第5話

文字数 4,488文字


 ――見慣れた部屋にいた。ざらりと冷たい灰色の壁で四方を囲まれ、つややかな乳白色の石の床と天井に挟まれた、広くもなく狭くもない居室。どこからともなく溢れるひかりが室内をぼんやりと照らし、辺りを見るのに不便は無い。生成の上掛けが重ねられた簡素な寝台、華奢な細工の机と椅子、書棚を兼ねた衣装棚の観音開きの上半分は鍵がかけられ、長い階段に続く重い金属の扉は自分からは開けることができない。
 だが勝手知ったる筈のその部屋は、どことなく余所余所しく感じられた。しばらく眺めて、調度品の雰囲気や配置、光の曖昧な角度や明るさが僅かに違うのだと気づく。空のはずだった書棚には数冊の本が並び、殆ど使うことの無かった机には筆記具が散乱している。
 寝台に腰掛けた少女の膝には分厚い書物が広げられていた。繊細な筆致の図案と装飾主義的な文章に彩られた、何千回と繰り返し読み返したあの書物だ。
 しかし、書物には見知らぬ書き込みが無数に為されていた。どの頁にも、小さな文字の注釈や追記がびっしりと並んでいる。文中の単語に線を引き、挿絵に解説を入れ、時には少女の知らぬ長大な数式までが付記されていた。
 少女も文字を書くことはできたが、自分の持っている書物には一切の書き込みをしていなかった筈だ。そもそも書物について、書かれた内容について、多くを教えられたことすらない。同時に、文字で埋めつくされている書物にこれほどの書き込みをする余地があったことに、少女は驚いていた。
「さあ、これで僕が教えられることはすべて教えた。今までよく頑張ったね」
 不意に頭上で声がして仰いだ先には、自分のもとを去って久しい医師の姿があった。
 何故ここに? と思う間もなく、唇からは言葉が零れる。
「本当? ようやく終わったのね、ねえ、私頑張ったでしょう!」
 それは紛れもなく自分の声ではあったが、少女が今まで発したことのない、軽やかな響きに彩られていた。
「そうだね。君はとても優秀だったよ」
 返す医師の口調も、聞いたことのない親しげなものだ。
 ……これは自分なのか?
「約束よ、ご褒美をくれるって。私、ちゃんと覚えてるんだから」
 少女の戸惑いをよそに唇は次々と言葉を紡ぎ出す。
 畳み掛けるような少女の申し出に医師はどこか困ったように笑み、手を伸ばすと少女の髪を撫でた。
 少なくとも自分の知る医師は、こんな笑顔を向けたことはない。そして自分は、こうして誰かに触れられたことも、それを望んだこともない。
 恐怖に近い感情を覚えて咄嗟に身を引こうとしたが、身体は思うように動かなかった。背中まで流れる髪をなぞられる、違和感にも似た感触。医師は自分よりわずかに体温が高いのか、触れられた余韻が微かに温かい。
「それだけ? ねえ。酷いわ、兄様」
 言いながら、ごとり、と胸のあたりでなにかが転がるような音がした。胸から背中にかけて、鈍い痛みが一瞬過ぎる。
 兄様という響きに聞き覚えは無い。だが、それはひどく懐かしく、同時に痛ましく自分の内にこだました。この気持ちはなんだろう。
「僕は君達のただの世話係だ。兄ではないよ」
「そんなことないわ。私にはわかるのよ、姉様たちも皆同じように呼んでいたって」
 医師の言動ひとつひとつに呼応し、くるくると調子を変えながら勝手に吐き出され続ける声と言葉。 自分でありながら自分の自由にならない身体、頻繁に胸と唇を行き来する痛みにも影にも似たような塊。もしかしたらこれは自分ではないのかもしれないと思いつつも、少女には確信があった。兄という単語が医師の口から出たとき、「姉」と名乗った女性の言葉を思い出したのだ。
 医師は自身のことを「兄ではない」と明言した。だが前後のつながりから、水辺で出会った姉が指す「兄」は、どうやらこの医師のことらしい。
 だが、少女は確信の裏に奇妙な既視感を抱いていた。
 私はこのやり取りを何処かで知っている……?
 重厚な感触を残して閉じられた書物の上に、暫しの沈黙ののち、これまでとは打って変わった、頼りない少女の声が降った。
「ねえ、私、姉様たちみたいにうまくできるかしら。本当は心配でしょうがないの」
「大丈夫だよ。君は賢く優しい子だ。すぐに慣れるだろう」
「でも、兄様にもう会えなくなってしまうわ。私、それだけは嫌、嫌なの」
 最後に放ったのは、涙を含んだ叫びに近い。胸の内側をなにかに掴まれるような、痛みとも重さともつかない感覚が一層強さを増す。
 医師の手が再び、少女の長い髪に触れた。先程のような違和感はなかったが、なぜかひどく悲しかった。
「よくお聞き。君が在るべきものになれば、僕が今居るこの世界そのものになる。僕は君達によって生かされることになるんだよ、『水晶(クリスタル)』」
 ばちんと硬質ななにかの砕ける音がして、気がつくと少女は元の水晶の部屋にいた。
 どれほどそうしていたのか、投げ出した膝の上で猫が身を丸めて、静かな寝息を立てている。眠っていたのかもしれない。
 背中に触れる水晶柱の硬質な感触に、さっきまでのやりとりを鮮明に思い出す。
「これが、夢……」
 書物で知ってはいたが、少女には初めての経験だった。眠る間に見るという、夢。それは自分の願望であったり、遠いなにものかからの知らせであったりするという。ときに自分ではない誰かを演じたり、自分そのものが他者として現れることもあるという。
