名前の少年

文字数 2,935文字

  一、十九歳

 彼は階段を上りながら視線を上に――。
 それは一瞬のことだったので、周囲の誰にも気づかれることはなかった。彼はなるべく平静を装う。階段の上には制服姿の女子高生。彼はいつも負けている。負け続けている。
「先輩のそういうところがいいんすよ」
 彼はなり切れなかった。
 悪人にも。
 廃人にも。
 面白おかしく生きているやつを横目に――。
「先輩もやります?」
 マリファナのなにが面白い。
 二日酔いのなにが愉快だ。
 ナチュラリスト。
 彼の中にはいつだって小さな彼がいる。その彼は理性であり、または広い視野を持つ調停者だった。
 常に冷静に。常に正直に。
 彼はもうすぐ青春を失う。そんな年だった。
 十九歳。とにかく夢を。
 そんな夢をたまに見るぐらいで。
「卒業したら、どこ行くんすか?」
 東京か。
 大阪か。
 外国か。
 地下か。
 深く、深く。
 煙草すらも嫌悪の対象で――。
「おれ、思うんすよ。多分、先輩はなにもしていない。でも、きっと他の人よりもずっと豊かなんすよ。だって、それが一番先輩っぽいっすもん。おれ、こう見えて人のこと観察するの好きなんで、よく当たるんす。ほら、あの人」
 視線の先には、同じクラスの。
 誰だったかな。
「あいつはダメすね。面白くない」
 夕暮れ。
 彼はそこで家に帰る。
 実家。一人ぐらしのタイミングを逃したせいで、一人ぼっちになり切れなかった。
「お帰り」
 考えることは無限にあった。それでも考え続けることはできないし、考えに答えがあるとも思えなかった。それでも。
 考えることでしか自分を保てない気がした。
 どうして性欲はあるのだろうか。
 いつだったか、彼は入院した。痩せていく体。その中で、性欲が枯れていくのを感じながら――、彼は確かに幸せだった。
 誰にも発情しないということ。
 誰にも視線を奪わせないということ。
 誘惑。情欲。眠れない夜の。
「東京に行くよ」
 なんでですか?
 後輩は、いつも必死だった。
 なんとなくだけど、あそこならきっとなにもかもがなくなると思うんだ。なにもかもが。
 先輩、寂しいっすよ。
 だから行くんだ。俺はもう疲れた。こうやっている間にも、徐々に薄くなっているのが分かるんだ。
 なにがすか?
「名前が……」
 風。
 通り魔のように。
 彼の心臓を貫いた。
 死。
 その瞬間。
 彼の名前は完全に消滅した。


