絶滅しよう

文字数 9,913文字

「こっちがウナギになっちゃうよねえ」
 ちょうど一日のど真ん中、太陽はこの世の頂点に君臨して、私たちの剥きだしになっている部分をじりじりと焦がす。遠藤さんはきちんとカーディガンを羽織って、スカーフを巻いて、つばの広い帽子をかぶっている。そのうえ日焼け止めを丁寧に何度も塗りこんでいるはずなのに、心配そうにぼやく。
 半袖のTシャツで、腕も首もすでにこんがりと焼けてしまっている自分が恥ずかしい。遠藤さんはまぶしいくらい白い。見つめると、こちらの目が自然と細くなってしまうほどに。
「蒲焼きになっちゃうってことですか」
「そう。食べるまえに食べられちゃいそう」
「誰か食べてくれたらいいんですけどね」
「あ、前の人出てきた」
 遠藤さんが少し弾んだ声を上げる。口コミで話題の鰻屋は、一定人数を店内に詰めこんで、そのグループ全員が食べ終わらないと次のグループが入れない、という謎システムを採用していた。
 食事を終えた人から出ていって、空いた席に順々にとおしていけばいいじゃないか、と私は思うのだけど、遠藤さんいわく「ちまちま作るより、ある程度の数を一気に焼きあげるほうがいいんだよ、きっと」らしい。
 真偽のほどは定かではないけど、ずいぶん効率の悪いやり方だとは思う。ただ、非効率と希少性はうまい具合に比例しているようで、炎天下で長時間待たされている人たちは、目前の鰻に目をぎらつかせている。行列のできる店は、目的のものにありつくとき必ず空腹になっている。空腹は最高のスパイス。よくできている。
 しかし、今日においてはスパイスも効力を見失うくらい、暑すぎる。
「暑いですね」
「うん。三十五度くらいあるかなあ」
「私、平熱です、それ」
「あー、低いんだねえ」
「遠藤さん、いくつくらいですか」
「三十七度」
「高いですね」
 それなのにそんなに布を身にまとって、熱がこもったりしないんですか。と、口に出そうとしたところで前のグループが全員食べ終わったようだ。店から出てくる人たちの顔がどことなくつやつやと輝いて見えるのは、やはり鰻のパワーのおかげなのだろうか。容赦ない太陽光線が、そう見せているだけだろうか。
 ようやく次のグループが呼ばれる。汗もすっかり蒸発して、干からびたミイラみたいな人たちが、ぞろぞろと入店する。
 いけるかな、と期待したけど、私たちの前で定員は切られた。もう一度、何人もの食事が終わるのをじっと待機しなければならない。
 夏を乗りこえるために鰻を食べにきたはずなのに、このままじゃ食べるまえにくじけてしまいそうだ。うだるような暑さに、遠藤さんはそっとため息を漏らす。聞こえるか聞こえないかの吐息は妙に艶っぽい。普段は無垢さを装っている彼女も、実はいい年齢なのだ。ようやく三十路を迎えた私とは、一回りほどの差がある。
「帰ろうか」
「え、でもせっかく並んだのに」
「代わりにかき氷でも食べにいこう」
 鰻の代わりにはならないと思うのだけど。遠藤さんはおかまいなしだ。鰻の焼ける、香ばしいにおいがただよっていることに気づいていないのだろうか。完全に鰻を食べる口になってしまっている。
 遠藤さんが少し首をかしげると、私の二の腕にこつんと帽子のつばが当たる。
「ほら、ウナギ絶滅させちゃうかもしれないし」
 ここでそれを言うか。そうツッコみたくなるのを抑えて、列を抜ける遠藤さんの背中を追う。私たちが抜けた分だけ前に進めた人たちは頬をゆるませる。
 たった二人分なのだけど。

          ○

 遠藤さんとかき氷を食べた晩、気持ちが治まらずにコンビニで鰻のおにぎりを買った。甘すぎるタレは鰻でないなにかをごまかしているんじゃないか、と猜疑心が芽生えたけど目をつぶった。口にふくむそれは、確かに私の知っている鰻の食感だった。そもそも私が知っている鰻というのは、過去にそうそう例がないのだ。
