第1話

文字数 23,584文字

今日も暑い。
誰もいない砂浜。
置きざりにされた小さなボート。僕の揺りかご。安全地帯。
学校が終わると、僕は毎日ここに来る。
誰も来ない砂浜のボートの中。僕はごろりと仰向けに寝転ぶ。
バカみたいに大きな、果てしない青い空を見上げる。
そして、祈る。
今日で僕が終わりますようにと。
でも。きっと。
終わらない。
そしてまた目が覚めて……とぼとぼ家に帰る。誰かの家。僕の家じゃない家。
もう耐えられない。そう思っても、また次の1日がやってくる。
永遠。繰り返す。
そんな絶望だけを感じる長い午後。
僕は君と出会った。
青い空。白い雲。
青い海。白い砂。
黒い僕。白い君。
向こうの家から持ってきた本を開く。
夜、眠れなくなってから、テレビや音楽は僕にとって雑音になってしまった。
だから本がいい。読みたければ進めて、嫌なら目でも本でも閉じればいい。
今日は7行読む間に眠りに落ちた。
このまま、目覚めなくていい。
それは本心。そう。それでいい。


次の日の午後。
昨日と全く同じ1日。もしかして今日は昨日なのか?
午後。いつものボートへ向かう。
明日から夏休み。
父親からは帰ってくるなと言われた。
これから四十日。他人の家で他人と過ごす。
行く所も、学校すらない毎日を。この島で。
あぁ誰か僕を……なんて、都合がいいな。
いつものボートに手をかけた。先客がいた。
先客。え?誰だ?
この島の人間じゃない。この島の人間は全員顔を知っている。つまりそれくらいしか人間がいない。
それともう一つ、この島の人間じゃない理由は色白。この島で色白ではいられない。
見覚えのあるTシャツ。ひざ下の切りっぱなしジーンズ。金髪。左耳にピアス3つ。
先客。困った。
行く場所もない。僕はボートの影ができている砂にごろりと寝ころんだ。
「砂まみれになるよ」
上から声が降ってきた。
見上げたぼくの目に、バカみたいな青空以外が映った。人の顔。僕を見ている。
「誰ですか?」
返事をせずに、金髪は煙草に火をつけた。
なんだよ、自分で話しかけてきて。
「この船、ボクの?」
僕はムッとした。
「僕はアツシ。あんたは?」
「ケント。こっち来なよ。二人座れる」
僕は無言で乗り込む。僕たちはなぜか並んで座った。二人とも海を向いていた。
ここは落ち着く。寝転べば、誰からも見えない。
「ここが好きだ」
僕は言った。
「知ってる」
ケントが返した。
僕は寝転んだ。
「ケント、煙草ひと口くれる?」
僕が言うと、ケントは黙ってぼくの口元に煙草を差し出した。僕は一口もらった。
約4カ月ぶりの煙草。美味しい。
向こうの家にいたころは、煙草がないと手が震えていた。ニコチンの禁断症状というより、強い依存の禁断症状だと思う。
依存するものや人がないと、僕は禁断症状が出るらしい。
僕は生きるのに、いろいろな不都合を抱えていた。
「僕は眠る」
とケントに言った。
「おやすみ、アツシ」
僕は眠った。


目が覚めたらケントは消えていた。
うっすら煙草の匂い。帰ったばかりかな。
夕方。でもまだ空は明るい。
この島では夏の間、20時過ぎまで西の空が紅いらしい。本当に日本かよ。
僕は大あくびをして伸びをした。
シャツの胸ポケットで音がする。音の主は丸めた小さな紙。取り出して広げる。
“夜、迎えに行く”
ケントの字?僕の家を知っているのか?
島は狭い。人は少ない。聞けばすぐわかるだろう。
そういえば。ケントの服は僕の服とよく似ていた。たぶん、引き出しを探せば同じようなTシャツがあるはずだ。
ケントみたいな服でケントを待つ。
そう決めたら、この島に来て初めて楽しくなって少し笑った。
けれど笑い声は出なかった。


島ではドアも窓も開け放して眠る。
というか、この家に窓はない。いわゆる窓の部分には、雨戸だけ。
初めて見たとき、窓ガラスがないなんてと心底驚いた。
けれど島民に知らない人はいない。周囲に人の住める島はない。
だからこれでいいのだと今は分かる。
僕も雨戸を開けて寝る。眠ることはない。
ただベッドで寝転んで、夜をやり過ごす。
当てがわれた部屋の、当てがわれたベッドの上。
1秒ごとに、夜が減るのを見つめる。
僕の部屋は裏庭に向いている。家の人は、表の庭から入った大きな部屋で寝ている。2つの部屋は離れていた。
僕は一晩中起きている。トイレにも行く。
でも家の人に会ったことはない。きっと一晩中起きない人たちなんだろう。
そして家の人たちはとっくに寝ていた。
「来たよ」
ケントは無音で入ってきた。でも僕は、うっすら漂う煙草の匂いでケントが来たのを知っていた。
「ケント。なん歳?」
「海に行こう。毛布持って」
ケントは僕の質問に答えないな。
僕たちは、縁側に脱ぎ捨ててあるゾウリをつっかけて外に出た。
「俺とお揃いの服。わざと?」
ケントをからかうつもりだったのに、なぜか僕の顔が熱くなった。僕がからかわれているようだった。
「僕は夜、眠らない」
顔が赤くなっているのを悟られないように、僕は話をそらした。
「知ってる。だから来た」
人が住める場所が少ししかない島。部落からは歩いてでもすぐ海に出る。
今日会ったボートに乗り込み、僕たちは寝転んだ。
ケントが腕枕をしてくれた。二人で毛布に隠れる。
「キャンプみたいだ」
僕はちょっとワクワクして言った。
「だな」
ケントは僕より少し年上。きっと。
「アツシ、あっち向いていいよ」
「なんで?」
「右下にして寝るの、クセでしょ?」
僕は少し笑った。
「僕のことで知らないこと、ある?」
「ある。アツシの気持ちは分からない。でもアツシの行動は分かってる」
「僕の気持ち」
「そ。今どんな気持ちかも正直分からない」
「今は不思議と楽しいの半分半分」
「そっか。ならよかった」
「なにが?」
「怖いとか、つまらないとかじゃなくて。俺も楽しい」
「ケントが楽しいなら僕は嬉しい」
あっち向いてもしゃべれるからとケントに言われて、僕はケントに背中を向けた。
僕はケントの腕に納まり、ケントは僕の背中にぴったり貼りついた。
線が重なる。
僕たちは引き出しの中のスプーンのように、ぴったり重なった。
そして自分が一番驚く。僕は眠った。
夜眠るのは3年か4年ぶりくらいだった。

