第3話(父親栄吉の話・成幸が小学1年両親離婚)
文字数 4,647文字
とめの話を長々と書き過ぎました。
父親の栄吉の話。 上の写真は栄吉がおそらく晩年に近いころの写真↑
↓
とめは藤吉と結婚し、まもなく玉のような男の子を産んだ。
上田栄吉の誕生である。これがゆくゆく舟木一夫の父親となる。
栄吉は萩原の旧宿場町の一角にある長屋で生まれたのだが元気な男の子だった。
大正の中期の頃にはまだ萩原は田舎宿場の雰囲気を漂わせ、遊郭、飲み屋、賭博場、芝居小屋なども田舎ながらもそれなりのたたずまいで存在していた。
とめは栄吉を可愛がった。
栄吉は天真爛漫に育った。
高等小学校を卒業すると芝居小屋の若い衆と馴染みになり道具係の仕事をするようになった。 栄吉は芸能(芝居)に興味があったのだ。
だが、とめは栄吉には堅気の仕事をさせたかった。
自分が舐めて来た風来苦心の道を愛息には歩ませたくなかった。
ゆえに栄吉に実業補修学校への進学をすすめた。
ところが栄吉は嫌がった。
「オレは芝居が好きだでよお、好きな事を好きなようにやらせてくれや」
「お前そんなこと言うて芝居みたゃえなもんで将来食っていくことはできんでよ、頼むでよ、まっともな仕事についておくれえな」
こんなやり取りが夕食時にあるいは何気なく休憩しているような時、いつ何時なく親子の間で交わされるようになっていた。
栄吉はとめと一緒にいるのが次第にうっとうしくなることさえあった。
「オレは役者になりてゃあ。どうしても」
栄吉の夢はそれだった。思春期にさしかかるころになるとその思いは益々強くなる。
栄吉は母親のとめに似て美男子のいい男だった。
芝居小屋で働きながらもやもやと胸の内で夢を掻き立てていたのである。
【栄吉は家出をはかる】
時は過ぎた。
15歳になったころ栄吉は一大決心をする。
当時は歌舞伎役者の6代目尾上菊五郎が人気スターだった。
「オレは東京に行く。菊五郎の弟子にしてもらうだわい」
密かに計画を立ててある朝出発の用意までしている矢先をとめに気づかれた。
「お前何しとるんだい、そんな荷物を持ってどこへ行くだ」
「東京」
「たあけ!(馬鹿)」
とめの平手が栄吉の頬を打った。
とめは目を吊り上げていた。
やがてとめは涙ぐんで栄吉の足元に崩れ落ちる。
とめはしっかりと栄吉の両足をつかんで離さなかった。
とめの必死の反対にあい栄吉はやむなく東京行きを諦めた。
だが、ぽっかりと胸の中に穴が開いた。
自分の目標、希望とするものが何もなくなった。
気持ちが荒んでくる。
遊び仲間と賭け事をするようになった。
【博打打ちに】
「こうなったらワシは博打打ちになろう。それしかにゃあ」
そう思うようになった。
賭場に頻繁に出入りするようになった。
栄吉は実際によく勝った。
博打の才能がオレにはある。本気でそう思ったのだ。
これで一旗あげるんだ。新しい目標が見つかった。
栄吉は遊び仲間賭場仲間を集めてその大将になった。
母親のとめにに似たのだろう。きっぷもよく人情家で親分肌だった。
江戸屋一家などと称して肩で風を切るようになったのである。
ドスのきいた低音。
身長は165センチぐらいだったが面倒見が良い。
子分たちの評判も良かった。
ところが、
栄吉が肩で風を切って歩いているうちにすでに暗い時代の大波が押し寄せてきた。
【栄吉は戦争に】
日中戦争が始まったのだ。
昭和12年7月中国盧溝橋事件が起きた。
これはのちに日本軍による陰謀策動(戦争誘い水)だったことがわかるが以後、
日本は兵隊をどんどん中国に送り込むことになる。
栄吉は軍隊に入隊。江戸屋一家は当然解散となった。
入隊後栄吉は中国に送られそこで生死の分かれ目の辛酸を味わうことになる。
