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文字数 1,855文字
放課後の校舎裏で、わたしは彼を待っていました。まだ五月だというのに気温は高く、首筋に汗が伝います。校舎裏という場所は熱い日差しは届かないものの、空気はじめじめと淀んでおり、とても気持ちの良いものではありませんでした。
わたしはハンカチで額と首元の汗をぬぐい、水筒の水をあおります。この場所に来てから、もう何度水を飲んだでしょうか。一時は気持ちが楽になりますが、それもただの気休めです。空になった水筒を鞄にしまい、再びわたしは彼の到着を待ちます。
スカートの埃を手で払い、制服のタイを直します。ここに来る前に散々確認したのでその必要はないとわかってはいますが、どうしても心配になってしまうのです。手鏡は校則で禁止されています。そのことに少し罪悪感を覚えつつも、自分の身なりを入念に確認するのでした。
こうしてただじっと待っていると、どうしようもない不安や後悔が湧き上がってきます。大きく息を吸い込み、どうにかそれらを胸の奥に押し込めます。どうしてこんなことをしようと思ったのだろう。もしも過去に戻れるのならあの頃のわたしを止めてあげたい。体を動かしていないと、そんなことばかり考えてしまうのです。
いっそのことここから逃げ出してしまおうか。約束を破ったからといって、彼なら謝れば許してくれるでしょう。彼に呼び出した理由を聞かれたら、適当に誤魔化してしまえばよいのです。さながら、いたずらをして怒られる子どものような心持ちです。
そんなことを考えていたときのことでした。
頬にすうっと血が上ってくるのがわかります。肺が空気で満たされ、文字通り胸がいっぱいになります。鼻の奥の方につんとした痒みがあり、それに呼応するように目に涙が滲みました。
彼のことは、いつも陰から見ていました。けれど、こんなに近い距離でまじまじと見るのは、もしかしたら初めてかもしれません。
この暑さにもかかわらず制服の一番上までボタンが止められており、地味な色の眼鏡の奥ではきりっとした瞳が光を湛えています。身長はわたしより頭一つ分ほど高く、背筋はぴんと伸びており、気丈な印象を与えます。ここまで走ってきたのでしょうか、額にはうっすらと汗を浮かべていました。
わたしは口を開きますが、頭の中がこんがらがってしまい、うまく言葉を発することができません。わたしと彼の間に、気まずい沈黙が流れます。それを破ったのは、静かに発した、彼の言葉でした。
何か相談事か、それとも告白したいことでもあるのかい。
彼は心配そうな顔をしていました。
告白。そう、告白。確かに彼をここに呼んだのは、告白したいことがあったからでした。けれど、彼の言う告白と、わたしの考える告白とでは、少し意味合いが異なるような気がしました。
それを理解したとき、わたしの目から不意に涙が溢れ出しました。そしてわたしは、今までのわたしの心を恥じました。
わたしが彼を校舎裏に呼んだのは、わたしの気持ちを彼に告白するため。ではなぜ校舎裏でなければならなかったのか。ほかの誰にも、この気持ちを知られたくなかったから?