宿題以外、なに一つやることのない夏休み。
ケントのおかげで夜、眠れるようになった。
だから昼間は宿題と、家の畑の手伝いをしてみた。楽しくはないけど退屈はしなかった。
そして夜になるとケントと海へ。
僕たちは毎晩、引き出しのスプーンのように、ぴったり、線を重ねて眠った。
「先生、質問」
「なんですか?アツシくん」
僕たちは笑った。
「僕の気持ち以外は分かるって言ってたでしょ?」
「まぁね」
「タバコ吸ってたのも?」
「うん」
「僕がここに送られた理由も?」
「なにがあったかは知ってる。でもその時のアツシの気持ちや理由は分からない」
「そうか」
「他にも知ってることあるよ」
「例えば?」
「付き合ってた女の子のこととか」
僕はバッと起き上がって、
「ど、どこまで知ってるの?」
と聞いた。
僕の声が大きくて、草むらで驚いた動物か虫が抗議するように鳴いた。
「人数とか~したこととか~名前とか?」
ケントはニヤニヤしながら言った。顔がめちゃくちゃ熱い。
「見てたの?」
「見てないよ。からかってごめん」
僕は恥ずかしいのを我慢して、
「僕ってヘタクソだった?」
と聞いた。そう言われたことがあった。
ケントは不思議そうに、
「あの子たちを好きだった?」
と聞き返してきた。
「好きって……どんな気持ちなんだろう」
「分からないってことは、アツシはまだ好きを知らないんだ」
僕はうなずいた。
「そうだね」
「あのね、好きじゃない子と何かしても気持ちよくないし、身勝手になるんだよ」
「身勝手?」
「自分だけ気持ち良ければいい、ってなる」
「ああ、うん」
思い当たることがあった。
「好きな人としてたら、その人も一緒に気持ちよくなってほしいと思うんじゃん?」
僕は黙っていた。
「アツシはまだ若いから、身勝手だったとしても仕方ない」
ケントはそう言って、いつか分かるといいねと付け加えた。
「分かりたいと思う。まだ知らないことを知りたい」
「きっと、そんな日が来るよ」
僕は付き合っていた子たちに、悪いことをしたなと思った。たぶん、あの子たちの誰も好きじゃなかった。
「おいで、アツシ」
僕はいつものように、ケントに抱かれた。
「大丈夫だよ、いつかわかるから」
ケントが言ってくれた。
僕は次に好きになるなら、それはケントだといいなと思った。そう思いながら眠りに落ちた。

夏休みの初めの月が終わるころ。つまり僕がケントと一緒に眠るようになって10日ほど経ったころ。
「ケントにお願いがある」
僕は照れくさいのを我慢しながら言った。
「いいよ」
「いいって、なにが?」
「ピアス開けたいんでしょ?いいよ」
ケントは特別。そう分かっていても、たまにゾクッとする。たとえば今とか。
「なんで?分かるの?」
「今朝かな、書いてたよね?手帳かなにかに」
僕は思い出した。手帳みたいなノートに、ケントに感じたことや、ケントに聞きたいこと、伝えたいことを書き込んでいた。
「見てたの?」
「うぅ~ん、ちょっと違うかな」
うまく説明できないとケントは言った。
「いいよ、説明なんて。ケントが僕に興味があって、知ってくれるのは嬉しいから」
「俺にとって、アツシは特別。それは知ってるでしょ?」
ケントに言われて、僕はまた顔が熱くなるのを感じた。これってなんなんだろう。
ケントに特別扱いされたことが、照れくさくて恥ずかしい。でも全然、嫌な気持ちじゃなくて、少し威張りたいような気分。
「ケントと同じにしたい」
僕が言うと、ケントが小さく笑うのを耳元で感じた。僕は少しカッとした。
ケントの腕からするりと抜け出して座り、ケントを見下ろす。
「どうして笑うの?」
僕は怒った声で言った。
「可愛いくて。たまらなく好きだよ」
ケントは起き上がり、僕にキスをした。
僕は怒りが体から抜けていくのを感じた。
ケントとの初めてのキスは、少しの煙草の匂いとケントの匂い。フワフワの中にいる。
ケントが唇を離した。
「待って、もう少し」
口にして、また顔が熱くなる。
ケントはもう一度キスしてくれた。さっきより長く、僕たちはキスをした。
「俺との初キスの感想は?」
ケントに聞かれて、
「ふわふわだ」
と、正直に言った。
「綿あめみたい?」
「ううん。僕は雲の中にいる」
「それって誉めてるの?」
僕は真っ暗な海を見つめた。
今のは誉め言葉だ。いままでのどの女の子とのキスより、甘く、後を引くキス。
もっと。もっと。もっとしたくなる。
「黙ったらズルい。アツシの気持ちは分からないんだから」
僕は海を見たまま、小さくため息をついた。
「え、なんのため息?」
ケントが、少し機嫌悪そうに言った。
「ごめん。いろんな気持ちがわやわや湧いてきて。何をどう話したらいいか」
僕は、ケントに分かってもらえるように話せるか、自信がなかった。
「いいんだよ、アツシの話したいときに、話したいように話せば」
「話したい。ケントに僕の気持ちを知って欲しいし、できたら分かってももらいたい」
僕は正直に伝えた。
「大丈夫。俺は分からなかったら何度でも聞くし、しつこいかもだけど、分かるまで説明してもらうから」
「ほんとに?そんなに僕を待ってくれる?」
「もちろん。でも今みたいに黙ってため息とかは、悲しくなるからやめてほしいかな」
と言って、ケントはにっこり笑った。
僕はなぜか、ケントのうなじに手を伸ばした。ケントはジロリと僕を見て、
「俺に触るのはまだ早い」
と言った。
その時の目つきが、過去に見たどのグラビアの女性たちより僕をゾクゾクさせた。
下半身が暴れそうだ。大丈夫か、自分。
「明日、ミッキー凍らせといて」
すごく普通に言われた。
「分かった」
ミッキーはビニールの細長い容器に入ってる、凍らせて半分に折って吸うジュース?アイス?の事。
僕たちは、いつものように重なって寝転んだ。そしておしゃべりした。
ふと思った。後ろから抱いてくれるこの腕が、ケントの腕が無くなったらと。
どうってことはない。ただ前の自分に戻るだけ。夜、眠れない自分に戻るだけだ。
たいしたことじゃない。余計なことを考えるな。
そう自分に言い聞かせて、恐怖を沈めた。
その夜は眠るのに少し時間がかかった。
でも起きていたからといって、この気持ちを整理できるわけでもなさそうだった。

 
ケントは初めてキスした翌日、最初のピアスを開けてくれた。
道具もピアスも、ケントが持っていた。
凍らせたミッキーで耳たぶをはさんで冷やし、バシっと一発。
「夏は化膿しやすいから、自分で朝昼、消毒してな」
「うん」
「夜は俺がする」
ケントは痛かった?と聞いた。全然と言うと、偉いなとキスしてくれた。
でも実は、本当に痛くなかった。僕の痛みのセンサーみたいなのは、もしかしたら壊れているのかもしれない。
それでも、他にも何かしたら……頑張ったら。ケントはもっとキスしてくれるのかな。
そこまで考えて、また顔が熱くなった。どうしちゃったんだろう?こんなに……。
「アツシ、おいで」
いつものようにケントに後ろから抱かれて眠った。
それから3日様子を見て、ケントはあと2つ、ピアスホールを開けてくれた。
その時も、痛くないから痛くないと言ったらキスをしてくれた。
僕たちは毎晩一緒に寝ているけれど、毎晩キスをするわけでも、その先に進むわけでもなかった。
「ケントにキスしてもらうの、好きだよ」
僕は言った。
2つピアスホールを開けた後、僕たちはボートの中で、真っ暗な海を向いて体育座りをしていた。
「俺も、アツシとキスするの好き」
暗くて見えないのに、僕は恥ずかしくて顔をそむけた。
「なに?無視?」
「違うよ、恥ずかしいから」
僕が言うと、ケントは僕の髪をクシャクシャにした。
「前にした、好きの話し」
「うん?」
「少し話していい?」
「もちろん」
僕はもう一度、頭の中を探って最初に言う言葉を見つけた。
「気味悪いと思うけど。僕が今まで好きになったのって、たぶん弟と父親だけなんだ」
「ふうん」
ケントの表情が見たい。
「言っておくけど」
ケントが言った。
「俺はアツシがなにを言っても気にしないし平気。過去アツシに何があっても終わったことで、まだ終わっていない、誰かに対する何かの感情を持っているなら」
「うん?」
「俺がその感情を放り出すの、手伝うよ。もう必要ないなら」
ぽーんって、海に蹴っちゃえばいいんだよとケントは言った。
僕は珍しく、声を出して笑った。僕が声を出して笑わなくなったのは、たぶん夜眠らなくなったのと同じ頃からだろう。
ケントは僕の不具合を2つも簡単に取り除いた。夜眠れないのと、笑えないのと。
だとしたら、僕がまだ知らない好きも、ケントとなら見つけられるような気がした。
ぼくの好きも変形だけど、弟も父親も、僕が自分たちの思い通りの兄や息子でいる間だけ僕を好きだった。
そっちも十分変形だろ?
彼らにとって都合のいい型からはみ出したとたんに、僕は邪魔者扱いされてしまった。
僕は二人が僕に興味を失った瞬間を、まだ鮮やかに覚えていた。
ケントは違うのかな。僕がどんな僕でも、ケントにとって都合のいい僕でなくても、僕の前から消えたりしない?それでも僕を特別だと言ってくれる?
ケントに、たくさんたくさん聞きたいことや、言いたいことがある。何から手を付ければいいんだろう?
「僕は独占したり所有したり、自分や相手を都合のいい型にはめる好きしか知らない。いまケントに持っている感情が、僕の知らない好きなのかを、たぶん知りかけてる」
ケントはそっか~と言った。
「アツシ、もっと俺を信じていいんだよ?俺はアツシがたまらなく好きだし、特別だし、俺に必要な人だと知っているから」
急に、月が雲の間から顔を出した。
月光に照らされたケントの顔は、白く透き通るようで……僕は見とれた。
「きっとこれから、アツシが知ることはたくさんある」
「そう?」
「そうだよ、16年くらいで何もかも知った気でいるの?」
ケントは可愛く笑った。この時初めて、ケントを可愛いと思った。
だからやっぱり初めて、僕はケントを抱きしめた。
「アツシが大人になるのを隣りで見ていられるなんて、俺はラッキーだ」
ケントが言った。
僕にはそれが、この先もずっとそばにいると聞こえてくすぐったかった。
僕たちは、いつもみたいに寝転んだ。
線を重ねる。
三度目の正直?二度あることは三度ある?
どっちに転ぶか、僕には分からない。でももう一度、誰かを……ケントを、信じてもいいのかな。と思うのと同時に眠りに落ちた。


