第1話

文字数 9,370文字


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 ひどく酔っていた。
 真夏の、じっとり粘つく青緑の夜。不快指数が限りなく100に近い、日付が変わって約2時間。幽霊が出そうな時間。
 雨が降るのか。それとも俺が青緑のプールの底を歩いているのか。体にまとわりつく湿気が、まるで俺を責めているように感じる。
 金を貸してくれそうなヤツに付き合って飲んでいた。けれど一向に金の話にはならない。
 こんな時間まで媚びへつらって、やっと相手が金を出す気がないと気づいた俺は、そっと店を抜け出した。
「詰んだー」
 俺は空を見上げて叫んだ。星も月も見えない。のっぺりと、ただ灰青の空。
「ここ、どこだよ」
 酔っぱらいの俺は、俺の体目当てだった男にホイホイ付いてきた結果、どこに連れてこられたのか分からなくなっていた。
迷子なのか、行き止まりなのか。人生も、今の状況も。完全に詰んでいた。
 人も車もいない交差点を、なぜか信号が青になるのを待って渡る。その先に、90度に続く長い長い壁。工場?会社?なんだ?
 目の前の壁に寄りかかり、くしゃくしゃのタバコに火をつける。深く吸って吐き出した白い煙が、まるで龍のように昇っていく。
 どうすればいいんだろう?それを考えることにも疲れてしまった。この3ヶ月、まともに眠っていない。いやもっとかもしれない。
 いっそ、なにもかも……、ふっと、そんな考えが頭に浮かんでゾッとした。
「神さま、俺何か悪いことしましたか?」
 と空に聞いてみた。
返事はなく、代わりに雨が、しかも大雨が返ってきた。嘘だろ!!と心で叫んで走り出した8歩目で、俺は立ち止まった。
 現実か、幻か。目の前に人が立っていた。
 雨に濡れているのに、そんなことは全く意に介さず、目の前の壁が黒く濡れていくのをじっと見つめている。
 俺はその男の手を取り、引っ張って走ると、シャッターの降りた飲食店か何かの軒先に避難した。
その店は、道路より少し引っ込んでいて、オーニングの下にベンチが置いてあった。そのベンチに並んで腰かけ、息を整える。
「なにしてんだ!!いくら夏でも風邪ひくだろ」
 男は黙って俺を見つめている。その顔には、なにかにひどく驚いているような表情が浮かんでいた。知り合いか?いやそれより幽霊でも見たような。俺は幽霊じゃねえけど。
 ふてくされ気味に、俺はまたタバコを取り出した。くしゃくしゃだけど、濡れるのを免れた1本に火をつける。
「僕にもひと口、くれない?」
 男が言った。優しい声だった。
「ひと口?」
「うん、ひと口」
 俺はそいつに体を寄せて、火のついたタバコを口元に差し出した。
男は無言で俺を見て、たばこに唇を付け、吸い込み、盛大にむせた。
 俺は一瞬、こいつバカなのかと思ったが、慌てて背中をさすってやった。
「大丈夫かよ、タバコ吸えないのか?」
 よく見ると、たぶん俺と同じくらいのトシだろう。それか少し下か。つまりとっくに成人しているだろう。
「分からない。初めて吸ったから」
 そう言って、俺の目を見てにっこり笑ったその顔に、俺は恋に落ちた。
 クソ蒸し暑い、ゲリラ豪雨の真夜中。俺たちは出逢い、俺は久しぶりの恋をした。
でも俺はまだ知らなかった。これが最後の恋になるとは。


 太陽のオレンジが瞼に見えて目が覚める。
 体を伸ばして、壁にかかっている時計を見る。8時を2分過ぎていた。エアコンのスイッチを入れてゆるく部屋を冷やす。
 まだ寝ている諒を起こさないように、そっと起き上がると、俺はシャワーを浴びた。
 たぶん、昨日というか今朝まで、諒はアトリエにこもっていた。明け方に帰ってきて、諒は下着姿でそっとベッドに潜り込み、あっという間に死んだように眠った。
俺も一瞬目が覚めたが、諒から漂う絵の具の匂いに安心して、またすぐ眠りに落ちた。
