チョコチップクッキー
文字数 4,126文字
彼女が私のバイト先へ来たのは、丁度、シフトが終わる10分前だった。驚いたけれど、店先で話をしているのもまずいから、とりあえず飲んで待ってて、と彼女に言うと、昔と変わらない憂いを帯びた艶っぽい顔で、少し微笑みながら、ありがとう、と言った。
彼女に会うのは、もう何年振りだろう。彼女と私は、子供時代を共に過ごし、一緒に大人になった。かといって、べたべたくっついていたわけではない。だから、関係は続いたのかもしれない。小学生から高校まで同じ学校で、その都度、互いが互いの理に適った女子グループに属していたけれど、彼女とはなんだか波長があって、学校外で、よく二人だけでつるんでいた。お互い、子供っぽい同級生たちのことを馬鹿にしていて、何度も繰り返される仲良しごっこに辟易していた。学校に居る自分たちを、どこか傍観しているような節があった。彼女とは、カラオケに行ったり、流行りの店をぶらぶらしたり、健全で、面白みのない遊びをしながら、その一方で悪いこともたくさんやった。月々一万円のお小遣いでは到底遊べるはずはなかったから、遊び代は自分たちで捻出した。言葉通り自分たちの体を使って。ただ、その頃は周りに迷惑をかけているわけではないんだからら、と罪悪感などあるわけはなく、良くないことをしているという意識もないに等しかった。けれど、学校の先生や親に目をつけられるような派手なことは、私たちはしなかった。そんな非効率的なことをやるほど私たちは暇ではなかったし、大人に期待をしていなかった。
転機は突然現れた。彼女の父親がリストラされて、生活が立ち行かなくなったのだ。丁度、大量リストラ時代の真っ只中だった。テレビの報道番組では大企業の大幅リストラについて連日放送されていた。どこか遠い国の出来事のように、また、いつもみたいに傍観していた私は、真奈美の話を聞いて、自分の身近でもそんなことがあるのかと、頭の悪い感想を持った記憶がある。無気力になってしまった父と、ただ泣いてばかりの母を尻目に彼女はすぐに夜の仕事に行き出した。そうして、彼女は高校を中退して、私は大学へ進学した。住む世界が違いすぎた。疎遠になるのは仕方のないことだった。
「突然、どうしたの?」
彼女の隣に座って、タバコに火をつけながら
聞いた。彼女は飲んでいたビールのジョッキを置いて、ふっと息を吐きながら言った。
「久し振りに会ったのに、随分だね。もっとさ、感動的にハグ、とか出来ないの」
彼女は、真っ赤なルージュを引いた唇を悪戯に歪ませて、人を惑わせるような妖艶な笑みを私に向けた。冗談めかして、魔女みたいに長い付け爪のついた指を広げ、胸の前で両手を小さく広げて見せながら。胸が大きくあいた赤いドレスに、20センチはありそうなヒールの靴を履いて、ぐるぐると巻いてある金髪は胸の下くらいはありそうだ。そして全てが、意味ありげにきらきらと光っている。彼女の肌すらも。彼女のペースに巻き込まれまいと、彼女から目を逸らして、早口で答えた。私は無性にイライラしていた。
「何言ってんの。そんな身なりの人が突然来て、一人で酒飲みながら、私のこと待ってるんだよ。みんな驚いてたよ。それに、色々聞かれた、どんな知り合いなのかって。てゆうか、私がここで働いてるのなんで知ってるの」
「まぁ、色々とね。狭い街だからさ。いつ戻ってきたの?ずっといないとばかり思ってた」
「…1年前くらい」
ふと真奈美の頭上を見上げると、ヤニと油が染みついて茶色に変色した天井が目に入った。埋め込み型のエアコンには埃がびっしりとこびりついていて、私はそれに向かって、細く煙を吐き出した。
「そっか…。ねぇ聞いて。私、結婚したんだよ、それで、子供もいるの」
