第1話

文字数 43,704文字

     オムニス
                                蘭野みゆう

 朝が来た。目が覚めるといつものようにザザー、ザザーと雨が降りこめる音が聞こえる。だが、雨が降っているわけではない。その合間を縫ってドン・タク、ドン・タクと規則正しい響きが伝わってくる。ずっと遠くの方で誰かが太鼓を叩いているみたいだ。外はまぶしい光の春らしいが、その光もここでは昏い灯籠のゆらめきにすぎない。暗赤色のカーテンに包まれてまだとろとろと眠っていたいけれど、思い切って目を覚ますとしよう。サーカディアンリズムを身につけないといけないから。
 生物は植物も動物も体内時計によって規則正しい一日の体内リズムを維持している。あの春の化身のようなミモザは(あの可憐な黄色には胸がときめく)昼にその葉を広げ、夜には閉じる。思索好きな月見草は夜に花開き、光の刺激にはたちまち閉じてしまう。空飛ぶ紳士コウモリのご出勤はいつも夕方だし、几帳面なセミははっきりした日周期性を守って鳴く。のんびりと海に漂う発光藻の一種ゴニオラックスでさえ、夜昼のべつ幕なしに光っているわけではない。きちんと一日のリズムをわきまえている。かくして単細胞の藻類から哺乳類にいたるまで、生物はサーカディアンリズムをその細胞に刻んでいる。
 人間も地球の自転に伴う明暗に合わせて、太陽が昇ると起床し、食事をして働き、日が沈むと眠って休息するように設計されている。ところが、現代ではサーカディアンリズムの狂った人間が山のようにいるそうだ。なにせ都会は不夜城で一晩中煌々と明るいし、夜更かし、夜遊びする連中が夜行性のネズミみたいにビルの谷間をうろちょろしている。不規則な生活をしていると自律神経が失調して、いろんな病気にかかりやすくなるのだが、本当に病気になるまでそんなことにはお構いなしだ。中にはすっかり夜昼逆転して、それで何十年もつつがなく暮らしている例外的御仁もいるらしいが、やはり、自然のリズムに逆らっていると、たいていは後でろくなことがない。
 どうやら上方の視交叉上核から光信号が入ったようだ。いよいよはっきり目が覚めてきた。ここでちょっと朝のお茶でも飲むか。ぬるくて毎度同じような味だが、文句は言えない。今のところ唯一の命の水だからな。おや、口の中に引っかかったのは何だい?どうせまた、うぶ毛か、何かの脱落細胞だろう。飲んじまおう。昨日の夜もぐっすり眠ったなあ。魚の夢を見た。いや、魚だった時の夢を見た。広い広い海の中を気持ちよく泳いでいた。丈夫な脊椎の左右に分厚く盛り上がった弾力のある筋肉をフルに使って、体をくねらせて海水を後ろへどっと押しのけ、その反作用で力強く前に進む。時速百キロを超えるスピードでいわしの群を追い、スリルと解放感を存分に味わう。それから、追い越しざま、閉じていた胸びれをぱっと開いて急ブレーキをかけ、同時にたたんでいた前の背びれを瞬時に起こし、体をひらりとターンさせる。後はあんぐり口を開いて向こうから飛び込んでくる美味しいお客をいただくばかり。
 こんなことができるようになったのも、丈夫な頭骨と脊椎が軟らかい脳と脊髄を守ってくれるおかげだ。だから、イソギンチャクやクラゲのように脊椎がない動物は、感覚神経や運動神経はあっても、中枢的な働きをする脳・脊髄はないのじゃ。
 おや、いい音楽が聞こえてきたぞ。今朝は日本の抒情曲か。ふん、ふん。これは『おぼろ月夜』だな。おや、メロディーを奏でているのは箏らしいな。ま、どっちかというと演歌の方が好みだが、たまには文部省唱歌も悪くないか。菜の花畑に入り日薄れ・・・土埃の立つ田舎道。菜の花の柔らかい黄色と淡い緑。遠くの山の稜線はぼうっと霞んでいる。膝小僧をすりむいた男の子やら、目やにをつけたままの女の子やらが、日が傾きかけてもまだそこら中を駆け回っている。里山の懐かしい風景が目の前に広がるようだ。ああ、いい気持ち。また、眠くなってきた。
 おっと、きょうはお出かけだったか。二月の半ばだけれど、まだ外は寒いだろうな。ママさん、風邪なんか引かないようにしなくちゃね。念のためマスク?それはけっこう。いい気休めになるからな。ほんとは風邪のウィルスはマスクなんて通り抜けちゃうけどね。
 家を出ていつもの通りを南へ。普段聞こえている規則的な音にまじって、ぎしぎしときしむような音が聞こえる。前方に見える街路樹のハナミズキはまだ堅そうな茶色い冬芽をつけて、大気に小枝を振るわせている。冬芽と言っても冬になってできた芽ではなく、落葉樹の場合なら、春から夏に葉を繁らす時にすぐ芽を作っているのじゃ。葉っぱを形成するおおもとの細胞を保護するためだ。冬芽は厳しい冬をいわば冬眠してやり過ごしているんじゃな。ここらでちょっとハナミズキの旦那にバイオコミュニケーションしてみようか。
(やあ、おはよう。きょうは寒そうだね。調子はどうだい?)
(ああ、驚いた。だれかと思えばおまえさんかい。オムニス。まあまあってとこだよ。寒いのはどうってことないさ。寒さの中で背筋を伸ばして凛として立つのが先祖代々冬の木立の美学だし、寒さの刺激がないと花芽も育たないのさ。冬芽に守られた葉っぱの赤ちゃんも光の春にうずうずしておるよ。わしも新しい命を宿しているのさ。ただ、ここのところ大気の成分に光化学オキシダントが微量だけれど増えててね。まだ体調を崩すほどじゃないが、うれしかないね。おまえさんの方はどうだね?)
(おかげさまで順調だよ。ここのところ毎朝音楽鑑賞してるし、気分は上々。準
備体操として手足の屈伸運動もこまめにやってるよ。じゃあ、急ぐからこれで。ごきげんよう。)
(ごきげんよう。わしの可愛いオムニアによろしくな。)
(もちろんさ。ハナミズキの旦那から愛をこめてって伝えるよ。)
 いつもの角を曲がって歩道に上がるところで、あっ!世界がぐらりと前のめりに傾いた。ママさんが平底靴の先を勾配のある歩道に引っかけたらしい。これで二度目だ。気をつけてくれなきゃ。ひやっとしたぞ。ストレスは血流を滞らせて心身に悪いんだから。大きな建物の自動ドアから中に入り、人で一杯の広い通路を右に行くと、待合室のソファーに多くの仲間たちがいる。その中でなじみの子を探すと、あ、いた、いた。奥のソファーにいるのがオムニアだ。二か月年下だが、しっかりしたいい娘だ。
 (オムニア、オムニア。わしだよ。久しぶりだね。また、大きくなったようだね。)
(え?その声はオムニス・・・)
(どうしたんだい、いったい。元気がないね。)
(わたし、とても悲しいの。)
(いったいどうしたのさ?何があったんだい?)
(今は言えない。今度会ったら話すわ。もしまた会えたらの話だけど・・・)
 その後すぐにオムニアのママさんの名前が呼ばれて、オムニアは行ってしまった。何か重大なことが起こったとわしは直感した。全然いつものオムニアらしくない。ハナミズキの旦那からの挨拶を伝える暇もなかった。
 それからしばらくしてわしはまたも覗きの対象にされた。生体内に超音波が発射されると、臓器や組織から反射が帰ってくる性質を利用してこんなふうに全身を覗かれてしまうのだ。胎児にはプライバシーは認められないのかっ!って、やっぱり無理だろうとわしも思う。ともあれ、わしは恥ずかしいからいつも尻を向けてやるのだ。
 「ほら、ほら、ここがお尻ですよ。この子はいつもお尻ばかり向けるね。やや!動いた。シャッターチャンス!今度は男の子の象徴が見える。ほら、これですよ。ははは」
 「まあ!ほほほ」
 少しサービスしてやったら、案の定喜んでおる。
 そう、わしは受精卵から数えて八か月目の胎児だ。なに、胎児のくせに偉そうに「わし」と言うのはやめろって?お気持ちはわからんでもない。しかしだね、胎児とはいえ、わしはもう三十五億歳なのだよ。そんじょそこらの古老、長老の類とはスケールが違う。地球に生命が誕生したその瞬間から数えると、ほぼ三十五億歳というわけだ。だったら、生き物はみんな同じ三十五億歳ということになって、別に自慢するには当たらないだろうって?ところがね、これが違うのだよ。生まれる前と後ではね。だれも知らないと思うけれど、わしら胎児はみんな超能力者なのだ。全知全能と言ってもいい。だから、ホモ・オムニポテーンスと言われている。
 すべてを知り、あらゆることができる超能力者なら、難病を治したり、世界の紛争を解決したり、地球環境を産業革命以前の状態に戻したり、テロリストをたちまち平和愛好家に変えたりして、人類のためにすばらしい貢献ができると思うかもしれない。逆に、炭素菌をばらまいたり、紛争の火種を増やしたり、環境汚染を推進したり、人々の心を憎しみで満たしたり、人類を破滅に陥れることもできると思うかもしれない。そう、確かにやろうと思えばできないことはない。しかし、わしらは神ではない。あくまでヒトであって、三十五億年の記憶を細胞に刻んだ生物にすぎない。神に代わって世界を変える権限は与えられていない。ただ、小さな出会いを通してこの世にコンタクトすることが許されているばかりだ。
 わしらの世界では男の胎児はすべてオムニス、女の胎児はすべてオムニアと呼ばれる。誕生前、一人のオムニスは一人のオムニアと交流することができる。二人はソウルメイトとなって、離れていてもバイオコミュニケーションで対話することができる。そんなこと誰が決めたかって?わしも知らんよ。人は愚痴を言ったり励まし合ったりする相手が子宮に入っているころから必要らしい。わしのソウルメイトのオムニアは今日は別人みたいに落ち込んでおったが、本当は芸達者な明るい子なのじゃ。わしのトークはこのとおり、終始一貫して老賢者風だが、オムニアときたら、その時々に応じて変幻自在、何が飛び出すかわからないところが実に芸達者なんじゃ。たとえばある時はこんな調子。
(オムニス?うっふん、あたしよ、オ・ム・ニ・ア。つつがなくていらっしゃるかしら?あたし?絶好調って言いたいところだけど、ちょっとへこんでるの。どうしてかって?あたしのママさんがへこんでるからよ。ママさんは清楚で可憐なお嬢様タイプなんだけど、製薬会社のエリートとの仲をねたまれて、嫌がらせ電話とかかかってきてね、ほら、ドラマでよくあるいじめられ役の可愛そうなヒロインって感じ?そんでもって、カマキリ女なんて言われたらしいの。カマキリって、ほら、交尾した雄を食べちゃうじゃない?いつも必ず食べちゃうわけじゃないけど。それに、雄だとわかってて食べちゃうわけでもないのよね。そばで動くものは何でもえさだと思って大きなカマを振りかざして食べる習性なんだもの、仕方ないわよ。頭を食べられてもめげずに交尾してる雄もいるんですって。カマキリには頭だけじゃなく手足にも八箇所の神経球があって、頭がなくなっても別の神経の働きで交尾ができるの。すごいわね。子孫を残そうとする崇高な姿ね。あ、感心して場合じゃなかったわ。あたしのママさんは雌カマキリとは似ても似つかないわよ。男の言葉を信じてついていこうとしてるだけだもの。ママさんをいじめる奴はあたしが世に出た暁には男も女もみんな食い散らかしてやるわ。だって、あたしきっと、すごい美人になりそうだもの。ほら、声だって超セクシーでしょ?あたし、二十歳ぐらいの自分の姿を今から想像してるの。小顔で、手足は細くしなやかに締まってて、ウエストも思いきりきゅっとくびれてて、そんでもって胸は豊かにはち切れそう、お尻は小さめだけど、扁平じゃなくって、まあるく立体的な美尻。どう?もちろん、全身のお肌は潤ってぷるんぷるんしてるわ。こういう娘の入浴シーンとか聞きたい?この前、暇つぶしにそれをハナミズキのおじさまに詳しく話してあげたの。服を脱ぐところからとっても詳細かつ文学的にね。そしたら、おじさまったらもう、それは喜んじゃって、涎やら鼻水やら垂らすんだもの、いやあね、もう。見かけによらずうぶなんだから。それじゃ、鼻垂れハナミズキねって言ってあげたのよ。うっふん。)
 そうかと思うとこんな調子じゃ。
(これは、これはオムニス殿。日々ご健勝のご様子、祝着至極に存じ奉る。この婆も三十五億年の歳月を生きながらえて、森羅万象生きとし生けるもののさまざまなる喜怒哀楽、とくと眺めきてござる。さて、今宵は子宮蟄居のつれづれにオムニア婆の見聞きせし物語、一つ聞かせて進ぜよう。
さて、さて、今ではもう昔のことじゃが、震旦に荘子という人がござった。聡明で学問知識の広い御仁であった。この方が道を歩いていると、沼地に一羽の鷺がいて、何かをねらって立っておった。荘子はこれを見て、ひそかにこの鷺を打ってやろうと思い、杖を取って近づいていったが、鷺は逃げようとせぬ。不思議に思っていっそう近寄って見ると、鷺は一匹の蝦を食おうとしてじっと立っておるのじゃ。それで人が打とうとしているのも気づかないのだとわかった。また、その鷺が食おうとしている蝦を見ると、これも逃げようとはしておらぬ。これもまた一匹の小虫を食おうとして鷺がねらっているのを気づかないのじゃ。これを見た荘子はあわてて杖を投げ捨てて逃げ出した。なぜだかおわかりかの?そうじゃ。荘子はこう思ったのじゃ。「鷺も蝦も皆自分を害しようとするもののいることに気づかず、おのおの他のものを害しようとのみ思っている。私もまた鷺を打とうとして、私にまさるものが自分を害しようとしているのに気がつかないのだろう。それならば、逃げるに越したことはない」とな。どうじゃ、おもしろいじゃろ?ん?こら、こら、オムニス殿、聞いておいでか?)
