第1話

文字数 3,774文字

 ジリリリリリリリリ!ジリリリリリリリリ!ジリリリ……ピッ。
「う~ん…」
 けたたましく鳴り響く目覚まし時計になんとか手を伸ばす。スマホのアラームじゃ私が起きないからって、母さんがこの春引っ越してきた時に買ってくれた、この子の大声は凄まじい。有難くないことに、大好きな二度寝すら絶対に許してくれないほど、完璧にその役割を全うしていた。それでも、ささやかな抵抗とばかりに、意地でも目は開けない。開けないのだけど、寸足らずの遮光カーテンから、容赦ないモーニンググロウが毎朝差し込んでくる。住みだしてから、この部屋の日当たりの良さを恨めしく思うようになるまで、それほど時間はかからなかった。
 トントントントントントントン…トントントントントントントン…。
「…スゥゥ……………フゥーーン……」
 大きく鼻で深呼吸しながら、リズムよく準備される朝食の音を耳の奥でかすかに、確かに、じんわり吸収していく。まだ、目は開けない。
 トントントントントントントン…ジーワジワジワジワ…。
 トントントントントントントン…ジーワジワジワジワ…。
 まだ夏本番前ですし、と言わんばかりにやや控え目なセミの合唱が、母さんの包丁さばきと二重奏になってて、声の大きいあいつに起こされた後のBGMとしては、ピッタリな心地良さがあった。ほんのつい、最近までは。
 タン、タン、タン、タン!タン、タン、タン、タン!
 つかの間のまどろみを、一段飛ばしで階段を降りるお兄ちゃんがかき消す。それを合図に重たい身体を嫌々起き上げる。じゃないと少ししたら、一階から母さんが目覚まし時計に負けない大声で私を呼ぶからだ。充電機を差し忘れられて、虫の息になったスマホを手に取る。テスト前からだからもう、二週間以上経つ。
 吾輩はJKである。返事はまだない。

 ジュ~~~!
 顔を洗って歯磨きも済ませリビングに来ると、卵焼きのいい匂いが鼻の奥に広がった。最近は食欲がなくて、朝ご飯なんて尚更箸が進まなかったけど、卵焼きは大好きだからそれだけは無理してでも完食するようにしている。カバンを下ろして食卓についたら、ちょうど母さんがお皿を出してくれるところだった。
「あんたここのところ朝は卵焼きしか食べないから、二つ分焼いといてあげたから」
「あ、ありがとう」
 あんまり嬉しくはない。
「テストの結果」新聞紙越しに顔も見せずに父さんが言う。「いまいちだったらしいな。志望校、大丈夫なのか」
「…うん」
 たまに口を開いたと思うと、いつも耳の痛い話をしてくる。父親とはどこの家庭でもそういうものなのだろうか。素っ気ない私の返事にやや語気を強める。
「二年の終わりから成績も落ちる一方だから、本腰入れるように言ったばかりだぞ。バイトするのを認めたのも、外泊を許すようになったのも、お前がちゃんと頑張るって答えたからだ」
「こ、今回はヤマが外れただけだから。次は良い点とる」
 卵焼きを口に放り込みながら、受験生のくせに我ながら苦しい言い訳をする。
「この子、近頃なんだか元気がないのよ」
 母さんが救い船を出すと、ようやく新聞を閉じて父さんがこちらを見てきた。
「なんだ、それでここのところ、少食なのか。悩み事なら聞くぞ」
「別に、大したことじゃないよ」
 友達と喧嘩してグループからはぶられそうだなんて、気まぐれで相談相手になろうとする父親には死んでも言えない。
「まぁ高校生も色々あるよそりゃ、父さん」
 食事を終えて牛乳を飲み干しながら、お兄ちゃんも会話に参加する。
「それはそうと、自転車パンクしたって昨日言ってなかった?時間大丈夫なの?」
 …すっかり忘れてた。最悪だ。
「行ってきます!」
 ちょうど半分だけ食べ終えた大好物を尻目に、カバンを持つと大急ぎで玄関へ向かう。
「気をつけるんだぞ」
 父さんの呼びかけを背中に受けながら、私は家を飛び出した。