ピアスホールが3つとも安定してきた。ジクジクもしていない。もう普通のピアスができそうだ。
ケントとお揃いになった僕はご機嫌だった。
もうすぐ夏休みが終わる。
その前に、新学期の準備で大きな島に行くことになった。
そのことをケントに伝えた。
「じゃあ俺も先行って待ってるわ」
「一緒に行けるの?」
「友だちの船で行く。少し買いたいものもあるし、新しいピアス欲しいと思ってたし」
僕もケントと同じピアスが欲しいと思っていた。同じじゃなくても似てるヤツ。
「コレあげる。最初のホールにしてみよ?」
ケントが自分のと同じピアスをくれた。
「セット売りの、コレの片割れ」
と自分のピアスをつついた。
外すよと言って、ケントの指先が耳に触れた。僕は唇を噛んで堪えた。
「痛い?」
「違う」
僕の顔を覗き込む。僕の表情を見ながらピアスを付け替えてくれた。
「触られたから」
「嫌だった?毎晩抱いてるけど」
「違くて。声が出そうで」
顔が熱い。下を向いてごまかそうとした僕の顔を、ケントは顎をつかんで持ち上げた。
「どんな声?」
と聞いてから、ケントは両手でマスクみたいに鼻と口を覆い、
「もしかして、俺のこと意識してる?」
と聞いた。
「たぶん。うまく説明できないけど」
顔がものすごく熱い。でも僕はひるまずに、またケントのうなじに手を触れた。そこはひんやりしていた。
今日は、ケントは僕を止めなかった。
「ケントを。もう一度誰かを信じるって決めたんだ。ケント以外なにもいらない」
「そうなの?」
「うん。だから好きになってもいい?」
僕は返事を待たずにケントを引き寄せ、僕からキスをした。長い長いキス。
唇を離して、僕はケントを強く抱きしめた。
さっき、僕が出しそうだった声をケントが出した。
「好きだよ。ケント」
「俺もアツシがたまらなく好き」
僕はケントのピアスにキスをした。ケントが息を漏らした。
僕たちはいつものように横になり、線を重ねてぴったり貼りついた。
「本当に俺を好きになるの?」
ケントが聞いた。
「僕はケントを自分の好きな形にしたいと思ったことがない。だから好きじゃないんだと思ってた」
「ちょっとサイコだね」
「怖い?」
僕が聞くと、ケントは笑って全然と言った。
「いまのままのアツシが好きだし、変わっても好きだと思う」
「変わる?」
「大人になるとか」
「そっか。変わるかな?」
「分からないけど。年を取る間には、ほかの好きな人ができるかもだし」
「え?やだよ。僕以外好きにならないで」
ケントは笑って、アツシもねと言った。
「ずっと一緒にいて、同じものを見て聞いてたら、同じように変わるかもしれないけど」
ここで息継ぎをして、ケントは続けた。
「違ってもいいんだよ。違っても似てても、俺はアツシが好きだからね」
「ケントの形を変えようと思わないけど。もっと会いたいとか、もっと話したいとか、もっとキスしたいって思う。だからこれが好きなんじゃないかと思った」
「もっとしたい?」
「したい。でもケントはしたいかな?って考えることが何度もあった。こんなの初めて」
ケントは小さく息を吸い込んで、僕をそっと抱きしめた。
「ピアスありがとう。嬉しい」
アツシが嬉しいと俺も嬉しい、とケントは言った。
さっき僕は、ケント以外なにもいらないと言った。でもそれには続きがあって。
僕はケントのすべてが欲しいと思い始めていた。
それは本心。でもケントが知ったら僕から離れていきそうで……怖かった。
だから悟られないようにする。ただケントを好きなだけだと思わせておきたかった。
眠りに落ちる前に、別の島での待ち合わせのことを話した。
家の人が買い物をしてる間に、僕も一人で買い物をするふりをしてケントと落ち合う。
きっと。うまくいく。
二人で少しだけ自由な時間を過ごす。それからまたこの島で夜を味わう。
今はもう、夜は楽しく、味わうような時間になっている。眠っているのに。
「愛してる」
僕は寝言と告白の中間のように言って、眠りに落ちた。
僕の意識がある間に、返事はなかった。