 (もちろん、聞いておったとも。いや、おもしろかった。『今昔物語集』にさような物語があったと記憶するが、それにしても、どこぞの国の偉そうな大統領に聞かせてやりたい話じゃな。)
 しかし、物語を聞かせてもらうのは何とも楽しく心地よいものじゃな。もちろん、わしも聞いてばかりではなく、わしがオムニアに語って聞かせもする。お互いに古今東西好きな物語を語り語られ、つれづれを慰めるのじゃ。ちなみに、わしのお気に入りは平家物語とオデュッセイアなんじゃ。平家物語はあの七五調の名調子で、オデュッセイアはもちろんギリシア語でじゃ。すごいじゃろ?
 わしらの脳は三十五億年のデータが詰まったCDロムのようなもので、生命の起源から現代までの歴史をおおよそ把握している。人の心を読むこともできる。ところが、いざこの世に生まれてからは胎児の時持っていた能力をすべて失うのだ。中には羊水に浮かんでいた時のことを漠然と覚えている者もいるが、それは温かかったとか、赤っぽかったとか断片的な感じでしかない。そのころ、何を考え、何をしたかということは、ある日真っ逆さまに産道を落ちていくと同時にすっかり忘れてしまうというわけだ。これはきわめて大切なことだ。忘却なくしてどうして無謀にも誕生などできよう。
 ママさんは帰りにパン屋に寄って賢人が好きなアニマルパンを買った。賢人というのはもうすぐ五歳になるこましゃくれたガキで、とにかく賢い子になってほしいというママさんの願いと、将来国際的に活躍するに際して世界的に通用する名前がいいというパパさんの希望を一身に担った長男坊のことで、要するにわしから見ると兄貴という関係だな。ママさんは賢人を生むまで雑誌のモデルをやっていた。モデルになるくらいだから、(わしが言うのもなんだが)まあまあの美形だ。お腹がせり出すようになってもマタニティー雑誌のモデルの仕事があってそれなりに忙しそうではある。自分の存在価値に満足していれば、精神的に安定するから、胎児としては大歓迎というところだ。
 ただ、妊娠初期のころ、まだたばこをやめていなかったから、ニコチンの影響で酸素不足になって多大の迷惑を被った。妊娠初期というのは、御本人も妊娠に気づいていない場合が多いから、酒、たばこ、鎮痛剤、ビタミン剤などを摂取してわしら胎児の顰蹙を買う母親が少なくない。データによるとつわりと二日酔いの区別がつかないで、四か月になるまで妊娠に気がつかない猛女もおったそうな。とにもかくにも、世の女性がた、心臓や消化器官、神経、手足など胎児の体の主な器官ができあがるのは最終月経の開始日から二十八日~五十日の間なのじゃよ。その間に風邪薬やら鎮痛剤やらを飲むと、子宮を収縮させたり胎児の呼吸中枢に作用して流産や様々な障害の原因になるのじゃ。そこで、胎児を代表してお願いする。妊娠の可能性を否定できない行為の後はくれぐれも注意していただきたい。どうか胎児の生存権と羊水の中で健康で文化的な生活を送る権利を脅かさないでいただきたい。
 と、まあ、つい蘊蓄を傾けてしまったが、ママさんの話だったな。とにかく、このママさん、美人でスタイルはよし、頭も悪くない。こういう女性はだいたい上昇志向が強い。自分の育った家庭はいわゆる中流で、建築会社に勤める父と専業主婦の母との間の長女として何不自由なく育った。四歳下の弟が一人おる。小さいころからピアノとバレエを習い、お嬢様大学と言われる大学を出て、大手商社に就職し、OLとなった。なにせ、美人だから男性社員の熱いまなざしに支えられて最初の一年は居心地が良かったものの、そこはそれ、いろんな人間の感情や欲望が渦巻く社会。同性の味方を十分つけておかなかったから、さあ、たいへん。お局様の不興を買って、課のほとんどの女性からそっぽを向かれ、お局様の統率力は強力であるからしてあっという間に孤立無援状態じゃ。お嬢さん育ちで我慢のできないママさん。誰がこんなセンスの悪いしけた所にいるものかと二年もたたないうちにさっさとやめてしまった。(そうよ、私は大学のころから美貌を買われて雑誌のモデルをしたこともあったじゃないの。本格的にモデルの仕事をしよう。今にパリコレの舞台を優雅に歩いて見せて、あいつら見返してやるわ)
 その時ママさんはそう考えていた。それにしてもつらいな。自分の母親のことを今からこんなに冷静に客観的に語ってしまうなんて。まあ、こんなご託を並べていられるのも、あと二か月あまりじゃ。その後は天の香具山に干された白妙の衣みたいに無垢な脳細胞になるのじゃ。それで、わしのママさんはみごとモデルとして成功して、パリコレの舞台こそまだ踏んでいないものの、東京のファッションモデルとしては引っ張りだこになって、専属プロダクションのスタジオの床は何回も踏んだ。仕事は引きも切らず、いつしかハイソサエティの男たちともパーティーなんぞで知り合うようになり、選り取り見取り深見取りの末、大手商社の幹部候補生のパパさんとめでたく結婚したというわけだ。
 ママさんは長男の賢人を外交官にしたいと熱く思っている。外交官ともなれば、見栄えはいいし、みんなから尊敬され、羨望の的になるはずだし、赴任国の大使館では王様のように振る舞えるという話だ。機密費をふんだんに使ってキャビアでもフォアグラでもロマネコンテのワインでも浴びるほど飲み食いできる。給料は銀行に入ったまんま、使ったことがないという外務省勤務のお役人もいるそうな。ママさんがそんな放逸かつ心卑しい野望をその豊かな胸に(もう少しでわしはそこにむしゃぶりつける)描いているわけじゃなさそうだが、外交官の母なら大好きなブランド品を腐るほど買い集めて華やかな楽しい生活が老後まで保障されると考えているのは確かなところじゃな。ママさんも見栄っ張りな女性のご多分に漏れず、ブランド信仰篤く、シャネルだのルイ・ヴィトンだのエルメスだのグッチだの手に入れるたびに鏡の前に陣取って長らく法悦に浸っておる。ブランド品を身につけると、自分自身の格も上がったように錯覚する、幸せな勘違いじゃな。胎児のわしが言うのもなんだが、いろいろとさまざまにけっこう浅はかではある。だいたい賢人は外交官の柄ではないぞ。あいつにはもっと土臭い仕事の方が似合っている。
 「賢人君、ほら、あなたの好きなアニマルパン買ってきたわよ。今、お紅茶入れるから、手を洗ってらっしゃい。あ、だめだめ、手を洗ってからよ。あ、こら!」
 ママさんは袋に手を突っ込んだ賢人の肩を押さえて、自分のせり出したお腹で押すように賢人を洗面所へ連れて行った。
 「わあい、ウサギ、ウサギ。こっちは、カメだ。カメ、カメ、あがれ」
 それを言うなら、亀じゃなくて凧だろうが。幼稚園の紙芝居で凧揚げのところを見てから、何でも空に揚げようとしているのだから、可愛いものじゃわい。
 「ねえ、ママ。ブタがいないよお。ブタ、ブタ」
 「ほんとにあなたは動物が好きねえ。ブタはこの前買ったから、今日はいいの!そんなことより、賢人君、幼稚園で何をお勉強したの?今日は土曜日だから英語のレッスンがあったでしょ。何を勉強したかママに教えて」
 ママさんはヘレンドのティーカップに紅茶を注いだ。ヘレンドというのはハンガリーの磁器ブランドで、中縁の濃い緑色に外側の薔薇のピンクが映えるデザインをママさんはいたく気に入っている。この間まで食器棚に飾って観賞していたのだが、賢人のためというのを大義名分に、飾り棚から下ろした。いわく、小さいうちから上等な物を使わせて、そこはかとなくいい物の発するオーラを吸わせておけば、長じて本物を見分けるセンスが身につくだろうって、ご苦労なこった。四歳のクソガキにヘレンドもブランドもブラスバンドもあるまいよ。ふん、ふん。かすかに感じる匂いからすると、フォションのアップルフレーバーらしい。あっ、賢人のやつ、ウサギの耳に噛みつきおった。
 「あら、賢人君、お行儀悪いわね。いただきますはどうしたの?はい、いただきます」
ママさんに言われて賢人は口に目一杯ウサギの耳を頬張ったまま、なにやら意味不明の声を発して上目遣いで頭だけぺこりと下げた。
 「はい。よく噛んで食べるのよ。ほら、ミルクを入れたわよ。熱いから気をつけて。飲む前にカップもよく見てちょうだい。高いだけあっていいデザインでしょう。ほら、ちゃんとおすわりして。そっと静かに飲むのよ。そう、そう。ねえ、賢人君、それで、今日はどんなお勉強をしたのかな」
 「ブタさん、ブウブウ。ねえ、ママ、ブタってどうしてブウブウいうの?お猿さんはキー、キーっていうのにね。ねえ、どうして?」
 「さあ、どうしてかしらね」
 「ねえ、ママ、動物園、行きたいよ。ねえ、動物園でブタさん見る」
 普通、ブタは動物園にはいないんだがな。だが、ママさんの関心はそんなことではなかった。
 「動物園!この前パパと行ったばかりじゃないの。それより、賢人君、ブタさんのこと英語で何というのか習ったでしょう?何て言うんだっけ?」
 「ブウブウ!」
 賢人は母親似の大きなつぶらな瞳を輝かせて叫んだ。ママさんは、英単語の一つも記憶してなさそうな息子にため息をつき、あとは無言でサンドイッチをむしゃむしゃ食べ始めた。(なあに、まだ四歳じゃないの。まだまだ教育次第でどうにでもなるわ。あまり小さいうちからガンガン詰め込むのは良くないというし、長い目で見守っていきましょう。一方的に押しつけてはいけないわ。余裕を持って接することが大事なのよ。あの、何とかいう本に書いてあったわ。無理強いはいけない。子どもが本来持っている力を伸ばす手助けが大切なんだわ。ああ、私ってなんて理解と教養があるんでしょ)
 わしは深い疲労感に襲われ、フォションの代わりに淡黄色の液体でのどを潤した。妊娠も中期以降になると、羊水の成分にも胎児尿が増えてくる。自分で出したものをまた吸収しているのだから世話はない。究極のリサイクルというやつじゃな。もっとも人の体はよくできているものじゃ。わしのおなかからはへその緒が出ていて、その先は胎盤となってママさんの子宮の壁にぴったり張りついている。へその緒、胎盤、子宮の内壁には大物道路族のいる地元みたいに血管が整備されていて、ママさんからわしへ栄養素や酸素が運ばれ、わしからママさんへは尿の成分や二酸化炭素が送られていく。胎児には老廃物を処理する能力がないから、胎盤へもどして母体に処理してもらうのだ。かくして、わしは命綱の臍帯とともにぷかぷか羊水の海に浮きながら、ひねもすのたりのたりしているうちに春になり、りっぱに成長して世の中へ出ていけるというわけじゃ。
 夜になってパパさんが帰ってきた。わしはもう眠くて眠くてたまらないので、先に寝るとして後は自動モニターに任せよう。わしの脳細胞はすでに百四十億個に達し完成されつつある。わしらオムニス・オムニアたちは眠っているときでもちょうどビデオ予約するように脳細胞に情報を録画することができる。後は明日の朝のお楽しみじゃ。
 
 「ほう、この刺身うまいじゃないか。いいトロだね。どこで買ったんだい」
 「ね、おいしいでしょう。高かったんだから。伊勢丹の物産展よ。今、高知フェスティバルでね、新鮮な魚介類がいっぱいだったわ。いえ、行きはしないわよ。インターネットで注文して夕方には届けてもらったの。うちみたいなお得意さまならではのサービス。お腹が大きくなるとバランスとるのが難しくって、混雑しているところに出向くのは大変ですもの。それにしても、これ、身はプリプリしてるのに、舌の上ではとろけるようでしょ。賢人もよく食べたのよ。あの子、お刺身はあまり好きじゃなかったのに、おいしいものはちゃんとわかるんだわ。お肉にしても並の高級牛肉と松阪牛の特上では食べっぷりが違うのよ。ほほほ」
 ママさん、お気の毒だが、その松阪牛の特上は実は並の牛肉だったんじゃよ。デパートの食肉部が偽装してたんじゃ。今にニュースになるだろう。
 「それより、あなた、賢人ったらまた動物園に行きたいって言うのよ。先週行ったばかりなのに。サルやゴリラが大好きで、まあ、あの時も飽きもせず檻の前で見てたわねえ。しまいにはこっちがゴリラから見られてるみたいで嫌になったわ。もう、それで英会話のお教室に行って半年になるのに、ちっとも覚えないのよ。ブタは英語で何ていうのって聞いたら、ブウブウですって。先が思いやられるわ。外交官志望ですもの、最低英語ぐらいはできないとお話にならないわよ、ねえ、あなた、聞いてるの?」
 「ああ、聞いてるとも。まだ四歳なんだから、そんなに今から焦ることないだろう。それより、来週から海外出張だ。シドニーに一週間ぐらいになると思う」
 「まあ、大変。それじゃ、あなた、賢人のお誕生パーティーには出られないの?もうホテルのレストランに予約してあるのに」
 「ああ、二十五日だったね。残念ながら、無理だなあ。おじいちゃん、おばあちゃんたちとよろしくやってくれ。プレゼントは用意しておくよ。アニマル伝説のゲームソフトだったね」
