Ⅰ 神代の終焉

文字数 12,800文字

 この世界――セフィラは『人非ざるもの』によって支配されている。それは極めて独裁的な意思を持つものらしく、今日(こんにち)もあらゆる生命に対して情け容赦無く生殺与奪の権を振るっていた。しかし、人々はこれを慈悲深くも厳格な御方――つまり『神』によって与えられた試練なのだと解釈している。
 血肉に飢えた凶悪な魔獣が蔓延る大地において、人間はあまりにも非力すぎたため、信仰という逃げ道を作らざるを得なかったのである。こうした経緯で誕生した『アイン=ソフ=オウルによる創世神話』は、内容の整頓と改変を繰り返しながら急速に広まってゆき『光輝(グランツ)教』という名の組織として束ねられると、その信仰はついに世界宗教として認められるまでに拡大していった。
 そして、光輝教の長である初代教皇アダム・ハリションは、光輝教誕生を人類史の紀元と定め、現時代を『神の御手(みて)による文明』――セフェール・ハ・ゾーハルと称するに至ったのである。
 それから暫くして、ゾーハル歴百二十年。突如として人類に転機が訪れる。光輝教が慌てふためきながら『神術』と名付けたそれは、人間が成人を迎える頃にどういうわけか獲得するようになった未知の力である。
 主に『火』『水』『土』『風』の四元素に大別される神術は、どのような身分であっても一人につき一つ与えられるのみで、自らの意思で種類を選択することはできない。それでも神術は人類の繁栄において必要不可欠な御業であり、人々は光輝教が提唱するまでもなく『これこそが試練を乗り越えた者に与えられる祝福』であると考えていた。


「――というわけで、君にはもう少し働いてもらわなければならないのだ。今すぐお払い箱にしてやりたいところだが、君が相手となると面倒事が多すぎる。頼むから、我が騎士団の現状を察したまえよ。また問題を起こしたら、今度こそ厳罰だからな。分かったな」
「はい。申し訳ございません、団長」
 いかにも空々しい、形だけの敬礼を済ませた一人の青年が団長室の扉を開けて、薄暗い石造りの廊下を足早に歩いてゆく。がしゃがしゃと苛立つように鎧を鳴らしているところからしても、青年が騎士団に対して何かしらの不満を抱いていることが窺い知れる。
 この青年の名は『ツァディク・ヴァルトス』という。ヴァルトス家はセフィラ北部の小国――ダアトに属する高名な騎士の家系で、ツァディクは一族の中でも一二を争うほどの才能を持って生まれた嫡男である。騎士団の採用試験に史上最年少で合格したことで世間の耳目を集めたものの、真面目でありながら変わり者でもあったツァディクの居場所は日に日に狭まっていった。今となっては『傷物のツァディク』というあだ名のほうが有名なのではないかと言われてしまう始末で、ヴァルトス家からはとうに勘当の扱いを受けている。
 それにも関わらず、ツァディクはダアトの騎士を続けていた。理由はただ一つ、そのほうがツァディクにとって都合が良かったからである。
 ゾーハル歴七百六十八年。セフィラは人々が想像しているよりもずっと早くに終焉を迎えようとしていた。ツァディクは世界の異変にいち早く気が付いて行動に出た唯一の人間である。
 始まりは一人の鍛冶師が神術の暴走によって焼死したという報せがツァディクのもとに届いた時であった。この頃はツァディクも偶然の事故として処理しており、それほど気に留めていなかったが、ダアト南方の都市カロンにて未知の大型魔獣が出現したことをきっかけに、これらを『人為的に引き起こされた異変』ではないかと疑うようになった。
 神術暴走事故の急増、未知の大型魔獣による都市襲撃事件の発生、加えて天変地異による混乱など、前兆とされる現象については数え始めてしまうときりがない。しかし、変わり者として避けられていたツァディクの進言など騎士団にとっては世迷言でしかなく、彼の言葉を信じて協力する者が現れることはなかった。
「やはり、俺が確かめるしかない……」
 ツァディクの言葉は誰も信じてくれないが、世界各国に住まう人々が疲弊してきていることは確かであった。その中でも未知の大型魔獣による被害は甚大であり、ツァディクは独断で討伐に難航している都市に後援と称して戦闘に参加するなど、変わり者らしく勝手気ままな行動を続けていた。そのせいで先程も騎士団長から厳しく指導されていたというのに、ツァディクは何処吹く風である。
 いや、そんなことはどうでもいい。今のツァディクにとっては、遙か上空に伸び続ける巨大な階段に誰も言及していないことのほうがよっぽど気掛りであった。
 最近になって現れた上空の大階段は、北の大国ケテルが有する海岸に一段目が敷かれている。それは一見するとガラスのような素材で作られているが、鈍器を用いても傷一つ入れられないほどの硬度を有していた。透明度の高さといい、現代の人間が意図的に作り出したものとは考えにくい。そもそも、そんな板を大量に作れたとして、それをどうやって支えも無しに空へ浮かび上がらせるというのか。
 以前、ツァディクはこの階段の素材を調べるために数日ほど騎士団を抜け出していたが、聞き込みをした限りではケテル側の人間もこの階段を認識していないようであった。これほど巨大な階段だというのに誰一人として見えていないだなんて、どう考えてもおかしいではないか。これは本当に自分にしか認識できていないものなのか? それとも、変わり者やら傷物やらと揶揄されすぎて、ついに頭がおかしくなってしまったのか。こればかりはツァディクにも判断のしようがなかった。
 だが、独自に行ってきたセフィラの異変調査に関しては、今回で終止符が打てるかもしれない。異変の報せを頼りに現地へ赴いては情報を仕入れ、事細やかに原因の考察をしてきたツァディクは、これらが『アイン=ソフ=オウルによる創世神話』という、人類史の根幹となる要素に繋がっている可能性を見出した。確証は持てない。さりとて、地上でも海上でも何一つ解決できなかったのであれば、残すところは空の上しかないであろう。
 それが国家や騎士団、ひいては人間という種族全体の意向を無視する行為であったとしても、ツァディクはこの世界とそこに息衝く全ての生命を守りたかった。ツァディクは変わり者でこそあれ、馬鹿ではない。ひときわ強い正義感で改めて不退転の決意を固めたツァディクは、(きた)る長旅の準備をするために自室へと戻っていった。