わたしのこの気持ちは、そんなに後ろめたいものだったのでしょうか。この気持ちは、誰にも知られてはいけないものだったのでしょうか。
いいえ。そんなはずはありません。彼の靴箱に手紙を投函したときのわたしの胸中は、幸福な気持ちでいっぱいだったはずです。この気持ちを伝えたくて仕方がなかったはずなのです。
彼はポケットからハンカチを取り出し差し、涙を拭うように言いました。わたしは何かに背中を押されるように、ハンカチを持った彼の手を取って走り出していました。
校舎の陰から出ると、ぱっと視界が明るくなり、一瞬目がくらみます。段差に足を取られかけますが、それでも走り続けました。
気がつくと、校庭の入り口に立っていました。息を切らしたわたしと、隣には驚いたような表情の彼。彼とわたしを繋ぐ手は、じんわりと汗ばんでいます。お互いの体温と鼓動が伝わりあって、少し恥ずかしくもありますが、それがとても愛おしくもありました。
わたしは彼の方を向き、繋いでいた彼の左手を、今度は両手で包み込みます。大きくて、少しごつごつとしていて、温かい手。
校庭では野球部やサッカー部が、夏の大会に向けて練習しています。わたしはその声に負けないように、できる限りの大きな声で叫びました。
あなたが、好き。
気持ちの良い風が一筋、わたしの中を通り抜けました。
わたしはハンカチで額と首元の汗をぬぐい、水筒の水をあおります。この場所に来てから、もう何度水を飲んだでしょうか。一時は気持ちが楽になりますが、それもただの気休めです。空になった水筒を鞄にしまい、再びわたしは彼の到着を待ちます。
スカートの埃を手で払い、制服のタイを直します。ここに来る前に散々確認したのでその必要はないとわかってはいますが、どうしても心配になってしまうのです。手鏡は校則で禁止されています。そのことに少し罪悪感を覚えつつも、自分の身なりを入念に確認するのでした。
こうしてただじっと待っていると、どうしようもない不安や後悔が湧き上がってきます。大きく息を吸い込み、どうにかそれらを胸の奥に押し込めます。どうしてこんなことをしようと思ったのだろう。もしも過去に戻れるのならあの頃のわたしを止めてあげたい。体を動かしていないと、そんなことばかり考えてしまうのです。
いっそのことここから逃げ出してしまおうか。約束を破ったからといって、彼なら謝れば許してくれるでしょう。彼に呼び出した理由を聞かれたら、適当に誤魔化してしまえばよいのです。さながら、いたずらをして怒られる子どものような心持ちです。
そんなことを考えていたときのことでした。
頬にすうっと血が上ってくるのがわかります。肺が空気で満たされ、文字通り胸がいっぱいになります。鼻の奥の方につんとした痒みがあり、それに呼応するように目に涙が滲みました。
彼のことは、いつも陰から見ていました。けれど、こんなに近い距離でまじまじと見るのは、もしかしたら初めてかもしれません。
この暑さにもかかわらず制服の一番上までボタンが止められており、地味な色の眼鏡の奥ではきりっとした瞳が光を湛えています。身長はわたしより頭一つ分ほど高く、背筋はぴんと伸びており、気丈な印象を与えます。ここまで走ってきたのでしょうか、額にはうっすらと汗を浮かべていました。
わたしは口を開きますが、頭の中がこんがらがってしまい、うまく言葉を発することができません。わたしと彼の間に、気まずい沈黙が流れます。それを破ったのは、静かに発した、彼の言葉でした。
何か相談事か、それとも告白したいことでもあるのかい。
彼は心配そうな顔をしていました。
告白。そう、告白。確かに彼をここに呼んだのは、告白したいことがあったからでした。けれど、彼の言う告白と、わたしの考える告白とでは、少し意味合いが異なるような気がしました。
それを理解したとき、わたしの目から不意に涙が溢れ出しました。そしてわたしは、今までのわたしの心を恥じました。
わたしが彼を校舎裏に呼んだのは、わたしの気持ちを彼に告白するため。ではなぜ校舎裏でなければならなかったのか。ほかの誰にも、この気持ちを知られたくなかったから?
わたしのこの気持ちは、そんなに後ろめたいものだったのでしょうか。この気持ちは、誰にも知られてはいけないものだったのでしょうか。
いいえ。そんなはずはありません。彼の靴箱に手紙を投函したときのわたしの胸中は、幸福な気持ちでいっぱいだったはずです。この気持ちを伝えたくて仕方がなかったはずなのです。
彼はポケットからハンカチを取り出し差し、涙を拭うように言いました。わたしは何かに背中を押されるように、ハンカチを持った彼の手を取って走り出していました。
校舎の陰から出ると、ぱっと視界が明るくなり、一瞬目がくらみます。段差に足を取られかけますが、それでも走り続けました。
気がつくと、校庭の入り口に立っていました。息を切らしたわたしと、隣には驚いたような表情の彼。彼とわたしを繋ぐ手は、じんわりと汗ばんでいます。お互いの体温と鼓動が伝わりあって、少し恥ずかしくもありますが、それがとても愛おしくもありました。
わたしは彼の方を向き、繋いでいた彼の左手を、今度は両手で包み込みます。大きくて、少しごつごつとしていて、温かい手。
校庭では野球部やサッカー部が、夏の大会に向けて練習しています。わたしはその声に負けないように、できる限りの大きな声で叫びました。
あなたが、好き。
気持ちの良い風が一筋、わたしの中を通り抜けました。