 昨夜の夫婦の会話はざっとこんなふうだった。パパさんは少し機嫌をそこねたママさんの肩を抱いて優しくキスした。寝室ではママさんの髪をなでながら「その大きなお腹が平らになったら、また思いきり可愛がってあげる」なんぞと言って、ママさんの膨張した乳房の谷間に顔をうずめた。ママさんはこんなに幸せでいいのかしらという微笑みを浮かべて眠りについた。パパさんがシドニーでいたく楽しみにしていることにはまったく思いも及ばない安らかな眠りに。胎児が全知全能と言っても、人間の心に干渉して何かをやらせたり、やめさせたりすることはできない。そういう行為は許されていない。だから、たとえ未来が見通せても、指しゃぶりでもしながらじっと成り行きを見ているほかはないのだ。ちなみに、この指しゃぶりもただの時間つぶしではない。母乳を上手に飲むための練習じゃ。筋力トレーニングとして時々お腹に蹴りを入れなくてはならないし、胎児も暇なようで実は何かと忙しいのじゃ。

 今朝は寒そうだと思ったら、外界は雪のようじゃ。春の雪がうっすら積もって、ハナミズキの旦那なぞは油断してくしゃみしておるかもしれんなあ。オムニアはどうしただろうか。あれから十日ほどたつが、会う機会はないし、バイオコミュニケーションの兆候もない。胎児は離れていても相手の脳細胞に働きかけて生体間意思伝達ができる。それをキャッチするときは独特の脳波の振動を感じるのでそれとわかる。あの時は話したくないようだったけれど、もう打ち明ける気になっただろうか。こちらの方からバイオコミュニケーションを仕掛けてみようか。
 わしはリラックスして脳波をアルァフレベルの周波数まで落とし、右脳を活性化してオムニアの姿を心に思い描いた。三十七・五度の生暖かい海に浮かぶ二十五センチほどの体、体重は四百グラムぐらいだろうか。羊水を飲みながら命綱をねじらせて盛んに運動しているであろうオムニア。ママさんの心音や血液の流れる音をしっかりととらえ、外界の音も聞こえているであろうオムニア。わしのソウルメイト。応答せよ、応答せよ。わしだ。オムニスだよ。わしは意識を集中してオムニアの脳細胞に働きかけた。じっと身を丸めて応答を待った。さらにシグナルを送りながら待った。長い時間、と言っても三分ぐらいだが、そうしていたけれど、応答はなかった。あまり長く続けるとエネルギーを消耗してへたばってしまう。へたばると栄養の吸収力が落ちてストレスを受けやすくなる。あ、今、弱い応答を感じたぞ。とても微弱だったが、確かにオムニアからのシグナルだ。だが、それきりだった。わしは諦めて指をしゃぶった。
 「あらあ、賢人くん、とってもすてきよ。よく似合うわね。外国人の子みたい」
 舞い上がって感動しているのはママさんだ。
 「賢人の好きなゾウさんに乗ってるうちにやってくれたから、賢人もあまりぐずらなくてよかったよ。ゾウさんの他に自動車や飛行機もあったんだけど、賢人は真っ先にゾウさんを選んだわよ。ゾウさんが空いててよかったよ。けっこうおばあちゃんと来てる子が多かったわね。四、五歳の子どもがパーマかけるなんてあたしたちの子供時代には考えられなかったのにね。まあ、でも、こういう子ども専用美容院に来るのは美男美女が多いわ。テレビの子役モデルに応募してるってお母さんもいたわよ。五歳の女の子なんか、七五三でもないのに、お化粧までしてこれからママとショッピングだって。お姫様みたいになって出かけていったわ」
 ママさんのお母さんは声がかなりママさんに似ている。新しもの好きで見栄っ張りなところもいっしょで、この親にしてという感じが否めない。迷惑なこった。賢人なんかすっかりこの二人のおもちゃでいいようにコテコテ飾られて、本人もいつの間にか誰にでも好かれるハンサムボーイのつもりになっているからこわい。こういうのは後々ろくなことはないぞ。
 「あら、お母さん、今は十歳以下の子どものファッションショーやおしゃれコンテストもあるのよ。頭のてっぺんから足の先までブランドで固めてる子もいるけど、それだけじゃだめなのよ。それじゃマネキンに着せてるのと同じ。子どもだってそれ相応の知性ってものがあるはずなのよ。知性や感受性をみがき、いわゆる教養を深めてこそブランドも生きるというものだわ。うちの賢人は見た目も内面もすばらしく一流にしたいの。お母さんならわかってくれるでしょう?ああ、それにしてもまた男の子なんて、今度は女の子がほしかったのに。女の子はまた可愛くて飾り甲斐があって楽しみなのに、また男だなんてねえ」
 これ、これ、こういう文句が人知れず胎児の心身を傷つけるのじゃ。母親は深く考えずにしゃべっているが、こういうの、わしらはみんな聞いているんじゃ。こういうどうしようもないことで胎児の存在を否定するようなことは謹んでもらいたいものだ。妊娠を後悔したり、自殺願望があったり、人を憎んだりしてると影響はもっと深刻じゃ。そう言えば、こんな例もあったな。ある女の子の話だが、小さい時からマフラーやスカーフやネックレスの類まで、およそ首に巻くものを受け付けず、異常に嫌がるというんじゃ。寒い冬の日の外出時など、親は暖かくしてやりたいと思って、赤い可愛いマフラーなんぞを巻いてやろうとすると、娘はパニックを起こしてむしり取るそうじゃ。この娘はおそらく生まれ落ちる時に、臍の緒が首にからみついて難儀な思いをしたんじゃろう。本人は覚えてなくても、そういう記憶は深層意識の中にちゃんと保存されているのじゃな。
 「どうしても女の子が欲しければ、もう一人頑張ればいいじゃないの。あなた、まだ若いんだし、智泰さんは高給取りで資産もあるんだから問題なしよ。今時三人も生めば表彰されるわよ。智泰さん、また海外出張なんだって?オーストラリア?あちこち行けるのはいいけど、そのうち一家で海外ってこともあるんじゃないの?それも大変ねえ。でも、そしたら、あたしも連れて行ってね。え?お父さん?お父さんは置いていくわよ。仕事とお酒以外なんにも興味のない人だもの。お土産にウイスキーでも買ってあげれば文句なしよ。そうねえ、パリのすてきなカフェでカフェオレ、それとも、テムズ川河畔をお散歩ってのもいいわあ。ん?シドニー?シドニーだと何かしら?」
 智泰さん、つまり、今シドニーにいるパパさんの心は、若いピチピチギャル(二人目を産もうとしているママさんと比べればの話だが)のことでいっぱいなのじゃよ。仕事が半分、若い愛人とのランデブー半分というところだろう。これで一気に深みにはまるとわしは見た。胎児のくせにそんなことまでコメントするなって?だから、わしは三十五億年の生物の営みを知っているのじゃ。 有性生殖をする哺乳類で発情期がなくいつでも妊娠可能なのは人間ぐらいなものじゃ。野生の哺乳類は子育てするのに一番適した環境に合わせるために、結婚シーズンが決まっている。うっかり秋になんぞ産もうものなら、寒くてエサの少ない冬に子育てしなければならなくなるから、春先に産んで暖かくエサの豊富な季節に子育てするんじゃ。
 ところが、大脳の発達した人間は冬に備えて食料を備蓄することを覚えた。一人前になるのに他の哺乳動物よりずっと時間がかかる人間は、元々は子孫を絶やさないために、決まった結婚シーズンがなく五月雨式に複数の子どもを育てられるようになっているんじゃ。だが、そのおかげで不倫ができる。クマのお母さんは子育て中に不倫したいと、もし思っても体が拒否するようにできているが、人間のお母さんは子育て中に不倫してはいけないと思っても、体が承諾してしまうのじゃな。クマの雄も子育て中の雌には手を出さないものだが、人間の雄ときたら、雌が子育て中だろうと生理中だろうとすぐに手を出す。パパさんのお相手もうら若い人妻じゃ。子どもはまだいないようじゃが。それにしても、先方もパートナーを欺いてオーストラリアくんだりまで出かけるとはさぞかし大変だったであろうな。先方の夫君もからきし唐変木ではなかろうから、修羅場になるのも時間の問題じゃな。くわばら、くわばら。
 「じゃあ、お母さん、賢人の誕生会のこと、よろしくね。もちろん、あちらのご両親にも連絡済みよ。お料理はやっぱり中華のコースにしたわ。お子さま好みのメニューにしてくれるって」
 ママさんは賢人のふわふわウエーブをなでながら嬉しそうに言った。
その時、わしは待ちかねていたバイオの波動をとらえた。
(オムニアじゃな。心配したぞ。どうしてる?)
(オムニス、わたし、あまり具合が良くないの。このところ、よく眠れなくて。)
(おや、おや、今から不眠症かい。困ったものじゃ。)
(眠っても怖い夢ばかり見るの。高い塔に飛行機が突っ込んで塔がみるみる沈んでいくのよ。いきなり腰を砕かれた巨人みたいに。それから、街が爆撃されて跡形もなくなったり、あっちでもこっちでも炎が噴き上がってるの。皮膚のただれた人々が大勢道路に倒れていたり、手や足の吹き飛んだ女や子どもが救助もされず苦痛にゆがんだ顔で座り込んでるの。それから、絞首刑にされた何十人という人の遺体がずらりとぶら下がって黄色い砂嵐になぶられて揺れてるの。死体ばかり、廃墟と死体、どこもかしこも廃墟と死体ばかり・・・)
オムニアはそこで小さな悲鳴を上げた。それは己の運命を知った小さな動物がいまわの際に上げる叫びのように不吉に響いて、わしの胸に刺さった。
(大丈夫、大丈夫じゃよ、オムニア。いい子だ、いい子だ。大丈夫だから落ち着いて。大きく息を吸って、ふうっと吐くのじゃ。そう、もう一度、ゆっくりと。さあ、わしがお話ししてあげよう。どんなお話がいいかな。うん、そうじゃ。
   昔、昔、あるところに一匹のミミズが住んでおった。ミミズは来る日も来る日もただ土をほじくり返してはウンチをしておった。ある時、土の表へ出てお天道様の下でのんびり日向ぼっこをしておった。実にいいお日和でぽかぽかと気持ちよくな。すると、トンボがやってきてこう言った。「ミミズさん、ミミズさん、あんたはいつも土塊ばかり食べていて飽きないかい?たまには僕のように美味しい虫を捕って食べたらどうだね?」ミミズは答えて言った。「うんにゃ。おいら、ちっとも飽きないよ」そうして、また土にもぐってせっせと泥を食べ始めた。「うんこら、やっこら、うんとこしょ。腐った葉っぱもいただきだ。うんこら、やっとこ、うんとこしょ」ミミズがひょっこり頭を出したところにアゲハチョウがやってきてこう言った。「ミミズさん、ミミズさん、あなた、いつも腐った葉っぱなんか食べていらして嫌になりませんの?たまにはあたくしみたいに甘いお花の密を吸ってはいかが?」ミミズは答えて言った。「うんにゃ、おいら、ちっとも嫌にならないよ」そうして、また土にもぐってせっせと土塊を食べてはウンチをした。「うんこら、やっとこ、うんこらしょ」川のへりまで行って少し休んでいると、白鷺が舞い降りてきてこう言った。「おまえはいつもぶざまな茶色い体をして土にはいつくばってばかりいるんだな。たまには私みたいに綺麗な白い翼で空を飛んでみたいと思わないかい?」ミミズは答えて言った。「うんにゃあ、おいら、思わないよ。土の肌ざわりが何より好きなもんで」白鷺は言った。「ふん、向上心のないやつだ。最低だな。おまえなんか一呑みにしてやってもいいが、あいにく今は満腹だからまたの機会にしてやるよ」白鷺は真っ白な翼をはためかせて飛んでいった。ミミズはまた土にもぐった。「うんこら、やっとこ、うんこらしょ」すると、向こうから大きなモグラがやってきてこう言った。「やあ、まるまる太って美味しそうなミミズだな。覚悟はいいかい?」ミミズは答えて言った。「いいとも、おいら全然平気だよ」すると、モグラはぱくりとミミズを食べてしまった。
   ミミズが目を覚ますと、厳かな声が聞こえた。「ミミズよ、ミミズよ、おまえはよく働いてくれた。土塊の窒素や落ち葉を食べては栄養たっぷりの糞をして、良い土壌を作ってくれた。おまえがいなければ、世界は破滅じゃ。おまえは他の生き物の命を奪ったりせず、植物さえ口にしないで黙々と大事な仕事をやってくれた。仲間同士で争うこともなく、ただ、鳥や魚やモグラに食べられる一方の運命で私を恨んだことはないか」ミミズは神様の前で恐縮して言った。「いいえ、神様。恨んだことなんかただの一度もございません。おいらもおいらの仲間たちもすっかりこの仕事が気に入っていますもんで」神様はおっしゃった。「それでは、今度生まれてくる時もミミズでよいか」「はい、もちろん、ミミズでようございます」そう答えると、急に眠くなってぐっすり眠ってしまった。目を覚ますと、土の中。「うんこら、やっとこ、うんとこしょ」ミミズはまたせっせと土塊を食べてはウンチをした。時々日向ぼっこをしたり、水たまりで水浴したり。そんな時に人間の子どもに捕まって、ぶんぶん振り回されたり、おしっこをかけられたり、しっぽをちょんぎられたりした。朝が来て、夜が来て、また、朝が来て、夜が来て。死んで、生まれて、また、死んで、生まれて、そうして、長い長い時が過ぎたとさ。マカリオイ、ホイ、プットトコイのホーイ、ホイ。おしまい。)