2つ先の島は、文字通り大きな島だった。
コンビニもファストフードもある。タクシーも走っていた。
こんな近いのに、僕のいる島との違いはなんなんだ?
家の人に言ったら、人口が違うと言われて会話は終わった。
家の人が買い物をする間に、髪を切ってきなさいとお金を渡された。
「学校で使うものとお菓子も買っていいよ」
おばさんが言った。
「島だと買えないから」
「でもお金、あるんで」
僕はお金を返そうとしたけれど、いいから使いなさいと受け取ってもらえなかった。
「畑、手伝ってもらったし」
おじさんが、ぶっきらぼうに言った。
待ち合わせ場所と時間を決めて、家の人とは商店街で別れた。
僕はケントと待ち合わせた郵便局を目指して歩いた。商店街のすぐ近くだった。
ケントは郵便局の前で待っていた。
誰も知らない場所でケントと二人きり。
そう認識した時、しまい込んで鍵をかけたはずの感情が、暴れながら外へ出てきそうなことに気が付いた。
「アツシ」
僕を呼ぶケントに駆け寄り、
「手、つなごう」
とケントの手を取った。さっきの黒い嫌な感情は、もう一度胸の奥に閉じ込めて鍵をかけた。
僕たちは仲良く歩き、商店街から少し離れたアクセサリーショップに行った。
たくさん並んでるピアスを見る。僕はどうしても、ケントがしているのと似ているピアスにばかり目が行ってしまう。
「俺と同じのがいいの?」
考えていることを見透かされて、僕は赤くなった。
「じゃあ、1つずつ買って半分こしようか」
僕は激しくうなずいた。
「選びなよ」
僕はターコイズが星形になっているのがカッコいいと思い、それを選んだ。
ケントはシルバーの三日月のピアスを選んでいた。
いまケントにもらってしているのは、ロイヤルブルーのガラスのピアスだった。
「これ買ったら、いまのヤツ外してコレ付けるからね」
「全部お揃いだ」
と言った僕は、満足しすぎてにやにやしてしまった。
お金は僕がまとめて払った。
レジでお金を払うとき、店の人が変な顔で僕を見た。僕は気にしなかった。田舎だから男同士が珍しいんだろう。
港の近くにある大きなホテルまで歩いて、ロビーの手前のトイレに入る。
お互いの耳にいま買ったピアスを付け合いっこした。
鏡の中の二人を見つめた。
「似合ってるね、二人とも」
ケントが言った。
僕はケントを抱き寄せた。抱き寄せると、今度は離したくない衝動が押し寄せる。
今まで。どんな女の子と付き合っても、こんなに強く離したくないという気持ちを抱いたことはなかった。
彼女たちとはいつでも簡潔に別れられた。
僕は少し、自分が怖かった。
あの時、父親と弟に抱いた執着心。
ケントへの気持ちは、やっぱりあれに近づいてる気がする。
ただ違うのは、二人には僕のものだという謎の確信があったけれど、ケントに対しては、まだそれがない。
ケントはまだ、僕のものではない。誰より僕がそれを知っていた。
「早く島に帰りたい」
自分でも信じられないけれど、いつもの場所でケントと二人きりになりたかった。
「俺もアツシと二人になりたい」
ケントが言った。
あぁ。もうっ。
僕はケントを壊してしまうくらい強く抱きしめた。
感情が自分の手に余る強さでケントに向かう。僕の感情だけど、僕にコントロールできるとはとても思えなかった。
これじゃあ向こうにいたときと同じだ。
「行って、ケント。僕から離れて」
僕はケントを離して押しやった。
「アツシ?」
「お願い。島で会おう」
「うん、でも」
「いいから、行って」
「分かった」
ケントはそう言って、静かに出て行った。
僕は手洗いの蛇口の下に頭を突っ込んで、水を浴びた。ここで自分を足止めしないと、ケントを追いかけて……。
追いかけて?どうするっていうんだ?自分に問いかけたけど、答えは出なかった。
水道の横にあるペーパータオルをこれでもかってほど引っ張り出し、僕は髪を拭いた。
どうせ切るんだ。濡れていてもいいだろう。
髪を拭く。大きく深呼吸する。鏡を覗き込む。
よし、いつもの自分だ。
誰も入ってこなかったことに感謝して、僕は髪を切りに向かった。

髪を切ったらピアスが目立つ。
当然家の人も気づいた。いつ開けたのか聞かれたが、前から開いてた、ピアスをしていなかっただけだとシレっと嘘をついた。
大きな島から帰った夜。僕とケントはいつものボートにいた。
「今日どうした?気分悪かった?」
ケントに聞かれた。
僕はケントに、いつものように抱いてもらった。僕たちは引き出しのスプーンのように、いつも通り線を重ねていた。
「ううん。変な態度でごめん。ちょっと、自分が嫌だった」
「そうなの?」
「あんな僕をケントに見られたくない。僕、ケントを型にはめたいと思ったことはないんだけど」
「うん」
「今日、ケントをどこかに閉じ込めたいって思ったんだよ」
「またサイコだな」
ケントは笑ってくれたけど、本当なら気持ち悪がられるところだ。
「俺を閉じ込めて、どうするのさ」
ケントが聞いた。
「眺めるとか?いたずらするとか」
「ううん、ただ誰にも見せたくないとか、触らせたくないと思った」
「じゃあ隠しておく?」
「そうかな。僕も一緒にそこにいる。二人きりでいたいと思った。でもこれってあまり良くない考えだよね?」
「う~ん、どうだろう」
ケントは起き上がって、久しぶりにタバコに火をつけた。
「俺もね、アツシを独り占めしたいと思うこと、あるよ」
「ほんと?」
「学校にも行かせないで、家にも帰らせないで、俺の家で暮らせばいいのにってね」
僕はそうしたいと思った。
「でもやっぱり、それってあまりいい考えじゃないと思うからさ」
僕は指を出して、ケントからタバコをもらった。深く、一口吸い込む。気分が落ち着く。
「僕たちに、なにが大切なんだろう」
僕は聞いた。
「いまは学校行ったら?16なのに中学生とか、可愛すぎる」
ケントが笑った。僕もつられて笑った。
「きっと俺たちはお互いを好きすぎるのかもね。だから閉じ込めたくなる」
「うん、そんなカンジ」
僕はタバコをケントに返した。
ケントを閉じ込められたなら。
もしたとえば、ケントが入る鳥かごがあったら。確かに僕は、ケントを閉じ込めるだろうな。
そして好きなだけ眺めて、撫でて、キスもする。そこまで考えて、僕の顔がまた熱くなった。
「なに考えてるの?顔、真っ赤だよ」
今夜は月が眩しい夜だった。
「ケント、僕の話を聞いてくれる?」
ケントはもちろんと言った。
僕は弟や父親ともめて、この島に流されたとケントに言った。
「もめたとかケンカとかってレベルじゃない気がするけど。アレ」
僕はしばらく黙った。
そうだった。僕がしたことをケントは知っている。そんな人にアレを話すのは、正直バツが悪かった。
「そうだね。もめて、こっぴどい目に遭わせた、ってカンジかな」
「殺してないならいいんじゃん」
ケントは大人びた声で言った。
「だね、死んでないよ」
僕たちは笑った。
「アツシが話したいなら聞くけど、俺にウソついたりしなくていいからね。それに言いたくないことは言わなくていい」
僕は迷った。僕が向こうでしでかしたこと。
それは人に話しても仕方ないし、話してどうなることでも、理解してもらえることでもないだろう。
それにケントはこの話を聞いたら、僕を嫌いになるんじゃないかという不安。嫌われたくない。絶対にだ。
ケントは、どんなことがあったかは知っていてもどうしてそうなったかとか、その時の僕の気持ちまでは分からないと言っていた。
今でも悪いことをしたとは思っていない。
僕はするべきことをした。ある意味願いをかなえてやろうとしたんだ。二人の。
その時の詳しい自分の気持ちや、誰かを責める思いは、まだ誰にも話していない。
保護観察官にも、警察にも、精神科医にも、もちろん痛い思いをした当人たちにもだ。
それを今さら、ケントに話すのか?そもそもどうして話そうと思ったのか。分からない。
「初めは弟だったんだ……」
僕はそれでも、言い訳を極力入れないように、気を付けながら話し始めた。


