第1話

文字数 33,343文字

最初はこれまた中途半端な作品がきたもんだと思った。しかしこれでも一会社員である俺がこれをスクラップ機にかけてゴミ箱に燃える用で捨ててしまうことは出来ない。ああジーザス。
 本当に最後まで読まないといけないのだろうか。どこかに欠陥が、規則を無視したところがないかと探すが、残念なことに、俺の捜索をあざ笑うかのように綺麗に規則通りとなった規範のような作品だった。最後のページに丁寧にも『お仕事お疲れ様です』と生意気に、敵から塩を送られたような気分になった。これを送ってきた奴の性格はきっとねじ曲がっているはずだ。
 行数、行の文字数、一定以上以下におさまったページ数、最初に基本的な自己情報と綺麗にまとめられたあらすじ。なんとも憎ったらしい。そのくせ、その肝心の内容が本当に最高にビッグバンしていた。これを書いたやつは、というかこんなものを書こうとした奴は頭のネジどころか脳汁脳髄脳脂肪が全部樹脂製のゴムパッキンに置き換わっているのだろうとしか考えられない。ああ面倒だ。

 
 タイトル 青年の野次馬は走らない

「やっぱり最近の出版社はどこもかしこもつまらないよね?」
「つまらないって、具体的にはどこが?私にしてみれば毎日瞬間のごとく本という情報媒体を生産している仕事ぶりに感謝しかないけど。正直働きすぎでどこもかしこも潰れてしまうんじゃないかって不安なほど」
「その心配は全然心配ご無用ってもんだよ。まあ聞けよ。僕が言いたいのは最近の出版社はどこもどれとこれとを比べてみたってドングリの背比べってことだ。ドングリと言わずウジ虫と言ってもいいほどにね」
「そいつは聞き捨てならないな。ウジ虫だと?私が日々感謝を届けている先が死体に寄生する動物と同様だなんて滑稽越して憤怒ものだ。殴るよ?」
「殴らないでくれ。君に殴られたら僕の顔面は障子並みに張り裂けてしまうよ。でも言いすぎたことは謝ろう。ごめんよ。話を戻すと、最近の出版社は新しい挑戦というものをしなくなって、久しく、つまらない社畜になってしまったという話だ」
「つまらない?小説家の人々はいつも切磋琢磨するように次々と新しい物語を書き出しているじゃないか。何が不満だってんだよ」
「小説家の先生方にはなんも文句はないよ。むしろそれこそ感謝を奉っているほどだ。僕が言っているのは出版社のほうだよ。いいか、出版社ってのはただ本を世に出せばそれでいいと思っている。まあ報道やらゲームやらと別なことをやってはいるけれど。僕としては新人を教育するのもこの先必要なことだと思うんだ」
「というと?そこまで厳しいってわけでもないと思うんだけど。新人賞だってあるし研修だってあるのに」
「いや、ぬるいね。今現在活躍されている作家様に続く人を求めているなら、より新しい作品を求めているならただ待っているだけじゃだめだ。活躍できる場を作るだけなら蟻にだってつくれるよ」
「そこまで言うからには何か案があって言っているのよね?」
「もちろん。まず小説家を目指している人が、無料で本を読めるようにする。やっぱりどんな作品を書くとしても基礎の情報がすくないとアイデアがでないからね。そして小説の書き方を公開する」
「小説の書き方?そんなの人それぞれでしょうに」
「そうだろうね。しかし参考にはなるはずだ。実際に活躍している作家たちの書き方を公開することで、小説家希望の皆がいいとこ取りができる。アイデアだってそうだろ?ゼロから生まれるアイデアなんて無くって、どれもが1たす1で創られるんだ。書き方だってそうなると思う」
「ホントかなぁ?まあ君には色々と野望があるんだね」
「改革のアイデアと呼んで欲しいな」
「そんなに不満なら自分ですればいいじゃない。自分の会社を作って、自分でその改革ってやつをすればいいじゃない」
「……あなたは天才か」
「…君が馬鹿なだけだと思う。まあ目指すならタダだし、やってみたら?そううまくいかないと思うけど。現実の厳しさを味わうといいわ」
「……やってやるよ」

 僕と星波が高校生の時に交わした会話は、今でも覚えている。

 書店員というのは見た目に反してハードな職業だということに気づいたのは早かった。初日から気づいた。朝は仕入れた大量の紙の塊を本棚に並べる。場所なども決まっていて広い店だと探すのに一苦労だ。残念なことに僕が務めているのは東京という日本における大都会の中でも屈指の巨大さを誇っている。本当に、そんなことを誇りにしないで欲しい。とはいえ中の品ぞろえも屈強だ。そんなに頑張らなくてもいいのに。
 朝の書籍整理が済んだら今度は溢れる人混みとの戦いが夜の十時まで続く。いや長げーよ。なんで一日の大半を店の中で過ごさないといけないんだ。もはやこの店自体が俺の家だってか。はっ、笑えねぇ。
 星波が言っていた通り、僕は社会の厳しい洗礼に身も心も侵されていた。真っ白で純真無垢な少年が傷ついた惨敗兵へと成り下がった。いや、成り下がったというよりこうなるべくして成ったといったところか。結局、昔の僕は己の生まれ持った才能を見誤り、分不相応な夢をこっぱずかしく語った青年だったということだ。
 そんな僕とは違い、星波は客観的に自信を見ることが出来ていた。その能力を最大限に発揮して、今では巷を湧かせている人気小説家として活動している。
 方や壮大な夢を持っていたアルバイト。
 方や現実的に人生を進んだ小説家。
 比べるのもおこがましいほどだ。おこがましいほどに、自分を棚に上げている。
 こんな若干根暗ぎみに成長した僕の前に、その人は現れた。その人というか、星波が普段着で僕の前に現れた。
「や、なーにー?君今店員として働いてんの?私はてっきりどこかの編集者にでもなってるのかと思ったよ」
「気が合うね。僕もまさかこうして星波に接客する日が来るとは思っても無かったよ。合計三千四百円になります」
「カードで」
「申し訳ありませんが本店ではカードはご利用出来ません。現金のみとなっております高額納税者様」
「チクッと心にくる接客だね」
「いえいえ、これでも尊敬していますよ先生。おつり六百円になります。ありがとうございました」
「この店はいいね。最新から古本までそろってる。常連になっちゃいそう」
「それよりネットでのお買い求めをお勧めします。ありがとうございました」
「帰れってか。はいはい分かりましたよ。あっ、これ後で読んどいてね。じゃ」
「ありがとうございましたー」
 三度目の定型句でやっとレジから離れてくれた。はあ、心の古傷が疼いて今すぐ帰りたい。
 星波からは一枚の用紙が渡された。後で読むなんて面倒だ。この程度なら次の客が来るまでにさらっと読める。えーっと
『編集部をぶっ潰す激おこプンプン銭今夜教白庭集合七時』
 どうやら変わったのは外見や社会性だけでなく、性格も変わってしまったようだ。月日の経過は人間だれしもに影響するらしい。
 それにしても、丸文字なんて書けたんだな。はっ、似合わねぇ。

  やだ今夜襲われちゃうかもなんて思っている僕は頭がどうにかなってしまったのだろう。元からというのなら致し方なし。星波が指定した場所は言ってしまえばラブホだった。まあ僕も星波もいい年をとった成年ではあるが、きっとそんな甘酸っぱいことは起きないだろう。星波から渡されたメッセージの最初、『編集部をぶっ潰す』という文字。担当編集者となにかあったのだろうか。そんな痴話げんかに僕という赤の他人を巻き込まないで欲しいと心から思っているが、こうして約束時間の十分前に来ている僕は天邪鬼だ。自分の行動さえ心から離れてしまったら、僕の意識はいずれ一人歩きを初めて穴底に落っこちてしまうだろう。
 よし、時間だ。僕は意を決して建物内に入る。別に緊張なんかしていない。ああしていないとも。何を緊張する理由がある?こんなのどこにでもあるコンクリートの塊だ。大丈夫大丈夫。
 自分に向かって応援している人間は皆緊張人です。
 意だろうが心だろうが決して行動しても、簡単に石に躓いてしまうのが僕だ。建物内に入ると、そこは僕にとって百光年先の宇宙だった。つまるところ、僕は固まってしまった。体も心も、決した意も脳内の反射神経までも。唯一動いたのは口だけだった。
「何やってんの、星波?」
「見て分かんない?踏みつぶしてんの」
「いや、そこで頭を抱えて貴方に現在進行形で何度も踏まれているのは誰?どこのどちら様?」
「私の編集者の違和。おらっ、キャストは全員集合したよ。さっさと説明説明」
「……大変お見苦しい場面をご覧になられたようで」
 すっと踏まれていた男性は何事もなく立ち上がった。パンパンと長い腕で背中を叩く。器用だな。
「この場所で話すのもなんですから、部屋に入りましょうか。ここはまだプレイをする場所ではありませんのでね」
 そんなイケメンな顔で言わないでくれ。というかそういう性癖があるなら僕のあずかり知らない場所でひっそりとやっていて欲しい。大変僕以外の常連客に迷惑です。他人の行為なんて見たくもないしね。
 僕の合意も待たずに、二人は流れるように部屋をとって、エレベーターに入る。星波が手招きをしているから、きっと僕待ちだろうな。だろうなってなんだよ、明らかに僕が出遅れている。
 ああ、三年ぶりの親友との再会が、こんなわけ分からないのでいいのだろうか。人生は劇的だって言うけれど、見方を変えれば迷惑極まりない事故の集合体だな。
 僕はおとなしく二人が待つ、狭いエレベーターに乗った。ああ、ホーリーシット。

