ヒラーとジラ

文字数 1,999文字

 ヒラーの姿を最後に見たこと、わたしは誰にも言うことができませんでした。

 村の青年が姿を消してしまい大人たちは低い声でひっそり噂をしていました。
 町から村に車で偉い人がやって来て、彼を最後に見たのは誰かとたずねても、わたしは何もわからないという顔をしているだけでした。
 お喋りで、知っていることは何でも人に話して聞かせないと気が済まない子だったわたしが、です。

 ヒラーは村のはずれで森番として暮らしていました。若く、健康な青年でした。優しくてユーモアがあって、みんな彼のことが好きでした。
 いつも何か工具を持って、物を作ったり、木の手入れをしたり、頼まれて屋根を修理していました。
「そんなはしごを使わなくたって、あたしなら屋根にも木にも登れるわ」
 勝ち気でおてんばなわたしがそんなことを言うと、彼はいつも陽だまりのような笑顔で笑ってくれました。

 姿を消したヒラーを、大人たちは遠巻きに噂をしました。夜の森でウィリに誘いこまれたのだ。きっと、ジラが妖精になったのだと。

 ジラのことはみんな泣きました。
 ジラはヒラーの婚約者でした。しとやかで、いつも家で裁縫をしていました。絹糸のように控えめに微笑んでヒラーを見つめていました。
 かわいそうなジラ。体が弱く、その春先、数日続いた冷たい雨で体を壊して死んでしまったのです。花嫁姿をヒラーに見せることなく。
 かわいそうな二人。弱い胸いっぱいに愛を抱えた、純粋なジラ。ヒラーが彼女を見つめるときの目は深く優しく、森の奥でひっそり水をたたえる湖の色をしていました。

 妖精ウィリの伝説はこの村の誰でも知っています。結婚前に死んだ娘はウィリという妖精になり、夜の森を舞いおどり、若い男を誘いこんで死ぬまでおどらせ続けるという古い言い伝えです。
 ヒラーがいなくなって村の人たちは噂をしました。ジラはきっと夜の森を舞っている。妖精になって。葉っぱを透かす月明かりの下で。ヒラーは誘いこまれたんだ。

 わたしは勝ち気でおてんばで、学校の成績だって優秀でした。村のことも森のことも何でも知っているつもりでした。そしてわたしの両親は新しいもの好きでした。何しろ村で最初にカメラを買って写真に写ったのはわたしの父なのです。
 だからわたしは思っていました。妖精なんて作り話よ。たくましいヒラーに古い言い伝えなんて似合わない。彼は一人になりたくて森にこもっているだけよ。

 ヒラーの姿を最後に見たこと、父にも母にも言いませんでした。

 夜の始めでした。
 わたしは窓から月明かりを見ていました。ヒラーが五日も留守にしたままだと、大人たちがざわついているのを知っていました。
 わたしは村のことも森のことも何でも知っていたので見つからずに家を抜け出ることもできましたし、どんな近道も知っていました。

 森へ行こう、と思い立ちました。もちろん見つかれば叱られることはわかっています。
 きっとわたしは、探偵気分だったのです。森のことも彼のこともわたしにはわかる。言い伝えや憶測で噂話ばかりする大人たちとは違う。自分の目で確かめようと。

 満月でした。
 森は暗闇でしたがわたしなら目をつぶっていたって歩けます。
 小道を進むと少しだけ開けた場所に、水が滴るように月の光が落ちていました。光は白く、暗闇は濃くあたりを満たし、まるで世界にそれしか色がないようでした。

 今思えばなぜそこに足が向いたのかわかりません。なぜそこで目をこらしたのか。ヒラーに出会えると思っていたのか。彼の、陽だまりのような笑顔に。

 人影、というよりそれは光が動いたようでした。月の光がゆらぎました。光はふっと止まり、またゆらぎ、わたしが暗闇でまばたきをひとつするあいだに姿となりました。
 人の姿と気づいたのは、もう一人いたからです。
 ヒラー。
 光と影のように二人は寄り添い、舞いおどっていました。光はジラでした。絹糸のように控えめなジラは月の光そのものでした。消えそうに、けれども確かに闇を照らす月の光はジラそのものでした。
 二人に喜びも悲しみもありませんでした。ただおどることがすべてというように。ヒラーのたくましさも、ジラのか弱さもありませでした。白い光が夜に満ちていました。

 二人はかわいそうだったのでしょうか。
 おかしな話ですが妖精のジラは今までで一番生き生きして見えました。弱い体から解き放たれ、愛だけを抱える存在となったジラ。彼に守られるか弱いジラではありませんでした。
 彼女に寄り添うヒラーは不安や悲しみから解き放たれ、世界の誰より自由に見えました。
 それが幸せでないとどうして言えましょう。

 誰より早く走れたり高い木に登れるのが強いと思って、何でも知っているつもりの、探偵気分だった子供のわたしに、それは二人が見せてくれた愛の強さでした。本当の心の強さでした。
 二人の姿を、わたしは誰にも言うことができませんでした。
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