完結

文字数 8,423文字

 普段ほとんど口を開かないパパの言葉が原因だったと言えなくもない。
 「就活厳しいのか?」
 否定すれば嘘をつくことになるし、内定をもらった会社名を聞かれたら嘘を塗り重ねなければならない。とはいえ肯定すれば、日々仕事をしているパパに「自分はパパとは違って、社会に必要とされていない」と敗北の白旗をあげるような気がして口をつぐむしかなかった。
 「がんばれば大丈夫よ」
 あからさまにワントーン上げたママの声で夕食の箸が動きを再開すると、それを見ていたようにスマホが震えだした。
 もう、何通目なのかもわからなくなったお祈りメールだった。

 もしかしたら原因は昼下がりの彼女の言葉だったのかもしれない。
 「一社目の内定ゲットォ~! 百社いく前に一つ内定取れてよかったよ~。マジ嬉しい! 十月になったら募集減るからマジヤバイもんねぇ」
「おめでとう」と言えばよかったのだろうけど、その言葉が出なかった。
 「あたしの部屋でお祝いしちゃう? してくれるよねぇ~。打率にしたら一パーセントだけどぉ、初ヒットだよ、初ヒット!」
 野球好きの彼女はすぐに野球の例えをするが、彼女に付き合って観戦に行くだけで、ぼくはそれほど野球が好きではない。
無言でいるぼくの表情は、お祝いとは別の表現をしていたのだろう。
 「悠くんも早く内定取ってぇ、一緒にお祝いしよ。悠くんもがんばれば大丈夫よ」
 もう秋だというのに汗で背中に張り付いたワイシャツよりも、彼女の憐れみを含んだ笑顔のほうが気持ち悪かった。
 野球観戦ではなく、ぼくは彼女が好きではないのかもしれないと思った。

 「ママはね、悠くんが『がんばってない』って言ってるんじゃないのよ。人柄重視とか人間性重視とかって言ってる会社多いじゃない? ねぇ、パパ?」
 普段通りに戻ったパパは「うん」とだけ言って箸を動かしていた。
 「だから、ね? 悠くんががんばってそういう会社に巡り会えるかどうかってことだと思うのよ」
 ワントーン上ったままのママの声に説得力はなかった。事実、ぼくの目の前にあるのは、最新のお祈りメールなのだ。
 「がんばるよ」
 言ってはみたものの、ママの言葉以上に空っぽに聞こえた。

 以前にもこんな空っぽの「がんばるよ」を言った記憶がある。
 ニッコマの指定校推薦に漏れて、大東亜帝国の中から希望する大学と学部を選んで書類を書かなければならないとママに相談したとき、ママはやっぱりワントーン高い声で、「悠くんが行きたい大学で、やりたい勉強ができればいいんじゃない? つらい受験勉強しなくったって推薦でいけるんだからぁ」と言ったあとに、「がんばれば大丈夫」と付け加え、ぼくは空っぽの「がんばるよ」を口にした。
 高校の志望届提出前夜もそうだったかもしれない。
 「ママね、悠くんは気持ちの優しい子だから、私立のほうが向いてるんじゃないかって思うのよ」
 あの時もママの声はワントーン高かったのだろうか。もう思い出せないが、きっとそうだったんだろう。
夏休み明けの模試で思ったほど成績が伸びなかった。親友だった健(けん)と「一緒に県立へ進んで、高校でもいっしょにバスケやろうな」と約束したことが現実味を失っていたころだった。
 「明陵学院ならバスケ部もあるし、専願推薦で申し込めば百パーセント合格。年内に決まるのよ。そうしたら二年ぶりに長野のお婆ちゃんの家(うち)に行ってスキーしましょう」
 健の顔がちらついた。
「東京の私立のほうが進学に有利だっていうし、埼玉から通ってる子だって多いっていうわ」
あの時もきっと、ママの声はどんどん甲高くなっていったのだろう。結局、私立専願にマルをつけてカバンにしまったのを覚えている。
 「がんばれば大丈夫」
 「がんばるよ」
 高校のバスケ部の練習がきつくて、ついていけなくて、退部しようかどうしようか迷った時もそうだった。
 「悠くんが一番いいと思うことをしなさい。がんばれば大丈夫」
 「がんばるよ」

