第1話

文字数 2,081文字

 暇なときは書店へ行く。特に目当ての本があるわけではなく、ふらっと立ち寄る。新刊をチェックしたり、背表紙を眺めて気になるものがあれば手に取って中身を流し読みしたり。僕は、書籍に貴賤はないと考えている。歴史小説もSFもミステリーもフィクションもノンフィクションも関係なく、面白いと感じるものは好きだし、活字だろうが漫画だろうが写真集だろうが雑誌だろうが、内容に心惹かれるかどうかという点が最も重要だと思う。いろんな店舗に足を運ぶことで、昨日とはまた違う本を発見することもある。楽しみ方の一つだ。
 一冊、ある本を手に取る。高木さんという人の本。しかし、タイトルから、特に興味は惹かれないため、中身を見ることはない。僕の、所謂「良い小説センサー」みたいな感性は、本日のところ、恋愛小説に反応することはないようだ。半年に一度や二度、途方もない虚しさと哀愁とほろ苦さとほろ甘さをジューサーにかけて一気飲みしたくなる。そんなときには恋愛小説は打ってつけなのだけれど。
 問題なのは、この本が陳列されていた位置にある。高木さんという作者の本なのに、千葉さんと茶ノ原さんの本の間に挟まっていた。これを、鷹垣さんの次に直す。よし。
 同様に、斎藤、沢村、佐藤と並んでいるうち、沢村を抜き取り、皿場と三条の間に。中本、西村、梨木と並んでいるうち、西村を抜き取り、三冊ずらして梨木と根本の間に。
 シリーズもので、例えば、二巻と三巻の間に間違って四巻が挟まっていることがある。これも直す。左から一巻、二巻、三巻、四巻と直す。
 店員ではないし、こんなことに全く意味なんてないことはわかっている。当然、わかっていないほうがおかしい。給料がもらえるわけでもないし、本を買うときに割引されるわけでもない。ただ、折角、本が並んでいるのに、バラバラになっているとモヤモヤする。一冊でも規律に沿っていない本を見ると正したくなる。こうして、本がちゃんと五十音順に、決まったルールに則って並んでいるのが好きだ。一冊一冊、正しい順序の場所に戻す度に、口角が上がる。達成感を得る。全能感すら覚える。
 一時間ほど陳列されている本を眺めたり、間違った順に陳列されているのを直したり、一見すると不審者さながら物色していると、大抵一冊、二冊くらいは読んだことのない本に興味をそそられ、こちらは通常通り、常識通り、購入するために手に取る。レジにて決済。本来、書店とは本を購入するところであって、まさか陳列を直すことを目的の一つに来店している客がいるとは、店員側は露とも知らないだろう、ということにすら内心ほくそ笑む。
 帰り道すがら、行きつけにしている喫茶店に入る。いつもの、と頼むと寡黙なマスターは深く頷き、手慣れた様子でサイフォンを使い、深煎りのブレンドコーヒーを淹れ、二個の角砂糖を溶かして提供してくれる。その間、僕はカウンターの空席に腰を掛け、先程、購入した本を一冊取り出す。「猫が液体であることを示す125個の根拠」。一口、コーヒーを含み、ゆっくりと飲む。いつもと変わらない味。変わらないからこそ、足繁く通っている。不変と安心感は親友なのだろうと思う。
 百二十ページほど読んだタイミングで、マスターは新しくコーヒーを淹れてくれる。BGMとして流れるジャズに時折耳を傾けながら、それでもページをめくる手は止まらない。二時間と十五分で読了し、本を仕舞って、財布から千百円を取り出しカウンターに置く。ごちそうさま、と声をかけると、マスターは深く頷く。いつもの、ごちそうさま、僕がマスターにかける言葉はこれ以上ない。マスターが僕にかける言葉は介在しない。
 住んでいるマンションのうち、隣同士の二部屋を借りている。301号室は居住用に、302号室は書架に。
 まず、301号室に帰り、読み終えた「猫が液体であることを示す125個の根拠」を取り出す。もう一冊の「異世界に於ける鉄則―其の廿肆 自尊心は時に破滅を招く―」というライトノベルは、あの喫茶店で読むにはいささかライトすぎる。明日読もう。こういう異世界物のライトノベルは、ジャズではなく、ケルト音楽を聞きながら読むのが没入感を得やすい。
「猫が液体であることを示す125個の根拠」を片手に、マッカラン12年とグラスを袋に入れて、302号室へ移る。動物に関する本を並べている本棚に、黒淵さんの「名犬サイモンの大冒険」と小池さんの「百日紅」がある。「猫が液体であることを示す125個の根拠」は剣崎さんという作家の本なので、ここに。
 302号室にある本棚以外の唯一の家具である安楽椅子に座る。マッカランをグラスに注ぎ、ボトルは床に置く。五千冊ほどはあるだろう、書架を眺め、おもむろにグラスを傾け、マッカランを口に含む。
 ジャンルごとに区分けされ、作者の五十音順に並び、シリーズものは左から一巻、二巻と進む。規矩準縄に則り、美しく整列する彼らを眺める。マッカランに酔っているのか、この空間の静謐さに酔い痴れているのか判別不能になった頃、静かに眠りに落ちる。
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