曲がらない!

文字数 1,978文字

「痛たたたた! 無理無理無理無理!」
 ヨガマットの上では、食料生産管理担当の小川秋子が喚き声をあげていた。両足の裏を合わせて座った状態から上体を前に倒そうとしているが、角度は45度で止まっている。
「はいはーい。呼吸は止めなーい。首は前に倒さなーい。何より喚かなーい」
 資源試掘の専門家であるシアン・メイが、対照的なのんびりした様子で声をかける。メイは秋子の上に乗ってそれぞれの足で秋子の膝を踏み、体重をかけて彼女の上体を下に押していた。
 乗っているのが女性で重力も弱いとはいえども十分な力がかかっているはずだが、秋子の上体はそこから前に倒れて行かない。
 しばらくしても成果が出ず、メイが上から退くと、秋子は後ろに倒れこんだ。
「スープレックスがしたいんだよぉ。前に曲がらなくてもいいじゃん」
 ぼやく秋子の後ろで、メイは体を前に倒して胸が膝につくまで前屈した。両手のひらが完全に床についている。
「秋子の場合、前後関係なしに全体が固すぎんのよ。体幹と太ももの柔軟性がもっとないと、また後頭部で床にキスする羽目になるわよ」
 今から1週間ほど前に、秋子はサンドバッグにジャーマンスープレックスをかけようとして、後頭部からマットに激突した挙句にサンドバッグに押しつぶされる羽目に陥った。本人によれば、「6代目タイガーマスクのファンだった+重力が4割なのでよい機会だと思った」らしい。
 体重もサンドバッグの重さも4割だったために怪我もなかったが、「固すぎる」とのことで運動の際はメイの指導による柔軟がメニューに加えられることになった。メイは高校と大学で体操をしていたらしく、足を上げて足の裏でコップを立てて中の水をこぼさないようにできるし、1G環境下――つまりは地球でもバック宙ができる。

「はい、次は足伸ばして座って。長座体前屈」
「これって靱帯切れたら労災下りるの?」
 いやいやながらもメイの言う通りに座った秋子がぼやく。NUTに限らず、宇宙に進出する企業の給料はかなりいいし、福利も充実している。通販もネットもろくに使えない上に、一歩間違えれば即死する仕事なので、妥当と言えば妥当だ。
 些細なことでも人の命どころか施設一つが壊滅するような事態にもつながりかねない。そのため、従業員の怪我についてはかなり注意が払われている。
「この程度で切れたりしないわよ。そんなに無理に押してないしね。第一、筋肉が固すぎて切れるほど伸びない」
「運動中のケガだったら労災下りますけど、スープレックスし損なって頭かち割っても、下りないのは確実だと思います」
 ランニングしながら誠が横から口を挟むと、秋子は嫌そうな顔をして誠を睨んできた。それを無視して、誠はトレッドミルのカウンターを見た。
 5kmを表示したところで。速度を緩やかにして歩行モードにする。50mほど歩くと、やがて息が整ってきた。

 誠の場合、地球では毎日走っていれば1か月ぐらいで苦痛ではなくなってくるが、火星では体が順応するのが遅い。鈍るスピードがかなり速いために、トレーニングの効果は出にくい。
 火星でのトレーニングの目的は、体を鍛えるのではなく、衰えるスピードを押しとどめることにある。いつまでたっても慣れないのは仕方がないのかもしれない。
 それに対し、体の固さは重力には関係ないと思うのだが、秋子が前屈出来る角度が深くなった様子は見えない。
「呼吸は止めないでー。ゆっくり、深く吐いてー」
「ぬうぉおおおぅあああ」
 夢の中で聞いたらうなされそうな声で呻きつつ、秋子が体を前に倒そうとする。そちらを見ないようにしながら、誠はトレッドミルを降りて重りを外した。地球だと持ち上げるのがやっとの代物だが、火星ではそうでもない。
 片付けて戻ろうとしたとき、誠の耳に無線の呼び出し音が鳴った。耳にかけている通信用端末が、骨を振動させて音声を内耳まで届けてくれる。
『建設エリアで警告灯が点いた。アレックス、誠、エラーログを送るから見てくれ。勤務時間外に悪いな』
 管制室にいる班長のジャックからの通信だった。
 誠は勤務服を入れているかごを漁って、支給されているスマートグラスをかけた。通信端末が受信したログがARで眼前に表示される。
 目の前に浮かぶ存在しない画面をスクロールして、エラーの内容を読んでいく。どうやら物理的な障害でマニピュレーターの一つが停止したようだ。
 いつの間にか横に来たアレックスも、グラスを装着して同じ物を読んでいた。
「こりゃ実際に行ってみねえと分からんな。面倒くさいな」
「ちょっとばかりお出かけだね。残業代付くよ」
「トラブルがややこしくないといいけれどな」
 誠はARを操作して、通信を管制につないだ。
「ログを見ました。アレックスと現地に行って確認します」
『了解。勤務時間外労働ってことで付けておく。それじゃあ頼んだ』
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