第1話

文字数 5,652文字

「食事はゴ、マルマル。就寝はキュウ、マルマールッ………グッ。」
 大胆なガラガラ声で業務連絡を伝えるようないい加減なアナウンスは、深緑色をした年式の古いスピーカーから乱暴に飛び出して来た。案内係のしゃがれた息づかいと唾が飲み込まれる音が機械の振動板に振れて、雑音としておおげさに散らばる。車内へ拡散された情報は、乗客の耳に届くが、毎晩のできごとなので、もはや誰の注意も引く事はなく、ふんわりとした橙色の光が灯る天井へ消えていった。等間隔に並ぶランプは、これも古い年式のもので、球体を覆うガラスと、壁から生えている支柱には細工が施してあり、アンティークの様相をしていて、一応電気式になっているが、光る球体に供給する仕組みがいささか改良される前のものである。車内の揺れや、長時間の使用をすると、ちらりちらりと点滅してしまうタイプのものであった。列車自体も割と古く、前時代に使っていたものを再利用した形で、様々な時代の要素が垣間みられ、またそれが新たな雰囲気を醸し出されていて、いくつかの種類の列車が無理矢理に連結されて、寝台のない車両には後付けであるので、間取りや設計が一部おかしく、場所によっては入り組んで、中二階であったり、アスレチックのように絡み合っているところもあった。通常の列車からすると、驚く程に車両の数は多くて、プラットホームから眺めても、どちらの先っぽもみることができないほど長いのである。そのため、食堂などの共用部分は二、三カ所設置されていて、どこの部屋からでも一応は同じ距離になるように配慮されている。
 列車の丁度中間に設置されている食堂は、通称「ロイヤル」と呼ばれていて、他の場所よりも広く、また、内装は色々なところからかき集めたであろう調度品や家具で、ひときわ豪華に魅せたものであった。全面に敷きつめられた、分厚い絨毯はどっしりとした赤茶色で、花をモチーフにした柄がびっしりと埋められて、豪華な印象を持つが、ただ、よほど古いものなのか、全体的にバサついて黄ばみや汚れ、ほつれが目立つ。すべての席が向かい合う形で、テーブルを挟み、二人がけのソファが置いてある。ターコイズブルーのソファは、表面が艶やかな加工がほどこされおり、一見すると高級感があるのかもしれないが、またこれも所々、破れて下の布がむき出しになっているものもあって、いかさまな豪華さを演出している。真ん中の通路を挟んで、テーブルはずらりと左右に並ぶのだが、かけられている白いクロスは目の粗い布で洗濯はおおざっぱで、種類や長さもまちまちで不揃いである。テーブルはあまり良い物を用意できなかったのか、足がグラついているものも多い。
 時刻はすでに案内係が告げた、「ゴ、マルマル」を二周り半ほど過ぎていて、食堂内にはすでに食事をしている所と、終わった者と始める者とで、ある程度にぎわっていた。ロイヤルの真ん中より後ろ側、進行方向より向かって右の席に、タロシは座っていた。ターコイズブルーのソファは、2人がけだが、遠慮気味に通路側へ身を寄せていたのは、たまに通りかかる給仕に、自分の席がここで合っているか、チケットを見せて確認するためだった。上半身を少し通路側へねじるような形で、頭をきょろきょろと左右にせわしなく動かしていた。席につく前、事前に確認をしておいたのだが、それでも、不安は納得をせず、もう一度、給仕にチケットとテーブルの記載ナンバーが合っているか見てもらいたかったのである。そうしなければ、もし、食事が始まってからテーブルが違うことになれば、本来座る人に申し訳ないし、何より、自分がそのあとで、広げた料理や食器を持って退場させられるようなところはなんとも恥ずかしくて、みじめであり、絶対にそうはなりたくないと考えたからである。
 そもそも、タロシは数字に対して奇妙な習慣と現象があって、何回も確認するが、どうしても読み間違えてしまうことがあるのである。というのも、番号の羅列は長ければ長い程、注意を払わねばいけなくて、信じられないことに、数字は記載してある時と、自分が読み取って確認した後では、変化していることが珍しくないのだ。それはまるで、数字の線が生き物として、或は細長くした粘土が動くように、にょろにょろと動き、そうして変形する現象が起きているものだと予想しているので、不用意に読めないのである。また、落とし穴として、一桁の数字はもっと注意を払うべきであって、ひとつなら間違いようがないと思いがちだが、実はこれが一番ミスの頻度が高いのである。これは油断から誘われるものであって、経験から細心の注意を払う必要がある。