 勢い良く出たのはいいものの、走らなきゃ間に合わないのに、結局とてもじゃないけどそんな気にはなれていなかった。今まで人間関係はうまくやれてこれた方だったけど、学校へ行くのにこれほど気が重くなったのは初めてのことだった。素直に謝ればよかったのに…意地を張って、そのままうやむやにしてしまった。すると、いつの間にか口も利かなくなって、お昼も一緒に食べなくなって、ことの重大さにようやく気付いて送った謝りのメッセージは、未だ既読すらついていない。この事がきっかけで、受験のプレッシャーとか、将来のこととか、そういう漠然とした言葉にできない不安も表面化してきたように思えて、心の中の黒いもやもやを、もはや五月病では片付けられなくなっていた。
 キキーーーッ!
 突然、背後から来た自転車が隣で急停止する。
「のんきに歩いてちゃ間に合わないぞ。乗れよ」
お兄ちゃんだった。が、自転車にも提案にも乗る気にはなれない。
「いい」
「早く」
「いいってば」
「こんな事、2度と無いかもしれないぜ」
 どういう意図かはわからないけど、それは確かにそうだと思った。
「余計な事考えないで、最善の方法に飛び込むのもいいもんだ」
続けて兄はそう言った。私の心を知ってか知らずか、その言葉にも妙に説得力を感じた私は、なんだか急に気が変わってきた。
「ほら、早く」
「…うん」
 しぶしぶしがみつく背中は、思いの外大きかった。昔はあんなに仲が良かったのに、いつからほとんど会話もしなくなったのだろう。別に、お兄ちゃんが嫌いになったわけでもないのに。
「大学って楽しい?」
「楽しいよ。お前次第で、どうとでも過ごせるさ」
「私は今楽しくない」
「それはお前がなんでもやる前から考えすぎてるからだ」
「そうなの?」
「そうさ。あれこれ悩んで動けなくなるより、動いて失敗した方がまだ清々しいぜ」
 私がお兄ちゃんと会話しなくなった理由を、本当はなんとなくわかってる。お兄ちゃんのそういう姿勢が、私とは真逆で、なんだか話が合わないと感じるようになったからだ。父さんなんて、その最たるところだ。
 お兄ちゃんは、そのことに気づいてた?気づいて、そっとしてくれてた?
「着いたぜ。俺は自転車停めてから次の電車に乗る」
 素晴らしい速さで駅前に到着したものの、早朝からの二人乗りが目立って周囲から軽く注目を浴びてしまう。
「ありがと」
 バツが悪くて伏し目がちに放たれたお礼にじゃあなと応えると、見た目より大っきな背中は消えていった。なぜかわからないけど、私は急に泣きたくなった。いや、そうじゃない。お兄ちゃんが行く前に、無理にでも泣いておけばよかったと思ったんだ。

 ジーワジワジワジワ…ジーワジワジワジワ…。
 話し声や笑い声を耳にしながら、校門前の長い長い上り坂を無言で進む。トンネルのように向かい合った並木道からの木漏れ日で、額がじっとりと汗ばむ。いつもと違う朝のようで、いつも通りの朝だった。お兄ちゃんと話して少し軽くなったように思えた体も、学園名物のこの坂のせいで再び重たくなってしまい、一向にペースが上がらない。
「おはよう…はぁ、はぁ」
 息を切らしながらお兄ちゃんの次に私の隣に追いついたのは、三週間前喧嘩したあの子だった。
「お、おはよう」
 私はびっくりして、声が上ずってしまう。
「ごめんね、この前」
 友達からまさかの言葉が飛び出し、今度は目を丸くしてしまう。
「色々考えてさ、周りの子達にも相談してたんだけど、私が言いすぎたな、って。…はぁ、はぁ。あなたに…はぁ、はぁ。悪気があったわけじゃないのに」
 友達はまだ息を切らしていて、力強く私を追い越しながら言う。
(あれこれ悩んで動けなくなるより、動いて失敗した方がまだ清々しいぜ)
 お兄ちゃんの言葉がよぎる。誰だって、色々悩んでる。なのに、私は…。
「ううん。私が悪いの。ごめんね、余計なこと言っちゃって」不思議と、私の息は切れていなかった。「また、お昼一緒に食べたい」
 精一杯、力強く言う。
「うん、もちろん!…はぁ、はぁ」
 友達は笑顔で振り返ってそう言うと、そのままさらにペースを上げて坂を上っていった。

 ジーワジワジワジワ…おはよう!ジーワジワジワジワ…昨日の観た?
 ジーワジワジワジワ…おはよ~。ジーワジワジワジワ…あー、昨日夜ふかしするんじゃなかったぁ。
 そこかしこで、挨拶と会話が聞こえる。さっきまでも聞こえていたけど、よりクリアに耳に入ってくる気がした。私は額の汗を拭いながら、自分のペースを守ったまま、ようやく校門前にたどり着く。
 おっはよー。
 おは~。
 おはよぉ!
 下駄箱のガラス扉越しに、クラスメイト達が談笑しているのが見える。坂道を登り終えた私の体はさっきまでと打って変わって、綿毛のように軽くなっていた。まだまだ、暑くなるだろう。まだまだ、やる事もたくさんある。だけど今不思議と、何かワクワクとした気配を感じている。なんだかこのワクワクを、誰かに伝えたくなるような…そんな気持ち。
 私は大きく深呼吸をすると、手すりに手をかけ、ゆっくりと初夏の扉を開いた。
「おはよう」
 心地よい涼しい風が、扉の向こうには優しく流れていた。



ー了ー
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み