 子どものころの土用の丑の日、家にお客さんが来た夜、法事で親戚が集まったとき。そこに遠藤さんと食事をした日曜日が加わるはずだったのだけど、あえなく撃沈したので一人で食べる鰻おにぎりがエントリーするはめになった。
 これがアナゴでもナマズでも、私は気がつかないだろう。もしかしたら、かまぼこでもわからないかもしれない。茶色く染まったご飯を噛みしめる。そもそも絶滅危惧種が、普通にコンビニに並んでいる時点でおかしな話だ。
 会社でくすねた煎茶パックにお湯を注いでいるところで、ケータイが鳴った。ガラケーも絶滅危惧種に指定されたので、最近スマートフォンに替えたばかりだ。あらゆる設定をデフォルトのまま放置してしまっているせいで、着信音はなんだか不穏なメロディだった。胸をざわつかせる、心もとない短調が狭いワンルームに響きわたる。
「もしもし」
「あ、元気?」
 名乗りもせずにまかりとおってしまう間柄は、実家の両親か、実家の両親のふりをした詐欺師だけだ。今回はディスプレイに表示された数字が、唯一そらで言える電話番号だったので前者で間違いない。カラッと揚げたかき餅のような声は、確かに私の母親のものだった。
「うん、どうしたの」
「お米なんだけどね」
 実家は知り合いの農家にお米を注文している。そのお米をずいぶん多めに頼んでしまったので、送りつけていいかと言われた。これはあれだな、本当はあえて多めに頼んだのだけど、こちらに気を遣わせまいという、あれだな。
「ありがとう、助かるよ」
 気づかないふりで礼を言う。実際、お米はありがたい。実家の厚意にほいほい甘えていいものなのか迷える年齢になってきたけど、やたらと物をあげたがる両親に対しては素直に受けとることが親孝行だ、と都合のよい解釈をするようにしている。
 そして物をあげるという用事は、本命でもあるけど単なる口実でもある。
「最近どう? いい人見つかった?」
 お米はこの話題に持っていくための枕詞なのだ。「ふーむ」「ううむ」「あー」という意味を成さないうめき声を返すことで、母親は察し、あきらめて「じゃあまたね」と切りあげるのが常だった。様子をうかがってはみるものの、必要以上にうるさいことは言わない。軽いジャブ程度で済ませてくれるので、私はいつまでもこの部屋を快適な城にしていられるのだ。
 しかし、ルーチンは突如として崩されることがあるらしい。母親の声が突然、ぬれせんべいのように湿っぽいものに変わる。
「もしよければ、会ってみてほしい人がいるんだけどね」
 大根役者の私は、アドリブに慣れていない。「え」と言葉に詰まったまま、次が出てこない。数秒の沈黙が流れる。軽い放送事故だ。
「相手はいつでもいいだろうけど、子どもとなると話は別だからね」
 先に沈黙を破ったのは、ベテラン役者の母親だった。沈黙どころか暗黙の了解をも突き破ってきた。今まで触れてこなかった、おそらくは世間的にも繊細な問題に真正面から切りこんでくるとは。新人潰しの異名を持っていてもおかしくない。母親が突然、知らない人になる。もしかしたら、やっぱり母親のふりをした詐欺師なのだろうか。
 乾いた唇を舌でなめる。甘い味がする。リップクリームではない。鰻のタレだ。皿の上で横たわった茶色い米の隙間から、白い身が顔をのぞかせている。
 いや、もうウナギなんて、実はとっくの昔に絶滅しているのかもしれない。
「子ども、考えてないし欲しくない」
 言葉にしたら、冷えきったおにぎりより低い温度でびっくりした。つぶやいた私がその冷たさに驚いているのだから、固定電話の受話器をとおした母親にはもっと冷徹に聞こえているだろう。
「ごめん」
 だから、その素っ気なさに謝った。内容にではない、決して。

          ○

「子どもっつーかさ、桐原家の名は残していきたいっつーのはあるね。血筋を絶やしたくない、遺伝子を引きついでいきたい、みたいなさ」