両親の離婚で、弟は母親と神戸へ行くことになった。そこが母親の実家だからだ。
父親が僕を引き取ると譲らなかったので、僕は残ることになってしまった。
僕と弟は仲が良かった。僕は弟を大事にしていたし、弟は僕を大好きだった。
僕たちはそれぞれの個室を持っていた。でも弟は、毎晩僕のベッドに入り込んで、僕と一緒に眠っていた。
ちょうど、いまの僕とケントのように。
どう考えても弟は僕のものだった。そして僕も弟のものだった。僕たちはお互いに、お互いを所有していた。
弟に神戸に行きたいか聞いたら、行きたくない、兄さんと一緒にいたいと泣いた。
お母さんより兄さんの方がずっと好きなのに。兄さんとずっとずっと一緒だと思っていたのにとワーワー泣いた。
だから僕は、行けないようにしてあげた。
それからしばらくして、弟に大けがをさせた僕を、母親と弟だけでなく、父親までもが疎ましく思い始めているのを感じた。
さらに時間が進むと、両親の離婚の原因になった女が、僕と父親の間に入ってきた。
僕を引き取ると言い張った父親が、僕より別の人間、つまり女を引き取りたがっている様子が感じ取れた。
もとはと言えば、父親が変な意地を張って僕を手放さなかったから、結果弟にケガをさせるはめになった。
今は違うだろうが、あの時、母親は僕も連れて行くつもりだった。僕は弟と一緒にいられるなら、それがどこだって構わなかった。
母親への当てつけと、自分のお気に入りの僕を手放すのがシャクに触るという理由だけで、父親は僕を置いて行かなければ離婚に応じないと母親を追い詰めた。
母親は、一刻も早く父親と離れたいという理由だけで、僕をある意味生け贄にした。
あの頃、父親は僕だけがお気に入りで、僕だけに執着していた。それが実はその先の、母親への執着のゆがんだ表現だったとしても。
結局、弟と母親は弟が少し動けるようになると、そそくさと神戸に行ってしまった。
そんなある日。父親が、酔って女と大声で電話をしながら帰ってきた。
僕は話があって父親を呼び止めた。
「お前は後回し。こっちが先」
父親はそう言って、待ってりゃいいんだよと付け加えた。
キッチンカウンターにスマホを置いて、話しながら水を飲む父親。
またスマホに手を伸ばした瞬間、僕は二度と電話を離さないで済むようにしてあげた。
女と電話が大事なんだろう?なら一生、電話してりゃいい。
ケントに知ってほしかったのは、弟も父親も僕と一緒にいたがり、僕を欲しがったこと。
二人のために、僕は二人が望む兄や息子でいてあげた。
だから物理的にも精神的にも、二人が離れていくことに僕は我慢ならなかったこと。
そして弟は神戸に行きたくないと言い、父親は僕より女と話していたいと言った。
僕は二人の望みを叶えてあげるついでに、僕から離れていくことへの抗議を、痛みを与えることで示した。
「それで島流し?」
ケントは僕の左の耳にささやいた。ケントとお揃いのピアスをした耳。
「ケント、僕が怖い?」
僕は聞いた。
ケントは起き上がった。僕もそうした。
「アツシは俺が、どこの誰か知らないでしょ?それなのに毎晩一緒にいるし、好きだって言ってくれる」
「うん」
「怖くないの?」
僕は首を横に振った。
「全然」
「俺も全然怖くない」
「ケントを好きが大きくなりすぎて、どこの誰かなんて考えたこともなかった」
ケントは僕の頭をなでて、俺もたまらなく好きだけなんだよね~と言った。
「ケント、僕を好き?」
「好きだから来た。アツシは分かってない」
「なにを?」
「俺がどんなにアツシを好きか、アツシを欲しがっているか知らない」
僕は嬉しくて、ケントを抱きしめた。もう離したくない。ずっと、このまま。
「アツシ、約束して」
「なに?」
「離れない、離さない」
「うん。約束」
「もし離れても、必ず探し出す。いい?」
僕はその質問にキスで返事をした。
それは今までのような軽いキスではなく、ケントの舌を吸って、僕の舌と上あごで包むような、僕にできる一番濃厚なキスだった。
息が荒くなる。僕のか。ケントのか。
ケントの首から背中に手を這わせ、自分に引き寄せて抱きしめた。
そして思った。女の子とのセックスは何度か経験したが、男との経験はなかった。なにを、どうすればいいのだろう?
「この先は、また今度」
「ケント、やり方知ってる?」
「知ってるけど、今は教えない」
ケントはニッと笑って、いつもの体勢で寝転んだ。僕もケントにくっついた。
「アツシ、元気だね」
「暴れそうだよ、ずっとしてないから」
 顔が見えないから言いやすかった。
「俺がしていい?」
「やだ」
「触らせて、アツシを感じたい」
「やだ、恥ずかしい」
「力抜いて。目、閉じてていいから」
嫌だと言ったのに、ケントはやめなかった。
ケントは僕のTシャツを脱がせて、首から肩、背中に唇と舌を移動させた。
「僕にも触らせて」
僕は言ったけど、ダメと言われた。
ケントは、僕の体が嫌でも反応する場所を知っているみたいに、指や唇を動かす。
そうしながら、右手で僕をこすり上げた。
指で腰をそっとなで上げながら、ケントの舌がわき腹から下に向かうと、僕の我慢は無駄な抵抗に終わった。
でもそれは、今まで寝たどの女の子との行為とも比べものにならない快感。頭がしびれて、恥ずかしいと感じることもできない瞬間。
「好きな人が気持ちいいと、俺も気持ちいい」
ケントが言った。
「もう一つ約束。他の人としないで」
と、つけ加えられた。でも構わなかった。
「うん、絶対しない。約束」
僕が言うと、ケントはそっとぼくを抱きしめキスしてくれた。
首に巻いていたタオルでベトベトを拭いて、僕たちは眠りについた。
ケント以外いらない。また強い執着が、黒い渦になって僕を巻きこもうとしていた。
“構うもんか、巻き込まれろ”
ケントは父親や弟とは違う。だったら飛び込んでも何も起こらないかもしれない。
そんな綿あめみたいな、口に入れたらすぐに消えてなくなりそうな望みにしがみついて眠った。


新学期初日。
学校にピアスをしていく、いかないで家のおじさんともめた。
僕はバカだった。学校に行く時くらいピアスを外したってどうってことない。外して学校に行けばよかった。
それなのに。我を張った。絶対に外さないと言い張った。
外さないなら学校に行くなと言われた。
いま考えたら、これこそ家族の呪いみたいだ。僕を手放さなかった父親の我の張りかたと全く同じ。
そしてそれが、どんな問題を引き起こすかの予測もできずに突っ走る、子どもじみた浅はかな行為。
僕は言われた通り学校を休んで、ブラブラ海に向かった。
ボートの側にケントがいた。
「アツシ、学校は?」
「家の人ともめた」
「こんなとこにいていいの?」
僕は返事をしなかった。
「俺、昨日ピアスのキャッチ落としたみたいなんだよ」
「一緒に探す」
僕たちはボートの中をじっくり探した。
しばらく二人とも無言で目を凝らし、結果僕が見つけた。
「あって良かった」
「ありがとう。予備もあるけど、ものを失くすの嫌なんだよね」
とケントは言った。
どうしてか聞こうとしたら、部落に通じる道の方から、声が聞こえた。
「アツシ、俺見つかるとまずい」
「なんで?」
「今は話せない。俺、行かなくちゃ」
ケントは不安そうな顔で逃げようとした。
今まで一度も見たことのない表情だった。
「待って」
「無理だって。見つかったらもう二度と会えない」
それは絶対に嫌だ。
「僕がアイツら引き付けるから、それから逃げて」
「分かった」
ケントはボートの陰に隠れた。
「ケント、僕を必ず探して」
「もちろん。約束」
「愛してる」
僕はケントの返事を待たずに、そこから走り出した。
僕を追ってきたのは、家のおじさんと学校の先生が二人。3人の大人だった。
僕はこの島の一番高いところを目指して走った。
それは丘の上にある、アパートの3階くらいの高さしかない小さな灯台。
そこまで走って柵を飛び越え、外階段を一気に駆け上がった。息が上がる。
でもさっきの、ケントの不安そうな顔が浮かんでは消える。
二度とケントにあんな顔してほしくない。いつもみたいにちょっと大人っぽく、だけど可愛く笑っていてほしい。
追ってきた大人たちに言いたいことなどなにもない。でも時間を稼がないと。
僕は大声でどうでもいいことを叫んだ。ピアスのなにが悪いとかなんとか。
そして叫ぶことが無くなると、大人を足止めするために飛び降りると脅した。
まぁ飛び降りてもねんざとか脱臼くらい。運が悪ければ骨の一本くらい折るか。
ワーワー騒いで時間を稼ぎ、そろそろケントも逃げ切っただろうと予測して、僕はそこから飛んだ。
たった3階くらいの高さだったけど、飛んだら海が見えて、今日もただ青かった。
そしてその瞬間、痛いほど自由を感じた。
もしかして僕は……と、なにかを思った瞬間、地面に不格好に着地した。
嫌な音がして、僕はゆっくり気を失った。
ケント。逃げられた?
ケント。僕を探して。
ケント。愛してる。
意識がなくなるまで、ケントのことばかり浮かんできた。ケントを愛しすぎてる自分に気が付いた。
でも。きっと。
それはもっともっと前に始まっていた感情。
委ねよう。もう後戻りはできそうにない。
僕は降参した。そして完全に気を失った。