「さる出版社に戦争を吹っ掛けます。異論も撤退も認めません」
 最初の一言から逃げる選択肢をつぶさないでください。それにさる出版社っていうのは星波が所属している所だろうなあとは見当がついている。
「今回本拠地もろとも崩壊させるのは、講談社です」
「知ってた」
「私としては給料先を無くすのを止めていただきたいのですが」
 あ、また踏まれた。この人には尊厳や羞恥といったものはないのだろうか。さっきから当然とばかりに年下の女性に踏まれる状況に僕は段々と慣れてしまっている。本日四回目のご足でござい。というか部屋の中に入ったとしても僕の視線に入らないようにしてほしい。これでも過去に編集部に入ろうと夢見た人間がいるんだから。編集者は作家には手を出せないという弱肉強食というルールがこんなところにも発生していたとは。いやはや、世界は広い。
「お黙りなさい違和。さて、今回の戦争の勃発ですが、なんと驚くことに上層部の人たちが、私の書いた作品に不適切な表現が含まれているということで却下、もしくはその部分の改変を要求してきた。なので戦争開始です」
「いきなりすぎやしないですかね。具体的にはどんなことを書いたんですか?表現の自由の名のもとに、昨今は結構自由がきくとは思うが」
「それが全然。現大統領の名前を使ってカニバリズムをさせたらダメだって」
 そりゃだめだ。なんで実在の名前を使ったんだよ。適当な名前を使えばいいだろうに。あと、さっきから違和と呼ばれる人がもぞもぞと携帯をいじっていますがそれは無視するんですか?地べたに這いながら携帯画面をいじるってどんな苦境な状況だよ。
「そこで私は言ってやりました。私の新作の登場とこの会社の誹謗中傷、どっちが大事なのよと」
「比べるまでもない、もちろん我が会社の未来、あるいは私の成績ですよ」
 あ、今度は頭を後ろから。鼻骨が曲がっていないといいけれど。
「そう、比べるまでもない。そもそもこういう質問が来た時には、どっちかを選択するんじゃなくて、そんな質問をさせてしまったことに謝罪するのが一番の解決なのに、あいつらは何もわかっちゃいなかった」
「つまり、星波は自分の書いた新作を否定されたから戦争をしようと?」
「そういうこと。もちろん、協力してくれるよね?」
 そんな媚びた表情で言われても。けど、たしかにこれはもちろんな話だ。こんなのさっき星波が言っていた通り、選択するまでもないことだ。
「もちろん、僕は傍観者として、一介の読者として応援しています。応援しますが、作家自身の問題には興味も関心もありません。さっさと新作だせよ」
 僕の、世界にウン千万人もいる読者としてのルール。作者のプライベートにまでつっこまない。あくまで作品のみが読者と作者を繋ぐ仲介物。必要以上に踏み込まない。作者はあくまで想像者。アイドルでも俳優でもない、ただの見えぬ存ぜぬな生き物。それが僕の認識している作家だ。
「新作出すために協力しろって言ってんの。こんな機会滅多にないよー。小説が生まれる瞬間という奇跡が実戦で味わえるんだから」
「一つの作品を出す為に、それ以上の未来ある作品を停止させかねない冒涜には参加しない。部屋に閉じこもってわくせく指を動かせ」
「まあそういうなよ。それでも一度その未来を作っている講談社に戦争を吹っ掛けた本人が何を言って」
 それを人は黒歴史という。黒歴史とは他人に知られていようがいまいが、静かに忘れたふりをしているのが本人も周りの人間も幸せなのだということをなぜ知らない。
「黒逆羽矢。現二十二歳、職業大型書店でのアルバイト」
 すっと、さっきまで横臥していた違和が立ち上がり、スマホに表示されている画面を見ながらそれを読み上げる。
「幼少期から反抗的な性分であり、家出、盗難、強盗など、殺人のような重犯罪は犯してはいないものの警察のデータベースの中では要注意人物候補として登録されている。高校に入学してからはその影はなくなったが大学に入学した途端に、出版業界におけるブラックパーソンとして認識される事件を起こし、現在も行方を捜索中」
「そう、捜索中なんだよ。いやーおどろいたよ。まさか君が平気な顔でその歯向かった相手の陣中で働いていたんだから。内部崩壊を狙っていたのかな?まあ私としては見つけることができて本当に良かったよ」
「味方が出来たって?」
こちらとしては思い出したくもない記憶だ。僕はもう穏やかにのんびりひっそり生きていたいと願うばかりなんだが。
「いんや、いい情報源だと思ったよ。何か実行するにあたって失敗例を参考にするのは成功の秘訣だよ」
「失敗ねぇ。僕はいい社会勉強になったと思ったんだけどね。あの事件というか、あの時起こした行動はいわば運命っていうか、ああなるべくしてなったという感じだ。僕がこうして日々を温厚生活で過ごせるのはあの件があったからとも言る。だから失敗とは違うんだなぁ」
「君がそう思っていてもそれ以外の多くの人間が失敗だったと認識しているよ。だから私はよりグレードアップした方法で講談社をぶっ潰す。だから聞かせて。あの時あの事件の詳細を。紙でも電子でもない。朗読でもネットでもない。新しい本の媒体を作ろうとしたあの事件を。人の中に本を書こうとしたことを」
 こうやって人は過ちを犯すのだろう。間違った行為だからこそ排他され削除され、そして非難されるのに行動する馬鹿がいる。だから世の中から戦争や争いがなくならないんだ。なんて、自分のやった行為がそれだなんて思っちゃいない。そこまで深刻でもなければ重大な出来事でもない、ただの小さな反抗。そんなのが僕の記憶の底にあるというだけの話だ。
 だけど、それでも、誰でもない僕にとっては忘れてはならない、繰り返してはならない歴史だ。



 

 本当、なんなんだろうかこの小説は。この作品を応募したのが講談社の公募してる中の一つであり、そしてその内容は講談社をつぶそうとしている。いや、最後まで読んだけど講談社が無残にも敗北し潰れてしまっている。物理的にも、社会的にも。なんだ、他の会社には出来ないけど講談社にはこういう作品は許されるとでも思っているのだろうか。ケンカを振られているのかもしれない。
 まあ、確かに逸脱した作品じゃないとこの公募では評価されないと思って書いたんだろうが、しかし物事には限度ってやつがある。限度も権利もこっちが好きに決められる。
 これはダメだな。他の人に読ませるまでもなくバツだ。
 既読ボックスにつまれた作品の山に、また紙の束が積まれた。慣れた行為だ。そしてこの紙の行く末が何処にいくかということも知っている。スクラップブッキングにでも使われたら自然的に優しいのかもしれないが、残念ながらこんな文字で埋め尽くされた紙なんぞ使いようもないだろう。
 こんなこと、いつもの日常と大して変わらない。ほんの少しだけ、刺激があっただけだ。
 それだけだ。
 また来た。またもや来てしまった。いや別にくることは構わない。来るもの問わず去るもの知らずがこの部門のモットーなのだし(今適当に俺が作った)どんと来いと言っているようなものだけれど、問題というか俺の心に不思議な抵抗感をさざ波たてているのがこの作者だった。
 また来た。しかも前回の作品から一週間ちょっとで。
 こつは一体普段何をしているのだろうか。どんだけ暇なんだよ。ええっと、職業無職。
無職か。なるほど確かに時間なら膨大にあるな。けどもういっぱしの大人なんだから働けよと思わずにはいられない。まあ作品の最初のページに書いてある一般情報が正しければという前提があるが。
 まあ数打ちゃ当たるという言葉がある通り、多くの作品をよこすのはこちらとしては何の問題もない。むしろ願ったりだ。文字を読むという仕事の大義名分ができるのだから。
 まあ、ただ、あまり突拍子でないものを願うばかりだが。





 タイトル  アリスト

週末の繁華街に歩くのは 名を持たない黒毛の子犬 青年はその子犬に共感を覚える
片足は引きずり顔には傷 遅い歩みでゴミ箱をあさる でてくるはプラスチックのごみ
子犬は右手でそれをかき分ける 青年はその光景を見る 探しているのはなんだい
犬は変わらず足を動かす 同じ場所を何度も何度も そのうちその頭がゴミにうずまった




 俺は嫌な予感がして、そっとこれを見えないように伏せた。こいつは応募する場所を間違えたのではないだろうか。そうとしか思えない内容だ。
 改めて手元の紙束を表返し、適当にパラパラとめくってみる。今の俺にこれを読む気は全くない。
 同じだ。最初と同じようなテンポの書き方でずっと続いている。こんなものを読まないといけないのだろうか。いっそ他に、そうだいつも暇そうなあいつにでも投げてしまおうか。しかしそれだと俺が職務を放棄したと思われかねない。そう思われても仕方がないし、実際そうなのだが、結果、俺は醜聞を嫌いこれを最後まで全うするしかない。はあ、面倒だ。
 いつもはしないが、今回ばかりはあらすじを読むしかない。こんなの丁寧に最後まで読んでいられるか。もしばれても、とても小説には出来ないという理由で周りには納得してもらおう。
 ええっと、犬と青年が出会い、しばらくはお互いに食べ物を分けたりして関係を深める。ある日青年は突如として果才党に連れられた。犬は青年を助けようとし青年を追いかけて果才党の研究施設である建物に侵入する。そこでは数多くの動物実験が行われていた。犬はそこで、青年もそこの実験体であり逃げ出した登録ナンバー一一八という事を知る。犬は果才党に捕まるが、その建物で反乱を企てていた実験体である八二に助けられる。犬は八二に協力することを条件とし、共に青年を助けようとする。犬は青年の場所をくまなく探し、ついに青年がいる部屋を突き止めた。しかしその部屋に入ると青年の姿はどこにもなく、ただ青年が来ていた衣服が落ちていただけだった。犬は、青年がすでに殺されたと思い、八二と協力して果才党の研究施設を破壊しつくす。そのあと、犬はいつの間にか自分が人間の体になっていることを自覚する。