 母親に「いい人見つかった?」と聞かれて、真っ先に桐原くんを思い出さなかったのは、彼のことをあまりいい人だと思っていないせいだろう。ビールジョッキを傾け、顔を赤く染める桐原くんは悪い人ではない。むしろ、結婚やら子どもというワードを出されても、一切たじろがずに自分の意見を主張できるあたり、懐が大きいとも言える。
「なんだか壮大な話だね」
「そうかな? だってさ、俺たちもずーっと先祖代々頑張ってきてくれたおかげで、今ここにいるわけじゃん。その長―い長―い時間をさ、自分でおしまいにするのって申し訳なくない?」
「ふーむ」
「なに、その年寄りくさい感じ」
「あんまり考えたことないな」
「マジか。俺、すげえ考えるわ」
「すごいね」
「そんで自分の子どもっつーか子孫がさ、ちゃんと生きていける時代になってるかなーとかも考えるわ。だから地球温暖化とか他人事じゃねえもん、マジで」
「やっぱり壮大だよ」
「なんでよ? 身近なことじゃん」
 桐原くんはジョッキを掲げて「生中おかわり!」と声を張る。営業職をしているだけあって、彼の声はにぎやかな居酒屋でもきちんと店員の耳に届く。若い学生アルバイトらしき店員も負けじと「あざす! 生中でーす!」と叫んでいる。
 あちらこちらの会話の隙間を縫って、九十年代のヒットソングが流れている。断片だけでも、あ、あの曲だ、とわかってしまうあたり、自分の年齢も時代ののろさもばれてしまいそうだ。進歩しているようで、結局時代はまわっているだけだ。似たような景色を、何度も繰り返す。
 桐原くんはつまみもいろいろと頼んだ。ひたすら飲み食いする彼を見ていると、曜日感覚がなくなっていく。今日はまだ木曜日のはずだ。
「明日、金曜日だよね」
「今日が木曜だからそうじゃん?」
「そんなに飲んで大丈夫?」
「別に何曜日だって変わんないっしょ。これ、うまいよ」
 食べっぷりは威勢がいいのに、小動物のように口をふくらませている桐原くんは、う巻きを箸で差した。何層にもなっている黄色い卵のあいだに茶色い物体が見える。
「これってなんだろう」
「え? 知らないの? 鰻だよ。う巻きの【う】って鰻のこと」
 いや、それはわかっている。そうではなくて。
「ウナギって絶滅するんじゃないの? ここにいていいの? これ、本当にウナギなの?」
 桐原くんは一瞬目を丸くしたけど、すぐに「あー」と場をつなぐ。少し雑ではあるけど、そういうところが営業として重宝されるのだろう。
「まあ、ウナギは仕方ないんじゃね? つーかウナギに限らず、生き物が絶滅しちゃうのは仕方ないっしょ」
「仕方ないの?」
「仕方ない。自然の流れってやつ」
「自然かな」
「人間的には自然なんじゃね」
「じゃあ人間が絶滅するのも自然なんじゃ」
「それはなんとかしなきゃ。俺たちの子孫のために!」
 桐原くんの顔は赤信号だ。アルコールのまわった人間の言うことは信用できない。居酒屋でまともな議論や愛の会話を交わそうなんて、どだい無理な話だ。
 案の定、桐原くんは九時をまわったところで、盛大に舟を漕ぎだした。オール代わりの箸があちこちを泳ぎ、う巻きをぶすぶすと突き刺している。
「ここ、お金置いとくね。じゃあ」
「……んー、ん? え、帰るの……?」
「うん」
「……えー、じゃあさー……俺も、帰ろっかなー……」
「ごめん」
 完全に覚醒するまえに、私はすばやく席を立った。これはウナギのためなのだ、という大義名分を盾にする。
 桐原くんに会うことは、もうないだろう。

          ○

「あー、あなた派遣なの」
「はい」
「正社員じゃないんだ」
「はい」
「そっか。まあ女の人だしね、いつ辞めるかわからないからちょうどいいよね」
 そこで肯定しないことが、私なりの否定なのだけど、沈黙はイエスだと思っている人が多すぎる。勤続ウン十年の上司はもう私を見ていない。やたら分厚い紙の資料とにらめっこしている。
 お昼休みのチャイムが鳴る。私の職場は学校みたいだ。朝は朝礼やらラジオ体操やら社歌斉唱がある。学生のころと違うのは、はっきりとそのしきたりを嫌だなあ、と認めてしまっていることだ。なにも考えずに右に左に倣っていたほうが、明らかにストレスは積もらない。制服のリボンや体操着の丈の短さを疑わない、あのころの私はどこで脱ぎ捨ててしまったのだろうか。
