文字数 2,706文字

 リハーサルを終え、誰もいないプールで泳ぐことが好きだった。あの日もいつもと同じように一時間ほどひと泳ぎしたあとで、デッキチェアに置かれた電話が鳴った。
「ニューヨークのミッドタウンでパーティーがあるんだが、きみも来ないか? 」
 資産家にそうさそわれたとき、これまでとは違う何かが迫ってくるような違和感を覚えた。

 パーティーには多くの有名人や権力者達が集い、資産家はこれまで見せたことのない不自然な笑顔で彼らに接した。
 男達はみな黒のスーツを着用し、女達は光沢をおびたドレスを身にまとい、それぞれがお互いの蜜を舐めあうようなパーティーだった。
 彼らと何を話していたのか、はっきりとしたことは何も思い出せない。パーティーの始まりから終わりまで、資産家はつねに誰かと会話を交わし、わたしを紹介したりもしたが、会場の中庭で演奏を続けるジャズバンドのセッションしか印象に残っていない。
 的確な歩幅で歩み寄りながら背筋をのばし、手に持ったワイングラスを適切な位置へと持ち上げる。そうやって何人もの有名人と交流する姿を見て、この男には知り合いは多いが親しい人間はひとりもいないのだと思った。

 ホテルへと戻り憔悴しきった感情や汚れをシャワーで洗い流したあと、資産家は犬のように這いつくばり、わたしの足の指をなめようとした。その瞬間パーティーの前に感じた違和感を思い出し、この男は何もわかっていないのだと思った。
 わたし達の信頼は、贅沢な食事と美しい景色とこの男の退屈な話で完結している。それ以上でもないしそれ以下でもない。彼自身の信頼性の欠如、それを他人に投影することで自分をごまかそうとしている。
 わたしの足の指をなめながら、親しみ方を忘れた資産家を見下ろしても哀れみや同情は浮かばなかった。この男にはもっと大きな罰が必要だと思った。わたしという人間を過去へと置き去りにするための罰を。
 その夜を境に、わたしは資産家の前から姿を消した。

 ブルーのシャツを着た男達が次々と家具やソファーを運び出していく。口の開いたダンボールには食器やコーヒーメーカー、本や雑貨などが無造作に詰め込まれている。
 誰もわたしを見ようとはしないし話しかけたりはしない。この家にあるものはすべてわたしの物だが、それは価値観と生活のシンボルだ。そういったものがひとつずつ運び出されていくたびに、心のペンキがはがされていくようだった。
 お気に入りのアンティークのスタンドライトが、積み重ねられた小物の中に投げ込まれ嫌な音がした。悲鳴をあげそうになりながら、泣いてはだめだと自分に言い聞かせた。
 洗面所へ向かうと、男がドライヤーをダンボールの中へと放り込もうとしている。わたしは男の手からドライヤーを奪い取りにらみつけたが、男は何事もなかったかのように無視した。
 役割を与えられた人間は、それ以外のことには関心がないのだ。

 あなたはどういったときに幸せを感じますか? わたしはそういうことを彼らに聞いてみたいと思った。
それは自分自身を安心させるためだ。冷え切った空間の中、ひとりひとりの心にふれることで彼らに対する怒りを抑制できると感じたからだ。
 どんな答えでもかまわない。旅行を楽しんでいるときでもいいし、海岸沿いをドライブしたり、恋人や家族と過ごす時間なんかでもいい。
 家族と過ごす時間が幸せなのかどうか、わたしにはわからない。もともと家族と過ごした記憶があまりないからだ。

 わたしは四人家族の次女としてニューヨークで生まれた。まだ幼かった頃に両親は離婚し、父は姉とともに故郷であるギリシャへと戻り、そして母との暮らしが始まった。
 それから間もなくして、母は恋人ができると家を空けることが多くなった。
 誰もいない空白の時間を埋めるためにわたしは歌を歌った。どこかで耳にしたことのある音楽を思い出したり、本を読みそれを自分なりに歌で表現したりもした。
 母が戻ってくるまでの時間、それはいつしか幸福をもたらしてくれた。
 十九歳になり音楽院へ通いだす頃には、母はアルコールとドラッグに溺れていった。
 時々顔をあわせてもわたしが誰なのかがわからないような状態が続き、やがてさよならを告げることもなく母とは疎遠になった。

 その後ソプラノ歌手として各国をまわった。ヴェローナ音楽祭、ミラノ・スカラ座、バイロイト祝祭劇場。
 多くの人々との関わりや功績による喝采は、もう歌い続けることで誰も待つ必要はないのだと思えた。
やがて信じられないようなお金が転がり込んでくると、わたしの生活は変わった。欲しいものは何だって手に入ったし、好きなところにだって行けるようになったからだ。
 休日にはビバリーヒルズのロデオ・ドライブにあるような高級ショッピング街を渡り歩き、公演が終わるとエステに通い、三千本のバラから数滴しか採取できない最高級ローズオイルでからだをほぐし、週末になると知人やその友人達を集めささやかなパーティーをおこなった。
 そして誰もいない静かな夜になると、わたしは怯えるようになった。それはやがて訪れる終わりへの準備だったのかもしれない。
 そんなときはいつだって幼いころの自分に出会う。声の届くことのない、遠く離れた場所で幼いころのわたしと向かい合うのだ。
 そこに名声や喝采はなく、母の帰りを待ちながら許された時間に歌を歌う、ただそれだけで幸せを手にすることができた自分の姿だけだ。だけどわたしにはそれが幼いころの自分であることに確信が持てなかった。
わたしはもう、幼いころの自分とは重なり合えない。

 何かを手にするたびに何かが失われていくような、もうろうとした時間の中でストレスを抱え込むようになると、過食と安定剤に頼る日々が続いた。不摂生な生活と難役を歌い続けたことによる影響は音域と声帯をむしばみ始め、やがてオペラへの出演は激減し、リサイタルを中心とした生活へと変化していった。

 収入が減ってもわたしの生活が変わることはなかった。あの日もいつものようにエステへと向かい専属のマッサージ師を呼ぶと、ローズオイルでからだの疲れをとった。
 マッサージ師の名前はレイチェル。ヒスパニック系の黒人だ。彼女とは十年来の親友のように仲がいい。
「あなたもそろそろ自分を見つめないとね」
 そうやって彼女はいつもわたしに話しかけてくる。からだのラインと調和するように、その指先から神経を伝わり、直接わたしの脳に働きかけてくるような感じがした。それから少しだけ彼女が笑った。
「どうしたの? 」
 わたしがそう訊ねるとレイチェルは「ごめんね」と言ってもう一度指先に力をこめた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み