第1話

文字数 1,660文字

世界各地で新型コロナウィルス感染拡大が進む中、海外から国内への病原体の持ち込みを防ぐ、所謂「検疫」に、かつてないほどの注目が集まっている。日本でクルーズ船を洋上に停泊させての大規模検疫が行われたが、この光景を見て「あの人ならどうしただろう」と連想した方もいらっしゃるかも知れない。
日本で検疫が始まったのは、明治に入った後の1879年、西南戦争後の混乱のさなか国内にコレラが蔓延した。その反省から、明治政府は横須賀や長崎などに検疫所を設けた。鎖国の影響もあり大きく出遅れた日本であったが、ほどなく世界から大きな注目を浴びる。日清戦争(1894~95年)の帰還兵23万人の大規模検疫を、わずか3か月でやってのけたのだ。その指揮を執ったのが、当時内務省衛生局の文官だった後藤新平(1857~1929年)だった。
 日清戦争の戦地・中国では当時コレラが流行していたが、日本が大国・清に勝利した、その帰還兵たちは凱旋兵であり、彼らを「消毒」「隔離」するのは反発も大きかったとみられる。
戦役において多くの死傷者が出ることはいうまでもないが、もっとも多いのは実は病兵である。ことに清国のように衛生制度の不備な国に何ヶ月も転戦すると、チフス、赤痢等の伝染病に罹る者はその数を知らない。これらの患者をそのまま帰国させるときは、病菌は日本中に蔓延して、その惨禍は恐るべきものとなるであろう。今日のコロナ禍にも匹敵しかねない様な事態が、過去の日本にもあったのである。
三ヶ月では無理だと技師に言わしめた検疫所をその剛腕で何とか期限スレスレに完成させてはみたものの、いざ検疫開始が迫るにつれ、さすがの新平も心配になってきた。彼は上司である臨時陸軍検疫部の部長である児玉少将に向かってこう言った。
「軍人は今や天下に怖いものなしです。この鼻息で医者のいうことをきかなかったら、検疫もなにも、できたものではありません。どうしたものでしょうか。」
「わしに考えがある。任せなさい」と児玉言った。
児玉は征清大総督である小松宮が下関に着いたとき、早速に船まで出迎えて
 「殿下はこれより東京へお帰りになりますれば、戦況ご報告のため、天皇陛下にご拝謁あそばされることと存じますが、もしや殿下より、このままの身体で陛下の午前に出るのは恐れ多いから、消毒を受けておきたいと仰せださるやも知れないと存じまして、その用意を致しおいてございますが、如何取り計らいましょうか」
と言上した。
 これに対し小松宮から
「それは良いところに気が付いてくれた。自分もどのような病毒にまみれているか知れない身で、陛下の御前に出るのはいかがなものかと思案しておったところだ。早速に検疫してもらおう。」
と仰り、御自ら進んで検疫所に出かけた。
総督宮殿下が検疫をお受けになったとあっては将軍連も文句の言いようがない。それでも中には新平に対し食ってかかる師団長もないではなかったが、そんなときには決まって彼は
「この検疫所は、なにもこの後藤新平個人がやっとるわけではありません。ここは恐れ多くも陛下の検疫所でございます。後藤は陛下の御命令によりやっておる次第で、私にとやかく言われるのは
筋違いというものです。」
と、それこそ恐れ多くも陛下の御名を振りかざして、何とか凌いだ。
こうして後藤は、日清戦争の帰還兵23万人の検疫を遂行した。この間、4万人以上を船などに留め置いた。
では、後藤がいたら、今回のコロナ禍の難局は乗り切れただろうか、それは何とも言えない。
当時と異なり、今や飛行機や船で軽々と国境を超えることができ、ウイルスそのものも軽々と世界中に広がっていく危険が遥かに高まっている。クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号の件では、船という閉鎖空間での検疫の難しさも浮き彫りになった。
グローバル社会の今、検疫といっても一筋縄でいかない。
 後藤が語ったように
「検疫という事業は一つの戦争」
なのかも知れない。                                       ♯【2000字歴史】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み