ここではその話は省略する。
当時のだれもがそうであっただろうが戦争に行くということは
命を捨てるということと同義語である。死を覚悟して戦地に赴かぬ兵士はいない。
栄吉は太平洋戦争の終わる頃まで中国であちこちと転戦する。
そして、戦地でとうとう身体を壊して本国日本に帰還する(おそらく昭和17,8年頃か)。
本国では戦争はいよいよ悪化する一方で食べるものもろくになかった。
また療養するといっても医者にかかることもできず栄吉も相当な苦労したと推測するが、
栄吉の身体は次第によくなっていった。
だがまだ完全にすっきりとはしなかった。
栄養失調の後遺症もあった。
そのため博打からの足を洗った。
【栄吉の結婚】
そしてしばらくして栄吉は昌子と結婚する。
昌子とどこでどのように知り合ったかは不明だが、美男子で人の好い栄吉は女性にもてたことは間違いなく、恋愛であれ見合いであれ即決で話はまとまったことだろう。
栄吉がすべきことは仕事探しだが戦時下のこの益々悪化状況で仕事はまずなかった。
栄吉は好きな芝居が忘れられない。
自宅近くの萩原芝居小屋へ行き手伝いをするようになった。
その手間賃をもらう。仕事といってもそれぐらいが関の山、だがこの戦時下に芝居興行もできるはずもなく時々帰還兵士慰問会の催しがあるぐらいだった。
栄吉の博打仲間もほとんどが戦争に行き消息不明だった。
とにかく時代がことのほか厳しい。
「欲しがりません勝つまでは。ぜいたくはできないはずだ」のスローガンの時代だ。
とても博打をやるどころの話ではなかった。
日本国中が本土決戦を覚悟、と叫ぶ悲愴な時代だった。
そんな戦争も終わりかけの昭和19年12月12日、栄吉と昌子の間に男の子が生れた。
上田成幸と名付けた。舟木一夫の誕生である。
そして半年後の昭和20年8月、やっと戦争が終わった。
【終戦後の栄吉】
戦争が終わると復員兵で町に活気が戻ってきた。
アメリカ兵が都市部には駐屯するようになり萩原にも自由な活気が生まれ始めた。
飯屋や屋台が立ち、一杯飲み屋やバー、芸能を楽しむ空気も次第によみがえってきた。
生活は貧しかったがやっと自由が戻ってきたのだった。
栄吉は喜んだ。
だが根っからやはり堅気の仕事には向いていなかった。
一旗あげよう。
萩原町の自分の長屋の道一つ隔てた向こう側に芝居小屋があった。
当時の田舎町としては相当大きな建物であったが、木造のためやや老朽化していた。
土地の人はそれを萩原劇場と呼んでいた。栄吉はそれを安値で買い取ることにした。
金は無かったが復員してきた昔の博打仲間や知人友人親類縁者などから少しずつ借り集めてそれを元手にして買い取った。
営業部の看板を掲げ関係者を何十人も集めて開業祝いを盛大にやった。その記念写真も撮った(この写真は成幸の写真帳にも残っている)。
戦争は終わり時代が新しく変わったのだ。
興行をすれば必ず客は入る時代になった。
客が入れば借金は返せる。その算段は栄吉の腹の中にあった。
栄吉のその読みは当たった。大当たりした。
戦争が終わり娯楽を求める人々がこの萩原の小さな劇場に近隣の村や町あちこちから次々に入ってきた。興行をすればいつもほぼ満員になる。
栄吉は笑いがとまらなかった。
劇場は地方巡業中の歌手の公演や大衆演劇の巡業芝居、相撲巡業興行などを受け入れて興行した。
たとえば、歌手の藤山一郎、霧島一郎、浪曲師酒井雲坊(修業時代の村田英雄)、なども呼んで興行した。びっくりするほどの人が押しかけて劇場は繁盛し流行った。
相撲興行で当時の有名力士大内山がまだ幼い赤ん坊の上田成幸をひょいと肩に乗せて笑っている写真まで残っている。栄吉の手元には相当の収益が上がったといえる。