 諒はそこそこ売れている画家だ。
 基本的には自分の描きたいものを描いていて、それを買ってくれる人がいる。これはすごいことなんだと、今の俺は知っている。
 シャワーを済ませて食事を作る。冷めてしまうし、簡単なものだけど、諒は俺の作ったものを食べたがる。だからなるべく作っておくようにしている。
 それから着替えて出かける準備をし、寝室に入ってまだ眠っている諒にキスをした。
 俺がどんなにコイツを愛してるか。コイツは知らないんだろうな。そう思ったら、胸がギュッと締め付けられた。
 俺は静かに部屋を出た。
 あの雨の夜。
 俺は自分のセレクトショップの経営が行き詰まり、資金も底をついて身動きができずにいた。
 苦肉の策で、男好きの客にスポンサーになってもらうべく、自分を差し出す覚悟で泥酔していたのがあの夜だった。
 部屋から店まで自転車で8分。徒歩でも歩ける距離。いい運動になる。
 1階の駐輪場から、深緑のママチャリを引っ張り出す。この辺りは坂がほとんどなく、ママチャリで十分だった。
 風が気持ちいい。自転車を漕ぐのもまだ気持ちがいいと思える気温。
すいすいと自転車を走らせ、あっという間に店に着く。
 この辺りじゃ盗まれそうにないママチャリに、俺はガッチリ鍵をかける。このママチャリは、俺の誕生日に諒がプレゼントしてくれたもの。すごく大切にしている。
 鍵をかけたママチャリを、指差し確認してニヤリとし、俺は店に入った。
俺の城。いや、今は俺と諒の城。
 俺はもともと服が好きだった。子どものころ、いつかお母さんの服を作ってあげるなどと言い、そんな俺を、父親は気持ち悪そうに見ていた。
 年を取るにつれ、それは叶わないと諦めた。
でもやっぱり服が好きだった。それで始めた自分の店だったが、思い描いたようにはうまく事は運ばなかった。
 きっとどこかには、俺と同じものを好きな人がいるだろう。ただそんな客に出会えるまで、俺の資金がもたなかった。
 窓を開け、ネットラジオでEDМをかけて、俺は掃除を始めた。
 この店は2年前、諒と出逢って、諒の力や金を借りてリスタートさせた。
 あれから2年の間に、諒に借りた金はほぼ返済し、俺の恋心は諒に受け入れてもらっていた。道で拾われた同居人という立場から、今は恋人という甘い立ち位置に格上げされている。
 店のスマホが鳴る。
「はい、colors」
 開店前から問い合わせの電話だった。
 店の内装も、コンセプトも。あの時変えて再出発した。最後のチャンスを、神さまの代わりに諒が与えてくれた。
 そして俺は、そのチャンスを今のところモノにしていると言っていいだろう。
 電話はスタイリストからだった。前の店の時は、こんなことはなかった。服や小物を探してスタイリストが来る。問い合わせの電話やメールが来る。
 この店を、こんな風に変えてみようと、諒と相談しながらアレコレ手を加えた結果、こんなにスムーズに軌道に乗るとは正直思っていなかった。それは嬉しい驚き。
 金を貸してもらったり、アイデアをもらったり。今は恋人として愛情も。俺は諒に様々なものをもらっている。
「何か返さないとな。借金以外にも」
 俺が言うと、
「愛をくれてる。しかも大盛りで」
 と言い、そっと俺の首筋に唇を這わせた。
 諒のセックスは、甘くて優しい。まるでピンクの綿あめの中にいるような気分。俺にはもったいないと感じるほどに、諒は丁寧に俺を愛してくれる。
 時間になったので店を開け、俺はさっきの電話で聞かれた商品を探した。それを広げてハンガーにかけ、写真を撮る。
 黒のボタンダウンの長袖シャツ。ボタンホールの糸だけが白で、ボタンも黒。そんなボタンダウンを探していたらしい。
 俺は前と後ろ、さらに襟元の写真を何枚か撮り、その写真を電話の主に送った。
 すぐに電話があり、今日中に買い取りに行くとのことだった。俺はお待ちしてますと言って電話を切り、商品をたたんでショッパーに丁寧に入れた。
