書けない文筆家の私
文字数 3,978文字
ここ二十年ほど、文章を書けていない。
原因は、理想とする文章を書けないからだ。
私は子供の頃から本が好きで、自然と小説家を目指すようになった。
中学生くらいから、童話を書いて賞を取ったりしていた。人に面白いと思われる本を作りたい。そんな思いが私を机に向かわせていた。
その一方で、絵を描く趣味もあった。こちらは文章ほど上手くはなかったが、将来自分で文章や絵を描いて、絵本でも作れたら、と思っていた。
進路を選ぶ時期になって、私は美大を目指すことにした。なんか普通の人と違ってかっこいい、と思ったからだった。
しかし、絵は下手だった。そこで高校の後に美大の予備校に通うことになった。しかしそこで待っていたのは、圧倒的な才能の差だった。
負けず嫌いな私は人より時間をかけて一枚のデッサンに取り組んだ。それでも講評で酷評される日々だった。その頃は絵だけに全てを注ぎ込んでいた。文章を書くことは愚か、本を読むことからも遠ざかっていた。
そしていつものようにデッサンを酷評されたある夜、私は家で首を吊った。
早いうちに家族に発見され、助けられた。親は私に美大進学を諦めるよう言った。
自殺未遂から一週間ほど経って私が始めたことは、猛勉強だった。
それまでは美大に普通の勉強は必要ない、と何もしていなかった。
しかし私は、芸術というアウトローな世界に入ることを否定された結果、品行方正な方向にグレたのだった。良い大学に入って、正反対の世界から芸術の世界を見返してやる。私に残されたのは勉強しかなかった。
当時私が少し詳しく知っている大学といえば、有名作家を多く輩出している有名私立だけだった。浪人することになった私は一年猛勉強した挙句、その大学の文学部に進学した。
私は恨みや怒りが大きなエネルギーになること、自分もやればできることを知った。
しかし人生は甘くなかった。上京し、一人暮らしを始めてから私の精神状態は悪化していった。それというのも、競走は受験で終わりではなかったからだった。良い仕事を得てもっと尊敬されるには、さらに努力しなければならなかった。もはや芸術の世界を見返すなど、どうでも良いことになっていた。一度勝利の味を知ってしまっては元に戻れない。私は勝ち続けなければならなかった。
大学の四年間、私はとった講義のほとんどを最高の成績で終えたが、心身ともに疲弊して行った。すれ違う人が自分の悪口を言っているように感じ、気持ちは荒んで行った。また、こんなに頑張っているのに私を認めていない、と家族との関係も悪くなり、結果的に八年ほど音信不通になった。
良い成績を取ることに執心していた一方で、国家公務員総合職を受験するための勉強もしていた。しかし卒業間際になって情緒不安定になり、絶対に無理だ、と受験せずに終わった。かと言ってエリートである国家公務員以外の職に興味は持てないため就活もろくにしなかった。
そして惰性のままに卒論を書き、大学卒業を迎えた。
卒業後はフリーターをしながら弁護士を目指して勉強していた。数日間派遣で割のいい仕事をして数日間こもって勉強する。金がなくなればまた派遣に登録する、と言ったことを繰り返していた。
住んでいたのは風呂なし、トイレ共同の古アパートで、ネズミが出た。そこで私は、すでに習慣になっていた猛勉強を、昼となく夜となくした。すべてはいつかエリートになって高層マンションに住み、私を馬鹿にした皆を見返すためだった。
今にして思えば、私は受験で合格した時の、努力が報われた感覚が忘れられなかったのだと思う。完全に盲目的な勉強依存症に、努力依存症になっていた。
はなから誰も私を馬鹿にしてなどいなかったのだが、勝利の達成感をもう一度味わいたいという動機から、周囲を仮想敵にして勉強を続ける理由をつけていた。
そんな日々も長く続かなかった(といっても、四年くらい続いた)。ある時期から私は労働に行くことが億劫で、そんな時間があるなら勉強していたい、と思うようになっていた。
それでも家賃の支払い期限が近づいてきて、仕方なく日雇いの仕事を探しにハローワークに行った時、全財産は二百円だった。
職員の女性は私の話を聞いて生活保護を勧めてくれた。
市役所で手続きなどをすると許可はわりと早く降り、働かなくても私の口座に月十二万円程振り込まれるようになった。
私は調子に乗り、一層勉強にのめり込み、あわよくば弁護士試験に受かるまでこのままで、と考えていた。
転機はすぐに訪れた。
以前から、道行く人がすれ違いざまに悪口を言うのが聞こえていた。
その状況がある日急に激しくなった。具体的にはアパートの壁を通して悪口や自分を見張っている声がする、思考が誰かに読み取られている気がする、と言ったものだった。
