第1話

文字数 1,998文字

 向かい側のグランドメニューが揺れる。ふいにパタンと倒れて、小さなつむじが現れた。尖った口先はなんとなく自分に似ている。
「何食べるか決まったか浩志。何でもいいんだぞ。今日はお前の誕生日なんだから。」
「・・・うん。」
 しかめっ面のまま小さい手がメニュー表を大きくめくっていった。今年で6歳になる浩志は、きちんと席に座りおとなしくしている。昔はずっと走り回って母親を困らせていたのに。少し見ないだけで、こんなに成長するのかと感慨深くなる。
 浩志と会うのは1年ぶりだった。妻の敦子から離婚届を突きつけられてから、ローンの残る家に1人で帰り1人で寝る日々を送っていた。ゴミばかりが増えていく生活に、虚しさと焦燥感が膨らんでいく。またあの幸せだった日常に戻りたい思いが強く、未だにはんこを押すことはできない。
 敦子と出会ったのは町の小さなバーだ。ひとりで飲んでいる女は引っかけやすいという理由でナンパをし、一夜限りの関係が二週間、三ヶ月、一年を過ぎた頃、子供ができた。あなたの子だと言われればもうどうしようもなく、腹を括って身を固めた。「幸せにする」と歯の浮いた台詞も吐いた。しかし、身を固めるというのはどうにも窮屈で、結婚生活が3年も過ぎた頃、息抜きをする回数が徐々に増えていった。
「また仕事なの?」
 深夜2時ごろに帰宅した俺を、敦子はうんざりした顔で言う。その顔が癪に障り、ため息をつく。
「そうだよ。中間管理職は何かと忙しいんだ。上司の指示に部下の世話。板挟みなんだよ。」
 上からの理不尽な指示に耐え、部下の尻拭いをする。ミスで落ち込んでいる部下を飲みに誘い、慰めるのも立派な仕事だ。仕事やプライベートの愚痴を言い合った後、寂れたホテルに2人で入り慰め合うことに罪悪感は全くなかった。このご時世、ストレスを発散しなければ仕事をすることはできない。
「土日も仕事なの?」
 誰にも言えないストレス発散は、手放せないほど魅力的でつい夢中になってしまった。「緊急トラブルで」、「取引先から連絡があって」、「忘れ物をして」。適当な理由を並べて家を飛び出し、ホテルに行った。
「ずいぶん働き者なのね。」
 敦子の皮肉にも慣れてしまって、聞き流すことが増えた。むしろ家庭を支える上で「働く」ことがどれほど重要なのか身をもって知るべきだと考えていた。働かざる者食うべからず。自分の働きのおかげで敦子も浩志も生活することができていると自負していた。
 とんだ自惚れだった。
 いつものように帰った家が空っぽだったとき、状況を上手く飲み込むことができなかった。家具が一切なくなった訳じゃない。敦子と浩志がいないのだ。2人だけじゃなく、化粧品、洋服、おもちゃ、歯ブラシなどがきれいになくなっていて、強烈な孤独感に襲われた。テーブルの上にある唯一見慣れない紙を手に取り、膝から崩れ落ちた。家族がいたから「生活すること」「働くこと」ができていたことに、愚かなことに初めてここで気づいたのだ。
 今でも後悔している。懇ろになっていた部下とはすぐに関係を絶ち、敦子に誠心誠意謝罪をした。全てを打ち明け、自分の愚かさと後悔を述べ、望んだ土下座だって喜んでやった。それでも敦子は『離婚』の二文字しか言わず、ずるずると離婚調停ばかりが長引いていく。
 その中で、1年に1回、誕生日の時は浩志に会うことが許された。この日をずっと前から楽しみにしていた。
 浩志がおずおずと指さしたハンバーグセットとドリングバーを店員に注文する。浩志がドリングバーから持ってきたものはメロンジュースだった。
「浩志、学校はどうだ?友達できたか?」
「・・・うん。まぁまぁ。」
「そうか。母さんは元気か?」
「うん・・・。元気だよ。」
「ならよかった。でも、大変じゃないか?母さんもまだパートだろ?ちゃんと腹いっぱい食ってるか?」
「・・・うん。」
 俯いてばかりで、もごもごとしゃべる息子がもどかしい。やっぱり父親がいないとダメなんじゃないか。父として、外で一緒に遊んだり、運動した方が息子のためじゃないだろうか。
「なぁ浩志。父さん、母さんと仲直りしたいんだ。だから、浩志からも母さんに言ってくれよ。父さんすごく反省してるし、今は真面目に働いてるって。浩志も父さんがいた方がいいだろう?」
 浩志は何も答えなかった。ストローに息を吐いて、メロンジュースを泡立たせることに忙しい振りをした。
 父さんは知らない。母さんは、昼間はエプロンを着け、夜はミニスカートを履くことを。夕飯はいつもデパ地下の惣菜でそれなりに美味しいこと。母さんも『あなたのためよ』と言い朝方に帰ってくること。
 そんな生活がもう何年も前から続いていた。母さんも父さんと同じく“働き者”なのだ。
 何のために誰のために「働く」のか、浩志は知らないし知りたくもなかった。
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