 このショッパーは、店をリスタートして1年のお祝いに、諒がワンポイントのイラストをデザインしてくれた。それに俺がロゴを考えた合作。とても気に入っている。
 店のドアが開き、二人組の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 俺はゆっくり言った。
 今日が、始まった。

 店を閉めようとして、黒い人影に気づいた。
「諒。迎えに来てくれたのか?」
 俺が恋した笑顔で、諒は俺を見た。
「会いたくなっちゃった」
 諒はそう言って、俺を抱きしめた。
 最近、俺は店が忙しく、諒も個展の話があって、保留と言いつつ作品を描き溜めているらしくアトリエにこもりがちだ。
 同じ部屋に住んでいながらすれ違いの生活。
 それが別々に住んでいて会えないよりしんどいなと、俺も感じていた。
「ちょ、中に入れよ」
 諒は俺を抱いたまま店に入り、俺は諒に抱かれたまま、腕を伸ばしてシャッターを半分閉めた。
「ごはん、美味しかった。ありがとう」
「もっと手の込んだの作るよ、次の休みに」
「手が込んでなくていい。一緒に食べたい」
「そうだな。そうしよう」
 俺たちは店の中でキスをした。
 しばらく夢中でキスをしていたが、諒が不意に唇を離し、
「この店、やっぱり落ち着く」
 と言った。
「諒の店でもあるからな」
「僕の店ではないよ」
「そうだ、いいシャツ見つけたから確保しておいたんだよ」
 この話を追求していくと、互いに譲らずモメるので、俺は話を変えた。
「僕の?ありがとう」
 俺はレジの下に頭を突っ込んで、見てから言えよとクギを刺した。
 俺は今日、問い合わせがあったボタンダウンの、諒のサイズのを出して渡した。
「今日スタイリストが買っていったからさー、秋にテレビか映画でイケメンが着てるかも。同じヤツ」
 諒はシャツを広げて、似合うかなと言った。
「俺が選んだんだから、似合うに決まってる」
「ありがとう。お金払うよ」
「よせよ。そしたら俺もあの絵の代金、払わなきゃいけなくなる。つか払えん」
 俺たちは笑った。
 正直、諒の絵は、今の俺には買えそうにない。それが現実だ。
 この店をリニューアルするとき、諒が大きな絵を1枚、寄付してくれた。
 俺はレンタルにして代金を払うと言ったのだが、そういう契約をしたことがないので、契約書が作れないから寄付すると言われた。
 初めて会ったとき、俺は諒が年下だと思っていた。でも実際は2つ年上だった。
たった2つだけど、諒は俺よりずっと、たくさんのことを知っていた。
 それなのに、こういう契約のことなどは苦手らしく、担当の人と呼んでいる人に任せきりだった。
「興味のないことに使う時間はないんだ」
 諒は言った。
「僕たちの人生は、思っているより短い」
 そう言って、諒はあの顔で笑った。
 諒は粘り強い性格だが、興味の対象外のことには驚くほど無知で、諦めが早い。
 反対に、好きなことや心を惹かれたものに対しては、ひどく諦めが悪い。俺の店のこともそうだった。
あの夜。
ずぶ濡れの俺たちは、雨が止んだあと、なんとなく二人で歩き出した。少し歩くけど良かったら、と言ってくれた諒に甘え、徒歩で帰れる諒の部屋に帰った。
 俺はかなり酔っていたので、シャワーと着替えを借りて、すぐに寝てしまった。
 諒の服は俺にはぶかぶかで、なぜか上下とも黒だった。部屋着だからか?とも思ったが、諒の着ていた服もいま着ている部屋着も、上下黒なのがあの日の最後の記憶だった。
「僕の絵だけ色がついてるなんて、すごく特別に感じる」
「特別だよ。絵も諒も。それに絵以外は真っ黒だ」
 俺たちは、目を合わせて笑った。
 いまこの店では、黒いものしか売っていない。服も小物も、黒い商品ばかりだった。
「二人乗りで帰ろう」
 鏡の前でシャツを合わせていた諒に、俺は声をかけた。
「捕まりそうになったら逃げる?」