 夕食を終えて自室の天井を眺めていると、これまで何度となく繰り返してきた空虚な「がんばるよの儀式」が頭を占領していった。
 「がんばれば大丈夫」
 「がんばるよ」
 「がんばれば大丈夫」
 「がんばるよ」
 どんどん甲高く頭の中で響き続けるママの声と反比例するように、ぼくの声は低く小さく、頼りなくなっていく。
 自分の声がかき消されて聞こえなくなってしまう前に、「がんばるよ」と口に出して起き上がると、新しいエントリーシート(ES)を入力した。
 「がんばるよ」
もう一度口に出して、十月でも募集している企業のリストを更新した。
 「がんばるよ」
なぜ泣き声になっているのかわからないまま面接の問答集を読み返した。
----大学生活で最も力を入れたことは何ですか?
----はい。わたしは大学ではボランティアサークルに所属し、地域のボランティア活動に力を入れてきました。
 デタラメが並んだ問答集。
 ボランティアなんてやってねえよ。サークルにだって結局入らなかった。高校のバスケ部で挫折したぼくに大学のバスケ部はハードルが高すぎたし、同好会レベルのサークルのくせに先輩にヘコヘコするのはまっぴらだった。
 学生生活で最も力を入れたことは就活だよ。就活には力を入れてるよ。でもそれ以外がないから嘘を並べてるんじゃねえか。
 「がんばれば大丈夫」
 「がんばるよ」
 また始まった。
 顔をゴシゴシこすって、冷蔵庫の麦茶を取りに台所へ降りていくとパパとママの小声が聞こえてきた。
 「就職浪人も考えとかなきゃダメか?」
 「悠くん、いい子なのに」
 わざと大きな音を立てるようにしてドアを開けると、こちらに向いた二人の顔に、明らかに憐れみがあった。軽蔑だったかもしれない。
 「悠くんどうしたの?」ツートーン高くなった声が、冷蔵庫を開けるぼくの背中に浴びせられた。
 「がんばるよ」口の中で何度も叫ぶと、流しの中のまだ洗われていない包丁が目に入った。豚肉の脂で汚れ、水をはじいてヌラヌラと蛍光灯を反射していた。
 口の中の「がんばるよ」が「だまれ!」「だまれ!」に変わっていった。脳みそが膨張していくような感覚がした。ゴーゴーと耳鳴りがした。
 「がんばれば大丈夫」
 「がんばるよ」
 「だまれ! だまれ!」
 ママが遠くで何か言って笑っている。
 甲高いだけで意味のない声。
 笑い声。
 「悠くんは大丈夫よ。いい子なんだから」
 「だまれ! だまれ!」
 グラスを取るために伸ばした手が包丁へ寄り道しそうになったとき、ケツのポケットでスマホが鳴った。

 「おう! ドウちゃん! 出てくれて助かったよ」
 ぼくのことを「ドウちゃん」と呼ぶのは、二年前の夏休みに通ったバイト先の運送屋だけだ。
 「ああ…、社長…、どうも…、ご無沙汰してます」
 膨張した脳みそがやっと絞り出した言葉だった。
 「明日から二三日、早朝だけでいいから手伝ってくれんかなぁ? 濃厚接触でさぁ、元気なのに働けないヤツが多くて困ってんのよ。シンさんに頼んだら『水(みず)モンは運ばねぇ!』って、相変わらずでさぁ。ドウちゃんさぁ、シンさんの助手で乗って、荷下ろしだけ手伝ってくれないかなぁ」
 シンさんというのは、もう七十歳近いドライバー。一日一便、早朝だけ走って年金以外の小遣い稼ぎをしている。二年前の夏休みもシンさんとコンビを組んだ。当時も「水モンはダメだ! 一本走ったら一週間休まなきゃなんねぇ」が口癖だった。「水モン」とは、ペットボトル飲料が入った段ボール箱のことで、トラックに積むときはフォークリフトで積むのだが、数か所まわる荷下ろし倉庫では、伝票に記載された数量を種類ごとに下ろさなければならない。十キログラム以上ある箱を積んだり下ろしたり、数を数えたり。四トントラックいっぱいの荷物をさばくのは、確かにジイさんにはきつい仕事だ。普段は安い日当で楽な荷物を運んでいるシンさんとぼくの二人一組で一人前というわけだ。早朝だけ働くのだから二人で半人前、一人では四分の一人前なのかもしれない。
 「どうかなぁ。急で悪いんだけど、もう他に頼める人いなくてさぁ」
 電話に出たおかげで止んだママの声と、止んだことによって冷えていった脳みそが出した答えは「シンさんのような底辺を見れば気分が晴れるかな」だった。
 「シンさんだけじゃない。ぼくが『童貞ドウちゃん』と呼ばれる原因になったハルナはどうなった? 風俗にでも落ちたか?」そんなことを考えたら笑みが浮かんだ。