 は?これで終わり?なんだか釈然としない終わり方だな。しかも最後の犬が人間になったくだりが全く説明されていない。読めってか。はっ、誰がそんな時間だけがとられることをするもんかよ。
 まあ、大体わかった。やっぱりこれは小説にするまでもなく、それ以下に会議に出すまでもない作品だ。奇をてらった感じがするが、それまでの作品だ。残念ながら小説家の道はそう簡単には手に入らないのだよ若者よ。
 最後まで読まなかった心残りこそあるが、それ以上に徒労になる時間が惜しい。ならそんな心残りなんぞすぐに忘れるだろう。忘れるならどうでもいい。どうでもいいから忘れる。
 定位置に置いてあるボックスにこの詩とも歌詞とも分からない文字の色調の紙束を投げ入れる。パサッという音が気持ちいい。これでまた仕事が一つ終わった音だ。さて、一息でも入れにいくとするか。無理をせずやや負担がかかる程度で休みのが仕事を続かせるコツだ。

「よっ、お疲れ様」
「部長。お疲れ様です。珍しいですね部長がここにいらっしゃるなんて。いつも机で寝ているじゃないですか」
「その言い方だと僕がさぼっているみたいだね。まあたまには色んな場所に行くのも風流かなって」
「風流ですか。使い方あってましたっけ?」
「さあ?なんとなく出た言葉だからそんなに気しない気にしない」
「気にしましょうよ。これでも仕事のひとつに校正があるんですから」
「あはは、まあ休んでいる時ぐらいいいじゃないか。…ところで君は窃盗なんてしていないよね?」
「窃盗?どこの、何をですか?もっと具体的に言ってもらわないと分かりませんよ。俺はそこまで頭の回転が早い方じゃないんですから」
「僕たちの部署に届いた作品の窃盗。まだ誰も読んでいない作品ならいくらでも使い道があるからね」
「もしかして俺が何かの作品を盗んだって言うんですか?これって聞き取り調査ですか?いつからこの休憩所は取調室に変わったのやら」
「いやいや、長年勤めている君を疑ってなんていないよ。というか君にはそんな何かを盗む必要なんてないだろう?才能が枯渇なんてでもない限り、ね。まあこれは一応の釘刺しってことで。他の会社で本当に窃盗があったから、わが社では絶対にそんなことが起きないようにって上層部から警告が出ているんだよ」
「へぇー。退屈な人もいるもんですね。もっと有意義に過ごせばいいのに」
「本当にね。ま、君からも他の人に伝えといてよ。そうしてくれたら僕の労働が減って幸せが転がってくるよ」
「へいへい。分かりましたよ。機会があれば言っておきます」
「うん。じゃ、頼んだよ」
「………………………………………………狸が」

 
 うん分かっている。もう最初の一文で把握した。例のあいつだ。また一週間足らずで送ってきやがった。というかなんで俺ばっかの所に来るんだよ。三度目にもなるともう運命すら感じてくるな。はっ、いらねぇ、なんなら美麗な恋人との出会いの方が欲しいくらいだ。       
 しかしこいつも根性というか根気あるよなぁ。よくこんだけ書くものだと感心すら覚える。やっぱり内容はまた変(変と言ったらこの部署に集まってくるどの作品も変で奇抜だが)に決まっている。だが人という生物は慣れる生き物。俺はだんだんとこいつの作品に慣れが始まっている感覚が浸透している。
 もう前回みたいな作品を読み飛ばすといったあるまじき行為はしない。ま、そうそう俺が目を背けたくなるようなものなんてないだろうけどな。

 


 タイトル  クビキリリンネ

 4
 鴉の濡れ羽島での生活ももう何日目になったのか分からなくなった。しかし唯一言えることは最近この島で起きた事件から一つばかしお月様が空を過ぎたという事だけは本当だ。いくら私が日付や時間を無視し呑気な生活を謳歌していようとそれくらい把握する脳機能は失っていない。
 事件とはクビキリ事件。フィクションもビックリな肩からざっくりな死体が発生する事態が、この一見平穏だった島で起きてしまった。今は青ちゃんとロり好きな青年が色々と動いているし、赤神イリアさんの話によるよあと六日後、いや五日後にこの島に名探偵様がくると言っている。なら私がこの場をわざわざかき乱すようなことをするのはよろしくないだろう。むしろ迷惑?邪魔?厄介?な私は大人しく部屋で高みの見物というか雑多の見物と洒落こもうかとずっと部屋にこもっている。正直佐代野さんの料理を口にできないのは瞬間の圧倒的な損失だが、今彼女の精神状態は料理どころではない。なら我慢するしかない。
 私が私の為に用意された部屋で大人しく本来の仕事で使う器具を丁寧に布で誇りを拭き、傷がないかを確かめながら、もう何度したか忘れてしまったメンテンナンスを行っている最中に、部屋にノックの音が響いた。
「はい、空いていいるよ」
「失礼します。あら、お仕事の最中でしたか。ご迷惑でしたか?」
「おや、赤神さんではないですか。いえいえ丁度暇を持て余していたところですよ。こうしてわざわざ私の部屋に来ていただけるとは、何かあったんですか?」
「いえ、今私達はとても楽しい愉しい最中ではありませんか。あの二人もああして動いているようですし、私はとても楽しんでいます。まあ、あかりやひかりは参っているようですし、てる子はいつもと変わらず無表情ですけど。しかしあなたはこうしてあの人が死んでからはずっと部屋に引きこもっています。やはりそれは恐怖からくる行動なのでしょうか?あなたを呼んだ私としては申し訳ないという気持ちもないこともありませんが、折角このような場なのですからあなたにも動いていただけたらなと、こうして伺いました」
「へぇ。てっきり赤神さんは探偵役としていたいと思っていましたよ。数日後にこの島に来るという名探偵様に自分の推理が当たっているかどうかの判定をしてもらうつもりなんだと。意外だなぁ」
「これでも罪悪感というのも持ち合わせています。佐代野さんにも申し訳ないとおもっています。彼女の料理が食べれなくなるとこんなにも世界が味気なくなるものだとは思いもしませんでした」
「まあそうでしょうね。彼女の料理はどれも一級品だ。けど解決を願っているなら姫菜さんにでも頼めばいいじゃないですか。彼女、高いらしいですけど」
「姫菜さんは多分動かないと思います。それに勘違いです。私は別に解決を望んでいるわけではありません。だって哀川さんが来てくれますから。私いいましたよね?完膚なきまでに解決してくれると思っている、と」
 たしかそんなことを言っていたような気がする。まあ私にはどうでもいい事なんだけれども。誰がこの事件を解決しようが、誰が犯人であろうが。少なくとも私はこの件には全くの無関係だ。登場する機会もないほどに。
「私があなたに会いに来たのは、折角なのであなたも推理してみませんかというお誘いです。折角この島に招待したというのにご活躍が一向にみれないんですもの」
「私の本職は人に見せるような派手さはないのでね。知っての通り。それに私は無関心な人間だ。なら大人しくこうして部屋で嵐が過ぎるのを待つのが、私の流儀なもんでしてね」
「そうですか。まあ無理強いはしませんし、できません。あとでひかりに夕食を持ってこさせます。……それではごゆるりと」
 そういって赤神さんは姿を消した。扉を開けたまま一歩もこの部屋に入ることも無く。
 しばらくの間、カチャカチャと金属のぶつかり合う音が鳴る。私は一心にその自分がしている作業を己の眼で観察し、景色を眺める。自分がしている作業なのに、まるで他人がしているかのような錯覚にはまる。
 カチャカチャ、カチャカチャ。
 …………。よし、動くか。
 私は、誰かに指図されたわけでも、命令でもお願いでもされてはいなかったけれど、自然とこの体は立ち上がり、軽い身である場所に向かった。真っ赤な絨毯の上を歩き、螺旋階段で一階におりて屋敷を出る。
 そのままぐるっととてつもなく広い屋敷の周囲を回り、裏側へと到達する。当然、そこには誰もいない。あるのは土と樹と生命を無くした肉塊があるだけだろう。
 話に聞いていた通りに、その場所は若干盛り上がっていた。私は靴で蹴り飛ばすように上に被せてある土をどかす。死者をいたむ気持ちなど皆無。ただ手を汚すのを嫌い、足を動かす。
 しばらくすると、下にオレンジ色の寝袋が見えた。これがある種の、この場でできる最高の棺桶なのかもしれないな。なんて思いながら顔の部分を開ける。
 赤黒く変色した血と土が少し混ざっている。私はさっきとは違い手が汚れるのを気にせずにその死体を寝袋から上半身だけ取り出す。
 肩から上は存在せず、元々そこにあったであろう物は死体の両手に抱えられていた。一般的には可愛いやら美少女と表現するのであろうその顔は、赤い塗料で彩られていた。
「さて、これは一体どういったことになったいるのやら。私が知らない間に何か進展があったのかな?事件がより複雑に進行しちゃったのかな?」
 顔の下に伸びている華奢な首よりも長い髪を携えたその頭部を宝物のように大事に抱えていたのは、どこから見ても男性の体だった。
 どの角度から眺めても頭と胴体の切断面が合わないし、肌の色も違っている。
 今この屋敷で認識されている死体は一つのはずだし、神隠しなんていう行方不明者も発生していない。
 はて、じゃあこの胴体は一体誰のものだ?