 おや、オムニアのかわいい寝息が聞こえるぞ。はじめの方で含み笑いが聞こえたが、話の中程からもうとろとろしておったようだ。ともかく、眠ってくれてよかった、よかった。

 「ねえ、せっかくだから、公園の中を通って梅を見ていきましょうよ。きっと、もうちらほら咲いているわよ。ほら、こっちよ。あ、賢人ちゃん、危ないから走っちゃダメよ。あなた、止めて」
 パパさんのお母さんが叫んだ時はもう賢人はばったり前のめりに倒れていた。遊歩道の段差につまずいたようだ。追いついたパパさんのお父さんがあわてて抱き起こすと、賢人は手のひらをすりむいて泣きべそをかいていた。
 「まあ、オーダーメイドのスーツがだいなしじゃないの。紳士は突然駆け出したりしないものよ。自分が悪いんだから、泣かないの!」
 ママさんは窮屈そうに腰をかがめて仕立てのいい濃紺のスーツについた泥埃を払っている。紳士なんて言ったって、賢人にはわかるまいに。髪をくねくねと縮らせ、赤いネクタイを締め、ピカピカの黒い革靴を履いた小さな紳士もどきは、ママさんの大きなお腹の下に抱きついてめそめそしている。
 「ごめんね、賢人ちゃん、おばあちゃんがこっちへ行こうと急に言ったから、賢人ちゃん、張り切っちゃったのよね。ごめん、ごめん」
 「こんな所に段差があるのはけしからん。子どもや年寄りには危ないじゃないか。都庁に抗議してやる」
 パパさんのお父さんは大手建設会社の管理職で定年間近ながら、その手腕と業績が買われて関連会社への役員就任が決まっている。
 「すみません。うちの理恵子がこんな体で走れないものですから。賢人、ほら、見てごらん。梅の花が咲いてるわよ。雪が降ったりしたのに、けっこう咲いてるわ。いい香り。あなた、写真撮ってくださいな」
 ママさんのお父さんはやおらデジタルカメラを取り出し、紅梅の前にそろった五人をカメラに収めた。もちろん、わしは人数にはいっておらん。と、また、性懲りもなく賢人が駆けだした。公園には他にも腕を組んだアベックや家族連れの梅見客の姿が見える。賢人は後ろから叫ぶジジババと妊婦を置き去りにして犬ころみたいに人々の間を縫って走っていった。
 「ねえ、あれ、なあに?青いお家がいっぱいあるよ」
 賢人はようやく追いついたお付きの者どもを振り返り、青いテントの群を指さして叫んだ。
 「賢人ちゃん、こっちへいらっしゃい」
 ママさんのお母さんが眉をひそめて賢人の手を引っ張った。賢人は青いテントの方に首を向けたままなお尋ねた。
 「ねえ、あれ、なあに?あの、木に引っかかってるの、なあに?」
 賢人が指さした先には枝に干された長くて白っぽい布が細ひもを風になびかせていた。
 「いいから、さ、行くよ」
 パパさんのお父さんはそれがふんどしらしいとわかったけれど、説明の必要なしと判断して賢人の手を引いた。その時、どこから現れたのか大きな猫がのっそりと賢人の足元にやって来て、悠然と座った。すっくと背を伸ばした姿には猫にあるまじき威厳がある。動物好きの賢人は行きかけていた体の向きを変えて歓声を上げた。猫はモノトーンの灰色でガラス玉のような黄色い目を光らせて泰然として賢人を見ている。
 「まあ、なんだかふてぶてしい猫ね。鼻に傷があるじゃないの。いやだわ。さあ、賢人、いいかげんにしなさい。だめ!さわらないの!汚いでしょ」
 賢人はママさんの甲高い声に伸ばした手を引っこめたけれど、なお恨めしそうにしゃがみこんでいる。思うに賢人は動物と縁が深い。この子の脳は犬や猫や豚や象など哺乳動物を見ると、ドーパミンを放出して快感を覚える。その体にさわろうものなら、ドーパミンやらセロトニンやら脳内ホルモンが出まくって、脳がとろけそうに気持ちよくなるのじゃ。どう考えても人間相手に神経をすり減らす外交官向きではないな。酪農家か動物園の飼育係か盲導犬の訓練士あたりが一番適した仕事だろう。
 「坊や、猫が好きかい?」
 突然賢人の前に現れたのは毛糸の帽子をかぶった小柄な老人だった。老人の口の周りは白っぽいひげに覆われ、眉毛も伸び放題で目尻に垂れ下がっている。
 「うん、好きだよ」
 賢人は嬉しそうに答えた。
 「そうかい、好きかい。この猫はな、小次郎っていうんだ。俺の相棒さ」
 老人の声はしわがれていてやっと絞り出しているみたいだった。
 「あいぼうって何?」
 「ん?まあ、友だちってとこだな」
 老人が笑うと前歯が一本なかった。
 「あ、おじさん、歯がない!」
 と叫んだところで、後ろで業を煮やしていた大人たちが顔をしかめて老人に挨拶するでもなく有無を言わせず賢人を引きずっていった。
 「知らない人と口を利いちゃだめよ。怖いおじさんかもしれないでしょ。そしたら、知らないところに連れて行かれてお家に帰れなくなるのよ。殺されてしまう子もいるんだからね」
 大人たちは口々に賢人に諭した。特に青いシートのお家には絶対近づいてはいけないと。
 だが、わしは感じた。いつものザアザア、ドンドンというBGMに加えてママさんの脚の関節のきしむ音などを聞きながら、わしの脳細胞にまっすぐにコンタクトしてきたあるシグナルをとらえた。それはどうやらあの灰色猫の小次郎の発したメッセージらしい。それは何やら頼みごとをしていた。わしはすぐにバイオコミュニケーションを試みた。すると、待ちかまえていたように小次郎の応答があった。
  (早速の御応答ありがとうござんす。手前生国と発しまするは浅草は浅草寺境内の軒下でござんす。母猫の手を離れましてからは生来の野良にて、流れ流れてただいまは縁あって先ほどお目もじ致しました公園の草むらをねぐらとしております。はからずも今の主と浅からぬ縁となりまして、先ほどお耳に入ったかと思いますが、主はあっしのことをかたじけなくも相棒と呼んでくださいます。あのあたりの猫どもの元締めでもあります小次郎とはあっしのことでございます。至って不調法者ではありますが、以後お見知りおきのほど、よろしくお願い申し上げます。)
(これは御丁寧に面通いただきまして、ありがとうございます。わしは一応まだ堅気の胎児ですので仁義を返すことはできませんが、して、小次郎さん、わしにバイオコンタクトをとったのはどんなご事情なのですか。なにやら、困っておいでのようじゃが・・・)
(へい。早速のお気遣いかたじけのうござんす。そのことでございますが、しばらくの間、あっしの話にお耳を傾けていただけますでしょうか。今、よろしゅうございますか。)
(だいじょうぶじゃ。今、一行はホテルのレストランに入って馬鹿息子(おっと、
わしの兄さんじゃったな)の五歳の誕生パーティーが始まるところだが、わしがごちそうを食べられるわけじゃなし、ママさんの消化器の動く音を聞きながら、どうせ指をくわえているばかりだから、どうぞゆっくりお話しください。)
(重ね重ねかたじけのうござんす。お言葉に甘えてあっしと主の出会ったときのことから話させてもらいます。主の正式な名前はあっしも知りません。たまに仲間のおっさんたちからクニさんと呼ばれておりますが。あれは二年前の春先のことでした。あっしはどうも生来喧嘩っ早くて、その時も一匹の雌猫をめぐって夜明けの決闘を演じまして、相手はあっしよりまだ一回り大きいボス猫でした。あっしは新参者で縄張り荒らしは御法度と知ってはいましたが、その雌猫というのが野良にしちゃあすばらしく毛並みの綺麗なべっぴんでして、あっしはもう一目惚れってわけで、それですから、闘いは激しくなりました。両者ともすさまじい雄叫びをあげて組んずほぐれつ、斜面を転げ落ちながらなお噛みついて引っかいて、何を隠そう、この鼻の傷跡はその時のものでござんす。それで、どうなったかって?恥ずかしながらひょいと隙をつかれてのどもとを噛まれて、あっしはあえなく降参しました。ご存じのとおり、あっしらは人間様と違って相手の息の根を止めるまでやり合うことはございません。勝負がついたら、そこで終わりです。その後、しばらくしてもう一度果たし合いに挑み、そのボス猫をやっつけたのでござんすが、その話はまた別の機会にいたしましょう。
 その時はともかく、あっしは全身傷だらけですごすご退散し、この公園の片隅に逃げてきました。体中痛いし、血は流れるし、意中の彼女は失うしで意気阻喪しているところへ、悪いことというのは重なるものでござんすねえ。昼頃、悪ガキどものグループがやってきました。あっしは不覚にも疲れて眠っていて、目を覚ましたときには悪ガキにしっぽを捕まれておりました。最近のガキは残酷でござんすねえ。足を切り落とされたり、目をつぶされたりした仲間の噂を聞いていましたから、奴らがナイフを取り出したときは心底ぞっとしましたよ。仰向けにされて二人のガキに四本の足を押さえられた時は、身をよじってギャーギャーわめきましたよ。別の一人があっしの後ろ足にナイフを振り下ろそうとした時はすっかり観念するほかありませんでした。ところが、その時です。「お前ら、何やってるんだ」と怒鳴ってナイフを持ったガキの腕をねじ上げたお人がありやした。そのお人こそ今の主でござんす。二人のガキが手をゆるめた隙にあっしは身を翻してすたこらさっさと逃げることができました。
 ところが、あの心優しい主はあっしの代わりにガキどもにからまれて、危なく大けがするところだったのでございます。その時たまたまパトロール中のお巡りさんが通りかかって、ナイフで襲いかかったガキどもを現行犯で捕まえてくれたのでござんす。神様が助けてくだすったと今でも思っております。主は腕と手の甲に傷を負いましたが、大事には至らず、あっしは草むらの陰で胸をなで下ろしました。それからというもの、あっしは命の恩人のそばをつかず離れずしておりました。あっしにも野良猫の誇りってえものがありますから、そうおめおめと人間になれなれしい態度もとれませんもので。それでも、鶴の恩返しじゃありませんが、近くにいてこのお人の役に立てることがあればと思って、時々草むらからじっと見つめておりました。なぜって、クニさんはかなり老齢らしくその上時々ひどい咳をなさっておいででしたから。青いシートのテント暮らしで、雨風しのぐのが精一杯、暑さ寒さが身にこたえ、食べ物にありつけない日もあるようにお見受けいたしました。普段はダンボールやペットボトルを集めたり、繁華街へエサ取りに行ったりなさっていますが、空いた時間はお昼寝なさったり、その辺で拾った新聞や雑誌を読んでおいでです。エサ取りとお昼寝はもう、あっしらの生活とまったくおんなじでござんすね。
 ある昼下がりのことでござんす。かの人は一人でどこかのゴミ捨て場で手に入れたコンビニ弁当を召し上がっておいででした。人間界では一匹狼というんですか、あんまり仲間と群れないで一人でいなさることが多い方でござんすね。あっしはそのご様子を少し離れたベンチの上で日向ぼっこをしながら眺めておりました。ああ、よかった、今日はおいしそうな食事ができてとあっしは陰ながら喜んでいたのでして、けっしておこぼれに与りたいと思って見ていたわけではありません。ところが、その時、あのお方がしわがれた声を出してあっしを呼んだのでございやす。何と呼んだかって?「ニャーオ、ニャーオ」とおぼつかない猫語で呼んだのでございます。けれども、それはもう一途に強い思いであっしを呼んでいなさるのがわかったもんですから、ええ、ちょうど今オムニスさんとあっしが交わしているバイオコミュニケーションに近いインパクトをその時感じました。それで、あっしはおもむろに腰を上げ、かの人のところへ参りました。すると、かの人はぶりの切り身をひとかけらあっしの前において「ほら、うまいぞ」と仰ったのでござんす。あっしも野良の端くれ、自分の口ぐらい自分でしのげやす。そう簡単に人間の施しは受けないのがあっしの方針なんでござんすが、なにしろ相手は命の恩人でございます。有り難くいただきやした。すると、かの人は嬉しそうに目を細めてあっしにこう話しかけなすった。
 「俺ももう長くはねえだろうさ。なあに、それはどうってこたあねえんだ。生まれた者は必ず死ぬようにできてるんだからなあ。おまえは長生きしろよ。ほら、これも食え」
 かの人はまだ半分残っている弁当を箱ごとあっしの前に置きなすった。あっしは主の顔色が土気色なのに気づいて驚きました。その日は夜になっても主の元を離れませんでした。あっしは一晩中主の元に寄り添いました。弁当の残りはもちろん有り難くいただきました。あっしが食べていると、主が喜ぶものでござんすから。へえ、本当に。あっしの食い意地が張ってたせいばかりでなく、主の喜ぶ顔見たさに心で泣きながらいただいたのでござんすよ。その夜、主はあっしに小次郎という名前を授けてくださいました。それは嬉しゅうござんした。名前というのはその他大勢の猫とは区別して固有な存在にしてくれるもんでございますからねえ。その時から、クニさんはあっしの親分、主になりやした。命を助けてもらった上に、一宿一飯の恩義も加わっては、もうひたすらこのお人にご奉公するしかありますまい。あまり世間に知られていないようですが、猫の忠誠心だって犬に劣るものではないのでござんすよ。