チケットは薄緑色をした少し厚手のもので、「R0034088」とだけ、薄いインクでタイプされていた。
 給仕はなかなか捕まらず、あと三歩ほど内側へ入ってくれると、さすがに声をかけられる距離なのだが、うまくタロシの思い描くテリトリーに入ってくれない。前方ばかり見ているところに、一番近いドアからおもむろに、銀のお盆をかかえた給仕が慌ただしく入って来たので、このチャンスを逃すまいと、できるだけ高く両手をあげて、「すみません」と口をぱくぱくさせてアピールした。給仕は眉一つ動かさず、テーブルに寄ってきたかと思うと急ブレーキをかけるように止まり、さらに半歩前にでると、片方の眉をあげるだけで、「御用は何か?」と顔で言った。
「あのう、すみませんけどねぇ――」
 タロシは指でもんだしわしわの四つ折りの線がついたチケットの端っこを伸ばすように両手で持ち、給仕が数字をよく読めるように見せた。給仕は、一瞬眉をひそめて、首をこくんと微動させ、食堂に入ってきた時よりも早い歩数で去っていってしまった。蠅がコップのふちにとまって、一瞬で飛び立つような感覚を覚え、はて、自分の要件は完了したのだろうかと、あまりに早い出来事であったため、理解できずに給仕の首の微動だけが頭の中で何度も再生された。
 ――先程の出来事は、何か。この番号とこのテーブルは合っていますという首の微動か、はたまた、間違っていますよという表現なのか。であれば、正しくはあちらですよとか、こちらですよとか、何か案内があるはずだから、そうか、これはここでいいのか。それとも、あの人はえらくせわしくなく歩いていたから、今はそれどころではないから、他の者に聞いてくということなのか。いやいや、それともあの給仕ではこのチケットを判断できかねて、いま他の者が参りますのでという、彼なりの対応だったか。そうか、彼は少し無口な青年なのだ。そうだ、今に他の者が来るに違いないぞ――などと考えながら、給仕の微動がどういう答えであったか、頭の中にある数秒の映像を繰り返し巻き戻しながら探していた。
 テーブルクロスの上には細長い錆びた金属プレートが縫い付けられていて、そこにはテーブルナンバーが刻印されている。数字と文字の溝にも錆がずいぶんと浸食しているが、そこから情報を読み取るには全く問題ない状態である。タロシは、指で揉んでいるチケットのナンバーとプレートを見比べた。一文字ずつ左から順番に、チケットの「R」を書き順通り目でなぞると、その残像が消えないうちに、なめらかに、プレートへその余韻を移す。プレートの一番左の刻印は「R」で、チケットの「R」と限りなく近しい形で、そこに収まった。同じ眼球のリズムで、慎重に次々とチケットとプレートを一文字ずつ当てはめていく。なめらかな作業であって、納得できるレベルで順調に読み取りを成功させていたのだが、困った事に、五つ目の「4」と末尾に二連続している「8」が、どうも溝に錆がついているせいか、刻印がほころんでいて、チケットの余韻がぴたりと気持ちよく当てはまらないのである。なんども目配せして、文字の書き順をなぞり余韻を写すが、錆が邪魔をして、同じ文字であるとは認識ができないのである。そのうちに、確認済みの文字も、怪しく思えて来て、チケットとナンバーをじっとり睨んでいると、チケットの隣り合う「0」の羅列や他の数字がチラチラと、まるで小さな小さな虫のか細い黒い足がせわしなく動くような様子で、「R0034088」という羅列は崩れてはじめていた。
「あぁッ!」
 目をぐっと強くつむると、涙が滲んで来た。まぶたの裏にはチケットとプレートが重なっている滲んだ画像が張りついた。文字と数字に翻弄されたタロシは自分で席を確認することを諦めたのである。
 薄緑色のチケットはさらに指でもまれて、油汗で繊維が毛羽立ち、角がぽろぽろとはげ落ちはじめているが、待ち望んだ「他の者」は来るはずはなかった。だんだんと、額にじりじりとした汗が滲み、いてもたってもいられなくなってきたのである。テーブルがここであると正確に確認ができないと、食事が始められなく、空腹はどんどんと圧力が増し、胃がしぼんでくるのである。さらに、ここがもし仮に間違っていれば、今に「ふさわしい客」が怪訝そうな顔でこちらに近づいてきて、席がまちがっていることを殊更に大声で騒ぎ立てようものなら、もうこの食堂は使えないぞ、とんだ恥だ!そのような展開を頭の中で創作して、額とチケットをもみこむ指に油汗をまとわりつかせ、焦燥にかられて、肩はぐっと力み、ひそめて、目をぱちくりさせて、粗悪な展開にとりつかれながら、相変わらず通路側に座っていた。