 ついにやりやがったこいつ。確実にこいつは西尾さん好きだろう。だからこんなパラレルワールドな世界を描こうと思ったんだろう。しかし没。文句なしに没でございます。残念だがこういうパターンはこれまでにもいくつか送られて来てんだよ。そしてその対応も既に決定済みだ。
 容赦なく不採用。応募者には悪いけどこういう形で小説家デビューさせることは出来ないゴメンネということになっている。とは言っているが俺たち編集部の間では考えは同じだ。
 身の程を考えぬ愚か者よ、諦めなさい。その道ではあなたは成功しません。
 まるで神からの洗礼のような言葉になったが、しかし真である。結局のところ、作家というのは自分で一から考えなければ生き残ってはいけない世界だ。それは今まで何人もの担当をしてきたから分かることだ。じゃあそのことをホームページにでも書いておけよという懇願もあるだろうが、そこまで俺たちは優しくはないし暇でもない。
 努力は認めよう。しかしその方向は間違っている。なんなら優しい言葉でも囁いておいてやるか。聞こえや伝わりはしないけど。
 才能はあるよ。けどこのままじゃいけないよ。
 なんて罪づくりなセリフだ。重さも慎重さもあったもんじゃない言葉だ。なんて、言っても思っても仕方がないことか。
 俺はまた執念深く送られてきた作品を、少しずつ厚みが増している山の上に放り投げた。ぱさっと半分だけが重なり、もう半部分の紙が重力に負けて下に垂れる。
 ふん。めんど。
 机に置いてあるコーヒーに手がぶつからないように注意して立ち上がり、はみ出た分を山に綺麗に重なるようにする。これで長方形の山が再び再現された。さっきまでの頂上が歪な山ではない。
 その際、何か小説とは関係ない文字が読めた気がしたが、結局は気の迷い、俺はそんなことはすぐに忘れ、次の作業に集中することにした。

「あっ、お疲れ様です」
「…お疲れ。休憩?」
「はい先ほど部長から行っていいと言われました」
「ふぅん、真面目だねぇ。言われる前でも疲れたら適当に休んでいていいのに。ほんと、新人ってのは素直だなぁ。あっ、こういうのは嫌いなんだっけ?」
「いえ、新人というのは事実ですから。まだこの部署に来てから半年ですから、僕なんてまだまだです。今まで仕事が進んでいるのはひとえに周りの皆さんのご協力があってこそです。勿論先輩も」
「いや、別に俺は何もしちゃいないよ。ほんと、最低限の事しか教えていないしね。……そうだ、君はもう応募作品を読んでいるんだっけ?」
「はい。けどまだ読み終わったら葉脊先輩に確認してもらっていますが。やっぱり面白い作品が沢山ですよね。もちろん読みずらかったり間違いも沢山あって、まさに新人の作品ってばかりですけど、こんなに様々なものを読めてすっごく幸せです」
「ふぅん、幸せねぇ。……ねえ、君はどうして編集者になろうと思ったの?そんなに小説が好きなら作家でも専属のサポーターでも評論家としてでも、いくらでも小説にかかわることが出来るのに」
「やだなぁ、そんなの決まっているじゃないですか。憧れの作家さんの担当になりたかったからですよ。ほら、僕は基本読むことしか能がない人間なので小説を書くってことは難易度が高い。評論家はなんだかいけ好かない感じがしていまして。まあこれは個人の感覚なんですけど。専属は流石に狭き門ですよ。そうなると好きな作家の人に出会える可能性が一番のが編集者だった。それだけです。半年程度しか経験していませんが、結構すきですよ、この仕事。やりがいも感じますし」
「やりがいねぇ。そりゃ随分とすごいことで。俺なんかまだやりがいを感じるほどの領域に達してしないからなぁ」
「それこそ先輩はどうして編集者という仕事をされているんですか?部長に聞きましたよ。なんでも、ここで勤め始める前には作家を目指していたそうで」
「まあよくある話だよ。小説家を目指して、自分の実力を見限って諦めて、けど変に負けん気がこびりついていて。どうしようもなくなって他の道を探したら、この仕事を取ることにした。それだけ」
「まあ誰でも一度は小説家になりたいと思っちゃいますよね。僕は一つの作品すら書かずに諦めちゃった口ですけど、その点先輩は何度も何作品も応募されていたんですよね。いやー凄いなぁ凄いですよ」
「……俺この後会議の資料作らないといけないからもう行くわ。まあ体を壊さない程度にやってね。別段ブラック会社ってわけでもないんだし、寝不足なんかでつまらないミスをされるのは勘弁だ」
「肝に銘じておきます。先輩も、その眉間の皺がどうにか和らぐといいですね」
「君はたまに人の心をえぐるよね。…まあいいけど。ご忠告どうも」

 一休みどころか、精神世界に異物を放り込まれた感覚を味わう事になろうとは。
 皆純粋だなぁ。俺がもうすでにドロドロの不純物な生き物のような言い方になってしまった。俺にもあんな時期があったっけか。どうだかな。
 さて切り替えよう。今日の優先事項の仕事はさっき終わった。誰が言い始めたのか、会議では音声録音が定番になっており、あとでそれを文字に置き換える作業がある。今回は俺にその担当が指名されていた。面倒なことだ。こんなの手間でしかないと思うのは俺だけだろうか。いっそ自動的に声を文字に変換するAIでも作ってくれればいいのにと思うが、まだまだAIが人に置き換わるのは遠い未来のようだ。
 時間が余ると、いつも決まってまた応募審査されに投函された紙束を読む。最初は一ヵ所に集められたその作品たちを、適当な数をまとめて自分の机の上に置く。今の俺だと一時間もあれば一つの小説を読める程度の読書スピードだ。本当ならもっと時間をかけて精査して読むべきなのだろうが、嬉しいことにか、後で全部の作品を丁寧に読む猛者がこの部署にはいる。だから俺一人が適当に逃した作品があろうと、面白い作品、目に留まるような作品なら必ずそいつが上に報告するだろう。だから俺は気楽にこの作業に取り組むことができる。ま、これこそ社会手抜きを具現化しているんだろうけど。そのことに俺の心は痛んで、いやしない。別段、俺の心はそこまで軟弱もとい生真面目な装置ではないため、気楽に愚鈍に、見て見ぬふりで稼働していく。
 一作目を読み終わり、二作目をお気に入りのレモネードを飲みながら楽しみ、三作目を手に取ると、そこで俺の手は止まった。手、というか思考が稼働部分が瞬時に錆ついて動かなくなってしまった。
 その第一枚目には、見慣れた文字の羅列が並んでいた。俺の記憶領域が、これを見た回数が四回目ですと報告してくる。言われなくてもわかってるよ。自分で自分に対して突っ込みを入れ始めたら孤独の末期症状かもしれない。
 すぅーー、はぁーーー。
 大きく一つばかりの呼吸をして肺と脳に酸素を送る。なぜ俺はこいつにここまで過剰反応しているのか。適当に、ああ、ああ、頑張ってるねその調子で何度もリトライしてねとか独り言で言ってればいいのに、どうしてか俺はそれができない。適当に無視がこいつに対して、こいつが書いて送ってくる作品に対して出来ない。
 ああ、わかってるよ。そんなにワカラナイふりをしたって、結局逃げているって言うんだろ?解ってるよ。分かってる。でも、認めれねぇんだよ。俺だけは俺の味方でいろよな。ったく。
 ……よし、準備完了。どっからでもかかってこいやー。




 タイトル  彼女の瞳は俺の眼光

   3
 落ち着け落ち着け落ち着け俺。いつもの事じゃないかそうこんなのはいつものことだ。もう何度も体験経験経過したことだ。大丈夫今回もきっと大丈夫だ。はずだ。…そうだこんな時こそ筋トレの出番じゃないか。よしならさっそくとりかかろう。準備なんていらない。というかそんなことをしていると俺の精神の別人格が何をするかわかったものじゃない。さっと床に両手をつけて、額を床とくっつくまでの腕立て伏せ。いち、に、さん、し。まだだ。もっとスピードを上げないと。でないとどうしても不必要な悪い妄想がとまらない。追い出すんだ。ごじゅうなな、ごじゅうはち、…ごじゅうきゅう…。段々と腕に力が入らなくなってくる。そろそろ腕さんの限界か。しかし俺の頭の中にいるもう一人はまだ俺に対する囁きを止めようとしない。『おい何やってんだよ。こんなところで何をやってんだって。いいのか?お前にとって大事な大切な、それ以上に俺にとって生きがい以上の存在である瞳が一人でいるんだぞ?俺にとってはお前にとっての、お前にとっては俺にとっての存在だ。俺が瞳を追いかけたいと切実に思うこの狂おしいほどの願望は、お前にも感じているはずだぜ』うっさい。そんなのとっくの昔から自覚してるよ。今更いわれるまでもない。だけど、だけど瞳が、本人が一人で行くと、行きたいと言ったんだ。願ったんだ。知ってるだろ?瞳は俺がいなくても俺以上に一人前な人だ。そんな瞳が行くと言ったなら、俺は例え見えないとしても笑顔で送り出さなければいけない。そうだろ?『そうだろ、というのならお前は、そう、出来てんのかよ。俺との対話ぐらい本音で話そうぜ。追いかけたいんだろうがよ。本当は。目が見えない瞳のそばに駆け寄って、大丈夫か?転んだりしていないか?誰か無神経な奴が近づいてこなかったか?って言いたいんじゃないのか?』本音ならずっと言ってるだろうが。瞳が一人で行くと言ったから、俺はその言葉を信頼して待つ。これが俺の本音だ。『だろうぜ。けど、さっきの俺が言ったことも本音も本音だ。別の分岐でもいいんじゃないか?こうして素直に部屋で待ってる必要もないだろう。こっそり瞳の後を遠くから追って、いや、音さえ出さなければいっそ真後ろについて行くってのもありだな。当然風下に立たないといけないがな』そんなのはダメだ。ダメだダメだ。瞳を信じているんだ。そんなことは出来ない。見える見えない、バレるバレないの問題じゃないんだ。もう俺は瞳を失望させたくない。もうあの時のようなことは絶対に繰り返してはいけないんだ。『はっは!なら当然として瞳を追いかける必要がでてくるよなぁ、ああ?想像してみろよ。もし瞳が誰か知らないナンパ野郎が瞳に声をかけてきたらどうだ?』うるさい。『もし瞳が信号音を聞き取れずに車にはねられたらどうだ?』うるさい五月蝿い『もし彼女の目の前で救えない命が消えたらどうだ?彼女の心は無事かな?』うるさい五月蝿いウルサイ!んなのわかってんだよ!けど俺はここで待たなきゃいけない。それが瞳にできる最善の贖罪なんだ。『はっ!贖罪だぁ?笑わせんなよ。お前が何を犠牲にしているってんだよ。ふざけるのも大概にしろよ?お前はいつもいつも、瞳の為だとか言って思って行動していても、結局は自分の為だろうがよ。別に、お前を責めちゃいるがそれがおかしいとは思わないぜ。人間なんてもんは、というか生物というもんは突き詰めると本能にいつも支配されてんだ。生きたい、食べたい、遺伝子を遺したい。それに付随する様々な欲求は、結局は自分の為になっちまう。いい加減認めろよ。俺でさえもう諦めたことだ。自分を恥じて生きようぜ、俺』……それでも、例え俺が理屈も屁理屈も理解していようとも、俺は人間だ。人間なんだ。哀れで愚かで身の程知らずで自分勝手。そしてそれ以上に考えて生きてはいない生き物だ。他の生物より脳が発達していようとも、何も考えちゃいない。だから俺はここで瞳を待つ。考えたからじゃなくて、感じたから。待つ事が瞳の為だって感じたから。『はっ、どこぞの作り物の主人公みたいなことをいいやがって。けどまあいいさ。ならお前は力尽きるまでせいぜい体をいたぶるんだな。頭がいくら働いても、俺がいくら話しかけようとも、体が動かないんじゃどうしようもないしな』…そうさせてもらうさ。