「俺は捕まらない」
 少しカッコつけて言った。
「だよね」
 電気を消して戸締りをし、俺たちは自転車に乗った。
「どっか寄ってくか?」
 俺は聞いた。
「コンビニでビール?」
 諒が言ったけど、俺は首を横に振った。
「今日サボったなら、明日早くアトリエ行くだろ?早めに寝よう」
 諒はにっこり笑って、
「僕のことは、僕より侑の方が詳しい」
 と言った。
「飲みたいなら寄るけど?」
「ちょっと現実逃避しちゃった。でも侑と一緒に帰れるし。大丈夫」
「帰ったらお茶淹れる。少し話そう」
「うん。ありがとう」
「よせよ。こっちの台詞」
 俺たちは二人乗りをして、仲良くおしゃべりしながら部屋に帰った。
 俺たちが出逢った翌日。
 目が覚めて、なんとなく顔を合わせた俺たちは笑った。どちらかというと苦笑いだった。
 泊めてもらったお礼にメシを奢ると俺が言い、俺たちは着替えをした。
 そうだ。昨日も思ったけどこいつ、なんで黒い服ばかり着るんだろう。いまクローゼットから引っ張り出したのも、黒のTシャツにブラックジーンズだった。
「なぁ、なんで黒ばっか着るんだ?」
「え?に、似合ってない?」
 俺は返事をせずに、クローゼットを覗いた。
 掛かっている服をざっと見て、俺はぽかんと口を開けた。クローゼットの中は真っ黒だった。
「お前、葬儀屋か?」
 俺が言うと、彼は初めてムッとした顔でそっぽを向いた。
「ま、いいや。行こうぜ」
 俺の昨日着ていた服は、彼が洗濯乾燥してくれていたので、俺は自分の服に着替えた。
 彼の部屋のすぐ近くにカフェがあり、そこで遅い朝メシだか、早い昼だかを食うことにした。
 俺たちは、あれこれ迷って違う種類のサンドイッチを選び、デカいアイスコーヒーを買って席に着いた。
 店内は中途半端な時間のせいで空いている。
 サンドイッチを食べ、アイスコーヒーをガブガブ飲んだ。昨日の酒が少し残っていたけれど、頭痛がするほどではなかった。
 俺は無言で食べている彼の顔を見た。
幼さが見え隠れする、少し冷たいと映りかねないキレイな顔立ち。冷たさを感じさせない一番の理由はクリッとした大きな目。
そして笑うと……俺のハートを撃ち抜いた、あのなんともいえない人懐っこい笑顔になる。
 きっと。たいていの女なら口説き落とせるだろうなと考えたら、胸がチクッと痛んだ。
 中学に入った頃、俺は自分の恋愛対象が男だと気づいた。一体何度目だろう。叶わぬ恋をするのは。
「名前。言ってなかったね。僕は諒」
「ああ、俺は侑。泊めてくれて助かったよ」
「いや、ぼんやりしてるのを助けてくれてありがとう」
 こんな俺なんかを部屋に泊めて、さらにお礼とか。心配になる。
「侑。お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「サンドイッチ、半分交換して?」
 俺より背が高いくせに、上目遣いで言う。
ああ、クソッ。この顔。何でも言うことを聞いてしまいそうだ。
「いいよ」
 俺は、残っている半分のサンドイッチを諒に手渡した。受け取る諒の指先が、一瞬、俺の指に触れた。ドキッとした。
「ありがとう。両方食べたかったんだよね」
 諒が言った。
「なら2つ買ったのに」
「でもあんまりお金持ってなさそうだから」
 カッとなった。目の前が赤銅色に染まる。
 確かに財布にはいくらも入っていない。でもそんなこと、こいつに言われる筋合いは。
「怒らないで。僕もこれからあまり言いたくないこと侑に話すから。聞いてくれる?」
 カッとなって膨らんだ怒りが、行き場をなくしてしぼむのを感じる。コイツの、この上目遣いで人を殺してくれって言われたら、俺は迷わず殺しそうだな、と思った。
 サンドイッチを食べ終えて、アイスコーヒーを飲み、ひと呼吸おいて諒は話し始めた。
「さっき侑、聞いたでしょ?なんで黒い服しか着ないのか」
「あ?ああ」
「僕、本当の色に見えない色があるんだよ」
