第4話

文字数 3,552文字

「はい、そこまでで十分だよ」
 ページをめくろうとしたぼくの手を、翔の声が止めた。
「えっ、まだ全然情報が」
「いいんだ。そこからは法相が、友人の死を解決すべき事件として捉えることを躊躇しながらも、自分は人間である前に探偵なんだ、という意味不明な悟り、または開き直りによって捜査を決意するまでの心の葛藤が描かれているんだが――。要点をかいつまんでぼくが説明するよ。ぼくの頭も整理されるし」
「じゃあ……お願いします」
「まず各自のアリバイだが、巌城氏の姿が最後に見られたのは昼食のとき、午後一時くらいまでだ。そして法相たちがポーカーの誘いに巌城の部屋を訪れて、返事がなかったのが、三時前の出来事。死亡推定時刻は二時から四時くらいまでと微妙なんだが、常識的に考えれば三時の時点で既に彼女は殺されたことになる。あくまでも、常識的に、だけどね。で、幅をとって、昼食後から死体発見時――一時から六時までのアリバイが綿密に調べられた。すると、トイレなり、部屋に一人でいたなり、完璧なアリバイのある人は一人もいなくて、えっと……これを見れば分かりやすいと思う」
 翔は物語の後半部のページを開き、それぞれのアリバイが整理された表を提示した。アリバイのない時間が示されているらしい。

[アリバイ表]

法相 2:00〜2:20
三輪 1:25〜1:50 5:00〜5:15
倶島 1:50〜1:55 4:20〜4:35
成瀬 3:55〜4:05
林 1:20〜1:30 2:05〜2:25


「それにしても、こんな分刻みに退出時間なんかがわかるものなんですか、小説じゃあるまいし」
「いや、実はそれにはわけがあってだね、林律子は極度の『人間観察家』なんだよ。彼女は映画監督の卵で、参考にするため、談笑の様子を毎年撮影するのが恒例らしい。前半はリビングに、後半は遊戯室にビデオカメラを設置してさ。だから、克明な時刻がわかるというわけだ」
「なるほど……」
 確かに、変人である。
「そして、ここが重要なんだが、一時から三時の間は、あの離れは密室になっていたんだよ。というのも、唯一出ることが可能だった小窓は、リビングルームの窓から丸見えだった。そしてその様子はビデオにばっちり映っていたんだ。もちろん、人が出た様子はおろか、ちょっとでも窓が開く様子は見られなかった。窓は使われなかったってことさ。しかし、ここに厳然たる事実として、三時にドアの鍵はかけられていた、というのがある。もちろんそのとき残り五人は離れの外にいた。針や糸の古典的なトリックを使う余地もない。では、犯人はいかにして被害者を殺した後密室を抜け出せたのか――」
「待ってください」健太は一応止めてみる。「何で殺人だって言い切れるんですか? 自殺の可能性は?」
「小説なんだからそんなくだらないオチは」
「実際にあった事件なんですよ」と南仲は鋭く指摘する。
「それもそうか」翔は苦笑する。「しかし、部屋で見つかった首輪の玉も傍証にはなるだろう。あの本体は、離れにあった巌城の鞄の中から見つかった。糸は、切れていたのを無理矢理片結びで直した感じでね。玉は離れで見つかったんだから、元からそうだったわけではなく、あの部屋の中でネックレスは切れたはずだ。これから自殺しようという人がわざわざ修復するとも思えない。犯人との争いの中で切れて、それを犯人が隠そうとしたとか、そんなところだろう。その証拠に、被害者の首の後ろにはネックレスの紐が深く食い込んだ跡があった。首にかかった状態で乱暴に引っ張ったんじゃないとあんなものは残らない。もう一つ、死体からは睡眠薬が検出された。もっともらしく鞄からは睡眠薬のケースが見つかっているけれど、犯人が首吊り自殺に見せかけるためのセッティングをするときに眠らせていたとも捉えられるな」
 何だか恣意的な解釈だな、と健太は思う。
「自殺するからこそ首輪くらいきちんと直そうと思ったのかもしれませんし、楽に死ぬために睡眠薬で意識を鈍らせてから首吊り自殺を実行する、という場合もありますよ」
 健太の難癖に、翔も苦笑する。しかしノンフィクションの事件である以上、ただの自殺であることを端から否定することはできないのだ。
 と、唐突に翔は顔を輝かせた。楽しいいたずらでも思いついた子供のように。
「君は知らないだろうけれどね、この小説の最後の文章はこうなんだよ。『法相は厳粛な声色で言う。「犯人がわかった」』って。もちろん法相の台詞だ。これは、犯人がいること、つまり自殺ではないことを裏付けているんじゃないか。ちなみに法相は過去のシリーズから明らかなように、まじめで論理的、正統派の名探偵だよ。彼は間違えない」
 今度は健太が苦笑する番だった。現実と小説が入り交じって混乱し、調子が狂ってしまう。まあ、自殺はない、でよしとしよう。
「わかりましたよ。それで、手がかりは以上ですか?」
「いや、最後に法相が現場の離れを調べる場面があって、そこに重要らしき情報が載っていたはずだ。実はぼくもあまり真剣に読んでなかったから、見落としがあるかもしれない。ラストだけ一緒に目を通そう」
 二人は肩を並べて、最後の数ページを一気に読んだ。翔の中では既にある程度のアイディアが浮かんでいたらしく、読み進めながらしきりに頷いている。