「ただいまー、帰ったよー。……うわっ汗臭っ。…おーい、生きてる?」
「…生きてます。もしよろしければお水をお恵みくださらないでしょうか。このような地に臥せっているままの状態で大変不躾ではございますが」
「ははぁー、ありがたく奉り候。っていうか毎度のことだけどね。今日は何をしてたの?」
「筋トレ。腕立てとスクワット。ぶちぶち血管から音が鳴るまでやってた。なんと無料でご利用いただけますわよお客様」
「うわーお、そりゃあ安上がりだあ。ちゃんと後で消臭しといてよね。この部屋のままなんて御免だから」
「あと二時間ほど休ませてください、というか少なくとも今は全然体が動きません」
 奥の方で水道から水が流れる音が聞こえる。そのあと、期待していたのとは違い、ごくごくと気持ちよさげにのど越しの音が部屋で響く。静かだ。もう夜の十時くらいだもんな。お日様もとっくの前に就寝だ。
「…っぷはぁーー!やっぱり水は人類の救世主だよね。これで何人の命が救われたか」
「おい、もしかして水道水をそのまま飲んだのか?だめだっていつも言っているだろ。たとえ日本の水道水が飲めるとは言ってもトリハロメタン、塩素が含まれているから」
「はいはいはいはい。顔面からうつ伏って寝ている人には主導権はありません。今この瞬間の主導権は、この私です」
 見えないけど、仁王立ちしているイメージが俺の脳に流れてきた。ちなみに両手は腰と俺を指している。女王様だ。
 コップがテーブルの上に置かれる音が鳴る。そこまで動けってか。さすが女王。厳しい。 顔がぐりんと力強く横に向けられ、初めて瞳の顔を六時間ぶりに拝顔することが出来た。
そのまま瞳はその口に入っている液体を俺の口の中に入れてくる。接吻ともいう。瞳の口の中で暖められた水道水は苦くて甘い味がした。うん、美味しい。また水道水は俺という一人の人間の命を救った。
「よく耐えました。良い子で待っててくれたね。頭を撫でる代わりに別の部分を優しく触ってみました。犬みたいで嫌だった?」
「いや、最高に最善の躾だ。もうこのまま犬でいいと思っちゃった」
「思わないでよ。こんなずっと寝ているばかりの穐なんてそこらへんに置いてくるから」
 それは…嫌だな。……嫌だなぁ。
「うん、大丈夫。今だけはいつもの俺の一パーセントですから。きっとすぐにいつもの百パーセントの俺が戻ってくるので、それまで待っていてください」
「うん、信じてる。今はゆっくり私の膝の上で寝ているといいよ」
 むっちりと柔らかいものが頭の下に存在する。目を開けると瞳の眼と俺の目が混ざり合う。
 彼女の眼には、俺は映ってはいない。何も、あるのは暗闇だけだろう。もしかしたらその暗闇さえも見えていないのかもしれない。瞳が見ているものは、瞳にしか見えない。それでいいと思う。けどこの世界は見えない。なら、俺はどこまでも瞳の眼になろう。ありきたりかもしれないけど、他に方法がない一方通行だろうとも、俺はこの選択を喜んで悦に浸りながら、そして自己嫌悪と罪悪感を携えて瞳の側にいよう。いや、いたいと願っている。
 儚い願望だ。まるで子供の壮大な夢物語のような話。いつかは諦めることを知っているのに、周りの人間も周知している事実を、それでも諦めきれない頑固な子供だ。
 それでいいさ。いつだって人間は自己中心的な生き物だ。そんな生き方の中で、偶然だろうと必然であろうと、十分条件でも必要条件でも、通りがかったその先で、他人を幸せにすることができたならどれだけ素晴らしいだろう。
 俺は、神に祈ってでも悪魔に魂をささげようとも死神に寿命を刈り取られようとも、瞳の助けになりたい。
 そう、努力するじぶんでいたい。
 そう、願っている。
 





 予想外に今回の小説はいたって普通の作品だった。まあ、内容は変わっているとはいえるが、それでも今までに送られてきたものと比べると随分と丸くなったというか落ち着いたというか。そんな印象だった。
 それでも、俺は最後まで読むことが出来なかった。出来ずに、またあの山が少し高くなっただけだ。 
 ……………………………………………………………………………………………よし、行くか。
 同じ内容で送られてきた応募作品の第一枚目に書かれた、作者の住所を読む。