成幸も幼い記憶の中で道具部屋にある刀や十手を取り出してチャンバラごっこをしてよく遊んだという。3〜4歳頃のことだろう。 そういう環境にある成幸は自然に芸能というものに何の違和感を持たずに育っていったのだった。
家にはいつも数人の若い衆がいたし成幸は幼い若殿でもあった。
「ぼん、これあげよう」、「ぼん、お菓子だよ」
何かにつけてぼん、ぼんとかわいがられた記憶が成幸はある。
【栄吉の転落】
そのうちやがて父親栄吉はその後劇場を映画館として運営するようになる
昭和二十年代の前半あたりから映画が隆盛を誇るようになったからだった。
その波は日本映画最盛期到来へ向けて間違いなく高揚している。
劇場の興行収入よりも映画の方が儲かると栄吉は考えた。確かにそうだ。
時代は坂東妻三郎以来新しい俳優スターが続々と誕生し映画ブームの時代になった。
映画は歌手や役者への興行ギャラの支払いの面からしても元手がはるかに安い。ギャラも支払う必要がない。
栄吉の読みはあたるのだが、ここで突然栄吉は思わぬ落とし穴に落ちてしまう。
うかつにも知り合いの借金の保証人になったのだった。
それがために無念にも萩原劇場の建物が人手に渡ってしまった。
世間によくある話だ。
この時の栄吉の落胆といったら目も当てられなかった。
これによってすべてが暗転した。
保証人になったために今まで栄華を極めていた人生があっという間に転落する。
これほど悲惨なことはない。
人の好い栄吉。二つ返事で引き受けた保証人。何気なく付いてしまったハンコ。
もう取り返しがつかなかった。
家の家計は当然苦しくなってきた。家財道具までも売り払わねばならないことになる。
おまけに。
父親栄吉には前からよそに女がいた。劇場経営で莫大な儲かったその頃だ。
笑いがとまらないほど儲かる。
その頃から栄吉の遊び癖が復活していた
色男でもある栄吉は女にもよく持てた。
金もあった。当然のように女ができた。
妻の昌子ともうまくいくはずがなかった。
昌子はしかしヒステリックに騒ぐタイプではなく、いつも淡々としていた。
もともと冷ややかな質の女性で栄吉とはあまり肌が合わなかったのではないか。
成幸を産んでからも成幸にもそれほど母親として情熱を込めて愛を注いだような気配もない
(言い過ぎかもしれないが)。
*後年、成幸は述懐している。
「母親と何十年ぶりに面会したことがあったんですが、15分ぐらい話して僕はなんかこう嫌になってその部屋から出てきちゃったんです」
出てから、いろいろ考えたんですけど、
ああ、オヤジがこの人と別れたのは何となくわかるような気がするな、と思いましたね。
空しく淋しい話ではないか。
以前から子ども心に成幸は以前から母親と父親の仲がおかしいということは気付いていた。
両親の冷えた関係は子どもにも伝わるものだ。
不思議なことに成幸は母親よりもこの人の好い父親に対して親近感を持っている。
成幸にとっては優しい父親だったのである。
そしてそのうち、予想通りのことが起きた。
ある日突然母親の昌子は成幸の目の前からいなくなった。
「かあさん、どこに行ったの?」
などと成幸は尋ねない。
こんな日がいつか来ることはわかっていたからだ。
やっぱり母さんは出ていってしまったんだ、
胸の中でそう思うだけだった。
寂しさがこみ上げてきたがもう自分の気持ちの処理の仕方はわかっている。
平気でいること。わざと平気な顔をすること。そうすることで寂しさを追いやった。
成幸が小学校1年生の時だった。
1年生といえばまだまだ母親に甘えたい年齢だ。
その愛情を求めたい年齢。
それが何ということか、
さようならの一言もなく成幸の母親は去っていったのだった。