 それで、その夜のことでござんす。暑くも寒くもないいいあんばいの夜でござんした。オレンジ色の重たげな月が中天にかかっておりましたっけ。主はぼそぼそとあっしに身の上話を始めたのでござんすよ。もっとも主にしたら猫が理解しているとは思っていなかったでござんしょうね。それでも、本当の友達に話すように時々あっしの頭をなでながらこんなふうにお話なすった。
 「なあ、小次郎。俺ももう七十だ。あっという間だったなあ。あの戦争の時、空襲で母親と死に別れて、しばらくは生き残った近所のおっさんたちと身を寄せ合ってしのいでいたが、結局邪魔者扱いされて飛び出しちまった。まだ十四だった。俺にも十四の時があったなんて今じゃ信じられねえくらいさ。父親か?父親はとっくに戦死していたさ。上野の駅でぶっ倒れているところをたまたま顔見知りに助けられて、田舎の親戚のところへ連れて行かれた。そこで何とか生き延びたが、あんまりひどくこき使われるし、何か盗んだと言っては折檻されるし、ある時、本当に小銭と芋を盗んでそのまま飛び出しちまった。十七、八だったかなあ。また都会へ出てきてからは建設現場を渡り歩いて働いたよ。カストリ飲んでぶっ倒れたり、喧嘩したり女を殴ったり悪さもしたが、まあ、あのころのすさんだ世の中を渡るにしちゃあ真面目な方だったと自分では思ってるのさ。
 ところが、その後がいけねえ。何年かして結婚して子どもも二人できたっていうのに、そのころから競馬に凝りだした。一回大穴当ててからは仕事もしねえで競馬場通いさ。気がつくと給料のほとんどを使っちまってた。はずれると、気晴らしに酒を飲んじゃあ、ギャーギャーわめく女房に当たり散らした。ある日、家に帰ったら家の中はもぬけの殻よ。女房が子どもを連れて逃げちまったのさ。それきり一度も会っちゃいねえよ。仕事をしねえ俺の代わりに女中までして食い扶持稼いでくれたのによ。あのころは俺への面当てとしか思えなくて、よけいにむしゃくしゃしてあいつの稼いだ金にまで手をつけてな。まだ小さいガキどもにまで当たり散らして怒鳴ったから、俺を見ただけでびくびくしてやがった。それがまた腹が立ってな。今じゃ上の男の子は四十過ぎ、下の女の子も三十七、八にはなってるだろう。女房も生きてれば六十八だ。俺と二つ違いだったからな。
 女房に逃げられてからはますます自暴自棄さ。酒におぼれる日が続いた。そのうち病気になって酒も飲めなくなった。まだ四十にもならねえのに、情けなくてその時初めて自分を責めた。他のだれでもなく自分が悪いと思ったよ。幸い助けてくれる人があって、お金を借りて病気を治し、それからまた建設現場で働きだした。不況で仕事がなくなるまではちゃんとアパートで暮らしてたんだが、十年前ぐらいからだんだん仕事が減ってきて、年寄りには回ってこなくなった。五年前にはとうとうアパートを追い出された。めでたくホームレスというわけよ」
 あっしは所々でニャーとかニャンとか相づちを打ってさしあげましたから、主は気をよくしてお話を続けました。ここからが肝腎なんでございます。その後・・・)
(おっと、すまないが、小次郎さん。ちょっと待ってくださらんか。なにやら騒がしくて感度が悪くなりました。こちらはカラオケが始まったようですな。賢人が黄色い声で歌らしきものをがなりたてているので、うるさいの、なんのって。卵膜を通してびんびん響いてきますのじゃ。調子が外れているのに、声だけはでかいときたもんだ。周りの大人たちもやれ、元気があっていいだの、お上手だのとごまをするから、本人はいい気になってますます声を張り上げる。賢人はすっかり調子に乗ってマイクを離さない。今からこれでは先が思いやられるのう。そのうちに王子様は自分の欲望がかなえられて当たり前と思うようになる。そうならない時には泣きわめいて暴れ回って手のつけられない小暴君になるじゃろう。幼児の時代はまだいいが、長じてこの幼児的全能感を克服できないと、馬鹿で尊大で不幸な大人になってしまうんじゃ。その中のごく一部が、不幸にも犯罪に走ったりする。本人にもむろん責任はあるが、それ以上に自制心や自立する力を育ててこなかった周囲の大人の責任も大きいとわしは思う。賢人も危ないなあ。アラジンの魔法のランプの精みたいなジジババ四人と、上昇志向のママさんと、ただいま不倫中の気前のいいパパさんと六人がかりでこんなにちやほやされていてはなあ。今から心配でたまらんよ。いや、明日は我が身じゃ。乳幼児にはこの優しく甘い虐待から逃れるすべはないからのう。やれ、やれ、ようやく賢人がお子さま用スペシャルチャーハンにつられてマイクを置いたようだ。ほう、チャーハンに黒豆や海苔やハムであんぱんマンの顔が作られているのか。サニーレタスのマントまであるぞ。こんなに子どもに迎合してどうする!って、わしがここで怒ってもしようがないわい。小次郎さん、お待たせしました。少し静かになったので、どうぞ、続きをお話ください。)
(へい。それでは続けさせていただきます。それにしても、今のお話、あっしにも思い当たることがございやす。あっしの足を切り落とそうとした悪ガキどもは、そろいもそろって名門私立中の生徒で裕福な何不自由ない家庭で王子様みていに育てられたらしいのでござんす。実はあの時、あっしはあの三人の家庭の内偵に入りましてね。だいたいのことは調べたんでござんすよ。それぞれ立派なお屋敷でござんした。そしたら、なんですか。失礼ながら、まったくオムニスさんのお兄さんのように、みんなでよってたかってちやほやされて、一方では過大な期待をかけられて、小さいうちはその期待に応えようと頑張るけれど、そのうち疲れてくる。表面上はいい子を装っているものの、感情のはけ口がなくて、鬱々としている。そういうことだけが原因とは申しませんがね。とにかく、わが子が傷害で現行犯逮捕と聞いた時は三人の家庭は天地がひっくり返ったみてえにえらい愁嘆場となったのでござんす。一方ではひどい虐待で子どもを死なせてしまう親もいると聞くし、人間界もなにやら索漠としてまいりましたね。あっしら猫にもたまには子育て放棄する母猫もいないことはありませんが、猫可愛がりするあまり、まともに生きていけないほどスポイルするなんてことはありませんよ。それは自然の摂理に反することでございますからね。猫可愛がりなんかするのは人間だけでござんすよ。
 これは失礼。よけいなおしゃべりを致しました。わが主のことでござんしたね。主からコンビニ弁当をいただいたあの時から、あっしは毎晩主のそばに寄り添って夜を過ごすようになりました。主の方でもすっかりあっしを今はやりの、何と言いましたっけ、コンビニ、じゃなくて、コンパニ、そう、そう、コンパニオン・アニマルみてえに思ってくださったようで、夜な夜なあっしに言葉をかけてくれなすった。ある雨の夜でござんした。ビニールシートの天井から受け皿にピチャン、ピチャンと雨粒が落ちる音を聞きながら、主は今にも消え入りそうなしゃがれ声でこんな歌を歌っていなすった。
  菜の花畑に入り日薄れ、見渡す山の端霞み深し
 ところが途中で咳き込んでしまわれて、公園の水道で汲んだ茶碗の水を一口飲まれてからこんなことを仰ったのでございます。
 「なあ、小次郎。人間は何のために生まれてくるんだろうなあ。おまえは何のために生まれてきたのかわかるか?わかるというなら教えてくれ。俺は七十年も生きてきて、何か生まれてきて良かったと心底思うことがあっただろうかと考えると、なんにもねえんだ。なんにも思いつかねえんだ。女房、子どもは泣かせどおしだったし、他に好きになった女もいたが、結局、お互いに利用して金の切れ目が縁の切れ目ってやつで、長続きしなかった。自分一人の口を養うのに精一杯の情けない人生だった。このまま死んでいくしかないのかと思うと、妙に切なくてよ。こんな気持ちになったことは今までなかった」
 そう言って主はまた激しくせきこみなすった。このごろいっそう頬がこけて、一日ぼろ毛布にくるまって寝てることが多くなったので、あっしも心配していたんでござんす。熱があるみたいな潤んだ目であっしをじっとご覧になるもんで、あっしはいたたまれなくなりやした。あっしはできるだけ優しい声音でニャーと一声相づちを打つことしかできません。そうすると、また主はしゃがれた声を振り絞るようにしてこう言いなすった。
 「なあ、小次郎。おまえはいい相棒だなあ。まるで俺の話がわかるみてえに、いいところでニャーと鳴いてくれる。ただの猫とは思えねえよ。だから、本気で言うんだが、俺の最後の願いと思って聞いてくれ。俺の体はそう長くは持つまいよ。それは自分でわかる。思い残すことと言えば、別れた女房と二人の子どもだが、いや、今さら会いてえとは思わねえよ。心の中で謝って、あいつらの幸せを祈るよりほかはねえと思ってる。最後の願いというのはそうじゃなくて、なあ、小次郎。俺が最後に人様のために何かできることはないだろうか。こんなテント暮らしで、おまけに病気で、仕事も家庭も財産も何もかもない老いぼれじじいに、人様の喜ぶことなんかできるわけがねえ。そらあ、自分でもわかるさ。でも、それでもよ、何かねえかなあ。それを教えてもらいてえ。こんなこと、猫に言っても仕方ねえな」
 そう言って主は低く笑いながら、あっしののどをそっとなでなすった。あっしは主の心根が嬉しくて涙が出そうになりました。最後に人様のお役に立ちたいなんて、見上げた心意気じゃあござんせんか。あっしは思わず主の節くれ立った手の甲をペロペロなめてさしあげました。猫はめったに人間の皮膚をなめたりしないのでござんすが、心に強くキュンときた時は別なんでございます。
 そこで、ご相談でござんす。今の主にできる人助けがあるでしょうか。あっしにはとんとわかりません。あっしは主と巡りあったおかげで、生き甲斐ができて喜んでおる次第ですが、主から見ますに、それでは猫助けであって人助けにはなっておりません。全知全能、超能力者のオムニスさんなら、何かいい知恵がおありだろうと思い、公園の片隅であなた様のママさんのお腹を見てすかさずコンタクトを取らせていただいた次第でございます。)
(なるほど、よくわかりました。あなたの主の尊いお気持ち、感服しました。けれども、さて、さて、人様のためになること、人様の喜ぶことと言われても、にわかにはいい知恵も浮かびません。全知全能などと言われると面目ないが、ここはしばらく考える余裕を与えてはもらえまいか。)
(もちろんでござんす。ただ、主の寿命はそう長くはないと思われますので、その点だけ御斟酌のほど、お願いいたします。)
(おお、そうでしたな。承知しました。それでは、一両日中に必ずご返答申し上げましょう。)
(へえ。かたじけのうござんす。では、これにてひとまず失礼いたします。)

 「ママ、これ、なあに?臭いよ。臭い、臭い」
 「いいの。これは大人のお料理なんだから、賢人のはこっちでしょ。ほら、このエビさん、おいしそう。このソースをつけて食べてごらんなさい」
 ママさんは深い緑色のマタニティードレスの袖を少したくしあげて、賢人の皿に蒸しエビを置いた。そのドレスは十九世紀の西洋の貴婦人が着ていたようなデザインで、ベルベットの光沢ある生地でできていた。
 「ねえ、この臭いの、何、何?」
 「うるさいわねえ。これは、なになに?中国語は読めないわ。つまりは、魚介類のパパイヤスープ煮だって」
 賢人は鼻をつまみながら、それでも臭い方に興味があるらしい。円卓には色鮮やかな手の込んだ料理が次から次へ運ばれ、ジジババたちは高級ワインに頬を染めている。元々はいける口のママさんもさすがにわしのことを慮ってアルコールは控えて、ウーロン茶やジャスミン茶で我慢している。しかし、豪勢なもんじゃ。円卓の他にカラオケ舞台とすわり心地のよさそうなソファーのついた一部屋を借り切って、五歳の子どもの誕生パーティーとはな。小次郎の主は温かいものさえめったに口にできないというのになあ。
 ん?何か来た。この脳細胞に感じる振動は!オムニアだ!オムニア、どうした?今、どこにいるんだ? 
(オムニス!助けて!寒い。寒くて寒くて震えてるわ。もうだめ!)
 わしの神経回路にひらめくものがあった。
(オムニア!諦めちゃだめだ。手足を動かすんだ。動かして壁をドンド叩くんだ!蹴るんだ!思いきり!もっと、もっと!それ、それ!がんばれ、オムニア!)
