希望の訪れ

文字数 1,151文字

神への賛美、信仰宣言、歴史、様々な内容で構成される聖書であるが、他の書物では見ることのできないものがある。神の言葉だ。聖書や聖人を題材とした書物は無数にあるが、それらと聖書との間に決定的な違いがあるとすれば、聖書の中には、神が特定の人々を通して人類に語りかけたもの、或いは、神が力を与えてその言葉を人間に書かせたものが存在することであると思う。

神の言葉は、いつも光とともにあって人類に正しい方向と希望の訪れとを告げる。私が聖書に深く惹かれてしまう理由もそこにある。聖書には人間の書物となるどのような古典を読んでも得ることのできない、人の次元を超えた清浄さや透明感を感じる。

光、そして力とともにある神の言葉をどのように感じるかによって、聖書が人に与える影響力も異なってくるように思う。人間の著作物からも、様々な世界観や価値観を学ぶことができる。しかし、聖書のように、言葉を超えて広がる空間や、はるかなる高みにある存在を感じさせてくれるものはない。

聖書の中に、神を、天使たちを、或いは、聖なる存在の力と美しさとを感じるとき、その人はそれらを求める人生を歩むことになるだろう。それこそが、聖書との出会いで一番大切なことではないかと思う。

神の言葉自体は、決して学問、思想、哲学等の類のものではない。私のような無学な者にも導きとなる美しさと力とを与える人類へのメッセージだ。それは、両親が暖かい眼差しと無私の心とで子どもたちを導くときの語りかけにも似ているものかもしれない。

もし、人類が本気で神の言葉と向き合い、それを生きるための指針とし、素直にその実践に励んでいれば、とうの昔に地上には神の平和が実現されていたことであろう。

一人ひとりが自ら神の子としての使命を求め、神の子として生き、地上に真の平和を創造していく決意をもつとき、初めて人類は真に地を受け継ぐものとしての資格を得られるのかもしれない。

地を受け継ぐものとして、相応しい責任を果たしなさい、という神の人類への思いを、イエスは自らの命を削って未来へと続く人類とその平和のためにお示しになった。

聖書を人類に対する神からのメッセージとして真摯に読み直すとき、人類を愛する神からの切なる思いを感じることができると思う。

聖書は読み解くものではない。単純で貧しい心の人々に、まっすぐに語り掛けてくる神の慈愛の言葉たちである。

聖書に何を求め、何を探し出そうとするか。多くの人たちは、そこに慰めや希望を見出そうとしているのかもしれない。また、ある人々は、社会的成功の原理、黄金律をそこに求めようとするかもしれない。しかし、聖書が示すものは、そのような個人的利益を実現するための方法論や心構えではない。だからこそ、聖書は私にとって思いの尽きることのない一冊なのである。
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