002

文字数 2,186文字

 大郷薫は、伊達の住まいがあるマンションたどり着いてロックを開けてもらいエントランスに入ると、思わずため息をついた。
 ヨシノのタジマ所長から、伊達に直接渡すようにと無造作に預けられたのは、小さな手さげの紙袋ひとつだが、中身の気配があからさまに多額の現金だった。
 表向きには投資家の肩書きを持ち、裏で能力者しか雇わない怪しい会社を経営するタジマが、資産家でハッカーでもある伊達に多額の現金を渡すのは、何かの報酬か節税対策だろうが、露見すれば何かの容疑者になること間違いなしの理由なのは想像がつく。
 何でおれがびくびくと運び屋のようなことをやらなきゃならんのか自分で行け、と思うが、伊達のところにはタジマと犬猿の仲の久高が住んでいる。
 久高とは仕事のバッティングで出会って散々な目に遭わされたが、仕事関係で伊達を訪ねて顔を合わせたり、弟の透がいつの間にか久高とつるんで遊んでいるせいもあって、危ない奴というより最近不憫に思えてきてならない。伊達の厚意ひとつが頼りの、怖ろしい程何も持たない――親も家もない――身の上なのだ。
 エレベーターに向かうと、ちょうど扉が開いた。前で待っていた女性がすっと入り、大郷に気付いて「開」を押してくれる。
 大郷は軽く会釈して乗り込んだが、ふと「しまった」と感じた。
 エレベーターが上昇し始めると、案の定というべきか、何の前触れもなくエレベーターが突然停止した。
 女性が非常ボタンを押す。「止まっちゃったんですけど」と係員と短いやりとりをしたが、すぐには動き出さない。
 見知らぬ男と閉じ込められているのは嫌だろうなと、大郷はつい余計な気を回して、話しかけた。
「何で停まっちゃったんでしょうね」
「地震とかじゃないみたいです」
「あの、ひょっとして、島村さんですか?」
 彼女がびくっとして自分を見上げるのに、大郷は愛想笑いを返した。
「伊達さんの知り合いで大郷といいます。行き先が同じ階だし、背中に猫の毛ついてるから、ひょっとしたら、と思って」
「――ああ。そうなの」
「あおいちゃん、かわいいですよね。伊達さんちの猫だと思ってたら、隣の島村さんちの猫だって聞いて」
 島村は警戒心を解いたようで、うなずいた。
「伊達さんのところに男の子がいるでしょう。あの子になついちゃって」
「そうみたいですね」
「――あの子、伊達さんの何なの?」
 あいつ近所に怪しまれてるじゃないか、大郷は自分が墓穴を掘ったのを棚に上げて思った。
「詳しいことは知らないんですよ。――親は何年も前に離婚してるとかで」
「そうなの」
 島村は少し顔をしかめた。
「ベランダで泣いてたこと、あったから。最近は全然ないけど」
「へえ、そうだったんだ」
「あおいがベランダが好きで、時々出してあげてたの。あれ、あおいがいない、と思ったら、あの子があおいをだっこして泣いててね。何か気の毒になっちゃって……。あの子がベランダに出てる気配あったら、『ボランティアしといで』ってあおい出してたら、入りびたるようになっちゃった。『隣に行くから開けろ』って、窓の前に座るの」
「島村さんの猫なのに」
「猫だもの。好きにするわよ」
 島村は平然とそう言ったが、また顔を曇らせた。
「あの年頃に変な生活しちゃうと、後がつらいのよね」
「そうでしょうね……」
「でもあの子、明るくなったし、生き生きしてる」
「ですよね」

 エレベーターから解放されるのに15分程かかり、閉じこめられてると連絡しておいた伊達の家で出迎えてくれたのは久高だった。
「災難だったね」
「全くだ」
 大郷は思わず久高をしげしげと見た。
「何」
「別に何も」
 射るようなまなざしがかなり怖い久高に、猫を抱きしめて泣いていた時期があったとは、大郷には想像がつかない。もっとも沢木たちは「居着くまでが大変だった」と言う。
 リビングに入ると、大きなソファに黒猫が寝そべっていた。くつろぎきって、大郷には知らん顔だ。
「猫、出していい?」
「いいけど」
 大郷はあおいを抱き上げると、ベランダへの窓を開けて「飼い主孝行してこい」と、外に出した。不満顔で抗議するかもと思ったが、振り返りもせずに去っていく。出されたら帰るのが日課なのかもしれないが、あおいの勝手気ままぶりがよくわかる。
 久高が大郷が持参した紙袋を、自室から手だけ出した伊達に渡した。
「タジマさんに渡すものあるから待ってて、って。何飲む? コーヒー? 紅茶?」
「コーヒーで」
 久高がキッチンに立っている間、大郷はソファで待ちながら部屋を見渡してみた。
 L字に配置されたソファの一角が久高の巣になっているらしく、タブレットがあり、後ろの棚には本が並んでいる。
 本のジャンルは多様で、読書だけではなく、知識や教養を身につける努力もしているようだ。キッチンで立ち動く姿も軽快で、家事もこなせるようになっているのがわかる。
 伊達は対外的には変わり者で犯罪者だ。ほとんどしゃべらず、滅多に外出せず、家出中の未成年者を家に置いている。
 だが久高は健康で平穏に暮らしているように見えるし、実際そうなのだろう。
 久高に年相応の生活と家庭を捨てる決意をさせた親族は罪に問われない、裁かれない。伊達と久高が負うリスクは自己責任扱いだ。残酷で間違ってるのはどっちだと言いたくなるが、どうにもならない。
 せめてこの平和な日々が続きますようにと祈るしかない。
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