 「あら、坊やったら、よく動くこと。急にどうしたのかしら」
 ついわしも一緒になって夢中で蹴りを入れてしまったわい。
 「元気な証拠よ。理恵子さん、またきっと安産ですよ」
 パパさんのお母さんが目を細めて言った。しかし、それきりオムニアからのコンタクトは途絶えた。オムニアの身に何が起こったか、だいたいの予想はついた。あとはオムニアのママさんにオムニアの思いが通じることを祈るばかりだ。わしはパパさんのお父さんが歌う演歌の鳴り響く中で、オムニアを思って祈った。
 パーティーも終盤になって、デザートとコーヒーが出た。賢人にはこれまた特製のアイスクリームケーキだ。ここで、三人の女たちがそれぞれリボンのついた箱を出した。パパさんのお母さんが緑色の包みに赤いリボンの飾られた直方体の箱を出して、賢人に渡した。
 「賢人君、五歳の誕生日、おめでとう。これは横浜のおじいちゃん、おばあちゃんからのプレゼントよ。さあ、何でしょう?開けてごらん」
 賢人は緑の包装紙をいきなり引きちぎった。現れたのはロボット犬だった。賢人は歓声を上げてメタリックな輝きを放つ耳の大きなロボット犬を箱からつかみだした。
 「これはな、育て方によっていろいろ人間の言葉をしゃべるようになるんだぞ。なでたり話しかけたり優しくすればするほど、いい性格になるが、反対にあまり可愛がってやらないとすねて悪い性格になってしまうんだ」
 パパさんのお父さんがそう言うと、賢人はふうんとうなずいて、さっそく頭をなで始めた。
 「賢人ちゃん、まだ充電してないからお家に帰ってからゆっくり遊ぼうね」
 パパさんのお母さんの言葉に賢人は不満そうに口をとがらせた。ママさんにありがとうを言うように何回も言われて、ようやくあさっての方向を見ながらお礼を言った。賢人が動物好きなのに、ママさんが猫や犬の毛のアレルギーで本物のペットを飼えないからという理由で、このプレゼントになったのだった。次はもう一組の召使いの番だった。
 「可愛い賢人君のお誕生日に何がいいかしらと頭を悩ませたんだけれど、ママにも相談して結局これにしたのよ。さあ、開けてみて」
 ママさんのお母さんが差しだしたのは小さな箱だった。包装紙にもくるまれていないので、賢人はすぐ開けることができた。
 「なんだ、これ、かぎ?」
 賢人が顔をしかめてぴかぴか光る銀色の鍵をつまみ上げた。
 「自転車の鍵だよ。賢人はもう五歳だから、三輪車は卒業だ。自転車が欲しいってママに言ってたそうじゃないか。デパートをいくつも回って最高級の一番かっこいい自転車にしたんだぞ。もちろん、補助輪もついてるよ」
 ママさんのお父さんがいい物を選んでやったという満足感をあらわにして言った。
 「自転車、どこにあるの?」
  賢人はチョコレートクリームのついた口をとがらせて聞いた。
 「ここには持ってこられないもの。ごめんね。だから、鍵だけ。もうすぐデパートから届くわよ。注文だったから、すぐに持ってこられなかったの。いえ、今ごろもう賢人君のおうちに届いてるかな」
 ところが、賢人ときたら聞き分けがなくて、今すぐに自転車に乗るんだと言って聞かず、さんざん泣きわめきよった。御家来衆は王子様のご機嫌を直そうと大わらわ、ママさんがあわてて三つ目のプレゼントを出した。ところが、それがゲームソフトだったから大変だ。これも今すぐに遊ぶことができない。こらえ性のない賢人は、おうちに帰ってからいくらでも遊べるのだからとなだめる大人たちに、バカだの、キライだの、暴言を吐いて自転車の鍵は投げるは、欲しかったはずのアニマル伝説のゲームソフトも床に落とすは、挙げ句の果てにママさんのコーヒーカップを手のひらでなぎ倒した。ミルクを入れたままほとんど手をつけていなかったキャラメル色の液体が派手にこぼれた。やれ、やれ、とんだジェントルマンだわい。こんなわがまま王子は即刻パンツを下ろしてバシバシお仕置きせにゃならんのに、取り巻きたちは外聞が悪いものだから、なだめすかして静かにさせようとばかりしておる。あまりの身勝手ぶりに声を荒げたママさんのお父さんに、お母さんがぴしりと言った。
 「あなた、みっともない。大きな声、出さないでください!」
 やれ、やれ。

 ママさんはファッション雑誌を眺めながら、さっきから長いことトイレでふんばっている。妊婦さんは便秘に悩むそうじゃが、九か月にもなるとまたひとしお大変じゃな。わしも間接的に便器に座ってずっと考え続けておる。一つはあれきりコンタクトのないオムニアのこと、もう一つは小次郎さんの主のことだ。オムニアにはこちらから何度もシグナルを出しているが、応答がない。無事でいるだろうか。なんとか無事でいてほしい。わしは全身の細胞を祈りで満たしてオムニアを思っている。
 それから、小次郎の主の最後の願いだ。さあ、いったい何と返事をしたらよいものか。いい知恵が浮かばない。わしがあの人の立ち場だったら何を望むだろうか。ホームレスで病気持ちか。ううむ。やはり、あれかな。あれしかないかな。そうだな。あれしかなかろうな。ママさんが勢いよく水を流した。わしはウンコと一緒に流されるような恐怖を覚えて、思わず体を硬くして羊水の中で踏ん張ってしまった。最近こういうことが多い。それから、ママさんはすっきりしてお化粧を始めた。わしはなおしばらく思案して、小次郎にさっきの考えを伝えた。小次郎ははじめ困ったような声で「ちょいと抽象的でござんすね」と言ったが、最後には明るい調子で礼を言った。
昼食後ママさんがソファーでお昼寝を始めたので、わしもうつらうつらと眠りの渦に引き込まれていった。いつの間にか背中に大きな翼が生えていて手には鋭い爪があり、おのが姿を我ながら頼もしく思いながら、すがすがしい空気を胸一杯に吸い込んで大空高く滑空していた。はるか眼下に緑の森や花畑や青い湖を眺めながら、進化の奇跡を反芻していた。そこへ、心待ちにしていたシグナルが入った。
(オムニアだね。おまえさんのことがいつも気がかりで。あれからどうしてた?)
(オムニス、ああ、オムニス。この前はありがとう。あの時のお礼をちゃんと言ってなかったから、どうしても言おうと思って。おかげであの時はぐっすり眠れたわ。ほんとにありがとう。)
 オムニアの声はたいそう愛らしく、そして、ひどくか細かった。わしの右脳はひらめいた。ああ、オムニアはもうすぐ別の世界へ行こうとしている。
(オムニア、できることなら鳥になっておまえさんのところへ行って、わしの大きな翼の中におまえさんを抱きしめてやりたい。それができなくて残念だが、わしのバイオコミュニケーションの波動でおまえを優しくつつんであげよう。さあ、おまえさんがくぐった試練について話しておくれ。)
(嬉しいわ。あなたの優しい波動を感じるわ。わたしのくぐった試練、ええ、そうね。確かに試練だったわ。わたしのママさんはパパさんに捨てられて、結局はだまされていたのね。パパさんはただの遊びだった。出世のために専務の娘との結婚を選んだの。ママさんは絶望のあまり暗く冷たい海に入っていったわ。そう、あの時よ。わたしがあなたに助けを求めた時。あの時、あなたに言われたとおりわたしは必死で手足を動かしてママさんのお腹を蹴ったわ。何度も何度もね。そうしたら、ママさんは立ち止まってお腹に手を当てて激しく泣いた。それから、ゆっくりと方向を変えて岸に向かって歩き出したの。ずぶぬれで近くの民家に助けを求めて救急車で運ばれたわ。ママさんは助かったけれど、わたしはもうだめ。まだ悪寒が続いているし息も苦しい。もうすぐお別れ・・・でも、わたし、精一杯がんばったのよ。そうでしょ?)
(おお、がんばったとも。よくやったよ、オムニア。おまえさんの思いはママさんに通じた。天にも通じたろう。ああ、そうだ、言いそびれていたけれど、あのハナミズキの旦那がおまえさんによろしくと言っていたよ。だいぶ前のことだけどね。ねえ、知ってるかい?あの旦那、実はカラスが嫌いでね。頭上にカラスが来ただけで風もないのにぴりぴり震えるのさ。そんな時でも、オムニア、おまえのことを思うと心が落ち着くと言っていた。ハナミズキの旦那はお前さんの成長をそりゃあ楽しみにしていたよ。オムニア、どうした?しっかりしなさい!それ、それ、パンチだ、キックだ!どうした!オムニア。だらしがないぞ!)
 オムニアからの応答はもうなかった。わしは心の中でオムニアを思いきり抱きしめた。七か月に入ったばかりの小さな命。わしは忘れない。おまえさんのことは三十五億年の生命史の一ページにしっかり記されているから。わしのソウルメイトだった、けなげなオムニア。太古の海でゆっくりお眠り。
 賢人が幼稚園から帰ってきていた。おやつを食べてさっそく届いたばかりの新しい自転車を庭に持ち出した。庭はさほど広くはないが、芝生の植えられた西洋庭園風で、今は色とりどりのパンジーが光の春に揺れている。賢人は補助輪をつけた自転車にまたがり、体を右に傾かせて得意になってこいでいる。時々プップーと警笛を鳴らしては沈丁花の茂みまで行き、不器用に方向転換してママさんのいるテラスの方へ戻ってくる。ママさんは安楽椅子にどっかり腰を下ろして、まだ眠そうな目でパパさんから届いた絵はがきを眺めている。前はメールをよくくれたのに、今回のメールは向こうに着いた時だけで、あとは一枚の絵はがきだなんて珍しいわねとママさんは頭の片隅で思ったかもしれない。そう言えばと、着いた時のメールに、今回はいろいろな仕事で夜まで忙しいから、あまりメールを出せないと書いてあったことを思い出したかもしれない。でも、それ以上追及しようとは考えないだろう。まだそれだけのネタがないから。だが、それは時間の問題だ。
 賢人は生まれてきて幸せだろうか。賢人のママさんは自殺未遂しなかったし、賢人には家も財産もあれば、相応の社会的地位のある両親と、自己満足と区別のつかない愛情を雨霰と注いでくれる四人のジジババまでいる。見てくれもいい方だし、健康体だし、何もかも恵まれてこのまま英才教育を受け続ければ、外交官の端くれぐらいにはなれるだろう。だが、しかし、ママさんが計算に入れていないとんでもないことが起きるだろう。早ければ思春期で、遅くても二十五、六までには。わしにはそれがわかる。その時、対処を誤るとさらに大変な悲劇が起こる。それを考えるとわしは自分でこの臍帯を断ち切ってしまいたいほどだ。オムニア、どうしてわしを置いて行ってしまったんだ?わしも太古の揺籃の海へ帰りたくなった。
 わしは懐かしい太古の海を思い浮かべた。地球の生物がすべてまだ海の中にすんでいたカンブリア紀、三葉虫をはじめ、さなざまなおもしろい形をした生き物たちが海底にへばりついたり、海中をのんびり漂ったりしている。中には傘の取っ手みたいなフォルムの生物や下部がすぼまったランプのシェードのようなやつ、それから、細い小枝を上方に広げた木のような形のもいる。約五億五千万年前に起こったカンブリア紀の種の爆発と言われる現象の結果、それまでと比べてたくさんの多様な生き物が姿を現したのじゃ。あのころの海は活気があった。   
 それにしても、あの人はどうしているだろうか。家も財産も社会的地位もなく年を取って病気で、ぼろ同然の冷たい布団に横たわり、ただ一匹の相棒がいるばかりのあの人は。

 三月になってすぐ、パパさんがシドニーから帰ってきた。パパさんより先に一抱えもあるみやげ物の箱が二つ海外宅急便で送られてきた。ママさんにはルージュや指輪、ネックレス、イヤリングの類、賢人にはバスのおもちゃとチョコレート、それぞれの両親にもワインやちょっとした財布やベルトなど、それから挨拶代わりに使うらしいマカダミアナッツチョコの山。そうしたキンキラの派手派手しい色の物、物、物で居間のテーブルはあふれかえった。残念なことに胎児のことまでパパさんの頭は回らなかったらしいが。ママさんは「何これ、趣味悪いわねえ」などと言いながら、一つ一つ点検してまんざらでもなさそうだ。いやにみやげ物の量が多いことを不審に思う冷静さはまだないようだ。浮気をしている亭主は妻に対して不自然に優しく大判振る舞いになるというのは定石なのじゃが、今の幸せに安住し、己の魅力に自信たっぷりのママさんは直感力が鈍っているようだ。
 ママさんの興奮が冷めた翌日、パパさんが日焼けした顔に満面の笑みをたたえて居間に入ってきた。パパさんは両手を大きく広げてママさんを迎え、その頬に軽くキスした。何となく気むずかしい表情の賢人を抱き上げ、これでもかと笑顔をふりまいた。だが、賢人は仏頂面のままだ。
 「賢人の欲しかったのは、バスじゃなくて何て言ったっけ、あの、工事現場にあるようなグーンとつり下げる機械のついた・・・そう、そう、クレーン車、クレーン車が欲しかったんですって。それで、きのうから機嫌が悪いのよ。せっかく送ってくれたバスに見向きもしないのよ。スマートでかっこいいのに」
 パパさんは賢人を抱いたまま言った。
 「そうか、クレーン車が欲しかったのか。それは悪かったね。ちゃんと賢人に聞いておけばよかったね。でも、バスだっていいだろう?オーストラリアのバスだぞ」