私ははっとして、彼女を見ると、彼女はまた微笑んでいる。嘘ではなく、嬉しそうに。あまりの衝撃に頭がくらくらするのが分かる。それこそ、彼女がここへ突然来たさっき以上に。そんなことがあり得るのかと。あの真奈美が。なんと言えばいいのか、分からない。こういう時なんて返せばいいんだっけ、と必死に考えても頭が真っ白だ。
「え、そうなの。…あい…」
相手は、と聞きそうになって慌ててやめた。私の関与するところじゃないし、聞いたことを後悔したくなかった。けれど、真奈美はすかさず私の目の奥を察知して、
「堅気の人だよ。ちゃんと」
と真面目な顔をして言った。奥のカウンター席で何か零したのか、壊したのか、カチャカチャと騒がしい音が聞こえている。隣のサラリーマンはさっきから、露骨に私たちのことを、物珍しそうに何度も何度も見てくる。ニヤニヤしながら。私はそいつらをちらと見遣ってから、ようやく、
「…そう…、よかった。いや、本当に良かったよ。いや、そう、本当に。それは、ほんと良かったよ。おめでとう」
と言った。妙に唾が絡んで、言葉を発するのを拒絶してるみたいだ。それに、何故だかバツが悪くて、真奈美の顔が見れない。なにそれ、と笑いながら、彼女はビールを流し込む。細く長い首に、女性の割に大きな喉ぼとけが上下するのを見つめた。真奈美は随分と痩せていた。私は、三本目のタバコに火をつけた。
「お酒飲まないの?」
そう聞かれた私は、もう飲めなくなっちゃったと答えた。へぇ、あの菫がねー、と言いながら彼女は、手元のジョッキに付着している水滴を撫でた。そうして、真奈美は殊更何事でもないように話し始めた。
「ねぇ、…菫はさ、あたし死んでるほうがよかった?」
さもたわいのないことかの様に、そしてなんだか楽しそうに、彼女は聞いた。
「…そんなわけないでしょ」
「ふーん………」
そんなわけない。そんなわけないけど、どこかで、もう死んでるだろうとは思っていた。真奈美は、ホステスを始めてすぐに、暴走族の男と付き合い始めた。私も何度か会ったことはあるし、その彼の仲間と関係を持ったこともある。けれど、私はそこから抜けた。真奈美がそれからどうなったのか、知らないし知りたくもなかった。でも、冷静に考えれば、遅かれ早かれ、真奈美が本当に「ダメ」になることは分かっていた。分かっていて、私は真奈美のことを見ないふりをした。私は、まともな生活を送りたかった。親が聞いたら卒倒するようなこともしてきたし、決して優等生ではなかったけれど、それでも、私は本当に堕ちることを望んではいなかった。私は堕ちないし、堕ちなくても生きていける自信があった。
「あたし、結婚したって言ったじゃん」
真奈美の口から、出てくる言葉の先を聞きたくない。
「…うん」
「…だけどさ。やっぱダメみたいなの。」
「…うん」
「こないださ、またジンから連絡あって」
「…」
「ジンとより戻すかも。あいつ今、組にいる」
「…」
「薫も同じかと思って。薫ももう無理なんじゃないかと思ってさ。今居るとこ合わないんじゃない?だから、こっち戻ってきたんでしょ。ね、一緒に行こうよ」
彼女の言葉が薬みたいに私の体に浸透していく。けど、それは私を治癒するための薬じゃない。真奈美、違うのよ、私は違う。そう言いたかったけど、喉の奥がロウで固められたみたいに動かない。私は真奈美とは違う。けれど、こちら側に私の居場所はいつだってない。それを見つけるためにこの街を出たけれど、結局、何処へ行っても同じだった。真奈美の方に行けば、あちら側にだったら、私はこの居心地の悪さから、胸の奥でざわざわと騒ぎ立てる何かから解放されるのかな。
何も言えないまま、私は耐え切れず、ほとんど無意識に常備しているいつものやつを鞄から取り出した。
「あんた、まだそれ好きなんだ。昔っから好きだよね。チョコチップクッキー。なんか久し振りにチョコチップクッキーって言ったわ。あんたぐらいしか見たことないんだもん。チョコチップクッキー食べてるの」