 箱加病院 第315号室
 
 とても住所としてふさわしいかは怪しい、というか明らかに規則違反ではある。しかしそんなことはどうでもいいことだ。創作物は、人が作り出すものは場所選ばす。どこかの偉い人が言っていそうな言葉だが、真だろう。
 俺は部長に早退を願い、今日はもう休むことを申し出た。なに、今日中にすべき仕事はもう済んでいる。会社に残っても椅子をくるくると回すしか時間をつぶす方法はない。なら、いっそ外に出かけたほうがよっぽど有意義ってもんだ。
 人混みに紛れての電車で約四十分。人混みっていう言葉はいい。人の後にゴミと言うんだから。もしこの世界に神様ってやつがいるとしたら、俺たち人間はまさに塵にしか見えないだろう。人間誰もが他人を塵と思っているように。そういえばあいつの作品にも、確かそういうことが書いてあったような気がする。どうだったかな。
 俺は今から、会いに行こうとしている。例の作品を書いた人物に。そもそもとして、俺のような編集部がまだ会議に通していない作品の作者に直接会ったり連絡を取ることは禁じられている。部長からきつく言われている、というほどでもなく実際は暗黙の了解程度の規則ではある。そりゃそうだ。誰もが、いちいち応募してきた作者に会いに行くような暇などない。社会人は皆時間をつぶすことに忙しいのだ。誰とも知らない人物に会いに行くような無意味なことをしようとはしない。しかし俺はそれを実行しようとしている。というかすでに行動に移している。
 そういえば、例のあいつがいるのは病院の部屋だったな。そこを住所の欄に書くなんて変わってるな、と思えばいいのか。それとも生涯そこだけが居場所だったのか。ポジティブにもネガティブにも受け取れるが、どっちにしても今から向かうのは変わらない。なら手土産の一つでも持って行った方がいいのかもしれない。
 俺は病院の最寄りの駅で降り、近くにあったケーキ屋に寄って手ごろなものを買った。会計千六十円なり。こんな、ものの十分で食べ終わりそうなものと、何日何カ月もかかって書かれた小説と同価値だなんてな。やっぱり世界はおかしいぜと思うその俺の頭こそおかしいのだろう。所詮、独りの大人の小言でしかないのだけども。
 ペンネーム、 鬼腑沽
 本名      址柿華貴  
 年齢      二十二歳
 性別      男
 職業      無職
 住所      箱加病院 第315号室
 人生で最も影響を受けた小説
         人はしにしずむ
 基本、俺は人とは接しない方の人間だ。だというのに、こいして前情報をしっていると、その人物が一体どんな人物なのか気にしたり予想したりして結構一人で楽しんだりするような癖がある。全く、人に会いたいのか会いたくないのかはっきりしない趣味だ。
 いざ病院の前まで来ると、不思議と俺の足はとまる。このまま日光の下にいることでケーキのクリームが溶け、俺の肌に着々と取り除くことが出来ない紫外線が溜まるというのに、何故か俺は人通りの邪魔にならないようにと門の端に体重を乗せて立ったまま動けなかった。
 おいおいどうしたよ。まさか年下の素人人間に会うというだけで緊張しちゃってるのか?それとも今更、部署内の暗黙の了解を破ることに戸惑いを隠せないってか?はっ、どうかしている。
 どうかしているというのなら、ここに来ること自体がどうかしてるというのに。来た理由ははっきりしている。結局人は自分の為でしか行動出来ないというのであれば、まさに今俺がこうしてこの病院の前まで来たことがその証拠だ。問い詰めることも準備完了。何度も脳内でその光景を想像した。
 だのに俺はこうしてその一歩が踏み出せないでいた。…………
「あの、大丈夫ですか?もしかして熱中症でしょうか?歩けないのでしたら肩を貸しますよ」
 ふと下に下がっていた視線を前にやると、上に白衣を着た男性が立っていた。その白衣に『医師 玉利妙雅』というネームプレートが付いている。この病院に勤めている先生さまだろう。
「いや、大丈夫。ちょっと、人に会うのに緊張しちゃって」
「ああ、気にしないでください。よくありますそういうことは。事故にあった直後の人に会うのって結構決意ってものがいるらしいですから。もしよろしければ目的の人までの部屋まで案内しますよ?丁度休憩時間ですし」
 情けないというのならまさにこの状況なのだろう。こうして人の助けがなければ、こうして声をかけてもらえるのを心のどこかで待っていたのかもしれない。本当に、情けない。
「じゃ、お願いしようかな。ええっと、…315号室の址柿という人に会いに来たんだが」
「ああ!あの址柿君に!それは意外でした。ああ、いや失礼。まさか彼に会いに来てくれる人がいるとは驚きでして。彼、ずっと待っていますよ。直ぐに行きましょう。きっと喜びますよ、彼」
 いきなり驚いたり喜んだり、病院の先生ってやつは冷静な人ばかりだという偏見を少し変更しないといけないかもしれない。けど、暗いよりは断然そっちの方がいいのだろう。医者というのは、病人にとっての希望の一つなのだから。暗いより、明るい光のほうがいいに決まっている。
「病院の先生ってのは親切ですね」
「いえいえ。結構危ない人もいるもんですよ。患者の為にって悪事の一つや二つする人もいる世界ですから」
 それは物騒な世界だ。でも他人の為なら救われる気がするのはおれだけだろうか。
 彼、もとい玉利という医師に大人しくついて行く。途中で松葉杖を持った患者が歩いていたり、包帯が五体と首にまで巻かれた人を見るたびに、実際ここがまさしく病院だという事を実感させられる。当然だ。どこかで冗談の情報を掴まされたんじゃないかと危惧、もとい希望的観測なことを考えたが、こうして案内されているということでその可能性は消えた。
「さ、着きましたよ。この部屋には彼しかいないので誰かと間違うことはないと思います。心の準備は大丈夫ですか?」
 なぜ面会ごときで心配されないといけないのかと思ったが、そもそも俺があんな外で怖気づいてなかったら声をかけられることも無かったことを思い出した。心から目の前にいる親切な医師に感謝を。
「ええ。ここまでありがとうございます」
「いえいえ。人を助けてこその医者ですから。縁があれば、また」
 キザっぽいというのだろう、どこかのキャラが言うようなセリフを残して去って行ってしまった。この後はまた赤の他人の傷を治す仕事に取り掛かるのだろう。ご執心なことだ。義務とも言うのかもしれないが。
 しかしここまで来たからにはもう後戻りも停滞もできない。扉の目の前でずっと立っているとまたどこかの親切心を発揮したお人よしに声をかけられるのがオチだ。
 決するほど持っているわけじゃないが、意を決して扉を開ける。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
 白のベッドに座ったまま、彼はずっと同じ姿勢でノートに何かを書いていた。俺が扉を開けた音が聞こえたはずだろうに、こっちを見ようともせず、視線は常にその動いている自身の指の先を見ていた。
 俺は訪問者ように用意されているパイプ椅子に座り、カバンに入れてきた会議用の資料を読み始めた。
「……………………………………………………………………………………………………」
「……………………………………………………………………………………………………」
 しばらく無言の時間が過ぎたが、太陽が山に半分ほど隠れたあたりで、彼は
「ふぅ、つーかれたーーぁあっ!」 
 バスンとベッドに勢いよく背中から倒れた。数瞬の間、目を瞑ったまま動かなかったが、「で、どこのどちら様?いきなり入ってくるなり我関せずを貫いちゃって。そんなにその紙に書いてあることが面白いの?楽しいの?それはよかったね。けどそこにずっといられるとさ、この後に控えている夕食という一日の幸せの瞬間を謳歌できないんだよね。で、誰?」
 生意気だ。最初、彼、址柿の第一印象は大人しめの青年という感じだったが、ひとたびその口が開くと第二印象が急下落した。印象は大事にしないと。
「さぁ。誰だと思う?」
「あっ、質問を質問で返したらいけないって教わりませんでしたか?」
 なぜか彼は楽しそうに笑った。俺にはその感覚は分からない。
「というか全然心当たりがないんですけど。本当にどこのどちら様?僕に知り合いや友達、自慢じゃないですけど両親もいないですからね。まさか僕を引き取りに来た、遠い親戚の人とか?」
「ハズレ。全くのはずれだ。ええっと、あ、名刺忘れた。まぁいいや。俺はまあなんだ。ある会社で編集部として働いているいち会社員だ」
 いつもは忘れた時用に上着のポケットに一枚だけいれているが、それすらも忘れて仕またようだ。
「えっ!まさか直接来てくれるもんなんですか⁉なんて、僕の作品が受賞するとは思いませんけども。っていうかしちゃったら大問題でしょうけども。で、そのあのあれの、もしかしての、僕の応募した作品を読んでくださった人ですか?」
「……まあ、あたりかな。そ、址柿君。君の作品を呼んだよ、俺は」
「はは、それはそれは、こんな遠方にようこそ。って僕の家でもなければ住所でもないんですけど。でもよくあれに書いていた住所を信じましたね。ちょっとびっくりです。で、どうでしたどうでした?まあ初心者でしかない僕が書いた作品の評価を頂けるなんて悍ましいかもしれませんけど。最初は、えー、そう確か 青年の野次馬は走らない ってタイトルで送ったと覚えがありますが」
 いきなり青年はまくし立てるように話し始めた。楽しそうに。そんなに刺激のない生活を送っているのだろうか。ぱっと見た感じ、彼の足や体には異常に見えるところは見当たらない。これこそ素人の判断でしかないけど。
「別に正直に感想を言ってもいいけれど、別に受賞したとか、そんな嬉しい報告をしに来たわけじゃないから。期待していないかもだが」
「なぁんだ。ちょっとは期待していたんですけどねぇ。本当は。まあ仕方がない。?だとすると、いよいよ本当に何をしに来たんですか?まさか努力賞とかあるわけでもないですし」
「あったら俺らの仕事が増えるからな。それは御免だ。…君の所に来たのは、質問したかったから来たんだ。電話で話してもよかったけど、俺は実際に会って話すのが好きでね。だから来た」
 嘘だ。実際に会うのなんて面倒でしかないが、ここは適当に言っておくことにした。
「ほうほう。いいですよ。何でも聞いてください。答えられることならなんでも答えちゃいますよ。好きな女優から嫌いな芸能人、泣いた音楽から何度も見た映画まで、何なりと」
「……君は、さ。どうして最後を書かないの?あれだけ書くスピードが速いなら時間が無いとかの問題はないと思う。つまらなくっても最後まで書いたらいいのに。というか、書けるよね。だってあらすじには最後の展開をかいているんだから。なのにどうして今まで送ってきた作品全部書ききっていない、完成していないものばかりなんだ?それを聞くためにここまで来た」
 彼は不思議そうな顔をして
「だって最後まで書いたら完成しちゃうじゃないですか。途中で修正しようが、展開を書き直そうが、その作品はそれで完成してしまう。それはいけない。それは僕の求めている形じゃない。僕は僕だけが書いた、作った作品には価値なんてないと思っている。なら、完成させないで、未完成のままの方が、終わりを一緒に作れる。知ってます?人って何かを創るときは、最後の部分を曖昧にした方がよりいい作品になるそうですよ。レオナルドしかりキング牧師しかり」
「君は、小説家になりたいの?」
「…うーん、通過点としてはそうですね。目標の一つではあります。けど、それじゃあつまらない。それはもう溢れている事実です。僕は結構反抗心が強くて、どうにも他人と同じことをするのが嫌いなんですよ。とはいっても小説家になるという人も、実際になった人も大勢いる。なら、その中でも異質な存在になれたら、それはとても心躍るって気がしませんか」
「しない」
「にべもない。まあ自分の趣向を他人に強制したら終わりですけど。まあそんなところです。もし僕の希望が可能であるのなら、多くの編集部の人に読んでもらいたいですね。小説は、誰かに読んでもらえないと小説として存在できない儚い存在ですから。だから僕はあなたには感謝しています。僕の書いた、創った、わけがわからないものを小説としてこの世界に存在させてくれた。本当にありがとうございます。それだけでも、僕は報われます」
 寂しいな、と思った。何か期待していたわけでもなかった。結局は自己満足の為に質問しただけだ。なのに、得られたのは虚無感や虚脱感。
「そうかい。けど俺んとこは一度不採用になったらそうそう再発見されづらいところだからな。ま、諦めずに頑張んな。俺に言えるのはそれくらいだ」
「あはは、ま、時間はつまらないほどありますから、この腕が動かなくなるまでは、僕の気まぐれが頑張ってくれている内は書きますよ。鼓舞の言葉、受け取りました。こうして全く知らない人と話すってのも案外楽しいもんですね。それも今日は大物が釣れました。人生は奇なり、ですよね」
「この程度で案外ってんなら、人生は退屈ということも案外すぐに実感するだろうぜ。じゃ、夕食楽しんで」
 俺は買ってきたケーキを近くのテーブルの上に置いて部屋を出ようとした。
「人生が奇になるように彩るんですよ」
 後ろを見ないまま、そっと静かに315号室の扉を閉めた。

 人がそれぞれ持つ目標には大まかにいうと二つに分けられるそうだ。
 証明型と習得型。 
 証明は他人の評価を求める。失敗なんて恐ろしい。成功こそが全てだ。出来なければ人生に意味はない。自尊心の塊のような目標。
 習得型は自分からの評価を求める。結果なんて重要ではない。大事なのは自分がどれだけ成長できたかだ。他人の評価批評なんぞ犬に食わせておけ。これも自尊心の塊。
 結局のところ、人はなぜ目標を持つのかという疑問には、自分自身を認めたいという欲求から生まれるものなのかもしれない。なら、目標を持っている人はまだ自信を認められないということになる。常に何かを求め努力する人は、ただ自分を認めたいから行動する。なんとも切ない話だ。まあこれが真かどうかは俺の知るところじゃないが。
 箱加病院を出てからは、会社に戻るといった社畜のような貢献など一切するつもりなどないので、そのままの足で家に帰ることにした。ワンルームのこざっぱりした空間。今の俺の帰ることが出来る場所。
 彼、址柿に帰る場所はあるのだろうか。結局俺は俺の聞きたい事だけ問い詰めた後、直ぐに出て行ったしまった。彼について何も知らないままだ。
 何を後悔しているのだろうか俺よ。所詮他人じゃないか。気にするだけエネルギーの無駄使いというものだ。もう忘れてしまおう。今日はずっと頭に残っていた疑問の一つが解消されたじゃないか。なら今日という日は満足のいく一日で終わるはずだ。
 ……終わるのか?このまま?
 ああ、ずっと昔に封印したはずの俺が見える。殺したくはなかったが生きるために殺したあの俺が静かに復活しつつある。
 やめろよ。もう俺は俺なんだ。いい加減成長させてくれよ。いい加減に大人にさせてくれよ。もう夢を見るのは疲れたんだ。現実を見て感じて実行したほうが何倍も楽なんだ。
 ……もう、考えたくない。…けど、考えてしまう。
 俺は風呂に入ることも無く、座布団の上で横になったまま寝てしまった。