これはやばい、と思ったが何が起こっているのか分からずどうしようもなかった。
そんな状態が一週間続き、ある晩遂に私を殺しに来ると声が話し始めて、私は夜の町に逃げ出した。自衛のために包丁を持って。
すぐにタクシーを見つけて乗り込んだ。空港まで、と私は言った。
実家に帰るつもりだった。
しかし声は酷くなり、今すぐみんなで殺す、一番残酷な方法で殺す、と話してきた。
来るはずの追ってから逃れるために、私は包丁を自分の胸に突き刺した。
胸だけではすぐに死ねなかった。私は口から血を吹き出しながら首、腕、足を刺した。
全身が痺れてぼうっとしてきた。
タクシーのドアが開き、警官らしき人が警棒で私の持っていた包丁を叩き落とした。
私は担架に乗せられて病院に運ばれた。二月の寒い夜で、私は担架の上で夜空を見ながら、死ぬんだなあ、と思ったことを覚えている。
緊急搬送先の病院で、麻酔をかけられ刺し傷を縫われ、ICUに入った。
数日は熱が出て、意識も朦朧としていた。まだ声も聞こえていて、暴れたりした。
ある日、目を覚ますと家族の顔があった。実家から駆けつけたらしかった。私は偽者がきた、と思い、再び暴れた。
その後私は別の病院に移り、一週間ほどベッドに拘束された後、自由に歩いたりできる病棟に移された。
家族が見舞いに来てくれたり、医師と少し話をしたりしたが、まだ自分の状況を把握できずにいた。
例の声も聞こえたり聞こえなかったりしていて、相変わらず自分は殺されるのではないか、と落ち着かなかった。
三ヶ月後、退院間近に医師と家族で話をする段になった。そこで初めて医師から「統合失調症」という言葉を聞いた。
私は病気なのか、と妙にしっくりした気がして落ち着いた。そして退院し、私は実家に帰った。
それから数年間、療養という名の無職生活をした。家族とも和解し、月に一度の通院と注射で例の声はほぼ聞こえなくなっていた。
暇だったのと近所に図書館があったことから、少しづつ本を読むようになった。
何も起こらず平穏に過ぎて行った数年間だった。
しかし現実は相変わらず厳しかった。
三十代を目前にして、私は社会復帰しなければならなかった。障害者年金だけでは生きていけず、親も老齢だったからだった。私は求職活動を始めた。
自己分析をしたり資格取得をしたりして、自分にできる仕事はないか模索した。
そんな時、近所の図書館に併設されている資料館で非常勤職員を募集していることを知った。
私は応募し、学歴と在学中の成績、資格が評価されて採用が決まった。
働き始めた私だったが、面接で上司に言われたことが気になっていた。
それは「学歴すごいのに職歴大したことないね」というものだった。
その言葉は私の負けず嫌い心に火をつけた。
私は、資料館で働きながら正職員になるための就職活動を続けた。
当時、国家公務員の障害者採用水増し問題が取り沙汰されていた。私の住んでいる土地でも国家公務員の障害者枠試験が行われると知り、私は受験した。
そして、ある省の一般職に合格した。
完全に諦めていた国家公務員の夢が、こんな形で叶うとは思ってもいなかった。
人生捨てたもんじゃない、そう思えた。
しかし本当に私がやりたかったことは童話や小説を書くことだった。
こんなふうに人生は終わっていくのだろうか。
仕事にも慣れ、疲れて眠りにつく夜にふとそんなことを思うのだった。
そんな時、ひょんなことから一人暮らしをすることになった。
というのも、東京で働いていた妹が退職したからだった。妹が暮らせるほど実家のマンションは広くなかった。それなら、というので私が同じマンションにもう一室借り、妹と二人で住むことになったのだった。その頃にはお金も少し溜まっていたので、妹の面倒を見ることができた。
妹は仕事を辞め、かつてやっていた漫画家業を再開するらしかった。漫画家として自立するまでの二年という期限つきで二人暮らしが始まった。そしてこの生活が、私に芸術への思いを再燃させてくれたのだった。
妹と漫画や小説の話にうち興じ、自分も何か書いてみたいと思うまではすぐだった。
二十数年ぶりに書いた小説はお粗末だった。
それでも妹をはじめ家族は褒めてくれた。
嬉しくて何本か書くうちに、あの感覚が戻ってきた。
上手く書けないのがもどかしい。上手く書けないのなら何も書きたくない、という気持ちだ。
思えば、そんな気持ちが中学生時代の私に筆を鈍らせ、ふらふらと人生を彷徨うきっかけになったのだった。
もし少しずつでも書いていたら、書くことをやめていなかったら。
そうしていたら、間違った方向に人生の舵を切り、何年もまやかしを追い求め、病気になることもなかったかもしれない。
それでも、後悔しても仕方がないのは確かなことだ。
今からでも自分の幸せを追うしかない。