 翌朝六時、早起きしてシンさんのトラックに国道で拾ってもらった。二年前の夏と同じ、開店前の金物屋のシャッターにもたれているとシンさんのトラックが停まった。
 「よう! 久しぶり! 三時間だけ悪いな」と言ったシンさんは二年分老けているようには見えなかった。
 「就活で忙しいのになぁ。社長がよろしく言ってたぞ」
 就活の話はしたくなかったのだが、そうもいかない感じだった。
 「内定もらってのんびりしてたのか?」
 「いくつかもらってるんだけど、もっといいところも受けてみようと思ってね」
 「そうかそうか。大卒の学士様だからな。いい会社でいっぱい稼いでくれよな」
 「うん」
 こんな嘘話をしながら二軒の倉庫を回った。
 「オレなんか相変わらずの底辺だ。二年前ドウちゃんに『シンさんみたいな底辺には就職しない』って言われたのが忘れられなくてなぁ。でも、底辺老人もがんばってれば、息子夫婦の世話にならなくて済むってわけだ」
 三番目、最後の荷下ろし地がハルナが事務員をしている倉庫だった。倉庫のプラットホームにパレットを並べ、伝票と照らし合わせながら荷下ろし作業をしていると、二年前の出来事が頭の中で再生された。

*      *

 「シンさん。なんであの事務員、東京のOLみたいなカッコで出勤してくるんだろうね。こんな埼玉の田んぼの中で恋人探しもないだろうし、周りは男だらけだけど、オッサンかジイサンだけなのにな」
 「あぁ、ハルナちゃんなぁ。あれでいくつに見える?」
 シンさんは意味ありげな顔で聞いてきた。
 「三十代前半? 二十九で結婚焦ってるってことか?」
 「三十六。高二の娘がいる」
 「えっ」
 「驚いたろ。シングルマザーでがんばってる」
 「だから男みつけるためにファッション雑誌みたいなカッコで出勤してるのかぁ」
 「ガキの浅知恵だな。二三日考えてみな。わかったら昼飯奢ってやるよ」
 その後シンさんは一週間答えを教えてくれなかった。タダ飯が食いたかったわけではないが、助手席に座っているだけの時間は退屈だったので、何度もシンさんにカマをかけてみたり、伝票提出のときにハルナに声をかけて、何かヒントになるようなことはないかと探ってみたりしたものの皆目見当がつかなかった。
 一週間たって、その日はたまたまハルナのいる倉庫一軒だけ配送すれば終わりというスケジュールの朝、シンさんが運転しながら教えてくれた。
 「ハルナちゃんなぁ、十九だか二十歳(はたち)だかで子供を産んで、男に逃げられた。まあ、よくある話だ」
 「よくあるのか?」と思ったものの黙って聞いていた。
 「実家も頼れなくて、何とか娘が高校生になるまで育ててきたわけだ。当然、子供が小さいうちは働きに出るわけにはいかねえ。かと言って腹は減る。そこで、出会い系ってやつか? ケータイで男を見つけるやつ。あれで稼いで食いつないできたってわけさ」
 「マジ? でも、それとあのカッコと結びつかないじゃん」
 「今でもやってるのさ。出会い系。娘が小学校へあがって手が離れたころからあの倉庫のパート始めて、その帰り道だな」
 「マジで? パパ活だよね?」
 「オレの齢(とし)の言葉なら売春だな。まあ、客商売だからぁ、きれいなカッコしているほうが固定客がつく。そこまで腹ぁくくってるってことだなぁ」
 「マジか~」ぼくの口からはこれしか出なかった。
決してファッションモデルのような美人とは言えないが、髪も化粧もきれいにしているうえにファッション雑誌に出てくるような、清楚なOLの通勤服のようないでたち。事務服で働いているときはそうでもないが、通勤時の服に着替えると独身OLが合コンにでも行くような感じだ。
 「なりふり構わずがんばって子育てして、娘を大学へやるんだってさ。五時に倉庫を上がると一人客を取って、結構貯めたんじゃないのかなぁ。娘が医学部志望って噂だぞ」
 「マジか~」またぼくの口から同じ言葉が出た。ただ、今回は「ハルナがパパ活していることが信じられない」という意味ではなく、「何千万もかかる医学部の授業料を一日一人のパパ活と倉庫事務のパートで稼ぎ出せるものか」という意味だった。
 「悠も童貞で困ってるなら一週間分の稼ぎを握りしめて頼んでみたらどうだ」と言って大笑いするシンさんに「からかうなよ!」と言い返すと、「嘘だと思うならハルナちゃんに頼むだけ頼んでみろぉ」と返された。
 その言葉を真に受けたわけではなかったのだが、パパ活しているバカ女に「そんな小銭じゃ医学部の授業料なんて無理だし、バカ女の娘が医学部に受かるわけがない」と教えてやりたい気持ちになって、その日、荷下ろしを済ませて伝票を提出するときに「オレも授業料の一部、二万くらい出費しようかな」と笑いながら言ってみた。
 出勤したばかりで、まだ事務服に着替える前だったハルナは目をまん丸にして伝票を受け取ったまま無言でつっ立っていた。
 他に誰もいないことをいいことに、「パパ活女の娘じゃぁ、Fラン大学が関の山じゃねぇ?」と言って事務所を後にした。
 なぜハルナにイラついているのか自分でもわからずにトラックに乗り込もうとしていると、サマーワンピースで朝日を反射したハルナがぼくを事務所から追いかけてきて呼び止めた。開いているドアを回り込んでぼくを助手席側のタイヤに押し付けるように接近すると「ごめんね~、童貞さんお断りなのよ」と言って笑った。何も言い返すことができずにいるぼくの唇にキスをすると、「あ~、思った通り~、やっぱ、童貞だったわ~」と言うと、運転席のシンさんを見上げて「お疲れさま~、また明日よろしくね~」と手を振って事務所に帰っていった。
 ぼくはただ固まっていた。ただ官能的な女の匂いに包まれて、今何が起こったのかを理解するだけで精いっぱいだった。
 シンさんはしばらく運転ができないほど笑い続け、それ以来ぼくは「ドウちゃん」と呼ばれることになった。

