自力で挑戦するが、うまくいかず自信を失うのが落ちである。
こんな一時の幸せは、子供の財産にならない。

子供には、自分でさせる。
不備があって失敗しそうだと思っても、怪我したり、他の人に迷惑をかけたりする恐れがない限り、あえて口出さないことがあろう。

失敗して、子供は利口になる。自分でやった失敗は繰り返さない。そして、次は、謙虚にしかし積極的に計画しよう。
子供に、出来るだけ多くの経験を積ませることが大事だ。成功体験は自信となる。失敗体験は、次の飛躍の基礎台となる。
失敗を積み重ねることが、たくましさを育てる道だと、私は思う。
たくましさは、少々の困難にぶつかっても、ひるまず、活路を見出すことだ。そうやって、人生を切り開く能力が身につく。
挑戦して失敗した失意の子を、親は抱きしめ、慰め、励まさねばならない。それが、親の愛情の発露だ。


おわりに

子供が自立する過程で、友人との付き合いがある。私はあえて、友情とか、思いやりとかという、大事なことに触れなかった。
私は、今の親たちには子供の自立という意識が低いので、まずは、そのことを喚起したかった。
ところで、子育ては妻の仕事だと考えていた私に、このような子育て論を語る資格があろうか? 私は、子育ての大変さを分かってないかもしれない。
でも、大きな事実がある。
私たちが子供だった頃は、ご飯を食べさせてもらって、少し家の手伝いをした他は、親はほったらかしだった。それでも、私たちは育った。勉強せねばならないと気づいたら、勉強した。
今は、少なからぬ親が子供に干渉しすぎて、子供はプレッシャーでくじけそうになるか、あるいは親に依存するかである。そして、そんな親は、子育てを大変がる。
そんな親は、子供のことをあれこれ考えるのを、控えればいいのだ。それで、親も、子供も救われる。
子供のことは子供に任せなさいと、私は言いたい。
                                   【完結】

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