 それまで、疑いながらも自分のものだと感じていた気持ちが自分のものではなかったことに、少女は目覚めたときすでに気づいていた。また、胸の奥に去来する痛みも、その夢の中の人物が、夢の中の医師に対して抱いていた思いだということも。
 だが、ときに現実と違う姿をみせるというその夢は、あまりに明瞭に、少女の知る現実と一致していた。書物の内容、医師の佇まい、部屋のようす……
『姉様たち』と夢の中の少女は語った。あのとき水辺で出会った女性も、自分のことを「姉」だと言った。
  自分に兄や姉という存在がいたのなら、何故これまで気づくことも、教えられることも無かったのか。長い間、医師と自分しかいないことに疑問を持ったことはなく、ゆえにそれ以上の感情もなかったが、ここにきて初めて少女は、明確で空虚な感慨を抱いた。覗けない、落ちることもできない巨大な闇を内に抱えたようだった。
 それが「寂しい」という感情であることに、しかし、少女はまだ気づいていない。
 少女の動く気配を察したか、目を覚ました猫が静かに膝を下りようとした。咄嗟にそれを抱きとめた少女の頬に、予期せぬ涙が伝う。
 猫は自身を抱く微かな力を感じてか、冷たい身体をおとなしく腕へと預けてきた。
 石に触れすぎたせいか冷えて痛む四肢をようやく立ち上げ、それまで寄りかかっていた水晶柱を見やる。
 しらじらと透きとおる光を放ちながら、その核に形なす自分と同じ姿の少女は、今の短い夢に出てきた少女であるのだろう。そしておそらくは、彼女も自分の「姉」のひとりである。と。
「姉様」
 ふと呼びかけると、ややあってから、部屋のどこかできんと響く音がした。返答のようにも聞こえるその余韻が部屋を去るのを待ち、続けて尋ねる。
「ほんとうに、私の姉様なの?」
 再び、澄んだ響きが部屋に広がる。
 やわらかく甲高い音色が、水晶同士が微かに触れ合ってたてるものだと、しばらくして気がつく。そしてそれが確かに少女の呼びかけに呼応して鳴るのだとと知り、少女は水晶柱の奥の「姉」へ縋りついた。
「姉様、」
 その後は言葉にならず、少女は持て余した自身の感情を涙で洗い流すように泣き崩れた。いつも天のようにしんと黙していた心を乱されるのは初めてのことで、どうしていいかわからなかった。涙は尽きることなく溢れて頬を熱く濡らし、部屋には少女の咽ぶ声と、語りかけるように繰り返される水晶の高音が重なり合って響く。
 足元に寄り添った猫の冷たさが心地よかった。
 泣き疲れた少女がようやく顔を上げると、視界の端でなにかがぼんやりと輝いたように見えた。水晶の放つ鋭い光とは違うやわらかな明るさは、熱を感じさせるほどのものだ。
 涙をぬぐいながらそちらへ寄っていくと、入り組んで檻のようにすら思える水晶柱の奥に、持ち手の付いた硝子瓶と小さな紙製の箱が置いてあるのが見て取れた。
『洋燈と燐寸よ。火をつければ闇の奥まで見通せるようになる。持っておゆき。あなたの探すひとは、それほど遠く無いところにいるはず。行って、あなたの真実を知りなさい、我が妹』
夢で聞いた声が響いた。聴覚が受け止めたのではない、もっと別の身体の機関が、直接水晶からの思念を受け取ったように思えた。
 少女は抱いていた猫を床に放して身を屈め、水晶の鋭角で手を傷つけながら洋燈と燐寸を引き寄せた。丸みを帯びた硝子の筒の中には透明な液体の入った小瓶が固定されており、太く編まれた糸が小瓶の蓋から垂れ下がっている。燐寸は使ったことが無かったが、書物に火を灯す方法が載っていたはずだ。
 白い球体のついた木の棒を中から一本取り出して、記憶の通り箱の側面で擦ると、眼を射る明るさのあざやかな橙色をした火が球体を包み、少女と部屋を照らし上げた。
「これが、火」
 ゆらゆらと覚束なげな火は書物で読み想像していたのよりも遥かに温かかった。火を透して見る向こうの水晶が熱によって歪められ、危うげに揺らめく。
 火によってまるで違う色と光に染め上げられた水晶の部屋は、こうして見ると自分が長く暮らしたあの部屋と同じ大きさ、同じつくりをしているのだった。
 急かされるように猫に突かれて、洋燈の中の糸へ火を移す。指先が滑って燐寸を落としたが、既に大半が燃えていたそれは、硝子の中で天の色と同じ漆黒をなし、その後ゆっくりと形を無くしていった。
 立ち上がって洋燈を顔の位置に掲げると、それまでは判然としなかった、この空間を満たさんばかりの水晶に覆われた部屋の隅々までを見渡すことができた。
 透明な鉱物の屈折に砕ける、見覚えのある寝台や書棚の姿。原型を留めていなかったが、確かにそれは夢で見た部屋なのだった。
「……ここは姉様の部屋だったのね」
 呟くと、肯くように水晶がかちりと鳴った。
「さよなら、姉様。ありがとう」
 水晶に別れを告げ、片手に洋燈、片手に猫を抱いて階段を上る。燐寸は衣嚢の中だ。
狭い階段の壁には炎の色が転写され、少女の影を色濃く描き出した。洋燈の放つ光はどこまでも同じ街路灯の明るさと違い、直ぐ傍だけを温め、照らすものだった。だが持つ手を伸べさえすれば、どこを照らすも自由になったのだ。
 階段を上りきった少女の背後で、重々しく扉の閉まる音がした。少女は両手にものを抱えていて、一人で扉を閉めることなどできない。
 ふと気になって振り向いた少女は小さな声で姉を呼んだが、金属の冷たい扉が開くことは二度となかった。

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