 


 


 


 


 


 




 北の大国――ケテル。セフィラの北方に位置する王都から更に北へ向かった先の小さな海岸には、上空に続く階段の一段目が仰々しく鎮座している。数日前、ツァディクは人目に付かぬよう、未だ冷え込む暁闇(ぎょうあん)の刻にダアトを出発していた。余計な事態の発生を避けるために迂回しながらの旅となったが、目的地にはどうにか無傷で辿り着くことができたので、ツァディクはほっと胸を撫で下ろした。
「しかし、あの荒天で傷どころか汚れ一つも付かぬとは……」
 実はケテル王国を抜ける最中、ツァディクは未曾有の大嵐に見舞われていた。目的の海岸に程近い場所で起きた出来事ということもあり、破損の心配こそしていなかったが、風雨による汚れくらいは付いているかもしれないと考えていたのである。
 だが、今はそんなことに感心している場合ではない。一刻も早く階段を上り切って、そこにどんな真実が隠されているのかを調べなければ。ツァディクはこの日を迎えるために、あらゆる状況を想定して、装備も十二分に整えてきた。大丈夫、後は前に向かって進んでゆくだけだ。何も怖がることはない。深呼吸をしろ。常に冷静であれ。
 そして、大階段の一段目に足をかけたその瞬間、ツァディクは強烈な違和感に眩暈を起こして気を失いかけた。例えるならば、人類がついぞ到達できなかった神の領域――あるいは死へ続く道と錯覚させるほどの圧力と緊張感。
 やめろ、今ならまだ間に合う――人間という弱者としての本能が、ツァディクの心を揺さぶりかける。だが、ツァディクはその声を振り払って、しっかと歩み続けた。今更、逃げたところで何になる。人間としての居場所なんてとうに失っているのだから、せめて自身が信じた道の先で死ぬくらいはさせてほしい。
 ツァディクが心の中でそう呟くと、衝動的な恐怖心も次第に弱まってゆき、やがてはすっかり収まった。それからのツァディクは、疲労や空腹、眠気といった感覚も無いまま、ただひたすらに階段を上り続けていった。
 しかし、これを『上っている』と呼称して良いかは分からないというのが、ツァディクの正直な感想であった。空を歩いていることは確かなのだが、大陸の全てを見渡せるようにと言わんばかりにぐるぐると渦巻いた道が続いているので、一向に雲の上へと到達できないのである。
 誰が何の意図でそうさせたのかは分からないが、どのような理由であろうと、ツァディクにとっては迷惑極まりない話でしかなかった。