 お弁当を持って、休憩スペースへ向かう。途中、遠藤さんの席を横目でうかがう。
 今日、彼女は有給を取っている。病院に行っているらしいけど、それ以上の情報は聞いていない。中途半端に知ると、かえって気になってしまう。気になってしまうけど、どうしたんですか、と気軽に連絡を取ることにはためらいがある。いつも私が一方的にやきもきしてしまうだけなのだ。
 休憩スペースは、ちらほらと席が埋まっていた。自動販売機しかないこの場所は、使い勝手が悪い。社員の人たちは外へ食べに出かけるし、ほかの派遣社員たちはそのまま自分の席に座って食事を済ませることが多い。
 期限付きの職場を、わざわざ探検する必要はない。派遣社員の大多数が主張するその意見に、私も賛成だった。それでも毎日ここに来る習慣がついてしまったのは、遠藤さんが原因なのだ。お弁当を箸でつついていると、不意に彼女が向かいの席に座ることがある。なんとなくそれを待っている自分がいる。
『産め、産め、産め。そういった発言をしたことに関して市長は記憶にない、と否定しています』
 古い型のテレビが一台、申し訳程度に備えつけられている。誰もがBGMとして聞き流している。
 お弁当を広げる。特別気に入ったというわけではなくて、ただ遠藤さんに教えたいな、と鰻のおにぎりを買ってきた。おかずは残りものをタッパーに詰めただけだ。
 おにぎりを頬張ると、やっぱり鰻というよりタレがすべてを支配する。口の中が無限に甘くなる。手放しでうめえ、うめえ、うめえ、とはしゃげる味ではない。
『産め、産め、産め。仮にそう言ったとしても、言い方が無配慮であることは認めるが、内容に関しては間違っていないだろう、と発言しています』
 ひ孫どんと来い、という姿勢で体はぴんぴんしているけど、頭がなかなかついていかない祖母お手製の梅干しを持ってきてしまったことを後悔する。母親がお米と一緒に送ってきてくれたものだ。段ボールの中はお米の袋がどんと居座り、隙間に梅干しの瓶が数本鎮座していた。手紙やメモのたぐいは一切なく、ビッグサイズの日の丸弁当だ、と思うほどにどこか素っ気ない荷物だった。
 鰻と梅は相性が悪いんじゃなかったっけ。もうおにぎりは半分食べてしまったので、梅干しはあきらめる。遠藤さんがいたら、おすそ分けするのに。
『産め、産め、産め』
 梅干しをつまみあげると、裏側が白っぽくなっていた。ふわふわと綿状にそよぐカビは、ちょっとかわいらしい生命体だ。飼ってみたい衝動が針のように突きあげてくるのを、すんでのところでかわす。私は立ちあがって、テレビの下にあるゴミ箱に梅干しを捨てた。
「ごめん」
 実はそこまで梅が好きじゃない。ずっと当たり前にあって、その大切さに気づけなかった。そんな話がよく転がっているけど、その逆だってあるはず。
 本当はたいして要らないものに、最近よく気づく。
 
          ○

 遠藤さんは基本的に断らない人だ。断れないのではなく、断らない。押しに弱いとか自分の意見が言えないとかではなく、大きなこだわりを持たない人なのだ。だから、上の人間に理不尽な要求をされても、他部署の電話応対にひたすら追われても、ただの部下である私に休日をつぶされても、特に不満を抱かない。
 海のない、この町の水族館にはイルカもペンギンもいない。代わりに灰色の地味な魚がわんさか群れをなして泳いでいる。人気者のスイミーが常に不在で、取り巻きだけが展示されている。そんな具合だから、休日でも客入りは寂しく、遠藤さんとは一定の距離を空けたまま見てまわった。涼しげなワンピースが、軽やかな足取りでたなびいている。
「すごく見やすいねえ」
「人気ないですから、ここ」
「来たことあるの?」
「はい、何回か」
 本当は一回だけで、そのときは桐原くんがもっと近い距離で隣にいた。だけど、それは言わなくてもいいことだ。会わないと決めた途端、その人の輪郭さえおぼろげになる。