 「ダメ!バスは持ってるもん。消防車と救急車とパトカーもごみの車も持ってるけど、クレーン車はないよ。僕、みんなそろえるんだから!」
 「そうか、そうか。シドニーのバスなら喜ぶと思ったんだけどなあ。パパの読みが浅かったな。じゃ、今度一緒におもちゃやさんへ行こう。買ってあげるよ、クレーン車」
 賢人はやっと笑顔になってパパさんの首に抱きついた。風呂に入ってさっぱりしたパパさんは、ビールを飲みながらスキューバダイビングで潜った海の中の様子を得意そうに話しておった。何かよけいな質問をする隙を与えないみたいに。
 それから二週間ほどした朝のことだった。テレビで七時のニュースを見ていたママさんが声を上げた。
 「あら、やだ。あそこの公園じゃない!まあ、犯人は十代の少年らしいって。恐ろしいわねえ、こんな近くで」
 「ホームレスも大変だな。いつ、たちの悪いガキどもに襲われるかわからないんだから」
 パパさんがトーストを頬張りながら目は新聞に落としたまま言った。わしの覚めやらぬ脳細胞に衝撃が走った。わしはすぐさま小次郎にコンタクトを図った。二回、三回と試みたが、応答がない。
 「まあ、猫までやられたんですって。犯人は逃げちゃったのね」
 「この国はそのうち内部から崩壊するね。なんで人を殺しちゃいけないのかって、開き直る人間がわんさか出てきた日にはね。社会の基本的モラルってものがなくなってきたね」
 パパさんは自分のことは棚に上げてそそくさと席を立ち、上着を引っかけて出かけて行った。
 確かにまあ、どうして人を殺しちゃいけないかって、開き直るのは感心しないが、問いそのものにはなかなか深いものがあるとわしは思うな。なぜなら、それは答えのない問いだからじゃ。あるいは、この社会では道徳的なごまかしの答えしか許されない種類の問いだからじゃよ。もし本当に根元的にこの問いを問うている青年がいるとしたら、彼はその欺瞞を見抜くじゃろう。
 ママさんは自分のためにスープを温めなおし、トーストをこんがり焼いてゆっくり食事を始めた。わしは羊水を飲む余裕もなく、小次郎にシグナルを送り続けた。わしはオムニアに助けを求めた。オムニア、お願いだ。どうか小次郎と主を守っておくれ。
 ようやく応答があったのはパパさんが仕事から帰って食事しているころだった。
(小次郎さんか。心配したよ。無事でしたか。)
 小次郎は泣いていた。
(オムニスさん。あっしの主は亡くなりました。昨日の明け方のことでござんす。)
 わしは羊水の中で力をこめてわが胸を打った。
(やられたのか。脳みその腐ったガキどもに。今朝のニュースの・・・)
(いいえ、そうじゃありません。オムニスさん。あれは別のお人です。気の毒な
別のお人でござんすよ。あっしが泣いているのは悲しみのためばかりじゃありません。はい、感動のためでござんす。今までこんなに心を動かされたことはございません。はい、オムニスさんのおかげです。ありがとうございました。)
 わしは一転胸をなで下ろしたが、それでも、小次郎の主が亡くなったことに変わりはないと気づき、手を合わせていつもより深く祈りの姿勢をとった。
(小次郎さん、主の最期の様子を詳しく語ってくださらんか。)
(もちろんでございますとも。なんやかやと立て込みまして、ご連絡が遅くなって申し訳ございません。あっしの大切な主は穏やかに微笑みながら最期を迎えなすった。その時の光景を思うだけで胸が熱くなるのでござんすよ。)
 小次郎はしばらく嗚咽をかみ殺すように沈黙してから、体勢を立て直し歯切れよく語りだした。
(一昨日のことでござんす。夜も更けてから突然若い男が三人ほど主のテントに
押しかけて来やして、こう怒鳴ったんでござんす。
 「昔のお礼に来たぜ。おかげさんで少年院送りになって苦労したぜ。おっさん、まだ生きててくれてうれしいよ」
 二年前、あっしの足を切り落とそうとしたガキどものようでござんした。あの時警察に捕まってから、どうなったのか知る由もありませんでしたが、二年もたって晴れて自由の身になったんでござんしょう。一人が懐中電灯で主の姿を浮かび上がらせました。別の一人が寝ていた主の襟首を捕まえて外に引きずり出そうとしました。あっしはすぐさまうなり声をあげてそいつの手に飛びかかり、思いきり引っかいてやりました。すると、そいつは不意をつかれてたじろぎましたが、すぐにあっしを捕まえようと向かってきました。しかし、懐中電灯は一つきり。闇の世界を跳梁するのはあっしら猫にとっちゃあお茶の子さいさい。ひらりと身をかわしすばやく闇の中を駆けめぐり、あんなこわっぱどもの手に落ちることなんぞござんせん。あっしの方こそ二年前のリベンジでござんす。命の恩人に手を出す奴らをのさばらせてはおけません。あっしはうず高く積まれた古新聞の上からガキどもの頭めがけてジャンプし、頭の皮にはりついて思いきり爪を立て、ついでにちょっぴり小便をかけてやり、怨念をはらす化け猫みたいに恐ろしいうなり声を上げながら、懐中電灯の光の輪をかいくぐって三人に代わる代わる襲いかかりました。新聞紙の束で二度ほどはたかれましたが、気が張っていましたから痛さなんて感じません。ただ、ただ主を守りたい一心でござんした。
 こわっぱどもはそれでも隙をついて主に手をかけて容易に離そうとはしません。とうとう胸ぐらを捕まえて押し倒し、殴り出しました。別の一人が棒きれを振りかざしました。あっしはとっさに主の胸に飛び込んでいきました。すると、主はあっしを自分の腹の所に抱き止め、片手を上げ、毅然とした調子でガキどもにこう言いなすった。
 「頼む!ちょっと待ってくれ。おまえたち、殴って気が済むなら殴らせてやってもいい。だが、その前にわしの話を聞いてくれ。これは最後の願いだ。男なら、人の最後の願いは聞くもんだ」
 胸ぐらを捕まえていたガキが言った。
 「何が最後なんだよ。いい加減なこと言うんじゃねえよ」
 主はようやく起きあがって言いなすった。
 「嘘じゃない。見てのとおりの老いぼれだ。病気でもう長いことはないんだ。おまえたちにやられなくても、わしはもうすぐ死ぬ」
 懐中電灯を持ったガキが主の顔を照らすと、頬がこけて白い無精ひげに覆われた精気のない顔が浮かび上がりました。主はまぶしそうに目をそらしました。三人目の小柄なガキが突然鼻を押さえて「くせえな、ここ。おい、くせえよ」と言った。すると、他の二人も口々に臭い、臭いと言い出しました。長い年月風呂に入っていない人間の体はかなり強烈な匂いがいたします。特に冬場は寒くて公園の水道で体を洗うこともできませんから、なおさらでござんす。さっきあっしが頭の上にちびった小便も寄与しているかもしれません。とにかく、そこでガキどもの殺気は薄れて、いいだろう、話を聞こうということになり、とにかく、ここは臭くてたまらないと言って一同外に出ることになりました。
 闇夜でござんした。かすかに雨の匂いがして明日は久しぶりに一雨来るかとあっしは夜空を仰いで思いました。昼間は春の陽気でも、夜はまだまだ寒うござんす。ビニールシートの上に四人の人影があぐらをかいてすわりました。あっしは主の体が心配で、少しでも温めて差し上げたいと主の太股にぴったり体をつけて丸まりました。すると、ガキどもは煌々と光るあっしの目を憎々しげに見て口々に言いました。
 「こいつにも後で思いきり仕返ししてやるぜ」
 「おっさん、治療代請求するからな」
 「それにしても、番犬みてえな猫だ」
 そのうちの一人はバタフライナイフをくるくる回していました。主は素直にあっしの素行を詫び、この野良猫があんな振る舞いに出るとは思いも寄らなかったと言いなすった。じれったいったらございません。あっしの思いをちっともわかっておいででないんですからねえ。それから、こうも言いなすった。この猫がいなかったら、俺はとっくにおまえたちにやられていただろうと。そして、主は自分を襲ったガキどもにこんなふうに話しなすった。
 「俺の十五、六のころはよ、戦後まもなくで住む家どころか食い物もろくになくてな。道端には死体がごろごろ転がってたし、人が寄ってたかってなぶり殺されるところも見た。腹が減って頭がぼうっとしてたから何も感じなくなってたな。親は二人とも死んじまった。田舎の親戚にひきとられて、牛か馬みてえにこき使われた。十八になってたまらずそこを飛び出して東京へ来た。土方の仕事なんかをやってその日暮らしさ。食い詰めて野良犬をばらして食ったこともあったな。喧嘩もやった。今はこんな老いぼれだが、わけえ時は怖いもの知らずでけっこう強かったんだ。俺にやられてかたわになった奴もいたぐれえさ。結婚してからは競馬に狂って女房を泣かした。女房に逃げられて、それでも心底真面目になりきれねえで、今じゃこのざまだ」
 「何だよ、愚痴が言いてえのかよ」
 「関係ねえよ」
 「寒いなあ。早いとこやって、ずらかろうぜ」
 ガキどもは口々に不満を言いました。すると、主はいっそう弱々しくなった声音でこう言いました。
 「すまねえな。もうちょっとつきあってくれ。最後の願いだからな。俺は確かに何の取り柄もねえホームレスのじじいだ。だがな、このまま人生を終えるのかと思うとたまらねえ気持ちになる。こんな俺でも最後に一つぐらい人様の役に立つことができねえかと、このところそればっかり考えていた。そこへおまえたちが襲ってきた。小次郎が、この猫のこった、思いがけずおまえたちの相手をしていた時、とっさに思った。おまえたちが俺を殴って気が済むなら、そうしてやってもいいとな。だけど、ただ痛い目に遭わされるのは嫌だ。その前に話がしてえ。今まで誰にもしなかったような心からの正直な話をしてえと思ったんだ。さあ、俺の話はこれでおしめえだ。あとは好きなようにしろ」
 そこで主はあぐらをかきなおして精一杯背筋を伸ばしなすった。あっしはその膝の中に入りこみ、ニャーと一声鳴きました。主がその覚悟ならあっしも一緒にと思ったんでござんす。それにしてもばかなお人でござんす。わが主でござんすよ。こんな馬鹿ガキどものサンドバッグになってやろうなんて。だって、オムニスさん、あなたのアドバイスはそんなことではなかったんでござんすから。でも、オムニスさんのアドバイスはあっしの細胞を通じてちゃんと主に伝わっていたんでござんすねえ。ガキどもは思いのほか主のしわがれ声に聞き入っていたんでござんすよ。
 「こんな老いぼれやったところでしょうがねえよ、なあ」
 「ああ、ほっといても死にそうじゃねえか」
 「もう、どうでもいいや。ふん、殴られてやって人助けなんておかしいじゃねえか。そんなの人助けになんかなるもんか!おっさん、やっぱアタマ悪いな。ほかに考えつかねえのかよ」
 そんなことを言いながら、その辺に花や木を植えるのはどうだとか、公園を掃除したらいいじゃねえかとか、結構まともなことを言い合って騒ぎ出し、「バカ、病気で動けねんだよ。代わりにおまえがやれ」などと三人でこづきあっているのでござんす。それから、いつの間にか三人はそれぞれの境遇などをぼそぼそと語り出し、今度は主の方がしきりに相づちを打つというふうになりました。ガキどもの言うには、世間体ばっかり気にして怒ったりなだめすかしたりする親にむかつくとか、優等生の方ばかり向いて俺たちみたいな落ちこぼれとはかかわろうとしない先生にキレたとか、なんかわからないけど毎日むしゃくしゃするとか、まあ、要するにやっぱり愚痴でござんすね。途中で一同どうにも寒くてかなわないというんで、主が新聞紙を束ねて火をつけて小さなたき火をしました。そこらで廃材を見つけて火にくべると、あら、不思議、なんかいい雰囲気なんでござんすよ。人間てえのは、原始時代から火を見るとほっとするんでござんしょうかね。火を囲んだガキどもの表情がだいぶ和らいで見えました。すると、三人の中で一番口数の少なかった少年がこんなことを言いました。
 「親父はよ、銀行のお偉いさんかなんか知らねえけど、家じゃいつもいらいらしてやがんの。母親はいつもおどおどして顔色伺ってて、しょっちゅう怒鳴られてさ。そのうち俺が馬鹿やらかしたもんで、病気になっちまった。親父の奴、心配するどころか女つくってやがった。俺、みんな知ってんだ。俺の母親、ほんとにあの人かなあって最近疑い出したんだ。似てねえしな。本気で怒られたことねえしな。あの、親父、さんざでたらめやらかしてるからな。俺もその血を引き継いでるんだ。しょうがねえよ。あいつ、うんと困らして、最後に殺してやる」
 「おまえ、そんなこと考えてたのかあ」
 「けど、そりゃ、許せねえよな」
 二人の少年は全然知らなかったという顔で言いました。
 主は何か意見するでもなく、時々「そうか」とか「ふん、おまえたちも大変だな」とか短く合いの手を入れるだけで、静かに聞いていなさったが、この時も別段諫めるでもなく、ただ一心に耳を傾けていなさった。その様子を眺めながらあっしはオムニスさんのアドバイスを心に思いました。ああ、これだったのか。このことだったのかと胸を熱くいたした次第でござんす。あなたのお答はこうでござんしたね。「人を喜ばせ、人の役に立ちたいと思うなら、このことをしなさい。心を開き、心の底から人に語りかけなさい。あなたの飾らない正直な思いを相手にぶつけなさい」主は最後にそれを致しました。そして、三人の少年たちとの間に対話が成立したとあっしは思います。猫の分際で言うのもなんですが、人間、他人と心を通わす以上に幸せなことはないように思います。)