 ――――ああ…………

 ――――そうか、ここはマルクト王国の真上なのか…………

 ――――随分と遠くまで…………


 あれから、どれほどの時間が経ったのであろう。太陽が昇っては沈んでゆく様相を背にしながら、ツァディクは愚直に階段を上り続けている。遥か上の空から見下ろした世界は思っていたよりも小さくて、それなのに溜息が出てしまうほど美しい。この遠景を眺めていると、人類など矮小な生物群の一つに過ぎないことを嫌でも感じ取ってしまう。
 ただ、普通に生きてゆきたい。自らの意思でその選択ができれば、どれほど良かったことか。今の人類は神という存在に依存しきりで、思考すること自体をやめてしまっていた。
 理由は至極単純なもので、そのほうが人類にとって楽だからだ。自分達がどうこう考えて動く必要なんて少しもない。人間如きが足掻いた程度で世界は何も変わらない。全ては神が決めてくださる。全ては神が救ってくださる。人間は神の慈悲に頼らなければまともに生きてゆくこともできないのだから――言い訳としては、そんなところであろう。
 各国にはそれぞれ預言者とされる家系を保有しており、神託は身分を問わずして必ず伝えられるようになっている。神託の効力は絶対的で、それが『故郷を捨てよ』といった得手勝手な内容であっても、人間は『はい、分かりました』と何の異論も無く実行してしまう。大抵の生命活動は勿論のこと、国や街を維持するための労働や鍛錬も本来は人類が自発的に始めた行動であるのだから、実際は神など一欠片も関係していないというのに。
 ツァディクは世界各地で起きている異変の正体を『神の手による淘汰』ではないかと考えていた。確証が持てなかった理由は、ツァディクが神という存在を全く信じていなかったからである。ツァディクは物心が付いた時から、見たこともないものに全てを託している信仰形態を酷く不気味に思っていた。ところが、事を追えば追うほど、人間――いや、この世界そのものを牛耳っている『何か』の影が近付いてくる。
 理不尽な神託のせいで、故郷が失われたり、家族が殺されたりするのはもう御免だ。ここ最近はどの国も神託の後処理で手一杯らしく、国事もまともに機能していない。労働力だって不足したままだ。
 それでも、人間達は『神が定めし秩序に従うまで』と言うのであろうか? 何であれ、これが最初で最後の好機であることには間違いない。人類滅亡の危機を回避するためにも、ツァディクは突き進まねばならないのだ。
「見えた……」
 階段を上り始めてから、ツァディクは初めて足を止めた。視線の先には、今までと違って急激に高度を上げた階段が分厚い雲を貫いている。ついに頂上へ繋がる道が開けたのだ。もはや引き返すことは許されない。ツァディクは長い旅路の決着をつけるために、雲の上に佇む光り輝く世界の門をくぐり抜けた。
「――永久(とこしえ)(みち)を乗り越えし人の子よ、よくぞ参った」
 強い閃光に暫し目を眩ませていたツァディクの近くで、雌雄の混ざった不思議な声が(こだま)する。光の歓迎をようやく受け入れたツァディクの双眸が声の正体を捉えると、虚無に君臨する『人非ざるもの』の姿をゆっくりと映し出した。
「我が名はアイン=ソフ=オウル。セフィラの創造主である」
 七色に輝く四対の大翼、金の装飾が施された白銀の鎧、三つに連なった星々を纏う光輪。鎧から垣間見える、磨き上げられた灰簾石(タンザナイト)のような透き通った青色の肌には文様が刻まれており、そこには仄かに光る乳白色の血液らしきものが流れている。頭髪のような部分にも三対の翼と一対の(ひれ)が備わっていて、その瞳は妖しげに煌めく緑色で染められていた。
「まずは質問に答えろ。世界各地で起きている異変は貴様の意思で引き起こしたものなのか? そうだとしたら、何故そんなことをする? 答え次第では、貴様を斬る」
 神の名を持つ異形――アイン=ソフ=オウルは、堅牢な石の玉座に腰掛けたまま、ツァディクが放った言葉の意味を思案する。
「……異変? ああ、間引きのことを言っているのか――」
「間引き……だと?」
「――分からぬか? 人間とは、神なくしては生きてゆけない脆弱な生物である。絶対的な存在を模倣しておきながら、弱者であった人間に神が慈悲を与えたのだ。よって、その生殺与奪は我が手によって決められるべきである。何も考える必要などない。運命の流れに身を任せ、漂ってさえいればよい。さすれば、約束の地にも辿り着けることであろう」
 だから、増やすも減らすも神次第。人間がするべきことなど、これっぽっちも存在しない。それが神の手に囲われた生物――人間の在り方であり、慈悲の本質なのだから。
 神にとっての人類とは、都合の良い傀儡でしかなかった。人間だけが神の言いなりにならなければならない理由など初めから存在せず、過去の誰かが望んだ結果の未来ですらない。全ては神が勝手に決めた事柄だったのである。
 その不条理な真実に、ツァディクが怒りで拳を震わせ、声を張り上げた。
「誰が貴様に管理されたいなどと言った! 確かに、人間は愚かで弱い生き物なのかもしれない……だが、それでも……そうだとしても! 必死に生きていたことくらい、神である貴様なら分かっていたはずだろう!」
「忘れたか――〝人間は神なくしては生きてゆけぬ〟と。約束の地とは、無垢なる精神が到達する境地。至上の幸福へ続く道は、我が手によって切り拓かれなければならぬ」