「ん?本当の色に見えない?」
「そう。色弱っていうんだけど」
 諒の説明を聞きながら、服の勉強の延長で色の勉強をした過去を思い出した。色の世界は奥が深くて楽しく、俺は色を覚えるのに必死になった。特に色の和名に惹かれて、今でもついそれが出ることがある。
服と同じくらい色の世界にハマり、好きになった。そして店の屋号もcolors。
「だからその正確に見えない色の服を着て、組み合わせがどうなのか分からない」
「お、おう」
「黒って黒じゃん?だから間違いないんだ」
 諒は自分が認識できない色を言った。
「そんなにね、生活するうえでは困らないんだけど」
 俺は聞きながら、アイスコーヒーを飲んだ。
「僕、過去に変な色の組み合わせの服で出歩いて、笑われたんだよね。だいぶ大笑いされたから、ちょっとトラウマでさ」
 そうか。だからか。
「だから全部黒なら安心なんだ」
 それだけ、と言って諒はニコッと笑い、アイスコーヒーを飲んだ。
 きっと、こんなふうに笑って言えるようになるまで、時間がかかっただろう。
「あのさ。俺、もうすぐ潰れそうだけど服屋やってんだよ」
「え、潰れちゃうの?」
「ああ、でもさ。いつか諒が色のある服を着たいと思ったら」
 ああ、また俺を上目遣いで見てる。心臓が駆け出すのを感じる。
「その時は、俺に服を選ばせてくれよ」
「え?それってまた僕と会ってくれるってこと?」
 諒はなぜか、嬉々として言った。
「あ?ああ。でも店が潰れたらどこに流れるか分からないから、電話番号くらい交換しておくか?」
 俺はポケットからスマホを出そうとして、
「うそだろ、お前の部屋に忘れてきた?のか?」
 と言いながら、体中を探した。
「あはは、じゃあまた僕の部屋に行こうよ」
「このまま帰ろうと思ったのに。だっさ」
 俺たちは目を合わせて笑った。
 アイスコーヒーとドーナツを4つ、持ち帰りにしてもらい、俺たちはもう一度諒の部屋に戻った。今度は諒が金を払った。
 部屋に戻って、アイスコーヒーを飲みながらドーナツを食べた。
「侑。さっきの話ね。僕の服を選んでくれるって」
「おう。任せろ。その気になったらいつでも飛んでくるからさ」
 諒はしばらく腕組みをして考え込んだ。こんな顔も可愛い。クソ可愛いんだよ。
「僕がいつ、その気になるか分からないから」
「ん?いつでもいいよ」
「その気になった時っていうより、その気が失せないうちに服を選んで欲しいから」
 諒はじっと俺の顔を見つめて、
「ここで一緒に暮らさない?」
 と言った。
 あの夏の日。俺は空に向かって神さまに毒づいた。そしたら神さまが、最後のチャンスとばかりに諒を、俺の人生に送り込んでくれた。神さまか?ご先祖さまかどっちだ?いや誰でもいい。とにかく感謝しかなかった。
「ごめんね、侑」
 一緒に暮らし始めて3ヶ月ほど経ったころ。
 諒が改まって言ってきた。
「なに?またなんか焦がした?」
 諒は料理が苦手だった。何をさせてもよく焦がす。謎だ。
「違うし。僕との約束のせいで、侑は彼女とデートとか旅行とか行けないなって思って」
 俺は笑って、
「そんなことかよ。俺が好きでした約束なんだし、そもそもを言い出したのも俺だし、彼女はいないし。心配するなよ」
「ホントに?」
「ああ、それにここに住ませてもらって助かってる。店は近いし、助けてもらって」
 一旦言葉を切って息を吸い、諒を見つめて、
「感謝しかない」
 と言うと、諒は嬉しそうに笑った。
「僕、侑の役に立ってる?」
「ああ、ありがとう。めちゃくちゃ役に立ってる」
 俺たちは、見つめ合って笑った。
 一緒に暮らし始めて3ヶ月。その頃の俺は、諒に恋していることをひた隠しに隠していた。
「到着」
 俺は後ろの諒に言い、諒は自転車から飛び降りた。自転車を駐輪場に止めて、俺たちは階段で5階まで駆け上がる。
