先輩がくれたコーヒー - 完 -

文字数 1,980文字

 僕の放課後の日課と言えば文芸部の部室で小説を読むことなのだけれど、この時間を穏やかに過ごすのは簡単ではない。
「ヨシくん、コーヒー淹れてあげようか?」
 文芸部の唯一の先輩であり、僕以外の唯一の部員でもある藤井先輩は、読書に耽る僕の顔を覗き込みながら言った。
「別に飲みたくありません」
 僕がそっけなく応えるも、藤井先輩はどこか楽しそうに笑う。
「遠慮しなくてもいいんだよ」
 そう言って藤井先輩は僕の意思を無視すると、いつの間にか常備されるようになった僕専用のマグカップを手に取り、部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーと向き合う。あれは部費で買ったものらしい。
「本はもうあるから」という理由で部費を個人的な趣味のために使い込む人間はこの学校に藤井先輩くらいのものだろう。率先して僕にコーヒーを淹れてくれるのだって僕を共犯者に仕立て上げるための工作活動の一環に違いない。
「砂糖はどうする? ミルクは?」
「別に飲みたくありません」
「ヨシくんは大人ぶりたい年頃だからブラックでいっか」
 もはや僕に意思など存在していないかのように振る舞う藤井先輩は鼻歌混じりにコーヒーを淹れる。そして小刻みにスキップをしながら僕のもとへやってくると、「あっ」というわざとらしい声に合わせてバランスを崩し、マグカップに入っていたコーヒーを僕と僕の読んでいた本の上に全てこぼした。いや、〝こぼした〟ではなく〝かけた〟と言った方が正しい。
「あ、あ、あ。どうしよう。ごめん、私、ドジだから」
 狼狽した姿を見せる藤井先輩とは対照的に僕は至って冷静だった。
「……これはアレですか。僕を文芸部から追い出したいってことですか?」
「ち、違う違う! わざとじゃないよ! 誤解しないで! 私から誘ったのに追い出すわけないじゃん! 部員が減ったら部費も減っちゃうんだから!」
「……」
 最後の一言を聞いて僕を追い出したいわけじゃないことは理解した。
 僕は正直ホッとしている。が、この状況に納得しているわけではない。
「僕を追い出したい云々は別として、わざとじゃないって言うのは嘘ですね。だって、このコーヒー全然熱くないし……。火傷をしないようにとの配慮が感じられます。つまり初めから僕にかけるつもりだったんだ」
 僕が名探偵顔負けの推察を述べると、藤井先輩は観念したようにニヤリと口を曲げた。
「さすがヨシくん。私が見込んだ後輩だ」
「理由を聞かせて下さい。説明しだいでは謝罪の言葉は免除してあげないでもないです」
 と僕は要求する。初めから謝罪の言葉なんて期待していないけれど。
 すると藤井先輩は僕の側に置かれた机の上に座った。そしてわざとらしく溜め息をつく。
「だってヨシくん、一人で読書ばっかりしてるから、退屈だったんだもん。退屈で死にそうだった。私が退屈で死ぬくらいならヨシくんがコーヒーまみれになった方がマシでしょ?」
「先輩が死ぬよりはマシですけど、それ以上にもっと他にマシな選択肢があったはずです」
 そう言って今度は僕が溜め息をつき、びしょ濡れになった本からコーヒーを払う。むろん、軽く払ったところで紙に染みついたコーヒーが消えてなくなるはずもなく、本はもう元通りにはならない。
「どうしてくれるんですか、これ」
「別にいいよ。どうせ文芸部の備品だから」
「……そういう問題ですか?」
「違うの?」
 藤井先輩は罪悪感を覚えた様子もなく、けろりとしている。
 いけない。これは藤井先輩のペースだ。この調子に流され続けていれば、いつしかこの人と同じ穴のムジナになってしまうという危機感が僕にはある。
「だ、だいたい、これじゃあ続きを読めない」
 僕はびしょ濡れになった本を手に反論を試みる。
「何を読んでいたの?」
 と藤井先輩は予想とは違った反応を見せた。
 僕の調子が狂わされたのは否めない。
「ド、ドストエフスキーの罪と罰です」
「ああ、ドストエフスキーね。ヨシくんはドストエフスキーを読んでいることをアピールしたい年頃だもんね」
「……」
「罪と罰だったら読んだことがあるから、代わりに私が内容を教えてあげる」
 そう言って藤井先輩は少しばかり身体を僕の方に寄せる。
「あれはね、悲劇の物語なの。でも、希望もある」
「は、はあ」
「主人公は罪人として捉えられてしまうけれど、一番守りたかった人だけは守ることができた。そして彼女は幸せになるの。彼が自分のために犠牲になってくれたことも知らずに」
 演出なのか、藤井先輩は夕焼けに染まった空に向かって手を伸ばす。
「……あの、絶対適当に言ってますよね?」
「あ、バレた?」
 藤井先輩は悪戯に笑うと、時計を見遣り、机から降りた。
「そろそろ時間だね。一緒に帰ろっか?」
 そう言って今度は僕に手を差し伸べる。
 まったく。結局今日も終始藤井先輩のペースだ。
 こうしていいように遊ばれてしまう。
 これが僕の本当の日課だ。
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