「貴様は言っていることとやっていることが滅茶苦茶だ! 結局は自身の都合で全てを決めているじゃないか! 確かに神術は便利かもしれない。預言が正しく作用する時もある。だが、幸福とは自らの手で掴み取るものだ。貴様の独断で間引かれなければいけないほど、人間はもう弱くない!」
「嗚呼、慈悲から逃れし人の子よ……お前は自我を得てしまったのだな……」
 その言葉を最後に、さも哀れといった表情でアイン=ソフ=オウルが玉座から立ち上がると、その巨体でツァディクを見下ろした。その動きを見て咄嗟に後ろへ下がり、自身の双剣を引き抜いたツァディクは、既に臨戦態勢だ。
 なんということだ――この人間、本気で我までも討ち果たそうとしているのか。アイン=ソフ=オウルはツァディクをじっと見つめたまま、彼の手によって葬られていった四化身のことを思い返していた。
 始めに斃されたのは『レトゥム』であった。人間達が言うところの北方――ケテルにて起動させた一体である。四化身も久々の大仕事ということで、随分と張り切っていたように思う。それから先は、化身達にとっても苦渋の日々であったに違いない。不運にも最後の獲物となってしまった『ゼーン』は、かの人間に対して強い恐怖心を抱いていた。
 四化身に与えられた本来の役割は『世界の監視』である。よって、彼らは言霊を飛ばす能力を使って、アイン=ソフ=オウルに情報を渡すことができる。その化身達が、突如として現れた双剣使いの人間に屠られんとする死に際に、口を揃えてこう言っていたのだ。
 ――あの人間は貴方に近付きすぎている、と。
「よかろう……お前がその気であると言うのならば、我が理の真髄によって捻じ伏せるまで。神なる存在に歯向かったこと――未来永劫に悔いるがよい!」
「望むところだ! 刺し違えてでも、俺は貴様を殺す!」
 ツァディクが一歩早く踏み込み、双剣でアイン=ソフ=オウルの翼を斬り付ける。アイン=ソフ=オウルからすれば痛くも痒くもない一撃であったが、鎧を着込んでいるとは思えない軽快な身のこなしで、次々と容赦のない攻撃を仕掛けてくるツァディクの姿に目を奪われた。
 片手剣として使用されるサーベルを双剣として扱っているだけでも突飛であろうに、その手で四化身を葬ってきた者らしく、神術の扱いも尋常ではない。
「かようなことをして何の意味があるのか。お前が疲弊するのを待てとでも?」
「本当にそうしてくれるなら、ありがたいところだが」
 アイン=ソフ=オウルは、臓器などを有する人間と違い、膨大な量のエーテルを用いて血肉を構成している。当然、そこに痛覚などは存在しない。よって、エーテルが循環している限りは、損傷箇所も自らの意思に関係無く、即座に修復されてゆくのである。
 これは微量ながらも四化身に継承されている能力であり、それらを斃した張本人であるツァディクが、その特徴に気付かぬまま戦っているとは到底思えない。
 ならば、こうして無鉄砲に斬り続けることにも何らかの意図があるに違いないと、アイン=ソフ=オウルが真の狙いを見定めようとした、その瞬間――いなしたはずの双剣の片割れが、アイン=ソフ=オウルの身体を大きく斜めに斬り裂いた。
「なっ……!」
 想像していたよりも深い傷だ。鎧ごと断ち切られた傷口からは、大量のエーテルが堰を切ったように噴き出している。そのせいなのかは分からないが、修復機能も上手く動作しておらず、裂けた肉は一向に塞がる気配を見せない。
 この時、アイン=ソフ=オウルは初めて自身の危機を感じ取り、ツァディクに向かって威嚇するように吼え立てた。
「人が……人如きがッ! 我を討ち果たそうなど、許されるものかッ!」
 予期せぬ事態に焦ったアイン=ソフ=オウルの一瞬の隙を突いて、ツァディクが再び双剣の片割れを振り下ろす。
 あっさりと斬り落とされたアイン=ソフ=オウルの右腕は、燃え尽きた灰のようにぼろぼろと崩れ落ち、粘性のある玉虫色のエーテルがごぼりと大きな音を立てて噴き出した。
「ぐ、うう! 貴様ァ! 一体、何を……!」
「溜まっていたものをちょっとばかし世界に返してやっただけのことだろう。神様なんだから、そう気にするな」
「舐めた口を……! この程度で斃したなどと思うでないわッ!」
 大量のエーテルを一気に失い、激昂したアイン=ソフ=オウルが強烈な威力の神術を解き放つ。その圧倒的な力は、おびただしい数の火球が飛んできたかと思えば、蛇のようにうねりながら襲いかかってくる濁流となり、ごろごろとした礫が降り注ぐと、最後は旋風になって、ツァディクの全てを切り刻まんと吹き荒れた。流石のツァディクもこの猛攻を避け切ることはできず、いくつかはまともに喰らってしまっていた。
「まだだ……! まだ、やれる……」
 血塗れの肉体――半壊した防具――ツァディクは既に満身創痍で意識も朦朧としていたが、それでもなお、アイン=ソフ=オウルを討ち果たさんと立ち上がる。
 普通の人間であれば死んでいてもおかしくない状況で、己の限界を超えてでも食らいつくツァディクの姿は、アイン=ソフ=オウルからすれば不気味以外の何ものでもなかった。
「この化け物め……! そこまでして戦う道理など無かろうものを!」
「化け物なのはお互い様さ……さあ、続きと行こうか……」