昔から大好きな長方形の箱に入ったチョコチップクッキー。クッキーを齧りながら、私はまた、ここにひきづり戻される。また、私は真奈美を見捨てるのか。
「え、なんで、私がこれ好きなの知ってるの」
「はぁ?何言ってんの。あんた、あたしといる時、いつも食べてたじゃん。よく酒のつまみにしてたじゃん。チョコチップクッキーには、ウィスキーが一番合うんだとか言っちゃってさ」
くくくっと彼女は笑った。痩せたせいで、より一層目立つ頬骨に目がいく。あの頃、真奈美も本当はここに踏みとどまりたかっただろうな、とふいに思った。そうして、そんな彼女を私は容赦なく見捨てた。ずっと一緒にいたのに。
また一からやり直しだ。小さい頃習っていたピアノを思いだす。「エリーゼのために」が弾けなくて、何度も何度もやり直しさせられた。間違った所からじゃなくて、いつも最初から。タララララ、ララララー。
「てかさ、チョコチップクッキーって、かわいいね。チョコチップクッキーって。チョコチップクッキーって言ってみて。なんかかわいいから。ね。ほら、言ってみてよ」
降ってくる彼女の声がどろどろした何かの液体になって、私の身体にへばりつく。そうして、みるみるうちに、足元が茶色い液体で埋まって、膝から下はもう見えなくなる。それを指で掬って、口に入れてみると、それは、甘い甘いチョコレートだった。
たらららら・ららららー・たらららー・ららららー・たららららららららー
私は「エリーゼのために」を最初から弾いている。何度も何度も繰り返し。いつも、途中でつまづいてしまうから。
「ねぇ、ごめん。私、帰るわ」
そう言って、私は立ち上がり、唐突に彼女に背を向ける。後ろから、私の分身の声がする。
「あんた、まだ、そんなことしてんの。まだ、それ、大事に抱えてるんだ。あんたも変わんないね」
吐き捨てるように、彼女は言った。私はそれでも、何度も何度も最初から鍵盤をたたき続ける。それしか方法を知らない猿みたいに。
彼女に会うのは、もう何年振りだろう。彼女と私は、子供時代を共に過ごし、一緒に大人になった。かといって、べたべたくっついていたわけではない。だから、関係は続いたのかもしれない。小学生から高校まで同じ学校で、その都度、互いが互いの理に適った女子グループに属していたけれど、彼女とはなんだか波長があって、学校外で、よく二人だけでつるんでいた。お互い、子供っぽい同級生たちのことを馬鹿にしていて、何度も繰り返される仲良しごっこに辟易していた。学校に居る自分たちを、どこか傍観しているような節があった。彼女とは、カラオケに行ったり、流行りの店をぶらぶらしたり、健全で、面白みのない遊びをしながら、その一方で悪いこともたくさんやった。月々一万円のお小遣いでは到底遊べるはずはなかったから、遊び代は自分たちで捻出した。言葉通り自分たちの体を使って。ただ、その頃は周りに迷惑をかけているわけではないんだからら、と罪悪感などあるわけはなく、良くないことをしているという意識もないに等しかった。けれど、学校の先生や親に目をつけられるような派手なことは、私たちはしなかった。そんな非効率的なことをやるほど私たちは暇ではなかったし、大人に期待をしていなかった。
転機は突然現れた。彼女の父親がリストラされて、生活が立ち行かなくなったのだ。丁度、大量リストラ時代の真っ只中だった。テレビの報道番組では大企業の大幅リストラについて連日放送されていた。どこか遠い国の出来事のように、また、いつもみたいに傍観していた私は、真奈美の話を聞いて、自分の身近でもそんなことがあるのかと、頭の悪い感想を持った記憶がある。無気力になってしまった父と、ただ泣いてばかりの母を尻目に彼女はすぐに夜の仕事に行き出した。そうして、彼女は高校を中退して、私は大学へ進学した。住む世界が違いすぎた。疎遠になるのは仕方のないことだった。
