第1話

文字数 1,441文字

 「死んでこいよ。」と悪魔がその言葉を放ってから、もうどれぐらい時間が経ったのだろうか。心霊スポット、自殺によく選ばれる場所、ある種の観光地。このトンネルの奥には、崖だけがある。
 僕は身体を放り投げられたまま、動けずにいた。
 これまでの道のりで何度も殴られたせいで、鼻血が止まらないし、腕も折れているのかずっと痛みを発している。痣だらけの足は、生まれたての小鹿みたいに震えるだけで、使い物にならない。
 もう死んだ方がいいように思えた。あいつが望むまま、みんなが望むまま、消えた方がいいと思った。
 トンネルの中はもちろん暗くて、寒気がする。なのに、ずっと感じる何かの生ぬるい視線は、ここで死んだ人達のものだろうか。
「寒い。」
 顎ががくがくと震えている。漏れた言葉は、本当にかすかなものだったのに、暗闇のトンネルの中でよく反響した。
 きっとここが僕の死に場所だ。
 そう思うと、途端にすべてが楽なことに思えてきた。
 昔を振り返ってみよう、なんて馬鹿な気も起きてくる。
 そう、昔は、昔は幸せだった。
 父さんと母さんが生きてて、姉さんもいた。ばあちゃんとじいちゃんとも一緒に暮らしていた。みんな口数が多くないから、普段は静かな家だったけれど、それでも幸せだった。学校は楽しくて、放課後は友達とずっとサッカーをしていた。勉強は面倒だったけれど、好きな子もいたし、親友だっていたから、何も苦じゃなかった。
 ああ、幸せだった。
 涙が零れた。目尻の横を伝って、耳の先に流れていく。冷たいのか、熱いのかも分からなかった。身体のすべての感覚がおかしくなっていた。
 どこから僕の人生おかしくなったんだっけ。
 ああ、そうだ。
 父さんが死んだ時からだ。出張先の海外で殴り合いの喧嘩に巻き込まれて死んだ。帰ってきた、呼吸をしない父さんの身体は当然冷たくて、顔には見ていられないほどの痛々しい傷を負っていた。
 父さんが死んで、僕の家の中はおかしくなっていった。
 ばあちゃんとじいちゃんが壊れた。認知症になっただけだけれど、僕には、息子を失った悲しみ故に二人の心が壊れてしまったように見えた。二人は、母さんにあっという間に老人ホームに入れられた。今はどんな風になっているのか僕は全く知らない。
 姉さんは大学を卒業してすぐに家を出て行った。それから一度も連絡がきたことはない。幸せになるために、姉さんは家族を捨てた。ただそれだけだ。
 一番おかしくなったのは母さんだ。母さんは父さんを追うようにして死んだ。
 ああ、そうだ。ここで母さんは死んだんだ。
 頭の中で悪魔が笑う。
「なあ、お前の母親ってここで死んだんだろ?お前もここで死んでこいよ。」
 悪魔の笑顔を、その時にだけ見える尖った八重歯を思い出して、吐き気がする。
 僕のもがくような声がトンネルの中で響く。僕の口から吐き出されたそれは、暗闇の中ですぐに見えなくなった。嫌な臭いだけが残る。
 もういいや。そう思った時、トンネルの向こう側から光が差し込んだように見えた。見えただけじゃなく、本当に光が差し込んでいた。
 朝が来たのだ。
 光が僕を呼んでいると思った。こっちにおいで、と。こっちに来たら幸せになれるよ、と。
 僕は光の中に、僕の温かい家を見た。父さんがいて、母さんがいる。姉さんも、じいちゃんもばあちゃんもいる。みんな、笑ってる。
 みんなが僕を呼んでいる。
 行かなくちゃ。
 僕は身体に残るわずかな力をすべて、足に集めて、立ち上がる。
 そして走った、あの光を目指して。
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