 列車に取り付けられた、デタラメなアンティークの窓枠には真っ黒になる前の、濃い多少青みがかった画面がはめ込まれていた。勢い良くレールの上を滑る列車であるが、車内からの景色は一色で、時折、遠くの方に落ちている小さな光がぽつんと光っているかと思えば、窓から窓へ水彗星のように伸びるのである。夕食時を迎えた食堂内は、レールから車内まで伝わってくる規則的に刻まれる音と不規則に打たれる音が、広く散らばる乗客の声や食事に関わる音を皿に乗せてぼんやりとまとめているようだった。
そこに、ゴツンゴツンという、ある種、その皿に乗り切れてない、規則的かつ大げさな音が、だんだんとするどくなって、やがて、「R0034088」と思われるテーブルに到着した。重たくするどい足音は遠慮なしに、タロシの向かいにどさりと斜に座ったのである。
「………あ!あ、どうもッ、――」
 タロシは例の粗悪な展開をいまだ頭の中で再生していたので、ふいをつかれて、挨拶の端っこが口からこぼれた。チケットとプレート、「他の者」、「ふさわしい客」のことで頭が支配されていたので、自分ともう一人この席に座る人物がいることをすっかり忘れていたのだ。
「………あの、え、あのぅ、モネさん、――ここなんですけどねぇ」
 タロシは、声をひそめるようにして、まわりをわざとらしく見回し、さらに薄くなった薄緑色のチケットをよく見えるように差し出した。
「これは夕食のチケットなんですけどねぇ、このテーブルで合ってます………ねぇ?そうですよねぇ?」
 モネと呼ばれたこの女は、窓際に立てかけてある革張りの黒いメニューを眺めていて、タロシの質問はまるで聞いていない様子であった。構わず、メニューをめくっては戻り、オーダーを決めかねていた。
「さっき、ウエイターに一応は見てもらったんですけど、それがよくわからないもので。なにしろ、はっきり言ってもらえず、困ったもので。あ、でも、たぶん、そうなんですけど、分かる人があとから来ると思うんですけどねえ」
 チケットを前に、先程あった件をなるべく、あちら側に少し至らないところがあって、自分としては一応聞く事は聞いて、やっているのだというように身振り手振りをして、大げさに伝えた。モネがきたことで、「他の者」と「ふさわしい客」の存在は少し影が薄くなっていて、味方をつけたような、安堵を感じていた。しかし、それでもこれで間違えていれば、二人とも移動を余儀なくされ、それはそれで、さらにモネからも何か文句をつけられそうだなと考えて、未だ不安に変わりはなかった。
「頼んで頂戴いいかしら」
 モネはそう言い、チケットの上にメニューをばさりと置いてから、くるりとタロシの方に向けて、決定した料理の行を二度、ペンキで塗ったようなオレンジ色をしている爪でぽんぽんと叩いた。そうしてモネは斜に座ったまま、黒々とした長い髪の上から頬杖をついて、外の風景を眺めた。髪と爪のコントラストが際立っていた。
「………やや、でも、これぇ、あの。もし席が違ってたら――」
 メニューを横にずらして、また少し前屈みになり、内緒話でもするようにモネに説明しようとした。
「タロシ、――どれ?早くしてくれるかしら」
「え………?ああ!これですよ、このチケットのナンバーとね――」
 チケットの「R」を指差そうとした――
「ゴハンッ!」
 モネは物凄い勢いでタロシの方に振り向き、怒鳴った。
振り向いた拍子に黒々とした長い髪がタロシの鼻先にかすりそうになるくらいであった。
「お腹が空いたのよ、――わからない。席なんてどこだっていいの」
 タロシは声も出ず、電撃が走ったように肩をすくめて固まってしまった。
言い切ると、また髪を巻き込みながら、ぷいと外を向いてしまった。タロシは勢いに負けて、意気消沈しながらしぶしぶメニューを見たが、解決してない問題と大声に押しつぶされて、字の羅列など見ても食欲がそそられることはなく、ページを行ったり来たり無意味にめくりながら、どうにか気持ちを整えて、ようやく、なんとなく一番上にあるものにすることにした。しばらくして、また、大分にもたついて、ようやくのこと給仕をつかまえて二人分の料理を指差してやっとのことオーダーしたのである。その間もモネは、イライラとした様子を見せて、窓に向かって何か語気を強めて言葉を飛ばしていた。
すでに薄緑色のチケットは雑に小さく畳まれて、タロシのコートのポケットの角にうずくまってしまわれていた。
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