「突然、どうしたの?」
彼女の隣に座って、タバコに火をつけながら
聞いた。彼女は飲んでいたビールのジョッキを置いて、ふっと息を吐きながら言った。
「久し振りに会ったのに、随分だね。もっとさ、感動的にハグ、とか出来ないの」
彼女は、真っ赤なルージュを引いた唇を悪戯に歪ませて、人を惑わせるような妖艶な笑みを私に向けた。冗談めかして、魔女みたいに長い付け爪のついた指を広げ、胸の前で両手を小さく広げて見せながら。胸が大きくあいた赤いドレスに、20センチはありそうなヒールの靴を履いて、ぐるぐると巻いてある金髪は胸の下くらいはありそうだ。そして全てが、意味ありげにきらきらと光っている。彼女の肌すらも。彼女のペースに巻き込まれまいと、彼女から目を逸らして、早口で答えた。私は無性にイライラしていた。
「何言ってんの。そんな身なりの人が突然来て、一人で酒飲みながら、私のこと待ってるんだよ。みんな驚いてたよ。それに、色々聞かれた、どんな知り合いなのかって。てゆうか、私がここで働いてるのなんで知ってるの」
「まぁ、色々とね。狭い街だからさ。いつ戻ってきたの?ずっといないとばかり思ってた」
「…1年前くらい」
ふと真奈美の頭上を見上げると、ヤニと油が染みついて茶色に変色した天井が目に入った。埋め込み型のエアコンには埃がびっしりとこびりついていて、私はそれに向かって、細く煙を吐き出した。
「そっか…。ねぇ聞いて。私、結婚したんだよ、それで、子供もいるの」
私ははっとして、彼女を見ると、彼女はまた微笑んでいる。嘘ではなく、嬉しそうに。あまりの衝撃に頭がくらくらするのが分かる。それこそ、彼女がここへ突然来たさっき以上に。そんなことがあり得るのかと。あの真奈美が。なんと言えばいいのか、分からない。こういう時なんて返せばいいんだっけ、と必死に考えても頭が真っ白だ。
「え、そうなの。…あい…」
相手は、と聞きそうになって慌ててやめた。私の関与するところじゃないし、聞いたことを後悔したくなかった。けれど、真奈美はすかさず私の目の奥を察知して、
「堅気の人だよ。ちゃんと」
と真面目な顔をして言った。奥のカウンター席で何か零したのか、壊したのか、カチャカチャと騒がしい音が聞こえている。隣のサラリーマンはさっきから、露骨に私たちのことを、物珍しそうに何度も何度も見てくる。ニヤニヤしながら。私はそいつらをちらと見遣ってから、ようやく、
「…そう…、よかった。いや、本当に良かったよ。いや、そう、本当に。それは、ほんと良かったよ。おめでとう」
と言った。妙に唾が絡んで、言葉を発するのを拒絶してるみたいだ。それに、何故だかバツが悪くて、真奈美の顔が見れない。なにそれ、と笑いながら、彼女はビールを流し込む。細く長い首に、女性の割に大きな喉ぼとけが上下するのを見つめた。真奈美は随分と痩せていた。私は、三本目のタバコに火をつけた。
「お酒飲まないの?」
そう聞かれた私は、もう飲めなくなっちゃったと答えた。へぇ、あの菫がねー、と言いながら彼女は、手元のジョッキに付着している水滴を撫でた。そうして、真奈美は殊更何事でもないように話し始めた。
「ねぇ、…菫はさ、あたし死んでるほうがよかった?」
さもたわいのないことかの様に、そしてなんだか楽しそうに、彼女は聞いた。
「…そんなわけないでしょ」
「ふーん………」