「遠藤さんは初めてですか」
「うん」
「水族館とか、あんまり興味ないですか」
「そんなことないよ。旦那はわりと好きだし」
 川魚ばかりのくせに、館内の照明は暗いブルーで統一している。深い深い海底をイメージしているのだろうか。
 彼女の横顔が真っ青に染まって、新種の生き物のように見えた。でも、遠藤さんはまるで新種ではない。どこにでもいて、すでに発見され研究も進められている、アラフォーの女性なのだ。どれだけ先へ先へと優雅に泳いでも、彼女は人魚ではない。絶滅などしない。
「あー」
 遠藤さんが子どものように声を上げて、一つの水槽を指差した。私も後ろからのぞきこむと、そこには一匹のウナギが収まっていた。黒光りする細長い体を微動だにさせず、置物のようにたたずんでいる。
「このまえ、食べそこなったねえ」
「それ、ここで言いますか」
「この子、仲間がいないんだねえ」
「一匹だけですもんね」
「それもあるけど、世界中にも」
「絶滅寸前ってことですか」
「そう。生態系にも影響あるんだろうねえ」
「絶滅は仕方なくて、自然なことだって」
 桐原くん、じゃなくて、知人が言ってましたよ。そう伝えようとした瞬間、声が出なくなった。声の出し方がわからなくなってしまった。
 いや、声が出ないんじゃない。ただ、時間が止まったのだ。ウナギを指差す左手に巻かれた、私の腕時計が時を刻んでいない。いつもは秒針の音がうるさい安物なのに、役目を奪われたように突然沈黙を守っている。
 斜め前にいる遠藤さんは動かない。ウナギをのぞきこむかたちで中腰になったままだ。なかなかにつらい体勢であるだろうにびくともしない。いつもは揺れている黒髪も、空間に貼りつけられたように一本一本が静止している。凛とした毛先が、こんなときでも心底うらやましくて、つい見とれてしまう。
『おい、こっちを見ろ』
 鼓膜に重低音が響いた。ずしん、と胸の奥に落ちていくような暗い声。少し息苦しくなる感覚は、目の前にいきなり跳び箱を積まれた体育の時間と重なる。跳べもしないのに高々と積まれていく嫌らしい感じ、苦手だったなあ。
 今、私の気分を沈ませるのは、跳び箱じゃなくて、ぬめぬめと動きだしたウナギだった。視線、というより意識を、遠藤さんからウナギへと向ける。
『おまえなあ、おまえ。ぼけっとしてるおまえだ』
 声に合わせて、ウナギは体をくねらせる。まさかウナギがしゃべっているとでもいうのだろうか。そして私の心に呼びかけているとか。ぼけっとしてるおまえ、というのは果たして私のことなのだろうか。
『おまえしかいないだろうが。おまえだ』
 ひどい。失礼極まりない。というか、ウナギは私の心の内を読みとっているらしい。そんな能力がウナギにあるなんて。おまけに時も止められるなんて。
『人間ができないことをやってのけるのが、人間以外の生き物だ。思いあがるなよ』
 なぜかウナギは説教モードだ。もとからこういうキャラクターなのかもしれないけど、ピリピリと電気が走るような怒りの口調は、私を怯えさせるには十分だった。声が出ないから、心の中だけで謝罪する。ごめんなさい。
『謝って済む問題じゃあない』
 ウナギはふんぞりかえる。そのアグレッシブな動きに驚きもしたけど、どちらかというと、ああ、こういう言い方するおじさんっているよなあ、と頭は妙に冷静になった。
『む、生意気な』
 ああ、こういう返し方もよくあるよくある。自分が置かれている状況も忘れて、職場の日常茶飯事あれこれを思い出し、ちょっとげんなりしてしまう。再雇用されたおじさんが、かつての栄光や肩書きを忘れずにふんぞりかえる。パソコンの電源を切ったのは自分なのに、壊れたと騒ぎだす。カップは放っておけば、勝手に洗って片づけられるものだと信じている。ああいう人たちは、絶滅しそうでしない。
『おい、勝手に物思いにふけるな』
 ごめんなさい。
『謝ればいいと思ってるだろ』