口の中が気持ち悪かった。乾いているのに、ネバついているようなカンジ。
僕は歯を磨くか、うがいをしようと起き上がろうとした。けど起き上がれなかった。
なんでだろう?と、そっと目を開けて見ると、僕の両手両足はベッドに縛られていた。
大昔に母親が読んでくれた絵本の挿絵のような。僕は大男ではないけれど。
自分のいる部屋、窓やカーテンに見覚えがある。消毒薬の匂いが一番しない病院、あるいは病棟。
「やっと目が覚めたね」
やはり消毒薬の匂いのしない医者が、僕のベッドの側にいた。
「ただいま、精神科」
僕が言うと、医者は笑った。
2度目の騒ぎを起こした後、かなり長く入院させられた。全てに見覚えがある。どこも似ているんだなと思った。
「名前と年齢、学年言える?」
「アツシ。16才。中学三年」
「なぜ16で中学に通ってるんだい?」
中学の出席日数が全く足りなくて、まだ卒業できていないからだと説明した。
大丈夫そうだね、と言ってから、医者が説明を始めた。
飛び降りのケガは1カ月くらいで治る。
痛みが引いたらリハビリをする。それで元に戻るそうだ。
「それより飛び降りの件、君は自殺するタイプに見えないんだけど。違う?」
僕はだんまりを決め込んだ。隠し事があるときは余計な口は利かないほうがいい。と、前の二回の騒ぎで学んでいた。
「前の時も全く話してもらえなかったと、警察もカウンセラーも言ってたけど。今回もそんなカンジ?」
ケントはどうしたかな?と考えて、ちょっと不安になってソワソワした。
「トイレは行っていいの?」
返事をせずに、僕は聞いた。
「今は必要ないでしょ、管入ってるし」
医者に言われて、改めて見た自分の姿が情けなくて、僕は目を背けた。いろんな太さの管だらけだった。
「君は3日間意識がなかったのと。ここはH島。君の島でも、ちょっと大きな島でもないから」
抜け出そうなんて思わないでくれよ、と、医者は言った。
「管まみれ過ぎて逃げられそうにない」
僕は両手を上げて言った。もちろん降参する気はない。
「欲しいものは看護師に。質問は?」
「僕のピアスは?」
医者は不思議そうに僕を見た。
「もめ事の原因だろ?そんなに大事?」
「はい」
返してもらえるなら逆立ちしたっていい。
「アレでケガさせたりしないでよ」
「看護師さんや医者にはなんもないんで」
せめてお医者さんって言えよなーと笑って、医者は部屋を出て行った。
少しして、看護師が入ってきた。僕は歯を磨きたいと頼んで、手伝ってもらった。
それからピアスを返してもらい、鏡を持ってもらって付けた。3日間外していて戻り気味だったけど、なんとかホールにポストが通った。ホッとした。
これを付けただけで、僕は一人じゃないと思える。単純だな。
きっと。ケントは僕を探してくれている。
そう信じているけれど、不安な気持ちは時間が経つごとに大きく、いずれ僕を飲み込むほどに育つだろう。
そうなった時、僕はどうするんだろう。
ピアスを触りながら、ケントを信じて待つんだと自分に言い聞かせた。
今は会えないこと、居場所が分からないことの焦燥感が僕を食いちぎりそうだけど。
僕はコールボタンを押して、導入剤をもらえないか聞いてもらった。
できるだけ眠っていたかった。眠っていれば、余計なことを考えないで済む。余計な妄想もしないで済む。
だから。
あのボートで昼寝をしていた頃のように。ケントに出会う前のように。何も考えずに眠っていたかった。


僕が病院で目を覚まして25日が経った。
ケガはほぼ完治していて、毎日リハビリをしていたけど、もう必要ないと思えた。
今回、僕は誰も傷つけていない。でも騒ぎを起こしたのは事実だ。しかも自殺未遂。と思われている。
だから体が元に戻ったら、僕は実家に強制送還されて、向こうの病院にまたしばらく入院させられるらしい。たぶん父親の知り合いの、前に入院していた病院だろう。
自分のことなのに、僕は直接聞かされていなくて、看護師からのまた聞きだった。
これは僕には秘密の話しだけど、どこにでも味方って作れるんだよな。
この病院で4週間近くを過ごしているが、ケントはいまだに姿を見せない。
僕の中に焦り、怒り、憤り、嘲り、落胆、悲嘆、様々な感情が生まれて、心を引っ搔き回しては消えていく。
あの島で。
毎日のように自分が終わるように祈った。
今はここで、自分が終わることを期待している。
誰かを信じて違ったと気づかされることが、もう耐えられそうになかった。
リハビリの付き添い看護師に、トイレに寄ると言った。看護師は先に戻って行った。
精神科棟のブロックに入ってしまえば、僕らは一人で外には出られない。だから逆にここまで来ると監視は緩くなる。
僕はトイレで個室に入ると、鍵をかけて座った。
ケントを想って泣きそうだった。
「やっと見つけた」
上から声が降ってきた。トイレの?え?
見上げたドアの上に、ケントの顔が笑っていた。
あの日、ボートの上から砂に寝転んだ僕を見下ろしたときのように。
ケントはそのまま、ドアを乗り越えて個室に入ってきた。
「お待たせ、アツシ」
僕は何秒かポカンとして、それが幻ではないと、本物のケントだと理解すると、壊れるほど強く抱きしめた。
「ケント……ケント」
「探すの、時間かかってごめん」
僕はしゃべっているケントの口をキスでふさいだ。ケントをトイレのドアに押し付け、息をするのも忘れて舌を吸った。
左手を首の後ろに当て、右手はケントの髪やピアス、果ては顔じゅうをまさぐった。
本当に息が苦しくなって、僕は唇を離した。
「まさかこんな遠い島まで運ばれてるとは思わなくて。めちゃくちゃ探した」
僕は泣くのを堪えて、ケントを抱きしめた。
「ごめんね。怖かったよね」
ケントの肩の上で、僕はうなずいた。
「もう会えないかと」
そこまで言うと、涙がどっと溢れた。
「本当にごめん。もう安心してな」
「うん。ありがとう」
僕は言った。
探してくれてありがとう。裏切らないでくれてありがとう。ケント、ありがとう。
「ね、遅くなると探されるから戻りなよ」
ケントに言われたけど、僕はケントと離れたくなかった。
「大丈夫。また夜こっそり部屋に行くから」
「ほんとに?」
「俺、来たでしょ?」
僕はもう一度ケントを抱きしめて、強く舌と唇を吸った。
「腫れるからやめろって」
そう言われて、僕は渋々ケントを離した。


