第1話

文字数 1,989文字

「何食べましょう?」
「んー、なんでもいいです」
 僕の問いかけに彼女は予想通りの回答をした。いわゆる「なんでもいい」が一番難しいという問題だ。
「じゃあ、米か麺のどちらかと言えば?」
「何ですか、それ?」
「迷ったときは二択にして身体の声を聴くんです。どちらかに傾くでしょう」
「そうですね、強いて言うなら今日は麺の気分です」
「辛いか辛くないかでいったら?」
「まだ続くんですか?」
「二択を繰り返していくんです。最終的には1024通りの答えに辿り着くので」
「10回も質問するんですか」と即答した彼女はさすがだ。
 すると彼女は心あたりがあったようで「台湾ラーメンにしませんか」と言った。

 台湾ラーメンとは炒めた挽肉やニラなどが載った醬油ベースの辛口ラーメンである。台湾の名を冠しているが名古屋発祥らしい。台湾人の友達が教えてくれた。ちなみに台湾では台湾ラーメンのことを「名古屋ラーメン」と呼ぶそうだ。
 彼女に連れられ向かったのは商店街の中にあるラーメン屋だった。電飾で縁取りされた派手な看板には「本格派長浜ラーメンじゃんばら屋」と描かれている。本格派の長浜ラーメン屋が供する名古屋発祥の台湾ラーメンというのはいろいろ矛盾している気がした。
 店内は活気に溢れていて、僕らが入店するなり「いらっしゃいませー!」「楽しんで!」「オンザバイユー!」という掛け声で迎えてくれた。
 店員に案内され席に着くと彼女は「私は台湾ラーメン超激辛で」と迷うことなく注文した。
「じゃあ同じので」
 僕も判断に時間をかけないよう、メニューも吟味せずすぐに注文した。彼女の注文は普通の台湾ラーメンではなかったような気がしたが、その時点では気にならなかった。

 ほどなくしてどんぶり両手に持った店員が厨房から出てきた。店員は注文したものをテーブルに置いた。唐辛子の刺激的な香りが鼻を衝く。どんぶり一面が血の池地獄のように真っ赤だ。中央に盛られたもやし、ニラ、挽肉が鮮やかなコントラストを演出するが、ラーメンそのものが醸し出す禍々しさをごまかしきれていない。
「激辛台湾ラーメンですか?」
 僕がそう尋ねると、店員は不敵な笑みを浮かべ「超・激辛です」と答えた。
「どれくらい辛いんですか?」
「食べてみれば分かりますよ」
 そう言い残して店員は厨房の奥に消えていった。
「さあ、いただきましょう」
 彼女に促され、恐る恐る蓮華で真っ赤なスープをすくった。スープのわずかなとろみは唐辛子によるものだろう。スープをすすって意外といけるかと思ったが、0.2秒後に口の中は砂嵐のような辛さに襲われた。思わずコップに手を取り、水を飲む。あらためて超激辛台湾ラーメンに対峙した。僕はカプサイシンの沙漠を目の前に途方に暮れる旅人だった。
「おいしいですね」
 彼女はスープを口にしてそう言った。その表情は涼しげで激辛ラーメンというより冷やし中華でも食べているかのようだった。これは幻か、あるいは地平線の向こうに浮かび上がるオアシスの蜃気楼なのか。
 彼女に遅れないよう僕も食べ進めた。顔から噴き出した大粒の汗がぽたりぽたりと音を立ててテーブルに滴り落ちた。
「大丈夫ですか?汗すごいですよ」
「僕、汗かきなんです」

「3.5ですね」
 台湾ラーメンを完食するなり彼女はそう言った。
「何のレートですか?」
「辛さです。5.0満点中3.5ぐらいかなって」
 その日をきっかけに僕らは連れ立って辛い料理を食べに行くようになった。ラーメンの他にも麻婆豆腐、カレー、スンドゥブチゲ、トムヤムクン、サルサ、グヤーシュ、ケルクショーズ等様々な激辛料理を食べた。そして食べ終わると二人でレーティングした。「痺れ」をレートに換算するかで議論が白熱したこともあった。激辛料理は僕らが旅するモチベーションとなり、激辛料理と共に僕らの世界も広がっていった。

 そんなある日、彼女は姿を現さなくなった。周りの人に訊いても「家の事情らしい」と言うだけで詳しいことは分からなかった。僕は彼女と連絡を取る手段を持ち合わせていなかったし、どこに住んでいるかも知らなかった。もっとも知ったところでどうしようもなかっただろう。
 その後も僕は一人で辛い料理を求めて街を彷徨った。その頃には僕は並みの辛さでは満足できない身体になっていて、僕の求めるスコヴィル値はインフレし、もはや激辛と言うより極辛、獄辛を越えて致死辛と言うべきレベルに達していた。しかし僕はそれを止めることができなかった。激辛料理は僕と彼女を結びつける唯一の絆だったからだ。


 店員が見守る中、僕はポークカレー辛さ1000倍を口に運んだ。ふと涙が零れ落ちた。並みの辛さでは汗すらかかないのに、涙が止まらなくなった。
「やっぱり辛すぎました?」
 心配した店員が僕に声を掛けた。
「大丈夫です。美味しいです。ただ、物足りないんです。辛いけど、物足りないんです」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み