(そうですか、そうですか。よかった。けれども、小次郎さん、残念なことに主はもうこの世にいらっしゃらないんじゃな。あなたの主はどんなふうにお亡くなりになったのかな。)
(へい、あの夜遅くまで話しこんで少年たちが引き上げたのは真夜中でござんし
た。帰る時にそのうちの一人が「おっさん、長生きしろよ」なんて言ったんでござんすよ。よくもまあぬけぬけととあっしは思いましたよ。襲いかかって殴っておきながら、きちんと謝りもしないでよく言うもんでござんすよ。ところが、主は殴られたことも忘れたようにそれは嬉しそうにうなずいて「ありがとよ」なんて言いなすった。それからあっしにもこう言いなすった。
 「小次郎、今日はいい日だったなあ。おまえのおかげだ。ありがとうよ」
 あっしはほめられてこそばゆい心持ちで主の手の甲をぺろぺろなめて差し上げました。ひんやりと冷たい感触でござんしたねえ。それから主はぼろの寄せ集めみたいな布団にくるまって、寒そうに身を丸めて寝ておしまいになりました。その後、さあっと駆け抜けるように春の雨が降りました。それから、それから・・・朝になったのでござんす。明るい光が青いテントを通して差し込んできました。日が高くなり昼頃になっても主は眠っていました。昨夜寝たのが遅かったから疲れたんだろうとあっしは思いました。ところが、夕方になっても主は目を覚ましません。あっしは主の頬に顔をすりつけ、主の鼻の頭をなめてみました。こうすると、たいていくすぐったくて目を覚ましたものでござんすから。でも、主はじっと目を閉じて、何だかとても満足したような、微笑んでいるような表情をしてぴくりとも動きません。白い髭に覆われた皺だらけの顔はいっそう小さく見えます。あっしはようやく悟りました。主はもう二度と目を覚ますことはないのだと。あっしはじっと主のそばにうずくまり、しばらくそうしておりました。外からは時折人の声や誰かが歩き回る音が聞こえてきます。あっしの大切な主が静かに旅立ったことをまだ誰も知りません。はい、丸一日たった今でも誰も、誰も知らないのでござんす・・・)
(小次郎さん、あなたの主は最後に立派なことをやり遂げた。人が一生かかってもできるかできないかっていう大事をね。それはどんな金持ちも知識あるエリートも王族の類だって、たやすくできることじゃない。いやそういう特権階級ほどできないことじゃ。裸の心でまっすぐに正真正銘自分の言葉で人に語るというのはね。そういう言葉は届くんじゃ。届けばとどまってその人の心に変化をもたらすことだってある。わしもあなたの主からいい餞別をいただいたよ。だが、小次郎さん、落ちついたら、主の死を誰かに知らせることじゃ。亡骸を葬ってもらわなければならんからなあ。)
(へい、オムニスさん。でも、あっしは・・・もうしばらくこうしております。人の役に立つことなんかしなくても、あっしにとっちゃあ、主がいてくれるだけでよかったんでござんす。だから、今しばらくあっしはこうしております。このままで・・・)
 わしは胸がいっぱいになってもう何も言えなかった。バイオコミュニケーションの波動をできるだけ優しく送ってさようならは言わなかった。小次郎も細かく震えるような波動を短く返してきて、それきりになった。

 ママさんはさっきからしきりにパパさんのワイシャツの襟元に鼻を近づけて、警察犬よろしくクンクン匂いを嗅いでいる。おかしい。このかすかな残り香はパパさん所有のオーデコロンのどれでもないし、もちろん、ママさん所有のパルファムやオードトワレのどの香りでもない。とすれば、絶対にあるべからざる侵入者の女の匂いだ。女の香水を含んだ耳たぶがちょうどワイシャツの襟のあたりにあってこすれたのだ。ママさんの嗅覚は瞬時にそう悟った。そうか、この何か月かいやに優しく気前がよく寛容だったのは、妊娠中の身をいたわってのことと思っていたけれど、なるほど、そういうことだったかとママさんはキラリと美しい瞳を輝かせ、秘かに戦闘態勢を固めた。とうとうこの時が来てしまったか。間の悪いときに生まれ合わせることになったとわしは憂鬱になった。
 ママさんはもうすぐ十か月になる。もう入院の手続きも済ませていた。某有名病院の一流ホテルのような特別室じゃ。十二階の東南の窓からは眼下に公園の池や樹木が見える。広い個室の壁は可愛らしいピンクの花柄模様で、ベッドの他に応接セット、冷蔵庫、バス・トイレつき、大きな液晶壁掛けテレビもある。食事も一流レストラン並みで、入院費用は一泊八万円というから驚く。こんな病院でこの世にデビューするわしは果報者なんだろうか。そうとも思えんがなあ。
 いよいよ明日入院という前の晩のことじゃ。ママさんはパパさんの肩に頭を載せ、だるそうな甘え声で念を押した。
 「あなた、出産の時は必ず付き添ってくれるわね。その時はどんな大切な仕事も、仕事以外のどんなに大事な約束も、きっとキャンセルしてくれるわね。あたしたちの可愛いベビーが生まれるんですもの。賢人の時は海外出張中で、ほんとに心細かったわ。何もかも初めての経験だったんですもの。あの痛み、あなたにはわからないでしょうね。もう、ほんとに最後は殺してくれって思ったわ。今度は二度目だから少し余裕があるって感じ。でも、今度こそあなたにそばにいてほしいの。仕事以外の用事なんてないわよね?大丈夫よね?」
 「仕事以外」というところでママさんの発音に不自然にアクセントが加わったことは言うまでもない。
 「そりゃ、君、もちろんだよ。賢人の時はすまなかった。あの時は僕も新しい上司に認められたい一心で断れなかったんだ。今度は大丈夫。安心して。だいたい僕に仕事以外の大事な約束なんてあり得ないしね」
 パパさんの少しぎこちない笑顔には、もしやという懸念が表れておった。わしは指をしゃぶりながらそんなことまで察知してしまうのだから、かなわんなあ。だが、この能力とももうすぐお別れだ。しかし、その前にママさんの目にめらめらと炎が燃え上がってしまった。
 「本当にそう言える?あなた、あたしを見くびらないで。一昨日の夜、誰と会っていたか言ってごらんなさい!」
 パパさんは明らかにたじろいで腰が引けておった。
 「一昨日の夜?ちょっと待って。ええと・・・一昨日の夜は、そうだ。同僚と六本木で飲んでたんだ。ほら、君も知ってる岡村と山口と、それから君はまだ知らないか、倉林っていう中途入社の奴と、こいつがすごい酒豪でくだ巻いて、大変だったんだ。そろそろ帰ろうと言うと怒り出すんだから。それでちょっと帰りが遅くなった」
 ママさんの尋問が始まった。
 「あ、そう。その中の誰でしょうね。あなたのワイシャツの襟にいい匂いの香水をつけた人は?あれはレッドドアと見たわ。あたしは今それ持ってないから、あなたの襟につけようがないし、まさかあなたの同僚の岡村さんや山口さんがそんな媚薬みたいな香水をつけていたとは思えないしね」
 ママさんはひたとパパさんのしょぼしょぼした目を見つめた。
 「何を言ってるんだ。じゃ、何かい?君、僕が不倫でもしてるって言うのかい?僕たちの可愛い二人目をもうすぐ産もうっていう君を裏切って?とんでもない!君は臨月で少し神経質になってるんだ。匂わない物まで匂うような変な錯覚に陥るんだ。ほら、妊娠中は味覚も変わるって言ってたじゃないか。いろいろと感覚にも変化が出るんだよ。ね、馬鹿なこと言ってないで、今はとにかく無事に産むことだけを考えて、ね。僕だってできる限りのことをするからさ。ね?」
 パパさんは必死に弁解説得に努めたが、ママさんの硬い表情はいっそう緊張の度合いを増し、次の瞬間、楽器の弦がぷつりと切れたみたいに弾けた。
 「違う!違うったら違う!あなたは大嘘ついてる。女の直感を見くびるとろくなことにならないわよ!今思えば、何もかも変だった。このところばかに優しすぎるその態度がね。さ、白状しなさい。どんな女なの?美人なの?胸は大きいの?あたしより?お尻は?ピーチフル?よかったんでしょ?ええ?」
 ママさんは気が違ったみたいにパパさんの襟首をつかんで締め上げた。蒼白になったパパさんがママさんの手を払いのけると、今度はキーッと叫びながらパパさんの顔に爪を立てた。今度はパパさんが悲鳴を上げて、ママさんの手首をつかんでひねりあげた。その拍子にパパさんの腕がサイドテーブルにぶつかって、置いてあったワイングラスが倒れ、赤い液体がこぼれた。その直後、ママさんがうめき声を上げて大きなお腹を押さえてしゃがみこんだ。
 「いたたたた!痛いわ、いたああい!」
 パパさんがあわててママさんに駆け寄った。
 「だ、大丈夫か?ごめん、ごめん」
 どぎまぎしてママさんの背中をなでているパパさんにママさんは「きゅ、救急車」と口走った。
 実を言えば、夫婦喧嘩が始まったころからわしはなにやら下の方へ引っ張られる力を感じておった。いよいよその時が近いようじゃ。
 ママさんは前期破水だった。だが、量は少しだったようで、わしはまだ羊水に浮かんでいる。ママさんはゆったりした特別室のベッドで安静にしている。襲ってくる陣痛に耐えながらその時間間隔を計っている。わしもそろそろ心の準備を始めた方がよさそうだ。わしはじっと太古の海に思いをはせた。
 三十五億年前、わしは目に見えないほど小さな単細胞生物だった。海の底にへばりついているうちに二十億年という時間が流れた。それから、真核細胞を持つ多細胞生物になった。海底にどっしりと陣取った海綿だった。海の水をこしとって栄養を吸収していた。それから、次は海に咲いた花のようなイソギンチャクだった。筋肉と神経を使って体を動かす能力を手に入れた。次のステージは扁形動物じゃ。頭と脳を持った最初の動物だ。脳を有することによって初めて方向と意図を持って移動できるようになった。食べ物と交尾の相手を求めて行きたい方向へ進めるようになったんじゃ。わしはさらに進化の過程を進んで、脊索動物になった。脊索というのは背骨のように体を支える器官で、人間でも受精卵から間もない胎児の時期にそれができる。それが背骨へと変化する。太古の海で最初の脊椎動物は魚だった。魚はあごの骨を進化させ、海の食物連鎖の頂点に立った。およそ六億年前には陸に上がった脊椎動物も出てきた。その幻の動物はえらと肺を合わせ持ち、陸上を歩くことで足を進化させた。やがて皮膚が乾燥に耐えるために硬く厚くなり、完全に水辺を離れて生活できるようになった。爬虫類の出現じゃ。爬虫類は大型化し、恐竜となり、わが世の春を謳歌した。恐竜が絶滅して哺乳類の時代になってからも生命体は驚くべき多様性を保ち、今地球上に生存している生物はどれもそれぞれの進化の過程で頂点を極めたエリートばかりじゃ。わしのゲノムの中にはこうした生命の歴史がすべて刻まれておる。わしは海綿から多細胞生物としての基本的な設計図を受け継ぎ、イソギンチャクなどの刺胞動物から運動能力を受け継ぎ、扁形動物からは原始的な脳の設計図を継承し、魚やトカゲや鳥の脳をいただいている。こうして三十五億年の生命の奇跡を一身に担ってわしは今、生まれ出ようとしている。いや、生まれようとして果たし得なかったオムニアの思い、太古の海へと帰っていった小次郎の主の思い、何兆、何十兆もの命の叫びをこの胸に秘めて、揺籃の海から今、生まれようとしている。
 わしの頭の先端はひょっとこの口みたいに細長くくびれて、真っ逆さまに引っ張られていく。細長いトンネルを回転しながらゆるゆると下っていく。息苦しい。頭の中が真っ白になっていく。脳細胞をつないでいた神経回路がぷつぷつと切れ、さまざまなイメージが、言葉の束がするすると消えていく。わしの脳のスクリーンには文字化けしたモニター画面のようなカオスが広がり、それは川の水に溶ける絵の具のごとくゆらゆらと水中に流れていく。そうだ、そうだ、それでいい。誕生とは暴挙なのだ。智恵ある身でどうしてこの理不尽きわまりない世に生まれ出ることができようか。いよいよ前後不覚になろうという瞬間、優しいかすかな声をわしは聞いた。
 「オムニス、頑張って」
 その声に励まされ、わしは身をよじりさらに暗いトンネルを進む。苦しい。苦しい。こうして過去のデータのすべてを失い、無垢の新しい命そのものになる。苦しい。苦しい。臍の緒は伸びきって血流は滞り、母体からの酸素の供給が途絶えた。窒息状態であえぐ、あえぐ。それでも、ほのかな晨明を求め、果敢に出口へと進む。酸素と光にあふれ、多様な生命のさんざめく奇跡の大地へ。
                                     完

  参考文献
    ・中村桂子『生命誌の世界』 NHKライブラリー
    ・中原正木『人は足から人間になった』 労働旬報社
    ・斉藤成也『遺伝子は35億年の夢を見る』 大和書房
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