人間として生きて死ぬこと

文字数 1,002文字

 私は昔から無神論だが、「私はアルファであり、オメガである」という言葉で有名な「ヨハネの黙示録」は記憶に残っている。それを教えてくれたのは父だった。父も私同様に無神論だったが、祖父の引き出しに隠してあった古ぼけた聖書を見つけて読んだ時から、少し考えを変えたらしい。 
 我が家は、もしかしたら「隠れキリシタン」の家系かもしれないぞと父は考えていたようだ。
だからと言って、父が黙示録にあるような終末論を信じていたわけではなく、独自の解釈をしていた。読書家だった父は宮本武蔵に傾倒していて、「神は敬え、頼るべからず」というのがその信条だった。武蔵が死の直前に「五輪の書」を書いたように、人間は最後の時が近づくと、それまでの人生を振り返って、自分が生きて来た意味を考えるようになると父は言う。黙示録にある「不正を行う者は、ますます不正を行い、正しい者は、ますます正しいことを行いなさい」という言葉の真の意味は、人間は自分の心のままに生きることしかできない。死を迎えるときまで、その信念に忠実ならば、それがその人の人生なのだ。だが、これで良かったのかと迷うならば、自分の心の奥にある迷いと対決して、今までの行動を変えるべきだ。そして安らかな死を受け入れるべきだ。聖書は「人間として生きて死ぬこと」の意味を問いかけているのだと語っていた。
 父は肺癌で亡くなった。そのとき、なぜもっと父との時間を過ごさなかったのだろうと私は後悔した。父が幼かった頃には、貧乏でもあり満足に食べることさえできない時代を過ごしたらしい。大人になって太平洋戦争が始まってからは、有無を言わさずに徴兵されて外国に派遣された。食うや食わずの生活はとても辛かったと言っていた。だから、死の直前まで平和で食べ物が豊富な時代に生まれた私を羨ましいといつも言っていた。
「おまえが大人になったら、日本がもう一度愚かな戦争などを決してしないような世の中にして欲しい」という父の言葉を今でも覚えている。
 聖書が生まれたとされるエルサレム周辺では、イスラエルとアラブ民族の争いが絶えず、現在でも戦争が継続されている。「人はなぜ神について戦争をするのか?神は生命の大切さを説き、人間を幸せにする存在ではないのか?」父が問いかけたその疑問は、今も私の心の中に解けずに残ったままだ。
 無神論の私ではあるが、父の考えを深く知るために少しは聖書も読んでみることにしよう。
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