 二、三ヶ月後

 ――池袋。
 彼は境界線について考える。
 男と女の境目はどこにあるのだろうか。なぜぼくは男を見ても興奮しないのだろう。なぜ同じような形の足を眺めてこうも反応が番うのだろうか。境界線。それはどこにある。いや、もしかしたら。
 ――新宿。
 本能なんてないのかもしれない。刷り込み。洗脳。パブロフの犬。もはや人間に子孫を残す意味なんてないじゃないか。現にぼくは。現にぼくは――。
 ――渋谷。
 見るな。見るな。なんにも見たくない。なんにも考えたくない。面白いことだけを見続けていたい。テレビの面白い番組だけを。ただそれだけを。あ。
 ――目黒。
 元カノからのライン。カラカラに乾いた胃袋。水が飲みたい。飲んで、飲んで、カラカラののどを潤して。ぼくはどうして男として生まれてきたのだろうか。その境界線はどこにある? 空。それが嘘だとぼくは知っている。
 ――品川。
 帰りたい。環状線のある街に。帰りたい。流れゆく景色が過去だと認識できる世界に。ぼくたちはみな宇宙の子供だ。性欲に支配されている悲しい子供。悲しい夕暮れ。オレンジ色の。アルバムを見返して。先輩、見てくださいよ。おれ、入れ墨掘ったんすよ、これ、いかつくないすか? 先輩も掘ります? 安いお店紹介しますよ。
 ――新橋。
 飲みたいわけじゃない。吸いたいわけじゃない。同じことだった。やりたいわけじゃない。抜きたいわけじゃない。ただ、漏れそうなんだ。心の隙間から、せっかくここまで生きていた記録みたいなものが、水のように流動体になって。いつの日か。
 ――神田。
 漏れてしまう。そう、抑えきれない。この奥底から湧き上がるなにかが。ああ。やっぱり、ぼくには名前がない。名前が。
 ――秋葉原。御徒町。上野。鶯谷。日暮里。西日暮里。田端。駒込。巣鴨。大塚。池袋。目白。高田馬場。新大久保。新宿。
 彼は空白だった。今ではその存在すらも、薄くなって――。
「先輩、たまには遊びに帰ってきてくださいよ。いいブツ用意しとくんで」
 名前が必要だった。
 名前が懐かしかった。
 誰かに呼ばれたい。
 誰かに。
 夕日が強く。
 影を照らして。
 そして。
 青年は影になった。
 都会の雑踏に夜が訪れる。
 消えていく音。
 太陽の残光。
 さようなら。
 すべての嘘つきどもに。


 三、二十年前

 彼は夢を見ていた。さなぎの夢。どろどろに溶かされて、分厚い殻の中から、外の気配をじっくりと観察している夢。いや、それは夢かどうかも分からなかった。胎児の時間は無限に近く、少なくとも彼にはそう思えた。それは夢と現実の境目が曖昧だったせいもあるが、それ以上に彼は自身の置かれている世界に対して何一つ疑問を感じていなかった。なに一つも。だから、彼の世界は夢のように覚めることが絶対にないはずで、彼もそれに従っていた。
 実際に、彼は死という概念を持っていなかった。また、宇宙という存在も知る由もなく、その世界には自分一人しかおらず、ときおり聞こえてくる誰かの声などは、自身の暇をつぶすための能力だと信じており、つまり、彼はひどく傲慢だった。
 だから、信じない。夢だということを。
 さなぎ。彼はさなぎとなり、変態に向けて準備をしていた。生まれ変わる。その言葉は単調で、ただの変異。生まれるということは、成長とイコールだった。
 彼は、ついにその殻を破る。そのとき。
 外の世界を垣間見た。殻の隙間から。暗い世界。かすかに灯りがさしており、それにしても真っ暗だった。目を細める。その世界をもっとよく見つめたい。ふと、そう思って。
 その瞬間。彼は目が合った。彼自身のさなぎから生まれた彼自身と。
 彼は二人いた。外に出た彼と、今もさなぎの中にいる中身のない彼と。そして本物は、間違いなく外にいる彼だった。
 だから彼は思った。ああ、これが世界で、これが死ぬということか、と。彼は悟った。自分は一人ではなく、この広大な宇宙の中の一部に過ぎず、そして、自分はいつの日か生まれるはずだったということを。
 外の世界にいる彼が彼のもとから立ち去っていく。彼はそれを悲しく見つめて、いや、実際には声を出して泣いていたのだが、悲しいことにもう彼に言葉はなかった。
 カラスの鳴き声が聞こえる。真夜中。彼はさなぎとして、風に揺られて、気がつけば、どこかのゴミ捨て場の片隅だった。彼は目を丸くした。そこから見えたのは、不思議な光を放つ青白い穴。
 ああ、あれが月か。
 彼は目を閉じる。もうそろそろ、夢から覚めたいと思った。そして、あの月のように、自分も世界を回りたいものだと。
 この世界はいつか終わる。
 だから、生まれることができる。
 彼は言葉を覚えることにした。
 手始めに。
 名前を呼ばれるために。


  四、その十か月後

 彼は名前を貰った。
 覚えたばかりの言葉で大きく泣きながら。
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