 ――アイン=ソフ=オウルとは、セフィラにおける唯一無二の御子(みこ)である。そのアイン=ソフ=オウルが自身に宿る孤独を自覚したのは、世界を創造してから間もなくのことであった。
 自身と対等に渡り合える者が生まれることを期待して振り撒いた生命の種は、セフィラに数多の生物を誕生させるに至ったが、神に類似した形態を持つ存在に繋がるまでは、創造主ですら暇を持て余すほどの時間が必要であったと記憶している。
 故に人類の出現は、まさに奇跡の産物と言えるであろう。この生物であれば、長きに(わた)る我が望みも叶えられるかもしれない――そんな期待に胸を膨らませて、人類の進化と成長を見守っていたが、生物としての『人類』はあまりにも不完全で弱すぎた。
 己の非力をまかなうために道具を拵えるまでは良かったが、それらを活かすために必要な腕力や脚力を持ち合わせていない。こんな調子では、あっという間に絶滅してしまうことであろう。ところが、とんだ見込み違いであったと落胆するアイン=ソフ=オウルとは裏腹に、人類はセフィラの上でしぶとく生き残り続けた。
 その様子を見て、アイン=ソフ=オウルは『もしかしたら、人類はきっかけさえ与えれば、成長できる素質がある生物なのではないか』と、考えるようになった。ならば、まずは自身の存在を認知させてみようではないか――まるで第二の創世をするかのように、アイン=ソフ=オウルは人類に様々な施しを与えることにした。
 血の一滴を大海原で希釈したかのような神術であっても、弱者たる人類にとっては叡智そのもの。しかし、各地で監視を続ける四化身から、アイン=ソフ=オウルと対話できるほどの人間が現れたという報告が送られることは――皮肉にもツァディクという存在に斃されるまで――ついぞ無かったのである。
 アイン=ソフ=オウルは、どこまでも孤独な存在であった。信仰という心の拠り所を見つけ、神術という叡智を得た人類の成長は確かに目覚ましいものであったが、それらも所詮はアイン=ソフ=オウルという『神』に依存することでようやく成立するような泥舟でしかない。
 弱者でありながら思考する行為を捨ててしまった人類を、アイン=ソフ=オウルは酷く哀れに思った。己と似通った姿を持ちながら、何よりも弱く、愚かで、儚い命。
 ――きっと、この生物は神に管理されるために生まれてきたに違いない。こうして、アイン=ソフ=オウルは仄かに抱いていた望みさえも闇夜の大海原へと沈ませて、自身を蝕む孤独を紛らわすために、淡々と個体調整だけを行うようになっていった。