 家に入ると窓を開けてシャワーを浴び、お茶を入れた。話しをしたいとき、こうしてお茶を淹れてソファに並んで座り、俺たちはじっくり話す。
 この2年で、俺たちにしか通じない、俺たちが作ってきたルールがいくつかできていた。
「で、このところの忙しさはなんなんだ?話したいのはそのことだろ?」
 俺は諒が話しやすいように言った。水を向けてやらないと、諒はなかなか話し始めない。絵描きだ。心を絵に描くことはできても、話すのは苦手なのかと勝手に推測している。
「うん。え~と。僕がお世話になってきた画商とね、契約を解除しようと思ってて」
 俺はちょっと驚いた。画商は画家のマネージャーのような人だと俺は理解している。その認識でいいのかは分からないが。
「じゃあ別の画商?と組むのか?」
 諒はしばらく黙ってお茶を飲んでいた。
こういう時、諒は必死に自分の気持ちに一番近い言葉を探している。だから俺は急かさず、お茶を飲んで待つことにしている。準備ができれば諒は口を開く。
 そのインターバルが、今日は長かった。二人とも1杯目のお茶を飲んでしまい、俺は黙って2杯目を淹れた。
「たぶん、そうはならない。だからこれから、僕の絵は売れなくなるかもしれない」
 俺はちょっと言葉を失った。
 いやそれが諒の選択なら、俺も賛成するし応援もする。ただ。
「諒は、本当にそれでいいのか?せっかく描いた絵が売れなくても」
 理由は分からないが、悩んで悩んで、悩んで。どうにかたどり着いた決断なんだろうとは容易に想像がつく。
 俺たちが出逢ったとき。俺はどん底にいたけど、諒も何かに行き詰っていたはずだ。だからこそ、あんな時間にあんな場所で出逢ったのだと俺は思っている。
「僕がいま一番したいことは、今の画商から離れることなんだ」
 諒にしては珍しく、消極的な理由だが能動的だ。どうしたんだろう?その画商と何かトラブルがあったのだろうか?聞きたい、と思ったが聞けなかった。
 この2年でできたルールに、諒が自分から言い出さないことは聞かないというのも入っていた。諒が、話す気になっていることに対して水を向けることはあっても、聞きだすような質問はしないできた。
どちらが言い出したことでもなく、基本しゃべるのがあまり得意でない諒が、自分の話したいようになら話せるかと待ちの姿勢でいたら、こうなってしまった。
「絵でお金が稼げなかったら、侑は僕に失望する?」
 この世で一番好きなもの。それは諒のこの上目遣いに俺を見る表情だった。これを独り占めしたい。けどそれは、こんな目で他の誰も見て欲しくないってことだ。誰も。絶対。
「失望?そんな文字は俺の辞書にない」
 俺は言って、笑った。諒が、あからさまにホッとするのが分かった。
「よし、絵が売れなくなったら一緒に店やろう。俺たちの城だぞ」
「あ~僕にできるかな。いらっしゃいませとか?」
 大丈夫かなと不安そうな諒。こんな時は特に、年上には見えない。
「なぁ、俺は今までたくさん諒に助けてもらった。今度は俺の番。俺が諒を支える番」
「侑。ありがとう」
 諒は感謝をキスに乗せてきた。情熱的な、この後の行為を容易に想像させる、紅赤色のキス。火のように熱い。
 諒は基本、受け身で生きている。起こったことを受け入れ、それをどう消化し、どう自分のものにし、活かすか。起きたことに対するリアクションで動くことがほとんどだ。例外は……。
「おい、明日早くアトリエに行くんじゃないのか?」
「もちろん行くよ。絵も描く。でも今は侑を抱きたい。愛してる」
 俺の返事は、諒のキスで遮られた。
 出逢ったときのようなゲリラ豪雨がまた、俺たちの上に降るのかもしれないと思った。
けど大丈夫。きっと。
 俺たちは、俺たちのやり方で起こったことを受け止め、解決し、立ち上がってまた歩き出せるはずだ。
 二人で過ごした2年の時間を、俺は心から信頼していた。

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