*      *

 二年以上のブランクがあったものの、伝票の見方や段ボール箱の積み方は覚えているもので、あとはハルナに伝票を提出して判をもらえば終了の筈だったのだが、事務所にハルナの姿はなかった。ハルナよりも二回り大きなサイズの事務服をパツパツに着ているおばちゃんが不愛想に判をついてくれただけだった。
 トラックに戻ってシンさんの顔を見ると「やっぱ、気になるわなぁ」と、いたずら小僧のような笑みを浮かべていた。
 「ハルナちゃんなら辞めたよ」
 トラックが動き出すとシンさんが話し始めた。
 「医学部の授業料は半端ねぇからなぁ」と言うと、それに続けて言おうとしたぼくの言葉を知っているかのように制して、シンさんは「まあ、聞きなよ」と言った。
ぼくは「どうせ授業料には足りなくて風俗へでも落ちていったんだろう」とか、「だいたいハルナの娘が医学部に受かったかどうかも分かんねぇし」とか、「パパ活で育てられた娘にはパパ活が似合ってるよ」とか、そんな言葉を続けようとしていた。
「犬でも猫でもおんなじだぁ。死にもの狂いで子育てしてる母親にちょっかいだすと噛みつかれんだろ」
二年前のことを言っているんだと思った。
「シンさんが『聞いてこい』って言ったんじゃねえか」
「『頼んでみろ』って言ったんだがなぁ~。嘘や虚勢は通じねえよぉ。相手は必死だかんなぁ。素直で正直が一番。若いうちはそれが難しいんだけどなぁ」
「辞めて風俗にでも落ちたの?」
悔しまぎれに聞いてみた。
 「ハルナちゃんの娘、たぶん知ってたんだろうなぁ。はっきりとじゃなくても、うすうすなぁ。母ちゃんがどうやって自分を育ててきたのか。相当がんばってたらしいぞ。ハルナちゃん、辞めるときに泣きながら教えてくれたよ。
 『部活してる』って嘘ついて、毎日夕方はコンビニでバイトして、ハルナちゃんが帰るころに夕飯つくって待ってたって。
 ハルナちゃんが定時で上がってから例(、)の(、)残(、)業(、)して、帰ると九時十時だろ。一緒に飯食って、そこから明け方まで勉強して、学校行って、バイトして。毎日だもんなぁ~。
 そりゃ受かるわなぁ~。それで落ちたら神も仏もないもんかってことになる。
 東北のほうの国立の医学部だってよ。国立なら学費も安いしなぁ~。母ちゃんにこれ以上苦労かけられなかったんだろうなぁ~」
 国立医学部と聞いて言葉を失った。そんなぼくに目をやることなく、前を見て運転しながらシンさんは続けた。
 「最初は自衛隊になる大学に行くって言ったらしいぞ。オレはよくわかんねぇけど、自衛隊の医者になるのがあんだって? 試験は難しいけど、合格できれば給料もらいながらお医者さんになる勉強させてもらえて。ただし自衛隊で従軍医にならなきゃいけないっていうやつ。
ハルナちゃんが『戦争に行くようなことになったらイヤだ』って大反対して、残(、)業(、)で貯めた貯金通帳見せたんだって。
売春でとは言わないよ。そりゃ、当たり前だよ。
『こんだけあるから心配すんな』って見せたんだってよぉ。
そしたら『ありがとう。ありがとう』って泣いて、『絶対合格するから』って言って、バイトも辞めて、学校から帰ってくると一日十時間以上だってよぉ。勉強。