夜の導入剤を、僕は飲まずに捨てた。
ケントに会えない間、眠っていたくて導入剤をもらえるだけもらっていた。
そのおかげか、僕が薬をのまないとは思っていないんだろう。チェックも甘かった。
そして病室で寝たふりを決め込んだ。
寝たふりをして、目を閉じていても全く眠くならない。僕はやっぱり、ケントの腕の中でないと眠れないんだろうな。
しばらくして、消灯後の巡回に医師と看護師が回ってきた。
「眠ってますね。いつ移送ですか?」
「なにもなければ明後日」
「警察が言ってた、例の幻覚ってまだあるんですか?」
「どうかな?今は一人でしゃべってないよね?別の島でもずっと一人でしゃべりながら買い物してたって。このピアスを買った店で」
は?なんの話だ?
「一人ぼっちで友だち欲しかったんですよ、まだ16だし。可哀想」
「おい、よせよ。変に感情移入されてなにかあると困る」
「大丈夫ですよ」
「ここに来てからは、今のところ幻覚は出てないんじゃないかと思う」
「このまま戻るといいですね。顔もキレイだし、普通に暮らしてたらモテそう」
「子どもが趣味なのか?」
「違いますよー」
二人は笑った。
「じゃ、マイク切っていいよ」
「はい」
パチンと、スイッチの音がした。
そして二人は部屋から出て行った。
どういうこと?一人って?幻覚ってなに?
僕は頭が混乱して、体から汗が吹き出し、息が荒くなった。
「アツシ」
また音もなく、ケントが入ってきた。
精神科棟は出入りが厳しく制限されているはずだ。どうしてケントは簡単に入ってこれるんだ?
「めちゃくちゃ疑ってんね」
ケントが言った。
「っていうより、どういうことか知りたい」
ケントはベッドにゴロリと横になった。
「おいで、アツシ」
僕はいつものように、ケントに抱かれた。
引き出しの中のスプーンのよう。ぴったり線が重なる。この体温は本物だろ?
ほぼ30日ぶりのケントの腕の中は、前となにひとつ変わらず心地よかった。
「いま俺はアツシを抱いてるでしょ?」
「うん」
毎日、この腕の中で夜を迎えたい。できれば朝も。
「俺はアツシがたまらなく好きで、ずっと一緒にいたいと思ってる。アツシもそう思ってくれるなら」
「思う。僕もケントとずっと一緒にいたい」
「ならこれから先も、俺は必ずアツシを見つける。アツシが呼べば必ず探し出す」
僕はケントの腕にぎゅっとしがみついた。
「二人なら、きっと楽しい」
「そうだね、いつも楽しかった」
「だからさ、もういいやって思わない?」
「なにがいいの?」
聞いた僕に、ケントは聞き返した。
「他になにが必要?」
「ケント。君以外なにも」
「俺も、アツシ以外なにも」
この言葉があまりに甘く響いて。僕たちは小さく笑った。
僕は起き上がってケントの上になり、長くて熱いキスをした。
まるで新婚初夜のキスのように。それほどケントを愛しいと思った。
「俺を離さないって約束して」
「約束する。ずっとケントの手を握って離さない。ケントも約束して」
「アツシを決して離さない」
 僕たちはもう一度キスをした。
「アツシ、島に帰ろう」
「こっそり帰って、こっそり暮らす?」
「俺、見つかったことないもん」
「うん。帰ろう」
これからどうするか決まったら、僕は急に眠くなってしまった。ケントの腕の中は落ち着く。
「おやすみ。愛してる」
「俺も愛してる」
初めてケントから言われた。僕は気持ちよく眠りに落ちた。


翌日。
僕のリハビリの担当は、ラッキーなことに僕に味方してくれる看護師だった。
「僕、逃げるよ」
「え?彼、来てくれたの?」
「うん」
「良かった~良かった良かった。わたしもすごく嬉しい。彼、なんて?」
僕は、昨日ケントと話した内容をざっくり聞かせた。
「でね。本当は嫌なんだけど」
「なあに?」
この看護師さんは最初から僕に寄り添ってくれていた。それがなぜかは聞いていない。
「あなたを人質にさせてください。病院を出るまで」
「その先は?」
「あなたは知らないほうがいいと思う」
「そう、分かった。どんな作戦で行くの?」
僕は幼稚な頭で、しかも短時間で考えた作戦を彼女に話した。
「あなたにたくさん負担をかけてしまうことになるのが……本当にごめんなさい」
僕は頭を下げて謝った。
「謝らなくていい。なんなら進んで手伝うくらいの気持ちだもん」
彼女はにっこり笑って言った。
「あなたが疑われないようにするから」
僕が言うと、
「そんなこと、気にしなくていい。わたしは大人で、自分のしたいようにする権利も自由もあるんだから」
と言ってくれた。でもそれには重い責任も伴うはずだ。
たとえば仕事をクビになるとか、最悪、資格を取り上げられるとか。
だから極力、彼女が協力者だと悟られないようにしたいと思った。
「お礼を言わせて。ありがとう。優しくしてくれて、味方になってくれて嬉しかった。それなのに巻き込んでしまってごめんなさい」
「もしね、どこかでなにかが違っていたら、あなたはこんなことにならなかったとわたしは思う」
「あなたの子どもは幸せだ」
僕がそう言うと、彼女は寂しそうに僕から視線をそらした。
「わたしもお願いしていい?」
「なんでもする」
「わたしの子どものように、わたしに抱きしめさせてほしい」
僕は少し驚いたけど、自分から彼女を抱きしめた。
僕たちはリハビリの準備室にいた。ここはマイクがついていない。他は病室も夜間、患者が眠った後以外、話し声はマイクで拾われる。
この部屋はマイクをつけ忘れ、そのままになっているのだそうだ。
「違う違うアツシくん。わたしに抱かせて」
「あぁ、ごめん」
僕はいつもの癖で、ケントを抱き寄せるように彼女を抱いてしまった。
彼女は母親のように、僕を深く、しっかり抱きしめた。彼女の胸は温かかった。
しばらく僕を抱きしめて、彼女は腕をほどいた。
「ありがとう。幸せに暮らして」
「うん、彼と幸せになりたい」
「なれるよ。大丈夫」
彼女はそう言って、ここにも使えるものがあると、ロッカーのひとつを開けた。そこには看護師の作業衣が入っていた。
「これに上着で帰る人、たくさんいるからバレにくいと思う」
上下のセットを僕のお腹に隠し、僕たちはにっこり笑って部屋を出た。
その3時間後。
僕は彼女と一緒に、盗んだ作業衣とジャンパーを着て病院を出ようとしていた。
なぜか、本当にうまく精神科棟を抜け出せてしまい、ちょっと拍子抜けした。
「アツシ君!!戻ってこい‼」
例の医者の声。病院の玄関を出たところで見つかった。
「一人でどこに行くんだ?すぐ捕まるぞ」
あっそ。病院の前の通りを渡ったところにケントが見えた。
「君、誰かと一緒にいると思ってるんだろうけど、誰もいない。君は一人だ」
僕はケントを見た。ケントは肩をすくめて笑っている。
あの、にっこり笑っている唇にキスがしたい。抱きしめて、盛大にキスをする。
今はそれだけ。誰にも邪魔させない。
「本当だよ。こんな嘘ついたって俺らにはなんの得もない。分かるだろう?君の側には誰もいないんだ。頼むから戻ってきなさい」
医者が一歩前に出た。僕は心でごめんと言いながら、看護師にナイフを突きつけた。
食堂で盗んだフルーツナイフ。小さいけれどすごくよく切れる。
「少しくらい刺していい」
看護師が小さな声で言った。そんなつもりはない。でも。
「警備を呼んだから、すぐ来るぞ。治療をしよう。治療すればきっとよくなる」
ケントを見ると不安そうにしていた。まるであの、砂浜で大人たちが追ってきたときのような表情。
あんな顔、させたらダメだろ。させないって決めただろ?なにしてんだよ、僕。
僕は医者の言うことを聞くつもりはないと、行動で示すことにした。
持っていたナイフで、右の耳を切り始めた。
たぶん痛いはずなんだけど、その時は何も感じなかった。っていうか、僕は痛みに鈍感なのかもしれない。
左の耳はピアスがあるし。ケントが話しかけるのはいつも左の耳。
「うるせーから、いらない」
僕は切り落とした耳を拾って一回舐め、医者に投げてやった。
看護師がポケットから何かを出した。
「必ず飲んで」
僕はそれをわざと強くひったくり、目だけでありがとうを伝えた。
ちょっと血まみれだったけど、ケントのもとへ走り、ケントを抱きしめた。
そしてそのまま、二人で駆け出した。
誰か追ってきているのかもしれなかったけど、逃げ切れる自信がなぜかあった。
僕たちは一度も後ろを振り向かなかった。


