名残

文字数 3,909文字

 べったりと墨で塗り潰したかのように濃い闇の中を、灯りを手にした人々が列を成して歩いて行く。
 彼等の姿形は様々だ。髷を結った男、まだ幼い子供、昔どこかで会ったことがあるような人。その中に紛れて時折、人の形を成さぬモノも通り過ぎる。橙色の炎に照らされ闇に浮かぶ顔は皆、能面に似て血の気も表情もない。
 一言も発さずに不確かな足取りで歩み続ける彼等の様子を、柊は離れた場所から、ただぼんやりと眺めている。
「あの人たちはね、ひーくん」
 傍らに立つ叔父が、絵本を読み聞かせてくれる時の口調で名を呼んだ。
「ああしてずっと、旅をしているんだよ」
 普段小難しい話ばかりする叔父の言葉の先が珍しく気になり、声の降ってきた方へと視線を向ける。自分の指先さえ黒く溶けてしまっているというのに、隣に立つ叔父の姿だけは、何故かはっきりと目に映った。
「僕たちはずっと変わらず同じ場所に立って、彼等を見送らなければならない。彼等が旅を続けられるよう、道に迷わぬように。そうやって僕たちの一族は、遠い昔から彼等と一緒に生きてきたんだ」
 噛んで含めるように教えられても、叔父の言葉はやはり抽象的で難しく、幼い柊には深く理解することが出来なかった。
 暗闇に連なる人の列に視線を戻す。音もなく流れてゆく人波の中で、無数に揺れる赤い火だけが、息をしているように思えた。


 りん、と響いた鈴の音で柊は目を覚ました。途端に強い西日に視界を焼かれ、思わず手をかざす。動いた拍子に胸の上から畳へと落ちた読みかけの本を見て、柊は自分が読書中にそのまま縁側で転寝していたことを鈍く理解した。
 また鈴が鳴る。控えめだが急かすようなその音に、柊は軋む身体を起こして縁側から庭へと降りた。擦り切れた草履を足に引っ掛け、木々の間を通り抜ける。庭の隅に位置する離れの様子を横目で窺ってから、柊は土塀に埋め込まれた裏戸に手を掛けた。
 戸の上部で再び呼び鈴が揺れる。
 古びた木戸の向こうに、頭巾を被った行脚姿の旅僧が一人、火の消えかけた手燭を持って立っていた。
「いらっしゃい」
 柊が戸の内側へ招くと、僧は黙って頭を下げた。


 広くはない敷地の中に、こぢんまりとした離れと蔵を有する築百年はあろうこの家は、柊の父の生家である。祖父母は既に他界しており、現在は後を継いだ叔父が一人で暮らしている。
 その叔父から一週間ほどの留守番役を頼まれたのは、山の紅葉が俄に色づき始めた頃だった。高校卒業後の就職先も既に決まり、学校を休むことに抵抗もなかった柊は、叔父の頼みを二つ返事で引き受けた。
 叔父の話によれば、岡山の山奥、かつての備前と備中、美作の境に位置するこの地域は、古くから交通の要として栄え、人の往来も盛んだったという。故に街道沿いに建つ家々は宿所としても機能しており、父や叔父が生まれたこの家もまた、その一つであったそうだ。交通機関の発展に伴い街道の人通りは大幅に減ったが、今でも時折、来客がある。柊が留守番を任されたのも、そのためであった。
「どうぞ」
 雨戸を仕舞い、障子を開けて、離れの中へ促すと、僧は遠慮がちに座敷の敷居を跨いだ。
 叔父が日々手入れをしているだけあって八畳ほどの離れは綺麗に整っているが、陽が入りにくい構造のため影が濃い。薄暗い部屋の中で、床の間に飾られた南天の赤い実だけが異様に目立っている。
「大したもてなしもできないけど、ここにあるものは自由に使ってもらって構わないので」
 触れるだけでそうと分かる柔らかくて上質な布団を押入れから引っ張り出しつつ、叔父に教えられた言葉を繰り返すと、部屋の隅で僧が深く頭を垂れた。手燭の火は、いつの間にか離れ備え付けの燭台に移されて、頼りなく燃えている。
「何かあれば、また呼んでください」
 布団を敷き、水差しや籠の用意も済ませた柊は、障子脇に吊り下がる裏戸と同じ鈴を示してから離れを出た。
 叔父は家を空ける前に、一昔前の家電と老朽化が進んだ家との付き合い方を一通り柊に伝授していった。五右衛門風呂の焚き方や、建付けが悪い雨戸の戸締りなどに関して、昔話を交えながら楽しそうに語り、そして最後に二つ、決まり事を述べた。裏戸からの来客についてである。
 曰く、客人は離れに通し、夕食には外の竈で炊いた白米を出すこと。翌朝の夜明け前には必ず裏戸を開け、客人を見送ること。これらの言い付けだけは固く守るようにと、叔父は念を押した。
「僕が死んだら、この家の事は君に任せるからね」
などと隠居を思わせる言葉を残し、家を後にした叔父に、柊は最後まで決まり事の意味を問わなかった。
 屋外に設えられた崩れかけの竈に薪をくべる柊の背後で、真っ赤に燃える太陽が山間に沈んでいった。