オレなんか学校で勉強するのだってイヤだったのによぉ。兄貴たちは中卒で働いたのに、末っ子だからって甘やかされて、高校いかせてもらったはいいけど勉強しなかったらこの様(ざま)だぁ。
それがよぉ、学校で勉強して、帰ってきてから十時間だぜ。やっぱり、医者になるような子は違うよなぁ~
ドウちゃんだってそうだろ? 十時間とは言わないまでも、勉強したんだろ? 学士様だもんなぁ~
高校受験、大学受験で勉強して、その上大学で四年間勉強してだもんなぁ~。そりゃぁ、オレなんかより稼いでもらわなくっちゃなぁ」
トラックを左折させるために左のミラーを確認したついでとばかりにぼくのほうへ視線がきた。
ぼくはどんな顔をしていたんだろう。頭の中で脳みそがどんどん膨らんでいくのを感じていた。
ゴーゴー。耳鳴りがする。
シンさんの話は聞こえているのに、どこか遠くのほうで話しているような、かすかな音量でしか耳に入ってこない。そのくせ、内容だけはしっかりと脳みそを膨張させていく。
「オレみたいな底辺には一生できないことだけど、ドウちゃんも偉くなってくれよな。
そりゃぁ楽なことばかりじゃないさぁ。でもなぁ、就職してつらいことがあったらハルナちゃん思い出せぇ。
死にもの狂いは強えぇぞぉ。出会い系だぁ、売春だぁって後ろ指さされたってへっちゃらなんだからなぁ。いまごろ北国で親子二人、幸せにやってるだろうよぉ。
ドウちゃんも、死にもの狂いの子育てと死にもの狂いの受験勉強を想像してがんばれよぉ。がんばってれば大丈夫だから」
「がんばって(、)れば大丈夫」
「がんばって(、)れば大丈夫」
頭の中でシンさんの言葉がガンガンと繰り返された。
早朝拾ってもらったシャッターの前に立っていた。半開きのシャッターの中から、店の主人が怪訝そうな顔でぼくを伺っていた。
いつどうやってトラックを降りたのか。シンさんとどうやって別れたのか記憶になかった。
ただ脳みそはどんどん膨張を続け、ゴーゴーという耳鳴りのように「がんばって(、)れば大丈夫、がんばって(、)れば大丈夫」というシンさんの声が響いていた。
家に向かって重い足を動かすと、シンさんの声はだんだん甲高くなり、次第にママの声になっていった。
「がんばれば大丈夫」
「がんばれば大丈夫」
ワントーン高く響く声。
その場限りの明るさ。
取り繕うような嘘。
そうだ、嘘だったんだ。
「『て』が抜けてんだよ、クソばばぁ」
がんばる前に逃げ道を用意して、がんばらずに駒を前へ進める。そのくせ、困ったときには「がんばれば大丈夫」なんて、嘘だったんだ。
ママの声はますます甲高く、大きくなっていった。
「がんばれば大丈夫」
「がんばれば大丈夫」
誰かこの声を止めてくれ。
パパ、黙ってないでこの声を止めてくれ。
「がんばれば大丈夫」
「がんばれば大丈夫」
どうすれば止められる?
パパ、どうすれば止められる?
そうだ、昨日の包丁。
あの豚の脂で汚れた包丁。ヌラヌラと水をはじいていた包丁。あれよりもっと切れ味のいいやつを買って帰ろう。
金物屋はちょうど開店したところだから。
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