そんなわけない。そんなわけないけど、どこかで、もう死んでるだろうとは思っていた。真奈美は、ホステスを始めてすぐに、暴走族の男と付き合い始めた。私も何度か会ったことはあるし、その彼の仲間と関係を持ったこともある。けれど、私はそこから抜けた。真奈美がそれからどうなったのか、知らないし知りたくもなかった。でも、冷静に考えれば、遅かれ早かれ、真奈美が本当に「ダメ」になることは分かっていた。分かっていて、私は真奈美のことを見ないふりをした。私は、まともな生活を送りたかった。親が聞いたら卒倒するようなこともしてきたし、決して優等生ではなかったけれど、それでも、私は本当に堕ちることを望んではいなかった。私は堕ちないし、堕ちなくても生きていける自信があった。
「あたし、結婚したって言ったじゃん」
真奈美の口から、出てくる言葉の先を聞きたくない。
「…うん」
「…だけどさ。やっぱダメみたいなの。」
「…うん」
「こないださ、またジンから連絡あって」
「…」
「ジンとより戻すかも。あいつ今、組にいる」
「…」
「薫も同じかと思って。薫ももう無理なんじゃないかと思ってさ。今居るとこ合わないんじゃない?だから、こっち戻ってきたんでしょ。ね、一緒に行こうよ」
彼女の言葉が薬みたいに私の体に浸透していく。けど、それは私を治癒するための薬じゃない。真奈美、違うのよ、私は違う。そう言いたかったけど、喉の奥がロウで固められたみたいに動かない。私は真奈美とは違う。けれど、こちら側に私の居場所はいつだってない。それを見つけるためにこの街を出たけれど、結局、何処へ行っても同じだった。真奈美の方に行けば、あちら側にだったら、私はこの居心地の悪さから、胸の奥でざわざわと騒ぎ立てる何かから解放されるのかな。
何も言えないまま、私は耐え切れず、ほとんど無意識に常備しているいつものやつを鞄から取り出した。
「あんた、まだそれ好きなんだ。昔っから好きだよね。チョコチップクッキー。なんか久し振りにチョコチップクッキーって言ったわ。あんたぐらいしか見たことないんだもん。チョコチップクッキー食べてるの」
昔から大好きな長方形の箱に入ったチョコチップクッキー。クッキーを齧りながら、私はまた、ここにひきづり戻される。また、私は真奈美を見捨てるのか。
「え、なんで、私がこれ好きなの知ってるの」
「はぁ?何言ってんの。あんた、あたしといる時、いつも食べてたじゃん。よく酒のつまみにしてたじゃん。チョコチップクッキーには、ウィスキーが一番合うんだとか言っちゃってさ」
くくくっと彼女は笑った。痩せたせいで、より一層目立つ頬骨に目がいく。あの頃、真奈美も本当はここに踏みとどまりたかっただろうな、とふいに思った。そうして、そんな彼女を私は容赦なく見捨てた。ずっと一緒にいたのに。
また一からやり直しだ。小さい頃習っていたピアノを思いだす。「エリーゼのために」が弾けなくて、何度も何度もやり直しさせられた。間違った所からじゃなくて、いつも最初から。タララララ、ララララー。
「てかさ、チョコチップクッキーって、かわいいね。チョコチップクッキーって。チョコチップクッキーって言ってみて。なんかかわいいから。ね。ほら、言ってみてよ」
降ってくる彼女の声がどろどろした何かの液体になって、私の身体にへばりつく。そうして、みるみるうちに、足元が茶色い液体で埋まって、膝から下はもう見えなくなる。それを指で掬って、口に入れてみると、それは、甘い甘いチョコレートだった。
たらららら・ららららー・たらららー・ららららー・たららららららららー
私は「エリーゼのために」を最初から弾いている。何度も何度も繰り返し。いつも、途中でつまづいてしまうから。
「ねぇ、ごめん。私、帰るわ」
そう言って、私は立ち上がり、唐突に彼女に背を向ける。後ろから、私の分身の声がする。
「あんた、まだ、そんなことしてんの。まだ、それ、大事に抱えてるんだ。あんたも変わんないね」
吐き捨てるように、彼女は言った。私はそれでも、何度も何度も最初から鍵盤をたたき続ける。それしか方法を知らない猿みたいに。