 また来た。址柿の筆の勢いは止まらない。相も変わらず一週間とちょっとの時間をかけてから郵便で届いてくる。



 
 タイトル   羽の冥界

   2  
 おいおいおいおい、何がどうなってんだ。俺は殺されたのか?愛する我が妻に?勘弁してくれよ、そこまでボケるほど年をくっちゃいないんだがな。これでも二十台後半だ。なんだ、まだ人生の青春と言っても問題ないほどだ。
 しかしこの目の前の光景を見せられては流石に現実逃避は難しい。なんか頭に角生えてるし、なんか今雲の上に立ってるし、なんか目の前には偉いといった格好をしたおばさんが座って何か言ってるし。
「春賭秋世。あなたは地獄行です。来世を再び願うために今世の残りを懺悔しなさい。言ってよし」
「おい、何わけわかんねぇこと言ってんだよ。は?来世?俺は死んだのか?っていうか地獄行き?ふざけんなよ、そこまで人でなしで生きてきたつもりなんかねぇぞ!」
 いくら叫んでも柳に風、まったく聞く耳を持たない様で、おばさんはお構いなしに言葉を続ける。
「春賭冬瀬。あなたは天国行きです。おめでとうございます。来世の準備が整うまでの間、わずかなひと時を楽しみなさい」
 俺は地獄行きというのに、妻の冬瀬は天国だと?俺と何が違うって言うんだ。まさか性別差別ですか?男は皆地獄で女性は天国ってか。
「おい、聞いてんのか?説明しろって。なんで殺された俺が地獄行きで、俺を殺した冬瀬が天国行きなんだよ、不公平だろうがよ」
「ああっもう今回はまたうるさいのが来ましたね。おい白5号。さっさとそいつを地獄に突き落としなさい」
「イエッサー」
 そういってから、白角の鬼は俺を羽交い絞めにして引っ張っていく。なんつー力だ。全然びくともしねぇ。っていうか女性に対してはイエッサーじゃなくてイエスマムだ、それくらい知ってろ。
「おい、冬瀬。お前からも何か言ってくれよ。そもそも何でお前は俺を殺したんだよ。何が不満だったんだ?今までもずっとそうしてきたじゃないか。悪い所があれば改善してきたじゃないか。何が俺に対して殺意を起こさせたんだよ?」
 冬瀬は何も言わず、だたジッと引きずられていく俺を見ていた。その視線は、哀愁だったり謝罪だったり、後悔悲しみ恐怖拒絶が隠れていた。
 なんだよ、なんなんだよ。一体なにがどうなってんだってんだ。
「くそっ、離せよ、白角野郎が。てめえ、無知な筋肉鎧が」
「はいはい大人しくしてよ。閻魔様がああ言った以上もう変更はきかないよ。諦めなって。まあ、同情はするけど、恨むなら現世の師匠や両親でもしてるほうがいいと思うよ。少なくとも妻さんの冬瀬?には似合わない感情だね」
 は?なんで俺を殺した張本人に対して恨むことがオカシイんだよ。なんだ?死者の世界は人の道徳は通用しませんってか?
「君の場合は無知ゆえの地獄行きってね。まああっちでせいぜい反省しなさいな。あっ、黒角にあったらよろしく言っといて。あいつ相当短気だから難しいとは思うけどさ。んじゃ、頑張ってー」
 そう言って、下に広がる雲にぽっかりと空いた穴に俺を容赦なく落とす。まるでごみを収集日に捨てるような気軽さだ。




 タイトル  死者は正義
 
    3
「え?死神ですか?やだなぁ、子供じゃあるまいし、そんなの信じていませんよ。まあ病院だとよくある例えなんでしょうけども」
「ま、医学関係の小説やアニメなんだと定番な話だよな。凄腕の天才、異端の狼、なんつって。けど我が箱鉦病院の死神様はちっとばかし違うんだなぁ。逆だ。ブラックジャックも驚きも驚嘆、まさに死神。そいつが手術にかかわると患者は死んじまうんだ」
「医者失格じゃないですか。褒めるところも尊敬も出来ないひとですね。その人の医学免許を代わりにブラックジャックさんにあげたほうが何倍も有意義ですね。当然もうこの世界から追放されていると」
「いや、それが未だに追放されていないんだなぁ。むしろ現在進行形で医者のお勤めに励んでいるぜ」
 まるで病原菌を振りまく諸悪の根源みたいな人と思われているだろう。その人は。
「僕も医者の一人ですから言いますけど、なんでまだ医者をしているんでしょうね、その人は」
「そんなの決まってんだろうが。人を治したい。その一心だよ。まあ中には金になるからとか評判がいいからとかあるだろうけど、少なくともあの人はそういった理由なんか目も当てないぜ。まさにブラックジャックの不純物のような、捨てられた部分をかき集められてできたような人だ」
 そんな人生だと思い知った日には自殺してしまいそうだ。医者として勉強努力行動、多くのものが求めらてる世界で、どうしようもない体質のせいで人を死に追いやってしまうなんて、なんという地獄なのだろうか。僕には関係ないはなしだけど。僕には到底理解できない世界があの人には見えているのだろう。覗きたいなんて思わないけど。
「ま、頑張りなよ。死神こと猶晒さんの助手ができるなんて光栄なことだからな」
「光栄ですか。なんだか反転世界に来たような感覚ですよ。人の死が良い事だなんて未だに信じられませんからね」
「ならどうしてこの病院に来たんだよ。お前ほどの腕なら引く手あまただろうに」
「そんなの決まっているじゃないですか。人を治したいからですよ。医者なんて皆どこかではそんな理想をずっと追い求めているんですから。先輩もそうなんじゃないですか?」
「さあな」
 


 タイトル   反抗照明

 5
 まさか僕が探偵みたいなことをする羽目になろうとは。この町に来るまでそんなことは全く予想していなかった。ただただいつもの仕事の照明取り付けをしてさっさとおさらばして家でくつろぐ予定だった。なのになんでこんなことになってしまったのか。依頼人の修杯が死に、それをきっかけに理南、早鍵、装世までもが死んでしまった。もうこれ以上の犠牲者が出ないために、なんてそんな人様の役に立とうという気概は僕には一切ない。はっきり言って皆無だ。ただ僕は家に帰りたいだけだ。人でなしと言われるかもしれないが、人なんて皆そうだろう?だから僕は手段は選ばない。理論を組み立てて説明なんて時間がかかる。なら、せいぜいこの世界の仕組みを利用するのはれっきとして王道なのではないだろうか。そんな言い訳を
「そんな批判めいた顔をしないでくださいよ、老牢さん。僕は僕の出来ることを、最善の方法で犯人を追い詰めただけなんですから。ああ、犯人にしたら厄介なことになったなって感じですか?」
「どうして君がここにいるんだ。この場所にいるのは赤嶺のはずだ」
「ああ、そういうことですか。その答えは簡単です。僕が消しました。あなたが皆を消したようにね。もう彼も皆から確認視認されることはなくなりました。まさに死認状態です」
 この世界はどうにも異常だ。僕の元居た世界の方がよっぽど正常に思えるのは、やっぱり価値観の違いなのだろう。でも僕はもうやっちゃったからこの世界の住人になるしかない。この世界に合わせて自分を再インストールしないといけない。
「説明が面倒なのでさくっと言わせてもらえると、あなたは静電気を使ったんだ。そりゃ証拠も目撃の瞬間もあったもんじゃない。いくら警戒心が強い装世さんでも人が視認できる限界を超えるほどの一瞬なら逃げられない。それであなたは皆を消したんだ」
 さあ観念してさっさと僕を帰らせてくれ。別に犯人の自供を聞きたいとか、その背景に何があったとか、そんなことはどうでもいいから僕は早く家で一人になりたいんだ。
 老牢さんは近くの椅子にゆっくりと座り、スマホで僕たちの周りを照らした。
「本当は赤嶺が来る予定だった。しかし来たのは根暗なが餓鬼だとはな。これこそ、照る者操りし、だな」
「はいはい、なんとでも言っていいですよ。餓鬼でも小僧でも。で、ここから帰してもらえるんですよね。僕にはまだ次の仕事が残っているんですけど」
「ふんっ、どこまでも生意気に仕事仕事とうるさいやつだ。こんな奴が照明技師だなんて笑えるな。いいか、人ってのは光がないと生きていけないんだ。もう原始時代に戻れるほどの耐性のある奴なんて誰もいない。人には光が必要なんだ。だのにお前はそれを否定するのか?まだ世界を人工の光で埋め尽くそうとするのか?それがどんなことを招くのかしっているのか?」
「のかのか質問好きですねぇ。あー、まあ信じちゃくれないでしょうけど、僕はこの世界の住人じゃないんですよ。こんな自然の光を浴びたら姿が消えるだなんて面白おかしな世界とは違って、もっと常識な世界にいたんですよ。だから、僕にとっては光最高光で世界を照らしましょうに賛成ですね。近い将来皆が消えて誰もが姿を視認できなくなったとしても、僕は光でこの世界を照らしますよ。だって人は光がないと生きていけないってさっき言ったじゃないですか。本当にそうですよね。でも、皆、形が欲しいんだ。見える形で光が欲しいんだ。希望とか信頼とか、そんあ曖昧然としたものじゃなくてね」
 人はどこまでも欲求に素直だ。無限に広がるその欲求に付き従うからこそ、今の人がある。老牢さん、それを認めましょうよ。もう、楽になりましょうよ。影で生きるのは、辛くないですか?