ケントが持っていたタオルで耳があった場所を押さえて、僕たちは船に乗っていた。
正確に言うと船ではなく、船が引いているものに乗っている、トラックの後部座席的なところに乗っていた。
これであの島の手前の島まで行く。
僕が入院していた病院がある島から、このゆっくりの船だと3泊くらいかかる。
僕は少し熱を出した。ケントがずっとそばに付いていてくれた。
この船には何も持たず、交渉だけして乗せてもらったが、水と少しの食べ物を船の人が分けてくれた。
この船に乗り込む前、港で僕はハガキを買った。
島のおじさんとおばさんに。ありがとう、ごめんなさいと書いてポストに入れた。
これから島に帰るけど、二人に会うことはないと思う。でもこれだけ伝えたかった。
そんな僕を、ケントは笑顔で見ていた。
看護師が最後にくれたのは、いろんな薬の束だった。種類ごとに輪ゴムで留めて、メモ書きがしてある。
船で僕は、それを飲んで熱をやり過ごした。
僕とケントはずっとくっついて、ほぼ眠っていた。
もう二度と離れたくない。ケントがそばにいるだけでこんなに安心するし、優しい気持ちになれるし、なにより眠れる。
ケントは僕にこんな気持ちをくれるのに、僕は病院で、ケントにまた不安な思いをさせてしまった。島に着いたら謝ろう。
この船が島に着いたら、その先の僕らの島まで乗せてくれる船は、ケントの知り合いに頼むと言っていた。
医者はあの時、僕は一人で誰もいないと言っていた。もしそれが本当なら、この先には行けないことになる。
どうでもいい、と思った。
僕の目にはケントが見えているし、触れて、抱き合って、キスもできる。誰になんと言われても、ケントはいる。
僕がそれをわかっていればいい。
それにもし、誰にもケントが見えないなら僕には好都合だ。誰かにケントを取られる心配をしなくていいんだから。
船が減速して少し揺れた。
「おはよ」
ケントが目を覚まして言った。ぽわんとした声と顔。寝起きのケントはかなり可愛い。
島のボートで一緒に寝ていた夏休み。
僕はいつも夜が別れを告げる前に、ケントに起こされた。そして家に帰らされた。
だから寝起きのケントを知らなかった。
こんな可愛い表情を見てしまったら、これを独り占めできることが嬉しくて仕方ない。
僕はラッキーだ。
「もう着くみたい。降りる準備しよう」
 僕は言って、ケントにキスをした。
「痛いの、どう?」
「大丈夫、最初から痛くなかったし」
「アツシって鈍感?」
「違うし。強いの」
僕たちは笑いながらごみをまとめて、寝ていた場所を片づけた。
「島に着いたら、俺の家に行くんだね」
ケントに言われて、ドキッとした。
「初めてだ。どうしよう。緊張してきた」
僕は難しい顔で、正直に言った。
「誰もいない。家は古いけど広い洋館だから、基本ゾウリ。庭から隣りの島の山が見える」
トラックのドアを開けて、ケントは煙草に火をつけた。
「で、面白いのが外から家は見えない」
「へぇ、どうして?」
 僕は煙草を一口もらって聞いた。
「もう俺一人で庭木や、家の周囲をどうにかできる段階は終わったんだよ」
「伸び放題?」
「スゲーよ。家に入るわき道を、俺でも通り過ぎることがある」
ケントはそう言って、楽しそうに笑った。
こんな時のケントは、僕と同い年かもっと下に見えたりする。
「一緒に暮らすの、楽しみ」
僕たちはもう一度キスをした。
僕はケントの服を脱がして、首や背中、わき腹にキスしたい衝動を、どうにか抑え込んだ。
「アツシ。したいの?」
僕の膨らんだズボンを見て、ケントがいたずらっ子のように笑いながら聞いた。
もうっ。せっかく抑え込んだ衝動が、扉を破って暴れ出しそうだ。
「そんな可愛く笑わないで。襲いたくなる」
「帰ったら、たくさんしよう。俺のベッドは広いから暴れても平気だし」
「平気だし?」
「俺のベッドに人が寝るのは、アツシが初めてだから」
ケントは小さい声で言って、顔を赤くした。
僕はケントを強く抱きしめた。
絶対。二度と。ケントと離れない。
さらに船が減速した。
もうすぐ僕らの島に帰れると思うと、それだけでハッピーだった。


半地下になっている寝室には、ケントが言っていた大きなベッド。その横に大きなドレッサーと椅子がある。
僕たちはいつも二人、引き出しのスプーンのように、線を重ねてここで眠っている。
月が誘う夜は、月光を浴びながら月のウサギを探す。星が泳ぐ夜は、二人で数えきれなくなるまで流れ星を数える。
庭に出るアーチから見える、隣りの島の山と空。それはまるで迫力ある絵だ。毎日眺めていても飽きない。刻々と色が変わる。
庭は草木が生え放題だが、スコールの後に大きな水たまりができる。そこに映る山と雲は、なんともいえない一瞬を切り取ったように美しい。
僕たちは、目が覚めたらアーチの前に椅子を出す。
そこでくだらないおしゃべりをしたり、本を読んだり、テーブルも出して見たことのないボードゲームをしたりもする。
ボードゲームはいくつもあって、そのどれも、ルールはほとんど分からない。だから僕たちで考えたルールで遊んでいる。
書斎には古い本がものすごくたくさんあって、明るい時間にケントに読んであげたり、ケントに読んでもらったりする。
僕たちは2人きりだった。そして素晴らしく幸せだった。
あれからここで、2人で年を重ねている。
あの時は僕の方が背が低かったが、いまはケントを追い抜いている。だから高い場所の作業は僕がする。
いつまで続くのか分からないけれど、あの時の気持ちは、僕はいまも変わりがなかった。
僕がじっと見ているのを感じ取って、ケントが振り返った。
「アツシ、そろそろ髪を切る?」
「うん、ありがとう」
僕たちはお互いに、お互いの髪を切る。
僕はケントに髪を切られるのが好きだ。
髪を切るとき、ケントはそっと、愛しそうに僕の耳があった場所に触れる。
そこに耳がないのは、僕の愛の証し。
ケントもそれを分かっている。分かっているから、たびたび触れずにいる。
大切な写真が日に焼けてしまうのを防ぐように、引き出しに隠して、たまにこっそり取り出して見つめるような行為。
それはとても、僕を興奮させる。
僕はケントに近寄り、抱きしめて、
「大好き。ケント以外なにも」
と言った。
「たまらなく好き。アツシ以外なにも」
僕たちは笑って抱き合った。
僕たちは幸せだった。
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