 ごめんなさい。
『む、馬鹿にしてるな、おまえ』
 ごめんなさい。
『むむ、もういい。おまえら人間に言っておきたいことがある』
 ごめんなさい。
『むむむ、聞け。自然はあくまでも自然で、おまえらが決めることじゃない』
 ウナギはにょろにょろと上に向かって伸びていき、その姿はまるで天に昇る龍のようだった。光沢のあるフォルムがどこまでも一本線になろうとしている。こんな一芸があったとは。こんな生き物を食べていたとは。
 ウナギの底なしの眼差しが、私をとらえる。
『おまえら人間が一番不自然だ。これ以上、増えるな。馬鹿たれ』
 ごめ、と謝ろうとしたところで、秒針がチッと舌打ちするのが聞こえた。
 時計が動きだす。遠藤さんの髪の毛が揺れる。伸びていたウナギはくるくると体を縮こませ、何事もなかったかのように狭い水槽をぬめぬめと這う。
「……んなさい」
「え?」
 最後までなぞれなかった心のつぶやきが、音になって漏れた。遠藤さんは振りかえり、私を真っ直ぐに見つめる。やけに無機質な瞳は、もしかしたらウナギにちょっとだけ似ているのかもしれない。目の前の人間を吸いこんでいきそうな力を秘めているのに、その目にはなにも映さない。ウナギが私を『おまえ』としか呼ばなかったように。
「遠藤さん」
「なに?」
 不意に、初めて職場外で彼女を見かけた日のことがよみがえる。いつもはスーツかシャツで身を固める遠藤さんが、ゆるゆるのジャージを着て、スーパーを歩いていたのは衝撃だった。でもそれ以上に、大口を開けて、目を三日月型に細めて、ずっと笑っていたのが信じられなかった。同じ顔をして笑う男性が、すぐ横にいるのも信じられなかった。
 二人は兄妹ではないだろうか。まったく同じ遺伝子を持っているのではないだろうか。そう勘ぐってしまうくらい、そっくりな笑顔が並んで歩いていた。
 言うべきことは決まっている。本当はウナギを食べにいこうとした日に言うつもりだった。かき氷に変更されて、溶けないようにあわててスプーンですくっていたら、すぐに手を振り合う時間は来てしまった。あの日、用意していた言葉とは、ちょっとニュアンスが違うけど、伝えるべきことはより固まった気がする。
 首をかしげる遠藤さんの後ろで、ウナギが
私を射すくめる。私も負けじと見つめかえす。私は確かに不自然だ。不自然なまま、彼女
と一緒にいたいのだ。
「遠藤さん」
「そういえば」
私の呼びかけに、遠藤さんの声が重なる。ほんの少しためらって、スタートダッシュ
が出遅れただけで、運命が簡単に転がってしまうことがある。
「私ね、産休に入ることになったんだ。来月から後任の人が来るよ」
 遠藤さんは自らのお腹をさする。最近お菓子食べすぎかなあ、としきりにぼやいていた彼女は、もうとっくにスタートを切っていた。私は周回遅れで、遠藤さんの背中をずっと追っていたのだ。
「子どもですか」
「うん」
「遠藤さんが、増えるんですね」
「変な言い方」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ」
「寂しくなります」
「そうだね。でも戻ると思うし」
 ウナギはもう自力で天に昇らない。近いうちに姿を消してしまうかもしれない。でも、人間は消えない。産め産め産め、と急かしたりしなくても、そう簡単には消えない。
 遠藤さんはきれいに微笑んで、先へ先へと進む。穏やかな口調とは裏腹に、彼女は結構せっかちなのだ。早足で青い空間から抜けだそうとしている。海から陸へと上がっていく。
 いつか戻ってきた彼女は、小さい命と手をつないでいるのだろうか。今、告白しようとした言葉は、そのときにはもう言えない。そもそも私の契約期間は、終わっているかもしれない。
 私は立ちどまったまま、ウナギをそっと見つめる。ウナギは知らん顔で好き勝手に動いたあと、穴の中へもぐっていった。
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