だから私は書き続ける。
原因は、理想とする文章を書けないからだ。
私は子供の頃から本が好きで、自然と小説家を目指すようになった。
中学生くらいから、童話を書いて賞を取ったりしていた。人に面白いと思われる本を作りたい。そんな思いが私を机に向かわせていた。
その一方で、絵を描く趣味もあった。こちらは文章ほど上手くはなかったが、将来自分で文章や絵を描いて、絵本でも作れたら、と思っていた。
進路を選ぶ時期になって、私は美大を目指すことにした。なんか普通の人と違ってかっこいい、と思ったからだった。
しかし、絵は下手だった。そこで高校の後に美大の予備校に通うことになった。しかしそこで待っていたのは、圧倒的な才能の差だった。
負けず嫌いな私は人より時間をかけて一枚のデッサンに取り組んだ。それでも講評で酷評される日々だった。その頃は絵だけに全てを注ぎ込んでいた。文章を書くことは愚か、本を読むことからも遠ざかっていた。
そしていつものようにデッサンを酷評されたある夜、私は家で首を吊った。
早いうちに家族に発見され、助けられた。親は私に美大進学を諦めるよう言った。
自殺未遂から一週間ほど経って私が始めたことは、猛勉強だった。
それまでは美大に普通の勉強は必要ない、と何もしていなかった。
しかし私は、芸術というアウトローな世界に入ることを否定された結果、品行方正な方向にグレたのだった。良い大学に入って、正反対の世界から芸術の世界を見返してやる。私に残されたのは勉強しかなかった。
当時私が少し詳しく知っている大学といえば、有名作家を多く輩出している有名私立だけだった。浪人することになった私は一年猛勉強した挙句、その大学の文学部に進学した。
私は恨みや怒りが大きなエネルギーになること、自分もやればできることを知った。
しかし人生は甘くなかった。上京し、一人暮らしを始めてから私の精神状態は悪化していった。それというのも、競走は受験で終わりではなかったからだった。良い仕事を得てもっと尊敬されるには、さらに努力しなければならなかった。もはや芸術の世界を見返すなど、どうでも良いことになっていた。一度勝利の味を知ってしまっては元に戻れない。私は勝ち続けなければならなかった。
大学の四年間、私はとった講義のほとんどを最高の成績で終えたが、心身ともに疲弊して行った。すれ違う人が自分の悪口を言っているように感じ、気持ちは荒んで行った。また、こんなに頑張っているのに私を認めていない、と家族との関係も悪くなり、結果的に八年ほど音信不通になった。
良い成績を取ることに執心していた一方で、国家公務員総合職を受験するための勉強もしていた。しかし卒業間際になって情緒不安定になり、絶対に無理だ、と受験せずに終わった。かと言ってエリートである国家公務員以外の職に興味は持てないため就活もろくにしなかった。
そして惰性のままに卒論を書き、大学卒業を迎えた。
卒業後はフリーターをしながら弁護士を目指して勉強していた。数日間派遣で割のいい仕事をして数日間こもって勉強する。金がなくなればまた派遣に登録する、と言ったことを繰り返していた。
住んでいたのは風呂なし、トイレ共同の古アパートで、ネズミが出た。そこで私は、すでに習慣になっていた猛勉強を、昼となく夜となくした。すべてはいつかエリートになって高層マンションに住み、私を馬鹿にした皆を見返すためだった。
今にして思えば、私は受験で合格した時の、努力が報われた感覚が忘れられなかったのだと思う。完全に盲目的な勉強依存症に、努力依存症になっていた。
はなから誰も私を馬鹿にしてなどいなかったのだが、勝利の達成感をもう一度味わいたいという動機から、周囲を仮想敵にして勉強を続ける理由をつけていた。
そんな日々も長く続かなかった(といっても、四年くらい続いた)。ある時期から私は労働に行くことが億劫で、そんな時間があるなら勉強していたい、と思うようになっていた。
それでも家賃の支払い期限が近づいてきて、仕方なく日雇いの仕事を探しにハローワークに行った時、全財産は二百円だった。
職員の女性は私の話を聞いて生活保護を勧めてくれた。
市役所で手続きなどをすると許可はわりと早く降り、働かなくても私の口座に月十二万円程振り込まれるようになった。
私は調子に乗り、一層勉強にのめり込み、あわよくば弁護士試験に受かるまでこのままで、と考えていた。
転機はすぐに訪れた。
以前から、道行く人がすれ違いざまに悪口を言うのが聞こえていた。
その状況がある日急に激しくなった。具体的にはアパートの壁を通して悪口や自分を見張っている声がする、思考が誰かに読み取られている気がする、と言ったものだった。
これはやばい、と思ったが何が起こっているのか分からずどうしようもなかった。
