eighth

文字数 2,631文字

「満月の次の日はお休みなんです」

 ベランダ越しに、三角錐のカクテルグラスを載せたオクトさんの手が見える。月光を透かした琥珀色のアメールピコンと、氷が、くるくると渦を巻いては、掌に不思議な模様を躍らせた。
「変わった規則でしょう?」
 グリーンカーテンの間から身を乗り出して、彼女が顔を覗かせた。
「実は、うちの社長が狼男なんです」
 鳶色の癖毛がふわりと風に揺れる。同じ色の瞳が、黒縁眼鏡の奥で悪戯っぽく細められた。
「狼男?」
「そう。普段は堅物ですけど、満月の日だけ羽目を外すんですって。それで、定時退社、翌日休み。おまけに気風もよくなって、こうしてお酒もくれたりするんですよ」
「羽目を外すって……一体何をするんです?」
「さあ?野原を駆けまわって、遠吠えをするとか?わかりません。プライベートには干渉しない社風ですから」
 グラスが傾けられて、三角錐の琥珀色が形を変え、彼女の口の中に吸い込まれていく。
「他にはどんな人が働いているんですか?」
「色々です。雪女とか、人魚とか、屏風覗きとか」
 楽しそうに彼女は言う。どこまでが本当なのか、そもそもまったくの出鱈目なのかはわからない。彼女の話は、いつもどこか曖昧だ。
「それなら、オクトさんは?」
 オクトさんはグラスの中身をぐっと飲み干すと、大きく息をしてこちらを見た。上気した顔が、月明かりに照らされて、ゆるりと解けた。
「当ててみてください」


 オクトさんは半年前、隣の部屋に引っ越してきた。
 挨拶には来なかったから、出勤時やごみを捨てに行くときなどにたまたま見かけて、外国から来た人なんだな、と思う程度だった。(後から知った話だが、彼女の出身は赤道近くにある島なのだそうだ)
 満月の夜、僕にはなんとなく空を眺める癖がある。ベランダに出て、夜風を受けながらぼうっと月を眺める。スマートフォンやパソコン、ブルーライトから一時目を避難させる。すると、心に少し余裕ができる気がするのだ。たそがれていると茶化されるのが嫌だから、誰にも言ったことはないけど。
 そこへ、
「いい天気ですね」
と声がしたのだった。
 隣のベランダに続くパーテーションの隙間から、グラスを持った手がひょっこり覗いた。やはりその日も、アメールピコンが琥珀色に揺れていた。
 グリーンカーテンの向こうで、オクトさんはにこにこと笑っていた。
「夜なのに、ですか」
 彼女は不思議そうな顔をした。
「夜にお天気の話をしてはいけない?」
 驚くほど流暢な日本語だった。
 僕は空に視線を戻した。煌々としたまん丸の月以外は真っ暗で、星も雲も何も見えなかった。
「確かに、いい夜です」
「そうでしょう」
 彼女は笑ってグラスを傾けた。
 しばし、沈黙。風の音と遠くのクラクションだけが聞こえた。
「それ、切らないんですか?」
 僕は隣家のグリーンカーテンを指さした。
 そのグリーンカーテンの正体はゴーヤだ。もう既に引っ越した下の階の住人が残していったもので、一階の地面から、僕らの住まう三階のベランダまで好き勝手伸びている。二階の住人はいないし、四階はないし、僕のベランダは難を逃れているし、管理人は知らんぷりを決め込んでいる。だから、お隣さんが気にならなければ、それでいいのだが。
 お隣さんは、
「切りませんよう」
と言った。
「ちょうど庇が欲しかったんです。それに、」
 彼女はグラスを傾けた。
「麻酔もなしに切られるのは、可哀想だわ」


「メデューサ」
と、僕が言うと、オクトさんはグラスを傾けたまま、ぱちぱちと瞬きをした。
「その心は?」
「オクトさんと目が合うと、動けなくなる感じがする」
「なんですか、それ。告白ですか」
 そうだ。告白だ。などと言えるはずもなく、僕は口ごもった。
 オクトさんは口元に笑みを浮かべて、目を閉じた。
「近いものはあります」
「何かヒントは?」
 鳶色の瞳が細められる。
「姉が七人います」


 ある日、ベランダに出ると、琥珀色に輝く液体が、瓶の口から、下に流れ落ちていくところだった。
「何してるんですか」
 慌ててパーテーションの向こうを覗いた。
 オクトさんは両手にアメールピコンの瓶を持ち、階下に酒を撒いていた。取り乱した様子はなく、落ち着いた、ゆっくりした動作で、口元に笑みを浮かべている。
「やはり切ろうと思うんです。その為の餞別です」
 グリーンカーテンのことを言っているのだろう。しかし、高価な酒を地面に撒くなんて。
「勿体ない」
「そうかしら?邪魔者を成敗するためには、必要な経費だわ」
「酔ってるんですか?」
「ええ。斬られても平気なように」
「誰も斬りませんよ」
「本当に?」
「だって、斬る必要がない」
「当然です。その為に、足を洗ったんですから。ふふ、もともと、足なんてありませんでしたけど」
 空になった瓶から、琥珀色の水滴がぽたりぽたりと垂れる。
「須佐さん、」
と、彼女は僕の名前を呼んだ。
「夢見心地で死ぬのは素敵でしたよ」


 むかしむかし。ある村に八人の娘がいて、毎年一人ずつ、八つ頭の大蛇に食われていった。
 最後の一人が食われる年に、とある青年がやって来て、八つの酒樽を用意させた。八つ頭の蛇はそれぞれの酒樽に頭を突っ込んで酒を飲んだ。青年は酔っぱらった八つの首を斬り落として大蛇を退治し、元来食われる予定だった娘と結ばれた。めでたしめでたし。


「仕返しするつもりなんてないわ。姉たちとさんざん、好き勝手、悪いことをしましたからね。その代わり後悔もしません。姉たちが食べていたご馳走を、私だけ食いっぱぐれてしまったけど、そんなこと気にならないくらい、あのお酒はおいしかったわ」
 夜風に鳶色の髪が揺れている。月光に濡れたような瞳は微笑んでいる。瞳の色はその昔、赤色だった。
 彼女は三本目のボトルから、室外機の上に置いてあるグラスに酒を注いだ。そしてそれを僕に差し出す。
 僕は盃を受け取った。三角錐の中の琥珀色が揺れる。
「僕が酔い潰れた後、仕返しをするつもりですか?」
「そんなことしないわ」
「どうでしょう。蛇は執念深いから」
「偏見です。それに、どうして未来のことなんて考えるんです?今日のお酒が美味しければ、明日死んでも、何も憂うことなんかないわ」
「まったく、懲りてないんだから」
「ええ、その通り。でもそれでいいんです」
 彼女は自分のグラスにアメールピコンを注ぎ、高く持ち上げた。
「好い夜に」
「好き隣人に」
 僕もグラスを掲げ、彼女のグラスと縁を合わせた。満月を透かした琥珀色の模様が、きらきらと揺れている。
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