「くそ……クソ、クソッ! こんなこと、こんなことが……! 許されるわけが、ない……ッ! う、ぐううぅ、ううッ! あああッ!」
 ツァディクとの激闘の末、アイン=ソフ=オウルは敗北した。アイン=ソフ=オウルの身体は、軽微な傷の積み重ねからなるエーテルの大量流出によって、かなり早い段階から機能停止に追い込まれていた。それに気付かず、ツァディクの袈裟斬りを真正面から受けてしまったのが、最大の敗因と言えるであろう。
 今やセフィラの創造主は、左腕のみが残された見るも無惨な姿となって、地を這いつくばっていた。
「貴様の理で支配される時代はもう終わりだ。これからの人間は神ではなく、自らの手で歴史を築き上げてゆく。今日はその〝はじまりの日〟だ」
「愚かな……! 我が力に頼り切った人間共が、そう簡単に変われるものか……!」
 小馬鹿にしながらも、辛うじて残っている微弱なエーテルで対抗するしかなくなっているアイン=ソフ=オウルには、既に戦えるほどの余力は残されていない。
「そんなことは分かっている。人間という生き物は、本当の意味で思考することを長く捨て去っていた。だから、これからは俺達自身で全てを考えていかなくちゃならない。きっと、そのせいで辛い思いをする人や(いさか)いを引き起こすような人も出てくることだろう。それは貴様の言う〝至上の幸福〟なんて程遠い……そんな世界なんだろうな」
 声に釣られたアイン=ソフ=オウルがツァディクのほうへ目線を合わせると、そこには先程までの鬼気迫る血塗れの狂戦士ではなく、新たな世界を予見し、優しく穏やかな表情を浮かべるツァディクの姿が映し出されていた。
 こいつは一体、何なのだ……? どうして、人間如きにここまで献身的になれるのか――その光景は、アイン=ソフ=オウルにとって、経験したことのないものであった。
「そこまで分かっていて、何故……」
 零れ落ちるように呟いたアイン=ソフ=オウルの純粋な疑問に、ツァディクは明々白々といった面持ちで言葉を返す。
「それが俺の

であり、

だからだ」
 その刹那、アイン=ソフ=オウルは自身が人間に対して抱いていた真の感情を思い出した。それは『愛』である。誰よりも自分に似ていて、何よりも慕ってくれている、弱くて、それでも愛おしい人間という生物を、創造主は確かに慈しんでいたはずだった。
 嗚呼、今になって昔のことを思い出すだなんて――それほど、自分は独りでいることを耐え難く思っていたのであろうか。分からない。分からない……まだ、私は人間のことを何も分かっていない――
 もはや消えゆくだけとなった存在となったアイン=ソフ=オウルは、身体を塵のようにはらはらと崩しながらも、静かにツァディクとの対話を試みる。
「人の子よ……名は」
「……ツァディク・ヴァルトス。唯一無二でも何でもない、ただの人間だ」
「ふふっ……長らく放棄されていた永久の路を上り切るような奴が、ただの人間とは……くくく、ははは……面白いことを言う人間もいたものだ……」
 自嘲的な笑みを浮かべるアイン=ソフ=オウルの独り言に、はっと何かを思い出した様子でツァディクが反応する。
「そうだ。それについて、俺も一つ聞きたい。あの階段は一体、何なんだ? 俺が聞き込みをした限りでは、誰もあの階段は見えていないようだった」
「見えないのではない……見ようとしていないのだ……人も……私も……」
「――……そうか」
 その言葉から程なくして、神域の崩落が始まった。ぐらぐらと大きな音を立てて剥がれた瓦礫は、まるで意思を持ったかのように自壊してゆき、さも自身が光であるかのように煌めいている。
 アイン=ソフ=オウルが『永久の路』と称していた階段は、既に崩落に巻き込まれて失われており、逃げ道は残されていない。それを確認して、ついに自身の死期を悟ったツァディクは「はあ」と深く息をついて、その場に座り込んだ。
 すると、その隙を狙っていたのか、アイン=ソフ=オウルが、突如として残された左腕を自身の胸に突き立てた。唖然とするツァディクを余所に、アイン=ソフ=オウルは自らの核らしきもの――言うなれば、心の臓に値するであろう『光』を抉り出す。本能的に動いているのか、左腕以外の部位は微動だにしておらず、瞳も動いていないようであった。
「ッ、貴様! この期に及んで抵抗するか!」
 ようやく我に返ったツァディクが、どうにか取り出したサーベルでアイン=ソフ=オウルの左腕を叩き斬る。光を掴んだままの左腕は、瓦礫と共に転がり落ちてゆき、そのまますぐに見失ってしまった。
「はぁ……っ、はぁ……う、くそ……また、血が……」
 先の一撃で力を使い果たし、とうとう倒れ込んでしまったツァディクの身体は、どこもかしこも傷だらけで、ぴくりとも動かない。覚悟はしていたが、やはりこうなってしまったか。どうせなら生きて帰って、世界が変革してゆく様を少しでも見届けてゆきたいものであったが――どうやら、それは叶わぬ夢であったらしい。
 ああ、それにしても疲れた……だから、今だけは休ませてくれないか。休むと言っても、ほんの少しだけさ。そう、少しだけ……
 その後、ツァディクは白い光に包まれながら、ゆっくりと眠るように瞼を閉じた。