 前も後ろもわからない暗闇の中に、柊は一人ぼんやりと立っている。時折遠くで小さな火が点々と揺らめいては、また闇に紛れて消える。
 不意に、聞き慣れない音が鼓膜を叩いた。どうやら声のようである。それは柊の方へと近づくにつれて、次第に言葉を成して行く。
 経だ。低く唸るようにして、誰かが経を唱えている。その声が自分の傍らまで迫った時、柊は目を覚ました。
 辺りは薄暗い。夢の名残が、部屋の隅に淀む陰と未だ繋がっている。
 経はまだ、聞こえていた。
 柊は掛布の上に被っていた半纏を肩掛けにして硝子戸へとにじり寄った。指先で戸を引き、重い腰を上げて縁側に出る。外気を含んだ床板が瞬く間に足裏の熱を奪った。
 雨戸を開けて庭の奥へと目を凝らすと、月明かりに離れの輪郭が薄く浮き上がり、そこに小さな赤い火が見えた。
 柊は草履に足を通し離れに向かった。夜露に濡れた庭木の葉に頬を撫でられ、思わず首をすくめる。
 開け放たれたままの雨戸と障子の中に、端座する僧の姿があった。
 柊は音をたてないよう気を配りながら、野晒しにされた離れの外廊下に腰を下ろした。床の冷たさに半纏の前をかき合せつつ、読経に耳を傾ける。低く唸る声は、まるで何かを請うているようだ。
 長く続いた経は次第に音を落とし、やがて末尾が夜に溶けた。余韻の中、僧が合掌を解くのを待って柊は口を開いた。
「てっきり、喋れないのかと」
 その言葉に、僧は無駄のない所作で柊の方へ身体を向け、経を読む時とは打って変わった柔らかい声色で、「ええ、本来ならば」と微笑むように告げた。
「我らのような者が紡ぐ言葉は、声に成り得ぬゆえ。あなたは特別な耳と目をお持ちのようだ」
 どことなく楽しげな口調の僧に、柊は問うた。
「あなたはどれくらいの間、旅を続けているのですか」
「さあ、どれほどだったでしょうか。長く彷徨う内に、忘れてしまいました。己の名も、姿形さえ」
 顎へ手を添え、少し考え込む仕草をとった僧は、しばらくの沈黙の後に再び言葉を紡いだ。
「私は仏の教えに背いた者です」
 僧は両腿の上に手を置き、ゆったりと姿勢を正した。
「仏に仕える身でありながら、かつて一人の女性を愛してしまいました。この身が果てるまで、果てたとしても共に在りたいと、そう望んでしまいました。けれど、」
 穏やかに語る僧が、突然ふっと声を潜めた。
「仏はそれを許してはくださらなかった」
 燭台の火が俄に色めき立つ。
「触れる度に、痛みが走るのです。名を呼ぶ度に、唇が焼けるのです。それでもよかった、共に居られるのなら」
 不意に臭気が鼻についた。庭から緩く吹き抜けた風が、ふわりと、僧の顔を覆う頭巾をさらう。その下に垣間見えた顔はもはや、膿み崩れて原形を留めていなかった。
「これは私の咎なのです」
 僧は崩れる己の身をそう嗤った。
「私にはもう何もが見えぬ。焦がれたあの人も、ましてや浄土など。生きもせず死にもしないただの屍と成り果ててしまった。真の地獄とは、永劫に続くこの闇のことを云うのやもしれません」
 あなたは、と呼びかけられて、柊は僧の潰れた瞳に焦点を合わせた。光を映さないはずの双眸はしかし、確かに柊を見据えていた。
「これからも多くのものを見、聞くでしょう。亡者の声を、幽鬼の姿を。それはあなたの業です。飲み込まれては、いけませんよ」
 教え諭すように語尾を強めた僧の後ろで、床の間の南天が微かに揺れた。魔除けの力を持つというその赤い実を見つめながら、柊は自分の名に込められた意味を初めて知った。


 うっすらと白み始めた東の空を仰ぎながら、柊は裏戸に手を掛けた。呼び鈴が澄んだ音を立てる。どこまでも延びる街道が戸の奥に広がった。
 頭巾を被り、荷物を背負い、木戸の前に立った僧に、柊は真新しい蝋燭を差し出した。僧が持つ手燭の中で消えかけている火を、用意した蝋燭に移し、手燭に立てる。
 僧が道に迷わないように、果て無き旅を続けられるように。
「ありがとう」
 頭巾の下で、僧は笑ったのだろう。けれどその言葉はもう、半分以上声になっていなかった。
 僧が木戸を潜る。柊は静かに腰を折った。再び顔を上げた時には既に、僧の背中は小さくなりつつあった。
 山陽の山は濃く、深い。それは旅に死んだ者の魂が漂っているからだと言ったのは、叔父だったか、それとも夢の中の旅人たちだったか。
 次の春になれば、柊は岡山を出る。県外への就職が決まっていた。家を任せると言っていた叔父の期待には、応えることが出来ない。叔父もそれをわかっていたはずだ。叔父が死ねば、家は絶える。
 だからこそ叔父はあえて、柊に留守番など頼んだのかもしれない。遠い昔から引き継がれてきた家の役目を、その最後を忘れぬようにと。
 僧の黒衣が、夜明けの光に溶けてゆく。
 名も声も持たぬ彼の手元で、小さく燃える赤い火だけが、いつまでも柊の目に焼き付いて離れなかった。




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