 あいつは俺と会った後も、変わらず同じようなペースで小説を応募している。変わったのは、内容が最初の時より落ち着きを見せ始めた、というところだろうか。今日もまた、渋谷で仲間を集めて人の死は希望を説く小説が送られてきた。言ってしまえばそこらの小説と大して変わらないものに変わりつつあった。
 …………
 嘘だ。それこそ俺は嫌というほど知っているじゃないか。あいつからの小説が送られてくるたび思い知らされているじゃないか。
 あいつは、まだ諦めていない。形が変わっただけが。とにかく無我夢中で色んな方法を試している。今はただ試行錯誤のその一つの形に過ぎない。
 俺は、あいつに答えてやるべきなんだろうか。今俺がしていることが世界に何にも影響を及ぼさないということは重々承知しているし、今俺が動いたとしても意味があるとは思えない。
 そんな、軟弱ともいえるような逡巡をしながら、あいつの作品を受け取りながら仕事を続けて何週間かした後、
「先輩、お届け物ですよ。恋人からですかー?」
「俺に恋人がいると思うのか?」
「いたとしても別に不思議じゃないですけどね。先輩見た目は結構モテそうじゃないですか。その言動が少し不憫ですけども」
「その不憫の対象は俺か?それとも話し相手か?」
「さあ、どうなんでしょうか。ま、確かに渡しましたから。前みたいに受け取ってないっていうのは無しですからねー」
 そう言って自分の机に座った。まだ午前中に終わらす仕事が残っているのだろう。おそらく担当の作家先生の校正だ。集中しなければいけない作業なので、気軽に声をかけるのはやめた方がいいだろう。
 俺は受け取った茶封筒をちぎって封を開ける。中にはA4用紙に丁寧な文字が書かれていた。

 拝啓址柿君の応募作品を受け取りの編集部さま。お久しぶりです。あなたは覚えていらっしゃるでしょうか、いつぞやの医師である玉利妙雅です。
 単刀直入にいいます。址柿君はもうじき死にます。病名を言ってもピンと来ないと思うので症状だけ言いますと、全身の血流が止まりかけています。おそらく余命半年といったところです。
 こうしてあなた宛てに便りが届けることが出来るのは、以前あなたが箱加病院に来てくださった時に名刺を無許可で頂きました。大変申し訳ありません。しかしそのおかげでこうして頼れる人に連絡を取れます。
 そう、あなただけだ彼の頼りです。命を救うというような大きな救いではありません。ただ、址柿君の小さな希望を聞き届けて頂きたいのです。詳しくは址柿君やあなたのほうが詳しいと思います。
 何卒、無力な医者でこの程度でしかかかわることが出来ませんが、お願いいたします
                                       』
 しばらく俺はその手紙を何度も何度も読み返した。内容が変わるわけでも、何か秘密の暗号が隠されているというわけでもないという事はとっくに理解しているはずなのに、俺は無心で読んだ。読んで読んで、最後には手に持って眺めるだけになった。
 どれくらい時間が過ぎたか、気が付くと周りは静かになっており誰もいなくなっていた。昼休みで社員のだれもが今日の特製定食を食べに行ったのだろう。もしかしたら後輩の新街が俺を誘いに来ていたのかもしれないが(毎度子犬のようにその定食が出る日は誘ってくる)全く気づかなかったようだ。今度俺から誘ってやろう。
「はぁ。…。…。……ああ、分かってるよ。知ってるよ。惹かれてんだろ。どうしようもなく好奇心関心興味が引っ張られてる。ああ、分かってるよ」
 これから俺が何をすればいいか、何をしたいかという事ははっきりしている。その行動内容も、時期も。だがそれまでの間には時間も機会もある。なら、俺が優先するべきは。
 俺は持っていた手紙をハサミで細切れに切り、茶封筒に入れて糊で封をする。そしていつもの紙束の上に重ねる。その山は数作品ぶん小さくなっていた。

 箱加病院の最寄り駅で、今度は和菓子のお土産を買った。会計二千三百円なり。
 ビニール袋と手提げかばんを持って、今度は迷うことなく躊躇せずに315号室に向かう。
 途中、もしかしたら玉利が部屋の前で待っているんじゃないかと思ったが、実際は誰もおらず無機質な扉だけが俺を迎えた。そりゃそうだ。そんなに医者ってのは暇な人材でもない。俺は一回長い深呼吸をして銀の取っ手を掴み、扉を開ける。
 あいつは、前と変わらずに指を動かし、目でその先端に現れる文字を追い、それ以外の体組織は全く動かない状態でベッドに寝ていた。俺は前と同じ位置にある同じ椅子に同じように座り、今度は持って来た小説を読み始める。
 紙とボールペンの摩擦音と、紙が捲れる音だけが部屋に鳴る。外の鳥の鳴き声や他の人間が発生させる音が聞こえてもいいはずだが、この部屋だけは異空間の様に隔離されているようだった。
「……うっし。…んーーーーlっはぁぁーー。あ、こんにちは。またまたこうして来てくれるなんて、もしかして僕を好きになったんですか?」
「なるか。なってたまるか」
「でもこの状況ってなんかエロ本とかにあるシチュエーションに似ていませんか?」
「君、エロ本なんか読むの?というか読めるの?」
「読めますよ。これでも僕は男で僕には男の友達という玉利先生がいますからね。よく持って来てくれるんですよ。使用後と思うと鳥肌が立ちますけど、まあ贅沢はいえませんからね。で、どうですか?」
「何が?」
「またまた、分かってるくせに。知らないふりしちゃって。……愚痴、聞いてもらってもいいですか?」
「いいよ。話をするのは嫌いだが、聞くのは好きだからな」
 址柿はさっきまで書いていたノートを閉じ、隣の机の上に置く。
「このさいはっきり言います。僕たち読者というのは作者またはその作者が書いた作品に対してお金を払っています。なので、その中間にいる発行元にお金を取られるのが気に入りません。不愉快です。抗議します。好きな作家の作品なら発売するたびに買うので割引してください」
「無理。講義するならもっと上の人に言え」
「だからあなたに言っているんですよ。編集者なんでしょう?だったこれくらいどーんと偉い人に言ってくださいよ。毎月定額特定の作者に払う代わりに自宅に発売即配送するようにって。あっ、もちろん定額の合計は定価以下にしてくださいよ?そうじゃないと支払うお金が増えますからね。結局のところ消費者は、僕のような読者は好きな作者の作品を安く買いたいと思っているので」
「なら自分で会社を立ち上げて、作者本人と直接契約したらいいだろ」
「それが出来たらどれほどいいか。今の状況まで強い会社が多いと難しいと思いますね。なら内側から誘ったほうが手間が省けます」
「そういえば最初に送ってきた小説にもそんなことを書いていたな。講談社専用書店を作れとか。その代わり定額より安くしろ、とか。願望だな」
「人間消費者は願望の塊ですよ。たとえどれだけ好きでも、本当に求めているのは痛みを無くしより快楽を、ですから。それでもファンでいたいと思うのは一種の居場所探しなんでしょうね」
 居場所か。俺には居場所と呼べるところはあるのだか。疑問がつきない、というか疑問に思ったことも無いことだな。
「で、なんで今更僕の所に来たんですか?てっきりもう会う事は無いだろうと思ってたんですけど」
 嘘つけ。ならあんな内容を送ってこないだろうが。しかし俺は大人。ここは誠実に、嘘偽りなく事実を伝えることをしなければいけないだろう。
「そうだな、けじめ、かな。君の親愛なる友達の玉利先生から手紙が届いたよ。なんでも、死ぬんだって?」
「もうちょっとオブラートに言えないんですか?最近の大人はこれだからやれ虐待だなんていわれているんですよ」
「もう君も十分大人の年齢だろうに。それにオブラートは透明で誰からも見える。なら隠すなんておかしいとは思わない?で、死ぬんだって?」
「また繰り返しますかこの大人は。ええ、そうらしいですよ。何でも体中の血管の弁が機能不全を起こし始めているとかなんとか。僕は医学は全くなんで全然先生の話を聞いていませんけど」
 それでも、近い将来死ぬと分かっていても
「君は、本当にしたいの?俺の知る限り誰もやったことが無いことだ。けど、見方を変えれば誰でもしている普通のことだ。まるで科学の二面性のように、皆使っているけど誰も使い方を知らないなって言ってるようなものだ。周りから馬鹿にされる可能性の方がとっても高い。それでもやるのか?」
 址柿は失笑するかのように口を伸ばし、一冊の本を机の引き出しから取り出した。
「僕の好きな小説、知っていますか?」
「ああ、人はしにしずむ だろ」
「本当は、それ、嘘なんです。だって一ページに収まりきらないから。言ってしまえば、僕が影響を受けた小説ってのは全部なんです。どの作品からも少しづつ影響をもらって、だから今の僕が形作られた。影響なんて比較しようがないじゃないですか。なんだよ、一番って。そんなの分かるわけ無いだろうが。影響採点装置でも開発されてから言えってんだよな、ほんと。常識なんてくそくらえ、だけどその常識にどこまでも縛られている自分を一度自覚しちゃったら、もう自分はその拘束の中から逃げられない。けど僕は欲張りだから、可能性があるのなら試したい。もしこの退屈な世界から逃げることができるなら、馬鹿にされようが貶されようが、見捨てられようが無視されだけれからも非難の批判の嵐の中に放り込まれようが自分から進んで向かおうが構いやしない。ただ、この世界が嫌いだから。嫌悪と逃避が行動理由でもいいじゃないですか。いいと思いませんか?」
 ………………………………………………………………………………………………
「……いいんじゃないかな。少なくとも、君が大した馬鹿だってことは十分わかった。それだけでも、今日ここに来た甲斐があったよ」
「馬鹿で結構。明日も行動に甲斐ある日にしてくださいね」
 何を知ったかぶりして。社会を知ったような言葉で言いやがる。でも、嫌いじゃない。そんなところは、俺にもあるのだから。だから俺は今、こんなことをしているのだろう。これから、馬鹿なことをしようとしているのだろう。
 俺はパイプ椅子から立ち上がり、土産として買った菓子を机の上に置いてから手を出す。
「…?なんですか、これ」
「悪手。これから悪事を働く仲間同士だ。よろしくな」
「ああ…、こちらこそ、相棒。やっと誘いに乗ってくれましたね。この瞬間を待ち望んでいましたよ」
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