 ゾーハル歴七百七十年――とある日のこと。空から大地を揺らすほどの轟音が鳴り響いた。雷どころか雨の気配すらない晴天からは光の粒子が降り注ぎ、一筋の激しく輝く流れ星が大地に向かって墜ちてゆく。
 一体、何が起きたというのだろう。他人事のように考えつつも、ふと不安になった人々が意味も無く空を見上げている中で、一人のパン焼きが急速に衰えてゆく釜の火のことに気が付いた。
 せっかくのパンが駄目になってしまっては困ると、パン焼きは大慌てで火力を戻そうとしたが、その手からはいつものような勢いのある炎は出てこなかった。
 その時、パン焼きは上手く神術が扱えないことに対して疑念を抱いたが、ここ最近は働き詰めで疲れていたから、少しばかり調子が悪いのかもしれないと考えた。
 ならば、今日はさっさと窯を閉じて休んだほうが良いだろう。すると、パン焼きは思い立ったが吉日とばかりに、ちろちろと温められるばかりの生焼けのパンをかっかと手早く掻き出した。
 こうして、パン焼きが早々に窯を閉めてから両三日のこと――人類は『神術』という名の叡智を失った。
 人間社会のあらゆる側面を支えてきた神術の欠如で、世界中は大混乱となり、ありとあらゆる産業が停止する事態となってしまった。
 この状況を重く受け止めた国々は、戦どころではないと各国の重鎮を集めて、急ぎ休戦協定を締結させる。その後は原因究明のために世界中の預言者に協力を求めたのだが、どの預言者も『神の声が聞こえない』と取り乱すばかりで話にならなかった。
 ああ! これではまるで、神に見捨てられてしまったようではないか! 好転の兆候を見せない世情に、人類は恐怖を覚えた。神術を失い、残ったものは身一つ。そこから生み出されるものなど、どれもこれも毛程の価値も無い。
 つい数日前まで思考することすら億劫だったような人間が、やっとの思いで手に入れた安寧を、そう簡単に忘れられるわけがないのである。
 しかし、幾らかの平民は『立ち止まっていても餓死するだけだ』と割り切って、手探りながらも自発的な行動をするようになっていった。常に搾取される側からすれば、神術が使えなくなったところで、自身の生活には何の影響も及ぼさなかったのである。
 そればかりか、傲慢な態度の貴族達が取り乱している様子を見て、溜飲を下げる思いを抱いた者さえいたという。
 ツァディクの言う通り、人類は神に支配されるまでもなく、強かに生き延びられるだけの成長をしていたのである。止まっていた時計の針さえ動き出せば、散漫としていた思考力もいずれは取り戻せるに違いない。
 人類が新たに歩むこととなる時代は、誰とも知れぬ『変わり者』の功績によって、緩やかに幕を上げるのであった。
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