 五分後、読了した翔は、少しの間目を瞑って考え込むと、立ち上がった。
「犯人がわかりました」と。
 厳粛な声色は、彼にはまだ早かったけれど。

 法相は部屋を見渡す。エアコンやテレビの類もない、質素な部屋だ。奥の壁と右の壁にそれぞれ据えられたベッドと本棚、そして机に椅子。ドアはレバーを上下させる方式のもので、内開きであり、内側には鍵をかけるためのつまみが付属している。
 部屋全体が傾いている――それがこの密室の特徴といえよう。扉あたりが一番低く、左奥が一番高く、といった状態だ。
 先ず、どうも思わせぶりな椅子に近寄って立たせてみると、その椅子が歪んでいることを認知した。足の長さが違うのだ。そこでかつての巌城の話を思い出す。この傾いた部屋に最適化させるため、椅子は改造されているのだ。正しい向きにすると、ちゃんと水平になるように。
 それはともかく、依然として意識に浮上するのは、椅子の転がっていた場所だ。死体のぶら下がっていた場所よりもかなり左側、窓のある壁の方に――。
 窓。
 法相の頭の中に電撃が迸った。この椅子は、巌城ではなく、他ならぬ犯人によって使用されたのではないか? 窓から脱出するための足場として。窓の高さからして、仮に出口として使われたのなら、下に踏み台がなければならなかったことは明瞭である。そしてこの殺風景な部屋に、台として利用できそうなものは、この椅子しかない。さらに、傾斜の向きからして、自然と左側に転がるというのは考えづらいではないか。
 十分な妥当性を有する推論だ、と法相は自己評価をする。すると、巨漢の倶島は窓を通ることはできないので、犯人の候補から除外されるだろう。しかしながら問題は、一時から三時まで窓は使われなかった、という動かし難い真実である。矛盾だ。窓は使われたのか、使われなかったのか。
 次に法相は、扉を調べる。意外としっかりした作りになっていて、糸の類を通せる隙間もない。右側についたドアノブのつまみを捻り、鍵をかけてみる。レバーを下げると、自明のことながらガチャリと音を立てるばかりで動かない。
 そのときだった。法相の指が、レバーの下の扉に触れた。
「……!」
 微かなるべたつきがそこに感じられたのである。思い過ごしだろうかと再度手を伸ばすと、やはりわずかな粘着の感触が伝達される。まるで、ガムテープか何かを剥がした後のような。
 顎に手を当てる。法相の頭脳のなかには一つの理路が構築されつつあった。情報の断片がかちりかちりと規則的に組みあがっていく。

 翌日、法相は四人を近所の公園に集めた。昔学校帰りによく遊んでいた、思い出の場所でもある。友人の死に加え、警察からの事情聴取を経た彼らの顔は憔悴していた。
「なに、話って」
 林が抑揚のない声で問いかける。
「おれたちは疲れているんだ。よっぽど大事な用事なんだろうな」と三輪が声を荒らげる。
 ああ、と法相は神妙な面持ちで首肯する。こうした場面には慣れているとはいえ、友人相手なのは初めてであり、気が進まない。
 しかし、そうした憂鬱は無視しなければならない。自分は探偵なのだ。ただ、論理の糸が織りなした絶対的な真実を、他者に説示するのみ。
「いいか」法相は厳粛な声色でいう。「犯人がわかった」
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