そんな状態が一週間続き、ある晩遂に私を殺しに来ると声が話し始めて、私は夜の町に逃げ出した。自衛のために包丁を持って。
すぐにタクシーを見つけて乗り込んだ。空港まで、と私は言った。
実家に帰るつもりだった。
しかし声は酷くなり、今すぐみんなで殺す、一番残酷な方法で殺す、と話してきた。
来るはずの追ってから逃れるために、私は包丁を自分の胸に突き刺した。
胸だけではすぐに死ねなかった。私は口から血を吹き出しながら首、腕、足を刺した。
全身が痺れてぼうっとしてきた。
タクシーのドアが開き、警官らしき人が警棒で私の持っていた包丁を叩き落とした。
私は担架に乗せられて病院に運ばれた。二月の寒い夜で、私は担架の上で夜空を見ながら、死ぬんだなあ、と思ったことを覚えている。
緊急搬送先の病院で、麻酔をかけられ刺し傷を縫われ、ICUに入った。
数日は熱が出て、意識も朦朧としていた。まだ声も聞こえていて、暴れたりした。
ある日、目を覚ますと家族の顔があった。実家から駆けつけたらしかった。私は偽者がきた、と思い、再び暴れた。
その後私は別の病院に移り、一週間ほどベッドに拘束された後、自由に歩いたりできる病棟に移された。
家族が見舞いに来てくれたり、医師と少し話をしたりしたが、まだ自分の状況を把握できずにいた。
例の声も聞こえたり聞こえなかったりしていて、相変わらず自分は殺されるのではないか、と落ち着かなかった。
三ヶ月後、退院間近に医師と家族で話をする段になった。そこで初めて医師から「統合失調症」という言葉を聞いた。
私は病気なのか、と妙にしっくりした気がして落ち着いた。そして退院し、私は実家に帰った。
それから数年間、療養という名の無職生活をした。家族とも和解し、月に一度の通院と注射で例の声はほぼ聞こえなくなっていた。
暇だったのと近所に図書館があったことから、少しづつ本を読むようになった。
何も起こらず平穏に過ぎて行った数年間だった。
しかし現実は相変わらず厳しかった。
三十代を目前にして、私は社会復帰しなければならなかった。障害者年金だけでは生きていけず、親も老齢だったからだった。私は求職活動を始めた。
自己分析をしたり資格取得をしたりして、自分にできる仕事はないか模索した。
そんな時、近所の図書館に併設されている資料館で非常勤職員を募集していることを知った。
私は応募し、学歴と在学中の成績、資格が評価されて採用が決まった。
働き始めた私だったが、面接で上司に言われたことが気になっていた。
それは「学歴すごいのに職歴大したことないね」というものだった。
その言葉は私の負けず嫌い心に火をつけた。
私は、資料館で働きながら正職員になるための就職活動を続けた。
当時、国家公務員の障害者採用水増し問題が取り沙汰されていた。私の住んでいる土地でも国家公務員の障害者枠試験が行われると知り、私は受験した。
そして、ある省の一般職に合格した。
完全に諦めていた国家公務員の夢が、こんな形で叶うとは思ってもいなかった。
人生捨てたもんじゃない、そう思えた。
しかし本当に私がやりたかったことは童話や小説を書くことだった。
こんなふうに人生は終わっていくのだろうか。
仕事にも慣れ、疲れて眠りにつく夜にふとそんなことを思うのだった。
そんな時、ひょんなことから一人暮らしをすることになった。
というのも、東京で働いていた妹が退職したからだった。妹が暮らせるほど実家のマンションは広くなかった。それなら、というので私が同じマンションにもう一室借り、妹と二人で住むことになったのだった。その頃にはお金も少し溜まっていたので、妹の面倒を見ることができた。
妹は仕事を辞め、かつてやっていた漫画家業を再開するらしかった。漫画家として自立するまでの二年という期限つきで二人暮らしが始まった。そしてこの生活が、私に芸術への思いを再燃させてくれたのだった。
妹と漫画や小説の話にうち興じ、自分も何か書いてみたいと思うまではすぐだった。
二十数年ぶりに書いた小説はお粗末だった。
それでも妹をはじめ家族は褒めてくれた。
嬉しくて何本か書くうちに、あの感覚が戻ってきた。
上手く書けないのがもどかしい。上手く書けないのなら何も書きたくない、という気持ちだ。
思えば、そんな気持ちが中学生時代の私に筆を鈍らせ、ふらふらと人生を彷徨うきっかけになったのだった。
もし少しずつでも書いていたら、書くことをやめていなかったら。
そうしていたら、間違った方向に人生の舵を切り、何年もまやかしを追い求め、病気になることもなかったかもしれない。
それでも、後悔しても仕方がないのは確かなことだ。
今からでも自分の幸せを追うしかない。
だから私は書き続ける。