第2話 光ったものは
文字数 1,487文字
彼女の姿は見る間に小さくなり、やがて通路の角に消えた。しばらくの間、毒気に当てられたように、そこを見つめていた。
「元気のいい子ねぇ」
橘部長の呆れるような感心するような声に、我に返る。
「知っているんですか?」
確か名前を呼んでいた。同じ部署の人間なんだろうか。彼女は秘書課、人事課、営業課の統括部長だった。それぞれの部署をまとめる重要な役職を担っている。俺は営業課の課長を務めているから彼女は上司に当たる。
一般社員としてでもよかったのだが、次期社長としての顔があると、父から渋い顏で言われ却下された。経験を積むという意味で課長になったのだが、果たしてそれでよかったのかどうか。何も知らないお坊ちゃんがいきなり課長というのも、その部署にとってはいい迷惑かもしれない。
「ええ、芳村遙 。新卒の新入社員よ」
「よく知っていますね。同じ部署なんですか?」
営業では見ない顔だし、秘書課か人事課かどちらかだろう。それでも統括部長が、一介の新入社員を覚えているのは珍しいことだろう。入社して二か月ほどしか経っていない。新人教育をしているというのなら話は別だが。統括部長直々にというのはあり得ない。
「あの子は、経理課よ」
「!」
新入社員は100人を超えていたはず。例年より少ないとはいえ、顏も名前も一致させるのは容易にできることではないだろう。それをまさか覚えている!?
橘部長は俺の顔を見てクスリと笑った。
「採用試験で面接担当だったから、それでたまたま覚えていたんです」
「そうだったんですね。びっくりしました。管轄外の新入社員まで把握しているのかと思って」
「まさか、わたしもそこまではありませんよ」
彼女は軽く肩をすくめて見せたが、その態度にはそこはかとなく自信が窺える。難しいことを簡単にやってのける人だから、これももしかしたらポーズなのかもしれない。
「それよりも先を急ぎませんか?」
橘部長の声に現実に立ち返る。
そうだった。いつまでもここで、立往生をしているわけにはいかない。俺達にも仕事がある。
「そうですね」
彼女の言葉に促されて足を踏み出したところだった。
キラっと光るものが床を奔っていった。靴で何かを蹴ってしまったのかもしれない。奔った先を見てみると、通路脇の観葉植物の植木鉢の袂にあった。
拾い上げてみると、それは、ダイヤモンドのピアスだった。
デザインはごくありふれたシンプルなもので、それほど高価なものとは思えなかったが、留め金の部分がなかったから、落した物かもしれない。
ピアスが外れるというのは、どういう状況だろう?
考えて思い浮かんだのは――
さっきの彼女?
あの時の……
ぶつかった拍子に取れてしまったのかもしれない。それならば留め金も近くに落ちている可能性もある。状況を思い出しながらあたりを探した。しかしそれらしいものは見つからない。
ピアスのように小さいものは床の色に紛れてしまう。留め金はさらに小さい。見つけるのは至難の業だ。それでもどこかにないかと探していると、
「何か落としましたか?」
橘部長の声がした。
「あっ、いえ。何でもありません」
咄嗟にピアスを掌に握り込んだ。
何を夢中になっていたんだろう。誰が落としたのかもわからないものを。彼女の物だとはっきり決まったわけでもないのに。
はっ! 彼女の物だったらどうしたかったんだ?
やめよう。こんなバカなこと。
「あら? 血?」
俺の肩のあたりを凝視した彼女がつぶやいた。
「血? ですか?」
身の覚えのない事に頭を傾げながら、彼女の視線をたどり見てみると、確かに赤いものがスーツの上着についていた。
「元気のいい子ねぇ」
橘部長の呆れるような感心するような声に、我に返る。
「知っているんですか?」
確か名前を呼んでいた。同じ部署の人間なんだろうか。彼女は秘書課、人事課、営業課の統括部長だった。それぞれの部署をまとめる重要な役職を担っている。俺は営業課の課長を務めているから彼女は上司に当たる。
一般社員としてでもよかったのだが、次期社長としての顔があると、父から渋い顏で言われ却下された。経験を積むという意味で課長になったのだが、果たしてそれでよかったのかどうか。何も知らないお坊ちゃんがいきなり課長というのも、その部署にとってはいい迷惑かもしれない。
「ええ、
「よく知っていますね。同じ部署なんですか?」
営業では見ない顔だし、秘書課か人事課かどちらかだろう。それでも統括部長が、一介の新入社員を覚えているのは珍しいことだろう。入社して二か月ほどしか経っていない。新人教育をしているというのなら話は別だが。統括部長直々にというのはあり得ない。
「あの子は、経理課よ」
「!」
新入社員は100人を超えていたはず。例年より少ないとはいえ、顏も名前も一致させるのは容易にできることではないだろう。それをまさか覚えている!?
橘部長は俺の顔を見てクスリと笑った。
「採用試験で面接担当だったから、それでたまたま覚えていたんです」
「そうだったんですね。びっくりしました。管轄外の新入社員まで把握しているのかと思って」
「まさか、わたしもそこまではありませんよ」
彼女は軽く肩をすくめて見せたが、その態度にはそこはかとなく自信が窺える。難しいことを簡単にやってのける人だから、これももしかしたらポーズなのかもしれない。
「それよりも先を急ぎませんか?」
橘部長の声に現実に立ち返る。
そうだった。いつまでもここで、立往生をしているわけにはいかない。俺達にも仕事がある。
「そうですね」
彼女の言葉に促されて足を踏み出したところだった。
キラっと光るものが床を奔っていった。靴で何かを蹴ってしまったのかもしれない。奔った先を見てみると、通路脇の観葉植物の植木鉢の袂にあった。
拾い上げてみると、それは、ダイヤモンドのピアスだった。
デザインはごくありふれたシンプルなもので、それほど高価なものとは思えなかったが、留め金の部分がなかったから、落した物かもしれない。
ピアスが外れるというのは、どういう状況だろう?
考えて思い浮かんだのは――
さっきの彼女?
あの時の……
ぶつかった拍子に取れてしまったのかもしれない。それならば留め金も近くに落ちている可能性もある。状況を思い出しながらあたりを探した。しかしそれらしいものは見つからない。
ピアスのように小さいものは床の色に紛れてしまう。留め金はさらに小さい。見つけるのは至難の業だ。それでもどこかにないかと探していると、
「何か落としましたか?」
橘部長の声がした。
「あっ、いえ。何でもありません」
咄嗟にピアスを掌に握り込んだ。
何を夢中になっていたんだろう。誰が落としたのかもわからないものを。彼女の物だとはっきり決まったわけでもないのに。
はっ! 彼女の物だったらどうしたかったんだ?
やめよう。こんなバカなこと。
「あら? 血?」
俺の肩のあたりを凝視した彼女がつぶやいた。
「血? ですか?」
身の覚えのない事に頭を傾げながら、彼女の視線をたどり見てみると、確かに赤いものがスーツの上着についていた。